はじめによんでください

ウィトゲンシュタイン

Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951

1929年にトリニティカレッジから奨学金 を受賞した時に撮影されたもの(部分)

解説:池田光穂

1889 ウィーンで誕生:1889年4 月26日 ウィーン(オーストリア=ハンガリー帝国)で生まれる。9月26日ドイツ・メスキルヒにてフ リードリヒ・ハイデガーとヨハンナの第一子としてマルチン・ハイデガー生まれ る

▶第1章_序論—問題と方法 ▶ 第2章_ハプスブルク朝ウィーン—逆説の都 ▶ 第3章_言語と社会—カール・クラウス(Karl Kraus, 1874-1936)とウィーン最期の日々 ▶ 第4章_文化と批判—社会批評と芸術表現の限界 ▶ 第5章_言語、倫理および表現 ▶ 第6章_『論考』再考—倫理の証文 ▶ 第7章_人間ウィトゲンシュタインと第二の思想 ▶ 第8章_専門家気質と文化—現代の自殺 ▶ 第9章_補遺—孤立の言語 LWのパラドックス
言語につい て考える
火掻き棒事 件
過去の予 言・未来の想起
他者の痛みと 嘘つき
フィールド ワーク現象学
迷信
意図の 表現
趙州狗子
研究倫理教育の可能性
火かき棒と アイザイア
がん サバイバー
理 性の綱渡り
コミュニケーションデザイン
ル イス・イェルムスレウの言語学
音読カフェ
美学的コミュニケーション
実践知
クリフォード・ギ アーツの意味
エッセーにつ いて
ガリ ラヤのイェシュー
実践コミュニ ティ
アリストテレスはソクラテス的対話ができたのか?
カント倫理学の誤読
実践知の世界
トーマス・クーン『科学革命の構造』
哲 学の貧困:その認識論的諸前提
実践共同体関連 用語集
ユカテク・マヤ の助産術
W.H.R. リヴァーズ
論理哲学論考:6.4以降
錯覚・錯認
教えること
自由連想
展望のきく叙述
懐疑論
知識
理論
原因と理由
儀式・儀礼
自己
特 性のない男』(Der Mann ohne Eigenschaften)
フロイトの弟子
言語プレイ
アスペクトの転換
不安とその反復
哲学の耐えられない「軽さ」
発狂しなかったオイディプス
私 的言語










































1902 長男ハンス自殺、次兄ルドルフ は1904自殺、三兄クルトは1918年に自殺。

1903年まで 自宅で教育を受ける

1903-06 リンツ高等実科学校(ヒ トラーも在籍している)

1906 シャルロッテンブルグ工科大学 入学:シャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学ぶ(〜1908——飛び級卒 業か?)

1908 マンチェスター大学工学部:マ ンチェスター大学のプロジェクトに参加(大気圏上層における凧の挙動)

1911 フレーゲは22歳のウィトゲン シュタインにラッセルを訪れるように促す(野矢 2006:76)。(秋) バートランド・ラッセルを訪問

1912 トリニティ・カレッジ(ケンブ リッジ)入学:ラッセル、ムーアに師事。ジョン・メイナード・ケインズと親交

1913 ウィーンに帰郷(父の死亡)  そのままノルウェーの山荘で過ごす(ケンブリッジには何度か戻るが)。学位論文をめぐって、当局と折衝 したムー アの手紙に、激怒。罵倒の返信を書く。

1914 6月 第1次大戦勃発 8月に オーストリア=ハンガリー帝国軍に志願。クラコフに着任。トルストイの福音書解説に出会う。ニーチェ選 集なども読む。(自殺願望頻発)

1914 オーストリアハンガリー帝国軍 志願兵。入隊後、トルストイの註釈に感銘を受け「福音書の男」と呼ばれる。

1915 「論理哲学論考」のアイディア と草稿がまとまる

1916 3月 対ロシア砲兵隊に配属。 伍長に昇進。

1916 7月6-7日『論考』の基本的 枠組みが完成したといわれる(星川・石神 2016:241)

