研究倫理に関する3つの誤解
Our Three Misunderstandings on Research Ethics
池田光穂
一般的に研究不正(scientific misconduct)と言われているものは,実験データの改竄(falsify),捏造(fabrication),剽窃(plagiarism),他 の研究からの窃盗(data theft),そして論文共著者としての名義貸し(gift authorship)などから構成されている。しかしながら,研究不正について,私は科学者の常識以上に不正の範囲を広くとって考えている。私が考え る,広義の研究不正は,上の通常の定義のものに加えて,研究費の流用,すなわち公的研究費の目的外使用,不正流用,伝票の預け替えという,経理上の不正, カラ出張などや,社会的に認められた研究者としての資質を疑う行為をもふくめた〈研究生活にまつわる不正・不道徳〉(scientist misconduct)をも研究不正の範囲に含めて考えている。
なぜ,そのように考えたほうがよいのであろうか。そ れはこれから述べる,研究倫理(Research Ethics)とよばれるものが,研究者や研究行為の中に最初から含まれているものではなく,これまで絶えることのなかった研究不正の暴露・告発・改善要 求への〈対応〉を通して,生まれてきたと考えるからである。研究上の不正は,日常生活における倫理コード=「正しいことをなす」ことからの逸脱を意味して いるからでもある。つまり研究倫理について多角的かつ真摯に考えるためには,研究不正の実態とそこに伏在する日常的論理への〈分析的態度〉がなければなら ないと私は考える。平たく言えば,正しい研究態度とは,不正の分析を通してはじめて身に付くということである。ただし,不正に精通することが,正しい行為 を導くことに直結するわけではない。不正に精通するということは,それがなぜ不正で不道徳であり行ってはいけないことなのかを,自分のみならず,他者にも 明確に説明できる能力を涵養にすることに役立つ可能性があることを意味している。
まず,世間的に普及している,研究倫理に関わる誤解 について説明したい。つぎの3つの断定をみてほしい。
(1)研究計画書が倫理委員会(IRB,後述) の審査に通過したら,その研究計画は倫理問題をクリアしているはずだ。
(2)研究倫理は,さだめられた倫理要綱マニュアル を読めば/読ませれば,その能力が身に付くはずだ。これに加えて…,
(3)研究の不正についての実例を多角的に示し,歴 史的な重大な不正事例を学ばせれば,不正をすることの無益さを理解し,研究者は不正を犯すことのリスク を認識してくれるはずだ。
これらは,私に言わせれば,すべて不十分であるか 間違いである。最初の(1)については,倫理委員会の審理によって判断がくだされるものは研究計画という「設計図」に対してであり,これから生ずる研究の 過程ならびに結果に対して,それらが倫理的であるということを保証するものではない。IRBの審査クリアとは研究倫理の出発点であり終着点ではない。次の (2)は,研究倫理教育におけるマニュアル学習の限界や弊害に関連することである。どのようなものでも研究の現場はダイナミックに変化する。現場では,さ まざまな倫理的問題や研究者自身の倫理的葛藤,あるいは利益相反のような事態が生ずる。マニュアルで得られる知識や事例学習は貴重だが,研究者はそれらの 知識を参考にしながら,その固有の状況に応じた独自の倫理的判断をおこなわねばならない。(3)に挙げた不正行為から反省的に学ぶことの意義そのものが否 定されることはない。だが,不正を為さないことが,直接「善」に結びつくわけではない。不正から学んだことを通して「善をなすこと」には,より具体的な徳 (virtue,独Tugend)の構築という作業が各人に対して待っている。イマヌエル・カントに言わせれば,徳とは「戦闘状態にある道徳的心術」と言 うが,徳が求められる時には,不正・不道徳なものに対する嫌悪にせよ,より善いものになりたい崇高なものに憧れるにせよ,なにか自らをして鼓舞激励してい ることが,私たちに起こっているからである(カント 1969:130)。
以下に述べる議論は,私の専攻分野である医療人類学 の知識と経験のみから出てきたものではなく,その多くは常識的な推論から導き出されたものである。生 命倫理の考え方に医療人類学がどのようにアプローチするのかは別稿で論じたので,関心を持つ人は参考にしていただきたい(池田 2014)。
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