狂気を装う
On Disguising Crazy: A Prolegomena to civil right to become
insane
池田光穂
ごちゅ うい 以下の文章には、マスメディアでは一般的に使われなく なった卑語、ならびに しばしば〈言葉狩り〉 と表現すべきような社会的アクションの対象となる可能性のある用語が使われています。このような言葉による表現は、私の研究とそれに関心をもっていただけ る方に対して必要不欠な表現方法であると考えておりますので、これらの事情を了解した上で以下の文章をお読みください。このページのリンク先を含め、同じ 著作者のページに関する一般的な注意書きは〈はじめに〉をお読みください。また言うまで もなく、この文章の文責ならびに見解は作者にのみあります。文中に書かれてある作者以外のいかなる著者・いかなる団体の見解とも関係ありません。 |
私の講演(ないしは話題提供)は反精神医学の目的を実現するようなもの(=実践)ではありません。
1.ヘルダーリンの狂気偽装問題
2.正常中心主義の社会のなかで〈狂気〉を装うことのパラドクス
3.ミートホープの牛肉偽装問題
4.俺たちは本当に〈コミュニケーション〉しているのか?(ルー大柴風に……)
5.〈狂気〉はフィクションですよね、と言うときのリスク
6.〈狂気〉とくに野生の狂気の定義不能性
7.狂人にスティグマされない処世術(個人への処方を構成)
8.社会側の対策(社会の処方)
9.やっぱりマイルドな思想統制(マインド・コントロール)しかありませんなぁ〜!
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1. ヘルダーリンの狂気偽装問題 | ・
ヘルダーリンの発狂の偽装疑惑に関するピエール・ベルトーの所説[1981]を紹介する木村敏(『分裂病の詩と真実』1998)。しかしこの議論のなか
で、敏(びん)先生は枕=エピソードにして、自己および自己意識の哲学の議論をはじめる。そこには、なぜベルトーが、病跡学をふくめた、敏先生からみたと
ころのナイーブな連中が、このことについて熱中したのか、どうも興味がないようだ。 ・D.L.ローゼンハーンの実験(Science 179:250, 1973)の結果一般化すれば、狂気の診断が社会的意味をもつのは、その診断の中身ではなく、診断がもつ社会的な効果をもつからに他ならない。→〈ここ ろ〉と社会(080430kokoro.html) |
2.正常中心主義の社会のなかで〈狂気〉を装うことのパラド
クス |
・正常中心主義を定義する。 ・正常中心主義の社会では、狂人(=野生の狂気)は精神病患者(=飼い慣らされた狂気)として分類処理される。 ・この病人役割のうち——存在論的にはあり得ない定義だが——慢性的・固定的なものは、いわゆるタルコット・パーソンズの病人役割には準拠できるような取 り扱いとそうではないような、2種類の相反する取り扱いをうける。 ・準拠可能なもののひとつは、常人の社会行動の義務免除。そうでないものは、理性の圏外者としての〈責任能力〉の剥奪およびスティグマ。 ・宅間守(1963-2004)の汚辱に満ちた人生:想起することも嫌悪された人間の生の意味 |
3.ミートホープの牛肉偽装問題 |
偽りのコミュニケーションデザイン
(080617mio.html) ゴッフマンと情報公開とミートホープ事件(070712disco.html) |
4.俺たちは本当に〈コミュニケーション〉しているのか?