1917 ロシア革命の影響で戦線は平穏 化

1918 少尉に昇進。イタリア戦線に。 「論考」の完成、出版社に送るが拒絶される。11月イタリア軍の捕虜になり、収容所に。

1919-1920 小学校教員養成所

1918-1922までの『論理哲学論 考』の翻訳に関するエピソード

1922 『論理哲学 論考』出版:英独対訳版『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』の出版(→pdfの入手:グーテンベルグ・プロジェクトhttps://www.gutenberg.org/files/5740/5740-pdf.pdf.

https://bit.ly/3Bh9Kze

1927-29 ウィーン学団との交流

1927 モーリッツ・シュリック(36 年に反ユダヤ主義の学生より射殺される)がストーンボロー邸のウィトゲンシュタインを訪問。

1927 エドムント・フッサールによっ て創刊された『哲学および現象学研究のための年報』の第8巻においてハイデガー『存在と時間』 の初版を公刊。『現象学の根本 問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie)

1928 ワイスマンとファイグルと邂逅 (3月)。ケインズとの手紙の交換。(→Ethik und Ästhetik sind Eins

「わ たくしの記憶には、もう一つの出来事がはっきりと残っている。オ ランダの数学者ルイツェン・エグベルトゥス・ヤン・ブラウワーが数学に おける直観主義についてウィーンで講演するととにきまったとき、ワイスマンとわたくしがヴィトゲンシュタインをうまく説得し、すったもんだ の末に、やっと その講演にわれわれと一緒に出席させることができたことがある。講演終了後、ヴィト ゲンシュタインとわれわれが喫茶店へ行ったとき、大変な出来事が起っ た。突然、きわめて弁舌さわやかに、ヴィトゲンシュタインが哲学を語り始めたのである——しかも長時間にわたって。たぶんこのことが転機となって、ヴィト ゲンシュタインは1929年にケンブリッジ大学へ移り、爾後再び哲学者となって、途方もない影響力を発揮しはじめたのである。その結果、まぎれもない騒乱 が英国の哲学界に生じ、それがすぐに米国へもオーストラリアへも波及していった。バートランド・ラッセルはヴィトゲンシュタインの哲学の示した新たな転向 に当惑し、最初は冷たく沈黙を守っていたが、後には公然とこれに反対した。カルナップは、時代の流れにあまり動かされることがなかったから、自己の構成的 な仕事をプラハで、また後にはアメリカで続けていった」(ヘルベルト・ファイグル 1973:233)。ファイグル、ヘルベルト「アメリカのウィーン学 団」藤本隆志訳、Pp.217-280, 『人文科学者・芸術家 』レヴィン他、みすず書房(The Intellectual migration : Europe and America, 1930-1960 / edited by Donald Fleming and Bernard Bailyn, Belknap Press of Harvard University Press (1969))

ヤ ン・ブラウワーの直観主義とは「数学的概念とは数学者の精神 の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合 において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。そのために、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるとい う推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。ブラウワーとは逆に、 ヒルベルトの形式主義は、排中律(という原則)を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる」

こ のLWの「転回」のエピソードは、前期の論考、後期の探究というLWの思考史における切断を物語るものであり、人生における徹頭徹尾形而 上学者であった(その論拠はあの有名な論考の「倫理学と美学は同一である」 の部分である)という細川亮一の主張とは共存しない主張である。つまり、後者の細川は、LWの著作全般にみられる超越論的な思考をもって形而上学者とみな す立場 であり、ファ イグルのエピソードは、ブラウワーの直観主義にみられるような、命題の真偽のみで意味の空間を語る前期の思考法から、哲学的概念とは言語がもたらす思考 (精神)の産物であり、哲学的概念の存在は、その構成により示されるべきである、という後期の思考法に移り変わることが、論考をもって学位論文として提出 する前から出発していたのではないかという解釈である。細川のようにLW書物から兆候的に読み取る態度ではなく、ファイグルのエピソードは、人生における 経験が、その人の思考の変えうるということを雄弁に主張するものである。また、これは、トゥルーミンとジャニク(2001)が主張するような、ウィトゲン シュタインは徹頭徹尾ウィーンの知的環境のなかで知的成熟を遂げた首尾一貫した倫理学者であった、という主張とも異なる。

