アリストテレスと文化相対主義
Aristoteles and Cultural relativism
アリストテレスはその初期の著作『トビカ』(115b, 20-30)において次のように記している。
「同じ仕方でまた、父親を犠牲に捧げることは、あるところでは、たとえば、トリバロイ人たち においては立派なことであるが、しかし、端的に立派というわけではない。あるいは、このこと[すなわち、トリバロイ人たちにおいて、ということ]は、ある ところを指しているのではなくて、あるひとたちにとって、ということを指している。彼らはどこに居ようと関係ないからだ。なぜなら、トリバロイ人たちであ れば、そのことはどこにおいてでも立派なことだからである」(翻訳は池田康男)。
アリストテレスは、価値概念の相対性について、ある慣習(エトス)を共有する人たちにおいてはな りたち、それは、その人たちがどこにいることよりも、そのような価値観を抱く個人の意識のなかに存在することを指摘している。
トリバロイ人とは、池田康男注解によると、トラキア地方の人々で、「原始的な野蛮さの例として」 しばしば引き合いにだされる人々らしい。
アリストテレスと文化相対主義を論じるのであれば『アテナイ人の国制』について触れる必要がある かもしれない。
エシックス(倫理)が習慣から派生することは『ニコマコス倫理学』の中で主張される。
「アリストテレスの時代が共有していた倫理とは、言うまでもなく「エートス的な、ないしは エートスをめぐる諸問題」(高田,1973:238) のことである。エートスのラテン語訳こそがモーレス——モスの複数形——でありモラルの語源なのである。エートスは、住み慣れた場所や故郷のことであり、 そこから派生する集団が遵守する慣習や慣行であり、そのような慣習によって社会の成員によって、共有されている意識や実践のことをさすのである」。
『ニコマコス倫理学』によると、人びとに共有される道徳的な意識が、集団の慣習や慣行に由来 し、それは住み慣れた場所・住い・故郷という場所性と密接に関わっている。慣行とは、日常生活のなかで無反省的おこなわれている反復的行為であり、アリス トテレスは<徳の獲得>を<技術の習得>になぞらえる(上巻:56)。
「倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。「習慣」「習慣づけ」(エトス)という言葉から 少しく転化した倫理的(エーティケー=エトス的)という名称を得ている所以である」(下巻:55)。また「徳は本性的に生まれてくるのではなく、習慣づけ によって完成する」(op.sit.:56)。したがって人間は本性的に卓越性を受け入れてゆくことになる。そして、慣習的行為の基礎は言うまでもなく身 体にある。したがって、身体はあらゆる社会の道徳的基盤となりうる。だからこそ道徳の説明は身体ないしはその感覚の隠喩——例えば心の痛み——をもちいて 表現されるのだ」(出典「心霊治療においてモラルを問うこと 」)。
はるかに後の時代の20世紀、ハンナ・アーレントはこう述べる。
「意
見の形成過程そのものは、誰かが思考したり心をはたらかせる際に、自らの身を置く立場の人々によって規定される。そして、他者の立場に立つために構想力を
はたらかせる唯一の条件は、利害関係の無さ、つまり自分自身の私的利害からは下方されていることである」——アーレント『過去との未来の間』引田・齋藤
訳、p.328.、みすず書房、1994年
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