(ルー大柴風に……) |
イライザの「偽装」問題 イライザあるいはヴァーチャル・オードリー物語(070517eliza.html) イライザの父の怒り(070517elizasPadre.html) |
5.〈狂気〉はフィクションですよね、と言うときのリスク |
極端な認識論的相対主義者と思われる(=「こいつには誠実な
知的探求心がない」)。 極端な倫理的相対主義者と思われる(=「こいつは目的を達成するためなら阿漕な手段も使えると思う危ない奴」)。 怠惰な奴あるいは理性を逸脱した奴だと思われる: 「キチガイは自分がキチガイとは言わない奴のことである」(=病識がないという口語的表現)(派生問題:このことは「アホ言う奴がアホ や」という呪詛の論理を説明できるか?) |
6.〈狂気〉とくに野生の狂気の定義不能性 |
記号学者のU・エーコによる存在(essere)の定義不能
に関する議論を参照(『カントとカモノハシ』上) 正常が異常からしか定義できない(正常とは、異常がネガティブ——この時点で同語反復という文法違反——のことである)という社会的習慣 (ハビトゥス)は、狂気や異常の実在を信じ続ける以外に維持することができない。 我々は、異常がどこかに存在するという〈生活習慣病〉に罹患している。 Okey! でもそれだったら、我々は木村敏先生と同じ議論をしていることになるのでは? びん先生の腹話術で: 狂気のふりについて本当にあるとか、ないとかという次元の話をしている場合ではない。(意識にあらわれた知覚をもとに志向的意味を与え る存在者のはたらきである)「ノエシスがノエシス自身を、見ることが見ること自身を見うるための方法論(=メタノエシス:引用者)を模索しなければならな い」(『分裂病の詩と真実』42ページ)。 |
7.狂人にスティグマされない処世術(個人への処方を構成) |
(狂気が隠蔽できるものだと仮定して)スティグマを隠し、
〈常人〉を演じつづける。これを狂気のコントロールあるいは、緩解という。 事実しばしば「あんたそんなことしてたらアホ(苛烈な場合はキチガイ)と思われますよ」と諭すことがあり、それは周囲の人たちは患者に治療 (=社会生活ができるように介入する)をおこなっていることになる。 |
8.社会側の対策(社会の処方) |
反精神医学的な「社会的治療」としての医学の廃絶 ただしそれは禁じ手:ピュアーな方法として全体主義への道を開いてしまうので選択肢としては使わないほうがよい。 バイオダイバーシティで行こう!:〈ココロ〉と〈カラダ〉の存在様式の多様性を極度に容認する立場 ただしそのうち新自由主義手法にはジレンマもある。すなわち、生存競争を容認したり、生物多様性のみならず生存競争原理を外部から管理 できるという妄想(「DNAとったのでこの種は絶滅しても大丈夫。俺たちにはiPS*細胞がついている!」)にとりつかれる 「キチガイが排除されたのは、それが社会の役にたったからである」という歴史修正主義あるいは「悪い遺伝子を次世代に残すという罪悪感 を感じないのですか?」という優生学的誹謗の復活——遺伝子診断に関する議論をするとこの種のデータが豊富に収集できるが、分析には気が滅入るはず。 |
9.やっぱりマイルドな思想統制(マインド・コントロール)
しかありませんなぁ〜! |
完璧な社会を求める暑苦しい態度の放棄(バルタサール的反
省) 人類の知識と実践の限界性についてつねに観想する修道(尼)僧的態度 邪悪な想念は実行しないかぎり自己にむち打つ必要はなし 啓蒙の理性は(カラダに害のある防腐剤を使わないかぎり)内部から腐ってしまうという現実の直視 つまらないことに楽しみを見いだすオタク的好奇心の擁護 落胆する必要はない。どんなシステムでもほどけた部分があり、そこから変なものが飛び出し、世の中がぐちゃぐちゃになることがある。それま で And keep your powder dry ....(あんたの火薬を準備万端にしておけ)ということでしょうか |
余談
金融資本のグローバル化と科学技術の先端化に対する対策は、これらの領域にたいする文化人類学的研究による認識論的相対化と〈さまざな生き 方〉の可能態をクライエント(=読者)たちに提示してゆくことしか、現在のところ処方箋はないように、私はおもっている。自分自身が年寄りになり、日々感 じることであるが、(私よりも世代が)若い人たちには、年寄りの助言には半分しか耳を貸さないほうがよいと思っている。なぜなら、人生を半分以上使って残 り30パーセントしかない人間と、あと80パーセント[ただし潜在的可能性だが]残っている人間には、夢に投下する現実味の強度が全然違うからだ。年寄り からは、処世訓ではなく情熱だけをもらえばよい。
リンク
文献
その他の情報
*iPS : induced Pluripotent Stem cell