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1929 ケンブリッジに舞い戻る(16 年ぶり)。『論考』を学位論文として提出。トリニティ・カレッジ・フェロー

1939(50歳)ケンブリッジ大学教授 (哲学):2月ムーアの後釜として、ケンブリッジ大学哲学教授になる。4月英国の市民権(国籍)を取 得。

1949 前立腺がんの診断。『哲学探 究』原稿の完成

1950 4月アンスコム宅に寄寓。11 月、ベヴァン医師宅に寄寓。

1951 

1953 『哲学探究』死後2年後に公刊

1-88 言語ゲームと意味の使用説
89-133
論理学と哲学
134-242
規則に従う
243-315
私的言語の議論
316-693
心理学の哲学

私的言語(private language)

私 的言語(private language)

私的言語(してきげんご、private language)はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの後期の著作、特に『哲学探究』で紹介された哲学的主張。[1]私的言語論は20世紀後 半に哲学 的議論の中心となり、その後も関心を惹いている。私的言語論では、ただ一人の人だけ が理解できる言語は意味をなさないと 示すことになっている。 『哲学探究』では、ヴィトゲンシュタインは彼の主張を簡潔・直接的な形では提出しなかった。ただ、彼は特殊な言語の使用について記述し、読者がそういった 言語の使用の意味を熟考するように仕向けている。結果として、この主張の特徴とその意味について大きな論争が生じることになる。実際に、私的言語「論」に ついて話すことが一般的になってきた。 哲学史家は様々な史料、特にゴットロープ・フレーゲとジョン・ロックの著作に私的言語論の先駆けを見出している[2]。ロックもこの主張に目標を定められ た観点の提唱者である。というのは彼は『人間悟性論』において、言葉の指示する物はそれの意味する「表象」であると述べているからである。私的言語論は、 言語の本性についての議論において最も重要である。言語についての、ひとつの説得力のある理論は「言語は語を(各人の心の中の)観念・概念・表象へと写像 する」というものである。この説明では、わたしの概念はあなたのそれとは区別される(異なる)。けれども、わたしはわたしの概念を、我々の共通言語におけ る語に結びつけることができる。そして、わたしはその語を話す。それを聞いたあなたは、いま聞いた語をあなたの概念へと結びつける。このように、我々の概 念とはつまり(それ自体は各人において異なり、また心の中に匿されているという意味で)私的言語であるが、それは共通言語との翻訳を介して共有されてもい る、というわけである。こうした説明は、たとえば(ジョン・ロックの)『人間悟性論』、近年ではジェリー・フォーダーの思考の言語論に見られるものであ る。 後期ヴィトゲンシュタインは、私的言語のこうした説明は矛盾すると主張する。私的言語という考えに矛盾がある(成り立たない)として、その論理的な帰結の ひとつは、すべての言語はある社会的な機能の召使いにすぎない、とい うことである。このことは哲学と心理学の他の領域に重大な影響を与えることとなった。たとえば、もし人が私的言語を持つことができないのであれば、私的な 経験や私的な心的状態について語ることは、まったく意味をなさないことになる。

この主張は『哲学探究』第一部で述べられている。『哲学探究』第一部は順次番号づけられた「意見」の羅列よりなる。主張が中心的に述べられているのは第 256章及びその先だと一般的には考えられているが、最初に紹介されるのは第243章である。もし誰かが、かれ以外の誰にも理解できない言語を、理解するかのように振る舞うことがあったと したら、それこそが私的言語だということができよう[3]。とはいえ、その言語が単に孤立した言語である、つまりかつて翻訳されたことがな いというだけでは、十分ではない。ある言語がヴィトゲンシュタインのいう私的言語で あるためには、原理的に(通用する言語に)翻訳できない言語でなければならない。 たとえば、他人には窺い知ることができないような内的経験を記述する言語である[4]。ここでいう私的言語とは、単に「事実として」ただひとりが理解する 言語のことではなく、「原理的に」ただひとりにしか理解できない言語のことである。絶滅寸前の言語を話す最後のひとりは私的言語を話しているわけではな い。その言語はなお原理的に習得可能だからである。私的言語は習得不可能かつ翻訳不可能でなければならない。そして、にもかかわらず話者はその意味を理解 するかのようでなければならない(→「言語の翻訳不可論は論理的に破綻」→「言語とみなされるものは必ず翻訳可能性を獲得する」)。

