はじめに よんでください

研究倫理 2.0

池田光穂

クレジット:研究倫理 2.0 の可能性、あるいは「誠実な研究者が損をしないシステム」は可能か?

片瀬久美子さんのエッセーに「研究不正問題——誠実 な研究者が損をしないシステムに向けて」というのがあります(SYNODOS 2015.06.03 Wed)。その内容は、研究倫理における問題のある事案は、通常組織の「問題調査委員会」や「研究公正委員会」等で検討さ れるが、現行の調査委員会の調査や報告は穴だらけで、まさに、そのような委員会の質保証が急務だという主張である。まさに正論で私は、いささかの異論もな い。

しかし、私が気になるのは、その副題の「誠実な研究 者が損をしないシステム」という文言についてである。結論から言うと、彼女の認識によると現行の審査システムでは「誠実な研究者が損をしない」構造が担保 されておらず、研究倫理告発におけるモラルパニック(「モラルハザード」とは言いません)が起こっているということだ。しかし、ボクは、本当に他の研究者が「正直者はバカをみる!」とぷんぷん 怒っているようには思えない。

また、「誠実な研究者が損をしないシステム」を構築 するというのが、それ自体がうさんくさく感じる。その違和感を論証しようとするのが、このページの目的である。

真理表の命題に書き直すと、「誠実な研究者が損をし ない」ことは、「誠実な研究者(p)ならば得(q)をする」と言い換えることができる。これは、道徳律として、「誠実な研究者(p)ならば得(q)である べきだ」とパラフレイズしてもいいだろう。

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その逆(converse)は、(研究状況が理想的 なら)「得(q)をしているのは、誠実な研究者(p)である」ということで、これにも異論はないだろう。

また、その裏(converse of contrapositive)は、「不誠実な研究者(‾p)ならば損(‾q)をする」というのも、我々の道徳律に叶う。つまり、「誠実な研究者ならば損 をしない(=得をする)」し、「不誠実な研究者ならば損をする」というのも、我々の道徳律に叶う。

しかし、だとすれば、本来、真理であるはずの、対偶 (contrapositive)は、「損 (‾q) をする/したならば不誠実な研究者 (‾p) である/あった」ということ(=〈不都合で容認したくない〉現象)を導いてしまう。

そのため、片瀬さんの「誠実な研究者が損をしない」 論理を内包した システムの構築というのは(現実的には必ずしも)システム合理的 ではないものを生んでしまう。つまり、そのような言挙げはナンセンスだということになる。実際に上記のエッセー も「誠実な研究者が損をしないシステム」は副題にしかなく、議論もこのことを論じておらず、文章の最後に、唐突なまとめの言葉になっている。だから、彼女 は世間的な道徳を言ってお茶を濁したにすぎないのさ、ということも可能である。だれしも、最後の挨拶みたいなもので、その形式論理内容に文句を言う、ボク は不粋か、屁理屈屋というわけだ。そんな発言をすることはフキンシンを承知でいわせてもらおう。誠実であることが、つねに、世の中で得をすることではない ことは、子どもでもわかる事実である。そして、熟慮することができない子ども(=道徳を説かれる自然科学者?)に、ナンセンスな倫理を教え付けるのは間 違っている。

たしかに、そうかもしれない。でも、私は、このよう な世間的道徳が、経験的にも理念的にも正しくないことを、この奇妙な命題が語っていることこそ、我々が(ストレスのない自然として受け入れられる)道徳へ のアプローチから、遠ざかるものであるとあえて言いたい。

そのような研究倫理を、ボクは「研究倫理 2.0」 と呼んでみたい。

これからの研究倫理(2.0)は、(α)不正から反 省的に学ぶのもまずいし、(β)G.E. ムーアの批判よろしく善は「自然」の 原理に 叶うなどという論証抜きの道徳を振り回すのもよろしくないというのが、ボクの結 論であ る。



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