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研究不正とどのように向き合うか?

How do we cope with scientist’s misconduct?

池田光穂

 私が読者に伝えたいことは以下の4つのである。

(1)倫理事象をめぐるアリーナ(=議論の闘技場)において,医学・保健学領域がスキャンダルの温床になることは避けられない。

(2)しかしながら,そのようなスキャンダルに塗れてもなお,その逆境を克服し,善意をもって不正を回避し〈平穏〉に研究・教育・実践(臨床)に携わるこ とは可能である。そして,それは多くのひとが通常に行っていることでもある。

(3)研究倫理教育とは,研究者(=ふつうの人)にとって〈善〉とはなにかを足元から考えることである。そして人間以上の能力を超えた〈徳〉を身に付ける ことを求めるのではなく,身の丈に合い,無理をしない=自然な〈善〉の修得について考えることである。

(4)社会という科学者集団をとり囲むものとの関係の中で,〈倫理的なるもの〉の範疇と,守るべき規範というものは,つねに変化してゆく可能性がある。倫 理性というものは,時代と社会の変遷に応じて,しかし同時にその時代の公理に適合するようにヴァージョンアップさせていかねばならないものである。ただ し,そのヴァージョンアップの意味について〈現場から考える〉機会が提供されない限り,闇雲な盲従か,沈黙した不服従や無視というものが常に生まれる危険 性がある。〈現場から考える〉とは,先に指摘した,応答責任と説明責任を,実践の現場で発話——正確には対話——をとおして言語化することである。倫理性 とは,私たちの相互作用の実践中から生まれるが,行為は発話性という性格を持つのだ。

偉大な先達の声に耳を傾けてみよう。ここであげるのは和辻哲郎の1934年の言葉である。

「倫理学についていかなる定義を与えようとも,それは,問いを問いとして示すにすぎない。答えは結局倫理学者自身によって与えられるほかはないのであ る。……倫理的判断とは何であるか,人間的行為とは何であるか,倫理的評価とは何であるか。それは既知量として倫理学に与えられているのではなく,まさに 倫理学において根本的に解かれるべき問題なのである。だから倫理学とは何であるかを倫理学の初めに決定的に規定することはできない」(和辻 2007:9-10)

和辻の論法を捩れば,研究倫理とは何かに答えられるのは,研究者自身に他ならず,研究倫理とは何であるかを研究倫理のレクチャーの初めに決定的に規定す ることはできない,ということになる。そのような研究倫理を対話的理性に変えるものは,不正なものに出会った時に「自らをして鼓舞激励」する私たちの徳で あり,行為(=実践)と発話を通して明らかになる,応答責任と説明責任という具体的な経験からなのである(池田 2010:222-223)。質的心理学研究に似て,研究倫理は経験の場を言語化することから始まる。だが,それはあくまでも出発点であり,終着点ではな いことは言うまでもない。

リンク

文献

- 池田光穂(2010)実践を生み出す論理の可能性:対話論ノート.Communication-Design. 3:210-224.
- 池田光穂(2014)医療人類学.伏木信次・樫則章・霜田求(編)生命倫理と医療倫理(Pp.224-233).京都:金芳堂.
- カント,I.(1969)実践理性批判.東京:角川書店.
- 和辻哲郎(2007)人間の学としての倫理学.東京:岩波書店.


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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