ヴィトゲンシュタインは、感覚が起きたときにカレンダーに書いてある「S」という字と再帰的に起こってくる感覚を結びつけて考えている人を想像する思考実 験を行っている。[5] この場合はヴィトゲンシュタインの考えるような私的言語になっている。さらに、「S」が他の言葉で、例えば「マノメーターが上がったときに私が受けた感 覚」というように定義できないばあいを推定する。すると、公共的言語の中に「S」が位置づけられ、その場合「S」が私的言語であらわせないことになる。 [6]

感覚と象徴に注目して、「ある種の直示的定義」を「S」に適用する場合が想定される。『哲学探究』の最初のほうでヴィトゲンシュタインは直示的定義の有効 性を攻撃している[7]。彼は、二つの木の実を指さして「これは『2』だと言える」と言う人物の場合を想定する。これを聞いた人がこれを木の実の種類や 数、あるいはコンパスの指す向きなどではなく物品の数と結びつけて考えるということはどのように起こるのだろうか?一つの結論としては、これは、関係する ためには直示的定義が「生活形式」に必然的に伴う過程や文脈を理解していることが前提とされるということだとされる[8]。もう一つの結論としては、「直 示的定義は『あらゆる』場合に異なった意味で解釈され得る」ということがある[9]。

「S」の感覚の事例を出して、ヴィトゲンシュタインは、正しい「ように見える」ことは正しい「ことである」(し、このことは「正しさ」について語ることは できないことを端的に示している)ので、以上のような直示的定義の正しさの基準は存在しないと主張した[5]。私的言語を否定する正確な根拠に関しては議 論がなされてきた。一つの主張として「記憶懐疑論」と呼ばれるものがあるが、それは、ある人が感覚を間違って「記憶」すれば、その人は結果として「S」と 言う言葉を間違って使うことになるというものである。「意味懐疑論」というもう一つの立場では、こういうやり方で定義される言葉の「意味」を人は決して知 ることはないというものである。

一方の一般的な解釈は、人が感覚を間違って覚える可能性があり、それゆえに人はそれぞれの場合に「S」を使う確かな「基準」を持ちえないというものである [10] 。だから、例えば、私はある日「あの」感覚に注目し、それを「S」という象徴に結び付けたかもしれない。しかしその次の日、私は「今」持っている感覚が昨 日のものと同じであるかを知る基準を記憶の他に持たない。そして私は記憶を欠落しているかもしれないので、私には今持っている感覚が実際に「S」であるか を知る確かな基準が何もない。

しかしながら、記憶懐疑論は公共的言語にも適用できるので、私的言語だけに対する攻撃たりえないとして批判されてきた。一人の人が間違って記憶しうるなら ば、複数の人が記憶を間違えるということも完全に可能である。だから、記憶懐疑論は公共的言語に与えられう直示的言語にも同じ効果を及ぼすことができる。 例えば、ジムとジェニーがある日どこか独特な木を「T」と呼ぶことに決めたかもしれない。しかし次の日に「二人とも」自分たちがどの木に名づけたか記憶違 いをする。彼らが完全に記憶に頼っており、木の位置を書き記したり誰かほかの人に教えたりしていなかったならば、一人の人が「S」を直示的に定義した場合 と同様の困難が現れるであろう。そのため、こういった場合であれば私的言語に対して提出された主張が公共的言語にも同じく適用されるであろう。

●意味懐疑論

もう一つの解釈として、例えばアンソニー・ケニーが提出した報告[11]で述べられているのだが、私的な直示的定義に関する問題は間違って記憶されること だけでなく、そういった定義は有意味な言明を導かないというものもあるということがある。

