ムーアのパラドクス
Moore's Paradox
かいせつ:池田光穂
1944年のケンブリッジ大学のウィトゲンシュタインが主宰していたモラル・サイエンス・クラブで、ジョージ・エドワード・ムーア(1873- 1958)が講演で提案し、1945年10月25日にウィトゲンシュタインが命名した日常言語上のパラドクス。
ムーアのパラドクスは、彼自身が講演したタイトルのように「Pである、しかしわたくしはPであるとは思わない」という形であらわされる言語表現 である。
このパラドクスの具体例には次のようなものがある。スミスは部屋を出ていったけど、わたくしはそうは思わない。この部屋には暖炉があるが、私は そうは思わない。
これは「スミスは部屋を出ていった。しかし、スミスは部屋に残っている」というような、論理矛盾をきたしているものではない。
ムーアのパラドクスは、論理矛盾はしていないが、受け入れ難いものである。したがって、ウィトゲンシュタインによると、それは言語の論理に挑戦 するものである。なぜなら、論理矛盾をおこさずとも、言語には使えないものがあるということである*。
これは、ウィトゲンシュタインをして、言語による厳密な論理よりも、日常の言語の使い方についての関心をもたらすことになったという。
さて、医療の現場ではムーアのパラドクスに出会う事例が多くある。「私はがん患者だが、自分はがんとは思わない」というものである。
また医療人類学では、パラドクスというよりも論理的な矛盾としてそのまま書名[著者本人は、論理的な命題と矛盾することについての実践的様態を 明らかにしたが、このような矛盾を認める患者のサブカルチャーの論理について考察を十分には行っていない]『病気だけど病気でない』という論文もある。
*[脚注]2つの文章からなりたつような無矛盾ではないが使えない言明は他にもあります。最も有名なのが、ノーム・チョムスキーの『統語構造 Syntactic Structures』1957に出てくる、Colourless green ideas sleep furiously. (色のない緑色の考えたちは、荒れ狂ったように眠る)というのがあります。これは、文法上は間違いがない[=構文は正しい]にもかかわらず、あり得ない文 [=意味論的にはナンセンス]です。ただし、この文章そのものは一文だけでナンセンスですが、ムーアのパラドクスは、ナンセンスではない2つの構文が、矛 盾をおこさないにも関わらず、完全におかしいという点で、チョムスキーの例文と全くおなじという意味ではありません。
[文全体に対する註釈]
ムーアは、カント流の倫理学、すなわち人間存在において「なになにである(be)」という事実から、「なになにすべきである(ought)」を 導くようなやり方を、自然主義的誤謬であると批判したその人です。ムーアのカント批判はこのページの引用者にとってはまったく妥当な主張であり、また、こ のページで指摘されているパラドックスに気づいたことも、さすが自然主義的誤謬を指摘した哲学者ならでは指摘であると思いました。(→自然主義的論法について)
これと類似しますが、全く異なった学問上の意義をもつ、ナンセンスな構文に, "Colorless green ideas sleep
furiously"(無色の緑の考えは荒れ狂いながら眠る)というのがあります。これは、ノーム・チョムスキーのものですが、ナンセンスだが文法的には
なんらおかしいものではないという事例にしばしば登場するものです。
文献
◆ 医療人類学辞典
Copyright 2007-2015, Mitsuho Ikeda
池田蛙 | 授業蛙 | 医人蛙 |