現代研究倫理の3つの公理
The three axioms for the modern research ethics
Hugh of Saint Victor, 1096-1141
研究倫理を習得するために特別の奥義(おうぎ)——とっておきの秘密の知識や技法——があるわけではありません。奥義ではなく単純に次の3つの 約束について考えてみましょう。これらは倫理上のを公理(axiom)を構成すると言っても過言ではないかもしれません。なぜなら、この3つのわずか一つ でも欠けてしまうと、研究上の倫理が保証できなくなるからです。言い方を変えると、正しい研究が「担保」できなくなる3つの約束のようなものです。
1.研究者どうしの信頼(トラスト).
2.専門家に与えられた規範の遵守
3.公衆に奉仕すること
これら3つのうち一つでも欠けたり、あるいはそれとは逆のことが起こったりすると、その研究は倫理的にかなったものではなくなります。それぞれ の3つの公理が逸脱するとどのようなことがおこるでしょうか?
1.研究者どうしの信頼がなくなる
2.専門家が規範を守らなくなる
3.公衆に奉仕しない
ではこれらのそれぞれの公理が崩れると、具体的にどのような問題が生じるでしょうか?
1.研究者間での疑心暗鬼のみならず、研究者に対する社会的信頼がなくなります
2.嘘や不正(あるいは不正確)な情報が社会に流布します
3.人々に害が及んだり、研究の実践および研究の成果を社会が承認してくれなくなります
みなさんの中には、こんなことは当たり前で、研究倫理の以前の問題で、正しい研究者である前に人間が正しくあれば、研究倫理上の問題はおこらな いはずだと主張される方がいらっしゃるかもしれません。
しかし、個人が正しくあれば、集団(ここでは研究者集団)も正しくなるということが単純に実現できないことは、大人になった皆さんなら容易にわ かるでしょう。
その端的な例を、原子爆弾の製造に考えてみることができます。それぞれの研究者は科学的に正しく推論し、設計し、理論的に正しく研究を行 い、また個人生活の上では倫理的に正しい人たちであっても、またその「成果物」が「不正で間違った敵」を降伏させるために使われる目的で開発されても、無 垢な人たちを大量に殺戮することができます。仮に「不正で間違った敵国」の対外戦争行為をしているからといって、その国の人々のすべてがとんでもない鬼畜 であるというステレオタイプも誤っています。研究者は爆弾を製造しただけでその殺戮に責任はなく、軍人やその国の大統領が使用を許可した人たちが悪いと切 り分けることもナンセンスです。なによりも開発した研究者自身が最初の核実験をしたときに(それがもたらすものがどのような意味をもっているのか)驚愕し たほどなのですから。さらに、科学者が倫理的であっても、その巻き込まれた状況が「構造的暴力」を形成する時に、科学者だけが無罪で免責されるわけでは ありません。
また、日本の家屋に木造の家が多いことを知り焼夷弾を使い戦略爆撃をしかけ、その破壊の効果を評価していた経営学専攻の将校の少なくとも1 人(→R・マクナマラ)は、日本で何が起こっていることをその作戦遂行中から 正確に理解していました。彼は半世紀後のインタビューのなかで、日本への戦略爆撃が明らかに「戦争犯罪」なっていたことを認識し、もし日本が戦争に勝利し ていたら、自分たちが戦犯(東京)軍事法廷にかけられて戦争犯罪人になっていただろうということを述懐してます(→「戦争の霧」)。
市民への戦略爆撃が非難される根拠は、国際法における「市民と戦闘員」の区別原則と、比例原則(鳩撃ちに大砲を使うな)で、説明することが
多いという。ならば、市民への戦略爆撃は戦争犯罪と国際的に認証されているのだから、これまでの広島長崎の市民は一方的な被害者を代弁するのでなく、投下
に先立つ数年前から続いていた、重慶爆撃の加害者=日本政府の一味でもあったことを認識表明し、その上で、かつ自分たちは世界の戦争犯罪被害者に連なるも
のと表明すべきだったのです。戦争裁判は、敗戦国の加害行為に対する行き過ぎを戦勝者が裁くものですが、国際法的な秩序の形成があるために、加害者と被害
者の領域が曖昧になることも、戦勝者への不正の示唆を示す意味でも重要な理解に繋がります(→「ナチス医学関係者との戦争犯罪と戦後の科学研究の継続性と断続性」の中の
「2.5.1 戦争犯罪の定義や本質」を参照してください)。
Bombing of Chongqing,China and Hiroshima Atomc Bombing, Japan.
つまり、これらの3つの公理を闇雲に遵守していれば倫理的に正しくなれるわけではありません。でも3つの公理から逸脱してしまうと、そこには倫 理上の不正が待っています。どうすればよいのでしょう? 2つの対処法があります。
(A)ひとつは、そのような構造的に不正や悪(=不正義)を生んでしまう、より複雑な構造を具体的に分析することから、経験的(=帰納的)に学 んでゆくことです。これは実践の論理や知恵(=フロネーシス/プロネーシス)に もとづく方法ですが、非常に具体的かつ個別的で、なにがその原理にあるのかということが分かりにくい方法です。でもとても重要な方法のひとつです。
(B)他のひとつは、この3つの公理のそれぞれが、なぜ選ばれて、科学者の研究における不正や悪(=不正義)を防止する公理として成り立ってい るのか、あるいは少なくとも3つの重要な防波堤の役割を果たしているのか、その原理をたどり、その公理の根拠を自分なりにきちんと理解することです。理解 することはかならずその事後における行動に影響を与えますので、原理や背景について考察を深めることは、それぞれの公理をただ守ればいいという約束から、 守るべき根拠があるから守るのだと、より深く理解することができます。したがって、この公理について、原理や背景を明らかにするための問いを次のように立 てることができます。
1.なぜ研究者どうしは信頼しなければならないのか?
2.なぜ専門家に与えられた規範を遵守しなければならないのか?
3.なぜ専門家や科学者は公衆に奉仕することが求められているのか?
このような問いを深め、それについて価値を見いだす過程のなかで、先に触れたもうひとつの対処法である「実践の論理や知恵(=フロネーシス)に もとづく方法」に関連する別の問いの探求が始まるはずです。すなわち、次の3つの技術(技法的)な問いです。
1.どのようにして研究者どうしの信頼が確保することができるだろうか?
2.どのようにして専門家に与えられた規範を遵守し、そこから逸脱することを回避できるか?
3.どのようにして専門家や科学者は公衆に奉仕することができるのか?(奉仕できるものとできないものはどのように峻別することができるの か)
この授業において、全期間を通して探求する課題は以上のようなものです。
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