公共的言語における直示的定義の場合を考えてみよう。ジムとジェニーがある日どこか独特な木を「T」と呼ぶことに決めたかもしれない。しかし次の日に「二 人とも」自分たちがどの木に名づけたか記憶違いをする。この、通常の言語の場合は、「これが僕たちが昨日『T』と名付けた木だろうか?」と言う問いは意味 を成す。だから、人は生活形式の他の部分、ひょっとしたら論議に訴えることができる。「これが森の中のたった一本のオークだ。『T』はオークだった。だか らこれが『T』だ」というように。

日常的な直示的定義は公共的言語に埋め込まれていて、そのため言語がその中で生じる生活形式の中に埋め込まれている。公共的な生活形式に参加することで起 こったことを正すことができるようになる。つまり、公共的言語の場合には直示的に定義された言葉を別の方法で確かめることができる。私たちは直示的定義を 多かれ少なかれはっきりさせることで私たちの「T」という新しい名前の用法の正当性をしめすことができる。

しかし「S」の場合はこうはいかない。「S」は私的言語の一部だから「S」のはっきりした定義を与えることはできないことを思い起こそう。唯一の「可能 な」定義は「S」を「あの」感覚と結びつけるという私的・直示的なものである。しかしそれは「まさに問われているそのもの」である。「誰かがこういってい るのを想像しよう。『でも僕は自分の身長がわかっているんだ!』そしてそれを示すために自身の手を頭頂に乗せる」[12]。

ヴィトゲンシュタインの著作に繰り返し現れる主題として、意味を成す言葉や発話は疑い得るに違いないということがある。ヴィトゲンシュタインにとって、 トートロジーは意味をなさず、何も言っておらず、また疑いを挟み得ない。しかしさらに、他のいかなる発話も疑いを挟み得ないとすれば、その発話は無意味で あるに違いない。ラッシュ・リーズは、ヴィトゲンシュタインの講義の記録に、一方で物理的対象の実在性について議論しつつこう書いている。:

我々は「p → p」のようなトートロジーを記述する際に何かを同じように把握している。我々はそういった印象をまとめて疑い得ないように何かを把握している―たとえ意味 が疑いとともに消滅するとしても[13]。

ケニーの述べるところでは、「何かを『S』だと『間違って』考えるためにも、私は『S』の意味を知っていなければならない。また、これはヴィトゲンシュタ インの主張することが日常言語では不可能だということである」[14]。私的な直示的定義「の他に」「S」の意味(あるいは用法)を確かめる方法がないの で、「S」が意味すること「を知る」のは不可能である。意味は疑いとともに消滅する。

ヴィトゲンシュタインはさらに進んで、左手が右手に金銭をあげるという類推を用いている[15]。物理的な動きは存在するが、取引としては贈与の内に数え られない。同様に。ある人は一方で感覚に注目して「S」と言っているが、実際に名づけという作用が起こってはいない。

●箱の中のカブトムシ

箱の中のカブトムシはヴィトゲンシュタインが彼が痛みを探求する文脈で紹介した有名な思考実験である[16]。

痛みはいくつかの理由から心の哲学で独特にして極めて重要な位置を占める[17]。一つには、痛みは現れ/実体の区別を崩壊させるように見えることがある [18]。もし事物があなたに赤として現れたなら、それは本当は赤ではないかもしれない。しかしあなたが痛みを感じているようであったなら、それは痛みを 感じているに違いない。同時に、人は他人の痛みを感じることはできないが、彼らの振る舞いや訴えから推測することだけはできる。

私たちが究極的にしかし排他的に知覚することのできるたった一つの心によって感じる特別なクオリアを認めるならば、自己と意識についてのデカルト的な視点 に立つことになる。私たちの意識は、やはり痛みについて、疑うことができないであろう。これに対して、ある人は自身の痛みの究極的な事実の存在は認めるが 他人の痛みについては懐疑論を主張する。あるいは、またある人は行動主義者の立場をとって私たちの感じる痛みは単に神経学的な刺激に振る舞う傾向が伴って いるだけにすぎないと主張する[19]。

