〈現場〉の二重価値性
池田光穂
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言葉がもつイメージにたいして相矛盾する意味を附与しておいたままだと、やはり言葉における不正確な情報のやり取りを容認し、しばしば討論者に 対して混乱を招いてしまう。これは冒頭で挙げた失敗のふたつめのタイプである。我々が貼り付ける言葉のイメージにおいて相矛盾する価値判断がなされる時、 その言葉の理解には、大きな苦労が伴う。
須藤八千代(2002)は、現場という言葉に附与された「貶め」と「賞賛」という相矛盾したイメージがあることを指摘する。すなわち一方では 「現場イコール組織・機関の最底辺、またはそれゆえに汚れた仕事、苦しい仕事、割に合わない仕事が集積している場所」という言及がある(須藤, 2004, p.24)。他方で、現場主義という言葉であらわされる「現場を崇高な場に仕立て上げ、そこに一切の価値があるとする立場」から指摘されるイメージがある という。後者のイメージが産出される場では、現場での行為=発話者の意識は、じぶんの「行為に勇気と決断を付託し、そして美化していく」作用をもつという のである(須藤, 2004, p.24, p.27)。
もし、現場という概念やイメージが矛盾に満ちたままであれば、それを指し示す言葉(=現場)はもはや分析のための用語よりも二重価値(アンビバ レンツ)を有した詩的言語であり、我々の文芸的創作のための語彙として後世に伝えたほうがよいだろう。だが、そういうことを言ってもおれない。
にもかかわらず、今日のわれわれの社会において「臨床コミュニケーション」という言葉も「現場力」という言葉も、耳に心地よい、何かポジティブ な連想を喚起するようだ。「臨床」や「力(ちから)」という言葉を付け加えることの心証の機能は、それまでの概念になかった新鮮さや新たな可能性を予告し ているような気分をわれわれに与えることである。あたかも詩的言語の創造が文芸作品の新しい可能性を引き出すように、臨床や力(ちから)という言葉が、そ れぞれコミュニケーションや現場という言葉に新鮮な命を吹き込んでいると考えればどうであろう。このような新造語(neologism)が、もし人文学に おける学問の成長や進歩に寄与し、われわれが以前よりもより深くこれらのことについて考えることができるようになることができるならば、私は狭量な異端審 問官のごとく些細な言葉狩りを止めてもよい。むしろ放任主義のもとで、いい加減でその場かぎりの言説の策略がもたらす意味の無秩序に警笛をならし交通整理 をしたほうがよい。ノイズを含んだ豊饒性の中から展開可能性のあるものの発見に賭けるのである。
文献
(いけだみつほ)