医療研究における不正
How do we cope with scientist’s misconduct?
池田光穂
医療研究における研究倫理に関する(職場スタッフ 向けの)講演に参加して,現場のスタッフとの応答から得られた私の心証や感想は次のようなものである。3つのタイプの質疑応答で構成される。
【問い01】なぜ,読者や聴衆は研究倫理について考
えなければならないのか?
【答え01】研究不正や,研究費流用などの問題がおこるたびに,我々は研究倫理の遵守に関してさまざまな機会への出席を求められ,また,定期的に倫理遵守
のための書類に署名させられている。倫理について,自分自身で考える機会が少なく,職場の上司からさまざまなマニュアルを読めと言われているから。
【問い02】ではヘルシンキ宣言を読めば,あるいは
患者の権利宣言を読めば,患者に優しい医療ができるだろうか。あるいは倫理的に正しい存在になれるか?
【答え02】できないであろう。ヘルシンキ宣言や,患者の権利宣言が策定された,歴史的背景や文言の作成のプロセス,また時代的修正に関する〈背景〉知識
がないと,それはたんなるお題目の復唱に過ぎなくなる。もし患者にも研究者にもお互いに不利益を被ることなく,両者のためになる研究に関する万能の方法が
あるなら,さっさとその情報が我々に届いているはずである。経験的には,そのようなことは望み薄であろう。従って,ここから得られる暫定的結論とは,倫理
綱領を外部から押しつけられる徳目としても,それは決して身には付かないだろう。他の方法論,例えば,実践を通して身体化=習慣化することの可能性につい
て検討を始める必要性がでてくるかもしれないが,その結果は未知である。
【問い03】倫理的に正しいことをおこなうために,
(自分たちには縁遠いように思われる)研究不正の話や悪辣な手口を学ぶことの効用があるのだろうか。研究倫理に関する善行や成功譚についての話を聞いて,
魂が浄化(カタルシス)されることがないのはなぜだろうか。
【答え03】研究不正の話や悪辣な手口を学ぶことの効用などはないと思われる。研究倫理を学ぶことは,明らかに悪を為さないためにあるからである。悪は否
定的判別事象(negative
instance)すぎない。重要なことは,我々の善悪の弁別の陶冶(=自分で判断できるようになる)することにある。経験的事実として,講演において善
行の話はすぐに眠たくなり,頭に残らないが,悪業の話は眼が覚め,時に不快な事実だけが頭に残ることがある。より端的には,不正から学ぶことは,十分な戒
めにはなるが,それだけでは人間の善意がもつ〈創造性〉を育むことができないようだ。
医療研究における不正と倫理を考える思い浮かぶ疑 問と暫定的な答えを以下の3つにまとめてみよう。
(1)な ぜ,倫理事象をめぐるアリーナ(=議論の闘技場)において,医学・保健学領域がスキャンダルの温床になるのか,我々は十全に答えを用意できるだろ うか?
医学研究の特徴として,研究費が他の分野に比べると 大規模である。次に,世間から道徳性を問われる職業であること。また世間から権能を付託されているこ と。専門性が複雑であり,内部者でもしばしば門外漢になり内部の情報が外部に伝わりにくい(=密室性)。そして自浄機能が上手に機能しない,ことがあげら れる。
(2)その ようなスキャンダルに塗れずに〈平穏〉に研究・教育・実践(臨床)に携わることは可能だろうか?
現在の私たちの倫理は過去の事故・逸脱・検討・反 省・実証などの〈遺産〉に負っている。その負の遺産を有効活用することで,被害を極小化できると思われ る。
(3)研究者(=ふつうの人)にとって〈善〉とはなにか?そして〈善〉は身に付けることができ
るのか,そして定義した〈善〉は我々に身に付けられることが
できるか?
