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モラルなき時代の倫理について

On Ethics in the age of moral-less

Antigone by Frederic Leighton, 1882.

池田光穂

行為を決定する主体に倫理の守備範囲を任せる一方で、倫理のバナキュラーな性格から生じる多様性(=ここでは多様な信仰)と集団を超えた「普 遍的な倫理」観を調和させるという不可能な芸当を強いているのである。このような倫理的相対主義をめぐる問題は、近代医療のグローバル化に伴って、いよい よ無視できない問題となっている。エンゲルハルトは、「道徳的なよそ者に対する道徳言語」を正当化するための可能性を探求することをバイオエシックスの試 みのひとつにあげているが、彼にとって道徳の多元化という事態はほとんどプロブレマティークの様相を示す。「共同体の発生以来の特別な道徳上の前提を受け 入れている特定の道徳共同体の内部で維持されている道徳上の議論を、さらに大きな規模の共同体に適用することは困難だと思っている。そのように大規模な共 同体では、人々はさまざまな道徳的共同体の構成員となっており、その結果としてお互いに道徳上ではよそものとしてしばしば対立することになる。これがポス トモダンの状況におけるジレンマである」(エンゲルハルト 1989:viii)。いつも、このような道徳的多元主義のジレンマが生じるわけではないが確かに現在の我々の社会が直面している問題には少なからずこの 種の葛藤が強調される。

ニクラス・ルーマンにならってそのような葛藤を「パラダイム・ロスト」と名づけてもよい。ルーマンによると、モラルは「尊敬と軽蔑との示唆を携 える、特殊なコミュニケーションのひとつ」である(ルーマン 1992:14)。だから、個々の社会的役割における「仕事の成果が問題なのではなく、コミュニケーションへの参与者として評価される限りでの、全人格 (Person als ganze:全体としての人——引用者)が問題」になる(ルーマン 1992:14)。モラルは、「その時どきの使用に応じた全体性」であることから、常態的に提示されているよりも、「由々しき事態になってはじめて」表面 化する(ルーマン 1992:14)。「したがってモラルの領域は経験的に画定されるのであって、いわば一定の規範、規則あるいは価値の適用領域として定義されるものではな い」(ルーマン 1992:15)。そして「経験的に見れば、モラルのコミュニケーションは、しばしば論争に赴き、それゆえ暴力のかたわらに置かれる。このコミュニケー ションは尊敬と軽蔑を表現することで、関与者が過剰にアンガージュする」(ルーマン 1992:20)。そして良い/悪いという「モラルのバイナリー・コードも、自己自身にそうしたコードを適用すると、パラドックスに行き着くということで ある。良いと悪いということを区別する、その区別自体が良いかどうか、われわれには決めることができない」(ルーマン 1992:21)。

18世紀後半に生まれたモラルの反省理論は「モラルの判断のモラルの内容に関する基礎付けの問題に集中することで、社会的現実との関係を失って しまった」(ルーマン 1992:27)。したがって、このような理論枠組みでは「もはや倫理的反省は機能しえない」。これが「パラダイム・ロスト」なのだという。

ではどうすればよいのか。ルーマンの答は意外とあっさりしたものである。「現代社会が、もはやモラルの上に統合されえず、またモラルをもって人 間にそのポジションを割り当てることができないという想定が正しいとわかれば、倫理 学はモラルの使用範囲を限定しなければならない」 (ルーマン 1992:30)。そして「モラルを研究する者は、無条件とはいわないが、みずからモラルの判断にしたがう倫理学を書かなければならない。しかしモラルを 研究する者は、このことを社会のコミュニケーションとして行なうことを避けるわけにはいかない。‥‥このことは倫理とモラルについての発言のすべての基礎 付けが、自己準拠的に構想されなければならないということの示唆として、心に留めなければならない」と(ルーマン 1992:26)。

しかしながら、これは確かに示唆に富むものであっても消極的な対応でしかない。だからこそ、そのような状況こそが古い倫理観を抱く者にとっての パラダイム・ロストなのだろう。心霊治療における倫理を議論するということも、結局はこの倫理を論ずることに伴う自己準拠性と外部からの介入の不能性とい うことに直面せざるを得ない。だがこの現代の倫理状況の指摘には過小評価されている側面もある。それは、倫理の生成には常に他者の存在があり、またその存 在が倫理の唯我論化を防ぐ働きがあることだ。アリストテレスにおける倫理のバナキュラーな特性は、倫理が無機的な空間の中で存在することではなく、バナ キュラーな起源の他者との混交によって張り付けられた空間的イメージであったことを想起させる。もしお望みなら他者という言葉はミハイル・バフチンに倣っ て時間的・空間的・文化的な非所属という言葉に置き換えてもよいだろう。

出典:「心霊治療においてモラルを問うこと

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文献

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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