ヴィトゲンシュタインは、人がめいめい「カブトムシ」の入った箱を持っているコミュ ニティーを想像するように勧める。「誰も他人の箱の中を見ることはで きず、皆が自分は『自分の』カブトムシを見ることによってのみカブトムシとは何かを知ると言っている」[16]。

これらの人々が「カブトムシ」と言う言葉を使っても、それは何物をも指 示しえない―何故ならばそれぞれの人が箱の中に入れているものが全く異なっているか、箱の中のものが常に変化していたり、箱の中が空だったということが完 全に可能だから。箱の内容はいかなる言語ゲームでも無意味となる

類推によれば、人が他人の主観的な感覚を経験できないことは問題ではない。そういっ た主観的な感覚について語ることが公共的な経験を通じてできるようにならないならば、その具体的な内容は的外れである。語り得るものは全て、公共的言語で 語ることが可能なものである

痛みの類推として「カブトムシ」を提供することでヴィトゲンシュタイン は、痛みの事例は本当は哲学者の使用に耐えないと主張している。「すなわち、私たちが『対象と意味』のモデルに則って感覚の印象の文法を解 釈するならば、対象は思考から滑り落ちて無意味になる」[16]。

●規則に従うこと

一般的に人が従う規則を明文化したもので言語の用法が記述されるが、ヴィトゲンシュタインは相当詳細にこの規則について考えた。彼が、いかなる動作も与え られた規則に従うと言えると主張したことは有名である[20]。彼はジレンマを持ち出してこれを実行した。:

これが私たちのパラドックスだった。:どの行動の成り行きも規則と調和すると言えるので、どの行動の成り行きも規則によって正確に決定できない。答えは: どの行動の成り行きも規則と調和すると言えるなら、それらがめいめい規則と矛盾するともいえる。そしてそこには調和も矛盾も存在しない[21]。

ある人はなぜ人が特定の場合に特定の規則に従うのかを説明できる。しかし実践に伴う規則に関するいかなる説明も、循環性を伴わずには規則を伴う言葉を与え られない。ある人は「彼女は規則Rに従ってXを行った」というようなことを言えるのは、聞き手が「彼女は規則R1に従って規則Rに従った」と言わない場合 に限る。聞き手がこう言う場合、さらにある人が「しかしなぜ彼女は規則R1に従ったのか?」と問い、無限に後退することに巻き込まれることになる。説明に は終わりがなければならない。[22]

彼の結論:

このことが示すのは、「解釈」では「ない」が、私たちが「規則に従うこと」や「それに反すること」と実際の事例で呼ぶものの中で展開される規則を把握する 方法は存在する[23]。

そのため規則に従うことは実際に可能である。そしてさらに、人は自分が規則に従うことも従うのに失敗することもあると思っているので、人が規則に従ってい るという「考え」は規則に従うことと同一ではない。それゆえ、規則に従うことは私的な活動ではありえない[24]。

●クリプキの解釈

1982年にソール・クリプキは著書『ウィトゲンシュタインのパラドックス──規則・私的言語・他人の心』でこの手の主張に対する新しくて革新的な説明を 発表した[25]。クリプキはこのパラドックスを201章で『哲学探究』の中心的な問題であるとして議論している。彼はこのパラドックスを発展させてグ ルーのパラドックスを作り上げ、帰納と同様に意味の懐疑論に陥ると主張した [26]。彼は、自身が「クワス算」(記号は⊕)と呼ぶ新しい足し算の形式を提起した。これは、足した結果が57より大きくなる場合を除いて全ての場合で 「プラス」と同一である。

そして彼は、誰もが私が「プラス」を意味すると思ったよりも前にそれを知ることができたならば、私は実際には「クワス」を意味することはないであろうと問 いかけている。彼は、自分の主張によって「我々が形作る新しい適用は暗闇の中の跳躍である。今ある意向は我々が選ぶいかなるものとも調和するよう解釈する ことができるだから調和も矛盾も存在しない[27]」ということが示されると主張している。

クリプキの説明はヴィトゲンシュタインの考えに忠実ではないと考える評論家もおり[28]、結果的に「クリプケンシュタイン」と言われている。



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文献