〈善〉とは社会的属性であり,個人に内在するだけの
ものではなく,社会関係のなかでも体現されるものである。〈善〉は自分を犠牲にすることなく他者に降り懸かる危害を極小化する,人間の行為上の理念であ
る。我々は具体的な〈善〉を経験的に知っている以上,それが不可能だと断定することはできない。したがって逆説的であるが,本人の真意とは関係なく〈善〉
が身に付いているように他者から判断されることが必要となる。ロビンソン・クルーソーが〈善〉を実現するためには,従僕フライデーからそう判断される必要
があり,それを可能にするためには,両者の間には(主人と奴隷の関係は一方的なものではなく相互承認的であるという意味での)相互承認が必要なのかもしれ
ない。私が「研究倫理」について学生・院生・そして教員たちと一緒に対話することを通して,学ぶことが,有効だと信じるはそこにあるのかもしれない。〈人
の間(あいだ)の倫理〉は,絶え間のない対話の中で鍛えられ,そして実践を通して,ようやく心と身体の中に残っていくものであるように思える。
●Vijay R. Somanの不正事案 1978年、米国国立衛生研究所(National Institutes of Health, NIH)のポスドクで、糖尿病研究者のロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard)は、研究成果をまとめた論文を学術雑誌に投稿した。その投稿論文の審査は、イェール大学(Yale University)のフェリッグ教授(Philip Felig)に依頼され、フェリッグ教授は部下のソーマン助教授(Vijay R. Soman)に査読の代役を依頼した。ロッドバードの投稿論文はソーマンの研究テーマにとても近い内容だったので、ソーマンは、ロッドバードの論文をリ ジェクトして掲載不可とする一方で、その文章とデータをまるごと盗用し、著者を自分の名前に変え、別の学術雑誌に投稿した。 ところが、皮肉なことにソーマンの投稿論文の審査はロッドバードの上司に依頼された。上司はロッドバードにソーマンの論文を見せ、ロッドバードはソーマン が自分の文章とデータを盗用したことに気がつき、不正を何度も訴えた。その後、1980年にソーマンの盗用が確定し、ソーマンは同年4月にイェール大学を 辞職した。後日談として、ロッドバードは研究に嫌気がさして研究者から臨床医に人生の舵を切り、臨床医学界で成功し、後年、米国臨床内分泌学会・会長など の要職を務めたという。 ※資料はe-Aprin の教材による |
●限りなく冤罪に近いイマニシ=カリ事件 1980年代半ば、米国で大事件が起きた。ポスドクがノーベル賞受賞者を訴えるというもので、国レベルの調査、そして議会聴聞会が開かれるまでに至った。 事件の発端は、タフツ大学(Tufts University)のイマニシ=カリ(Thereza Imanishi-Kari)研究室のポスドクであるオトゥール(Margot O’Toole)が、イマニシ=カリが実験し、『セル』に発表を予定していた実験結果を再現できなかったことである。論文にはノーベル賞受賞者でマサ チューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology, MIT)のボルティモア(David Baltimore)が共著者として入っていた。 1986年、オトゥールはイマニシ=カリがデータを改ざんしたと、タフツ大学とMITのミスコンダクト委員会に証拠と思われるものを提出した。その結果、 いずれの委員会とも、研究不正はなかったが、イマニシ=カリの研究は慎重さを欠いたものであったとの判断を下した。当時、NIHも委員会を開いてこの件を 審査したが、イマニシ=カリを「白」だとした。 しかし、事件はこれで終わらなかった。NIHの研究者だったスチュアート(Walter Stewart)とフェダー(Ned Feder)が、「委員会はイマニシ=カリの論文の問題点を十分に分析していない」と批判したことで第2幕が切って落とされた。1988年、NIHの予算 編成の責任者であったディンゲル下院議員(John Dingell)が議会聴聞会を開いた。彼の見解は、オトゥールによる告訴の際、両大学の対応には不備があったというものだった。ディンゲル委員会はシー クレットサービスを使うなど徹底した調査を行い、シークレットサービスはイマニシ=カリがディンゲル委員会に提出した証拠は改ざんされたものであったと結 論した。 1991年に入り、当時NIHの研究不正を扱う部門であった科学公正局(Office of Scientific Integrity, OSI)が、データのかなりの部分は捏造されたものとの見解を発表した。その結果、イマニシ=カリは以後10年間にわたって国からの研究費を受けられない こととなり、ボルティモアはこの事件に関する論争のためにロックフェラー大学の学長を辞職した。 1992年、科学公正局は研究公正局(ORI)として改組された。1996年、ORIの上訴委員会が科学公正局の裁定を覆し、イマニシ=カリが研究記録を改ざんしたとするには証拠が十分で無く、イマニシ=カリは単に研究上の慎重さを欠いていたとの結論を出した。 最終的にイマニシ=カリの行為は不正とはみなされなかった。そのため、この事件は、「不正行為事件」というより、むしろ「冤罪事件」と呼ぶのがふさわしいが、この事件から次のような教訓が得られる。 調査・審議には長い年数がかかること(このケースでは11年間)。 ポスドクでもノーベル賞受賞者を研究不正で訴えるという状況があること。 異なる2つの公的機関が不正と判定した結論が覆されたこと。 告発された側は、辞職や研究費を受けられないなど大きな損害を受けたこと。 かかわった誰もが傷を負う結果となったこと。 そして、事件が終結して間もなく、NIHおよび米国国立科学財団(National Science Foundation, NSF)から研究不正の告発があった場合の対応の仕方に関する規定が公布された。規則には研究不正の告発者の権利を保護する対策と、被告発者の権利を守る 対策を義務付ける条項が含まれ、異議申し立てを行う機会を設けることも義務付けられた。 ※資料はe-Aprin の教材による |
● 日本の医学研究分野では下記のような指針や法律が定められています。 * ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針(平成29年2月28日一部改正)——文部科学省・厚生労働省・経済産業省 * 人を対象とする医学系研究に関する倫理指針(平成29年2月28日一部改正)pdf ——文部科学省・厚生労働省 * 遺伝子治療等臨床研究に関する指針(平成29年4月7日一部改正)pdf ——厚生労働省 * 再生医療等の安全性の確保等に関する法律(平成26年11月25日施行)——法律 最新情報 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/kenkyujigyou/i-kenkyu/index.html |
文献
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