ウィトゲンシュタインのパラドックス
Wittgenstein's paradox, Kripke-Wittgenstrein Paradox, ヴィトゲンシュタイン、パラドクス
解説:池田光穂
ヴィトゲンシュタインのパラドックス(Wittgenstein's paradox)とは、ルードウィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1899-1951)が 『哲学探究』(死後の1953年出版)の中で指摘しているパラドック スで、のちにソール・クリプキが "Wittgenstein on Rules and Private Language"(1982) という書物の中で整理したものであり、クリプキとヴィトゲンシュタインのパラドックス(パラドクス)と呼ばれることもある。
ヴィトゲンシュタインが『哲学探究』の中で指摘したのは以下のような状況をまず想起することである。(番号200)
2人がチェス盤に向かって勝負しているように見える時、我々はチェスをしていると言いたくなる。しかし、実際は、2人は、悲鳴やうなり声をあげ たり、足を地団駄することを、チェス盤の駒を動かすことと対応してやっているのだと想像してみよう。通常我々が考えるようにチェスの駒を動かして相手の王 様をとることを2人はやっているのではなく、お互いが悲鳴を上げ、足を踏みならすためには、特定の駒をチェス盤で動かさねばならないと考えるのだ。そんな 馬鹿なと思えるが、それは私たちが慣れ親しんだ経験から言えることで、この2人は全然別のゲームやまともなルールとは言い難い、別種の「ルール」に従って やっていることを、少なくとも観察する限りでは否定することはできない。
それを受けて次の文章(番号201)で、彼は次のように言う……
「われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規 則と一致させることができるから、ということであった。その答えは、どのような行動のしかたも規則と一致させることができるから、ということであった。そ の答えは、どのような行動のしかたも規則と一致させることができるなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには一致も矛盾も存 在しないのであろう。ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行なっているという事実のうちに、すでに示され ている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。 言いかえれば、このことによって、われわれは、〔規則の〕解釈ではなく、応用の場合、に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、「規則に叛く」と呼ぶこと がらのうちにおのずから現われてくるような、規則の把握〔のしかた〕が存在することを示すのである。それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と 言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現でおきかえたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。」(邦訳、Pp.162-163)
我々は、規則に従って行動している人たちを見ても、次も規則に従った行動が生起するとは限らない。このことは経験的に、そして痛いほど知ってい るはずなのに、しばしば忘れ去られてしまう。ふつうに話している人が突然怒ったり、愛している人から突然メールが来なくなったりすること。話が円滑に進ん でいる場合や、お互いに疑うことなしにラブラブのメールを交わしていることが、規則にしたがっているわけではなく人間の本性によるものだと信じている。し かし、人間の本性だと思っていることすら、規則に従わないことがある以上、それらが解釈しているに過ぎないし、また人間の本性——この様態もまた一種の規 則とよべるようなものとして人間は理解しているゆえに——もまたひとつの解釈にすぎないことがわかる。だからと言って、解釈を超えたところに本質的な答え などあるはずはなく、解釈を重ねてゆく(繰り返す?)ことの中にしか理解は見つからないのだ。
さらに次の文章(番号202)ではそれを受けて次のように書く。
「それゆえ、〈規則に従う〉ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。 だから、ひとは規則に〈私的に〉従うことができない。さもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じととになってしまう だろうから。」(邦訳、p.163)
つまり、規則に従うことには公的性質、社会性ということが抜きにしてはありえないことになる。
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文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099