臨床コミュニケーションにおける〈現場〉
"Genba" in Human Communication in Practice
池田光穂
画像をクリックすると拡大します
臨床コミュニケーションという言葉も、現場力という言葉も、くだくだしい説明 が伴わなければ、全くリアリティを欠いた空虚な状態に留まっている。空虚である理由は明白だ。これらふたつの言葉の現状は、言葉がもつ重要な意義、すなわ ち意味の領域を確定し、メッセージを正確に伝えるという機能を現在ではまだ欠いているからだ。これまでの定義の試みは失敗したままである。失敗には(1) なんでもかんでも用例を包摂してしまうという原因によって生じたものと、(2)相矛盾する意味を同時に込めてしまうというタイプの混乱に由来するという2 種類のものがある。
言葉の定義のうちに、その用例をなんでもかんでも包摂させてしまうゆえに、その言葉が指し示す内容がどのようなもので可能になり、定義としての 領域確定を誤ってしまう例は、次の臨床コミュニケーションの中にみられる。
「臨床コミュニケーションは、市民生活のサポートをおこなうという意図のもとに専門家と一般市民をつなぐコミュニケーションの方式として、 一般国民が科学技術に関連した政策決定や政策立案過程に参加しうる参加型の公共的な討議空間の形成(一般国民参加型テクノロジー・アセスメント)から、医 療紛争、廃棄物処理問題、食品の安全性、家庭・学校・地域のさまざまなトラブルをめぐるメディエーターを交点とした調停(裁判外紛争処理)の技法開発、都 市環境をめぐる住民の合意形成のプロセス、さらにはホスピスや介護、看護やカウンセリングにおけるケアとしてのコミュニケーションまで、いまこの社会に求 められている双方向的なコミュニケーションの広い領域を包括」する(鷲田,2004,p.2)。
この説明にしたがえば「市民生活のサポートをおこなうという意図のもとに専門家と一般市民をつなぐコミュニケーション」であり「いまこの社会に 求められている双方向的なコミュニケーション」であれば、謂わばどのようなタイプのものでも臨床コミュニケーションに含まれてしまう。例えば、コミュニ ケーションに附されている「臨床」という名詞の形容詞的用法が「市民生活のサポートをおこなうという意図のもと」でおこなわれる」「この社会に求められて いる双方向的なもの」と仮定すれば、国連の安保理の制裁決議をめぐる国際間の駆け引きから、電車の中の携帯電話による傍若無人な会話までおよそあらゆるタ イプの対人コミュニケーションが、ここで言う臨床コミュニケーションのカテゴリーに含まれてしまう。つまり「臨床」と限定する意義がほとんど失われてしま い、どこかの商標ブランドと変わらないものになってしまう。説明に挙げられている具体的なコミュニケーションの実例は確かに「いまこの社会に求められてい る双方向的なコミュニケーション」であることが間違いないにしても、なぜそのような事例が臨床コミュニケーションなのか、それを特権的に扱う理由は不明瞭 なままだ。
もしそれでもなおこの説明に従えば臨床コミュニケーションという厳密に境界づけられた領域が見つかると主張する人がいたならば、それは自分の都 合のよい、その人にだけ了解可能な「理念的な」コミュニケーションの様態を、そう呼んでいるにすぎないように思われる。そもそも理念化という作業は、その 結果が多くの人に合意を得られ共有されていなければ意味をなさない(=それをテーマにして議論を公共のものにできない)ゆえに、こういう印象論的説明は事 態を混乱させたままに留まっている。
では今なぜ臨床コミュニケーションなのだろう。単純に医療者と患者のあいだコミュニケーションを中心的なモデルとして想起し、そこに含まれる人 間関係を想定してみよう。医療・福祉・コンサルテーションなどの業務は、具体的な専門知識と技量を有する人間と、問題を抱えその解決を求める人間のあいだ のコミュニケーションが基調となる。治療・ケア・対応策を授けるといった具体的業務においては確実さと信頼性を確保するためには現場における対人的コミュ ニケーションは不可欠だからだ。また同時に、このタイプのコミュニケーションは、つねにその成果を比較的リアルタイムで〈現場〉にフィードバックさせない と有効に働かないものである。これらの対人コミュニケーションは極めてダイナミックなものである。その種の行為実践の現場のみならず、現場から得られる知 恵の他の場所での習得・継承・発展は欠かせない。
「語ること以上に、聴くことに神経を向ける必要があるということ。わたしは、哲学を〈臨床〉という社会のベッドサイドに置いてみて、そのこ とで哲学の、この時代、この社会における〈試み〉としての可能性を探ってみたいとおもう」(鷲田,1999, p.46)。
このようなコミュニケーションの様式は、単に医療における〈臨床の現場〉(clinic)だけにとどまらず、人間生活のさまざまな局面において 経験的に観察することができる。引用文の事例では〈臨床〉は「社会のベッドサイド」ということになる。しかし、別の見方をすれば〈臨床の現場〉自体がミク ロな社会であり、それを包摂するマクロな社会がミクロ社会に投影されたり、逆にミクロ社会からマクロ社会へ投射されたりと限りなく繋がっている。それらを 分析する際に、総論として、方法論的個人主義のようにマクロなものがミクロの単純な加算の結果であるとみるのか、社会学主義のように個としてふるまい、全 体としてのふるまいをより複雑でそれぞれ固有性をもつ現象として取り扱っていくのかは立場の違いにより振幅があろう。臨床や社会という〈現場〉におけるコ ミュニケーションは、現場からの何らかの影響を受けているように見える。その効果の総体を「効果」という用語と名付けておこう。したがって、臨床コミュニ ケーションという(概念、骨格、あるいは容器としての)用語に、何らかの意味を肉付けするならば、その定義は、人間が社会的生活をおこなうかぎり続いてゆ く、具体的な効果を引き出すためにおこなう対人コミュニケーションということになる。
次に、臨床の用語を翻訳という観点から考えてみよう。英語による〈臨床〉の翻訳語は、形容詞的用法による名詞 clinic やその形容詞 clinical という翻訳語よりも〈実践がおこなわている最中の〉を表す意味としての in practice や in actionと呼ぶ方が適切であるように思える。また言語の情報伝達の機能が大きく期待されている〈コミュニケーション〉よりも、非言語的なコミュニケー ションを含む対人コミュニケーションなどをここに包含させるのであれば、もはやそのコミュニケーションの意味は通信モデルからは大きく逸脱して、相互に関 与する mutual care と呼ばれる社会実践に限りなく近くなる。厳密な逐語訳を附すべきという強迫観念から多少なりとも自由になれば、臨床コミュニケーションを Human care in practice と主張することも、あながち荒唐無稽とは言えなくなるだろう。
臨床コミュニケーションの現場は、つねに具体的な状況で、社会ないしは社会的文脈と呼ばれるもののなかにある(これは後に〈現場〉概念の被所有 的性格で述べることになろう)。より効果的な臨床コミュニケーションを生み出すためには、個々のコミュニケーションが、どのような社会的文脈と結びつくの かを検討し、具体的な現場――それが私たちの言うところの〈臨床〉にほかならない――で検討することが重要になる。
■クレジット:臨床コミュニケーションにおける〈現場〉:言葉による概念の受肉化に関するエッセイ
文献
(いけだみつほ)