はじめによんでください

研究倫理ABC:「理解する」から「実践する」へ

Practicing Research Ethics without Stress: Farewell to politicizing Research Misconduct

解説:池田光穂

この講演の目的は、研究倫理の遵守(コンプライアン ス)に関するこれまでに試みられてきたいくつかの方法について再考することを通して、よき研究者である/よき研究者であろうとすることとは、どう いうこと か、ということを考えるものです。私に究極の妙案があるわけではありません。ただ多くの修正主義者の主張に類似して次の3つの道を模索してみたいと思いま す。つまり、(a)研究倫理における悪の構造的な、あるいは社会的な発生理由を考えてみよう、(b)悪の経験が正しく分析されることで「よき研究者であろ うとする」次の世代に貢献できる方途はあるのかについて考えてみよう、そして(c)どのような社会的道徳も理想とするのは「理解すること」と「行為するこ と・実践すること」の合致にあります。なるべく聴衆の皆さんには、小難しくならず、眠たくならず、また単純すぎて「ボク・ワタシ、そんなこと知ってるも ん!」という反応が出ないように工夫したいと思います。具体的なエピソードを多く交えて、退屈しないように講演を進めたいと思います。

1. 本日(2012年10月3日)はお招きいただきありがとうございました。招へ いのための連絡の労を取っていただいた薬理学教室教授・筒井正人先生、研究科長の須加原一博先生、また医学科長の石田肇先生、また研究科事務長、さらに御 来場の医学研究科の教員スタッフ、研究員ならびに研究科の大学院院生の皆様に厚く、そして熱く御礼申し上げます。

※この紋章はデカルトの「方法序説」から来ています!

※琉球大学医学研究科教授(微生物学・腫瘍学)による2003-2010年において行われたと思われる研究不正については文科省の「琉球大学医学研究科教 授の研究活動上の不正行為(ねつ造・改ざん)の認定について」にあります。
2. 本日は、研究倫理の堅苦しさや威厳をを伝えに来 琉(渡琉)したのではなく、大学における研究がもつ〈わくわく感〉や楽しさ、そして善行としての研究の社会的意義を皆さんにお伝えするために来ました。
3. はじめに、少し医学研究のパロディになります が、医学研究論文のスタイルに従って、私の講演の〈構造〉について解説しましょう。科学論文は以下のような構造からなると言います。

The Title and Author’s name
Abstracts
Introduction
Material and Method
Results
Discussion and Conclusions
Summaries
私の講演も、これに擬して進行して解説してみたいと思います。
4. まず、最初に講演の要約をお話します。私の言い たいことの全てがここに要約しています。

逆に言えば、途中で、私の言っている内容が難解であれば、この要約にもどって流れの本流をたどれば、どなたにも分かるような手がかりがあるかもしれませ ん。
研究者を縛る規則や法律のように〈倫理〉を考えている限り、人間の徳目である〈善〉は十分に活用されないまま埋もれてしまう。倫理は人間にとって空気のよ うなものであり、よい倫理は生存にとり不可欠だが自覚されることはなく、澱んだ空気(=悪業)はすぐに気づくが、やがて慣れてしまい、生命に危険なレベル まで気付かなくなる。
 より高い〈徳〉とは、清浄な空気(=善行)のように、人間の基本的ニーズであり、人が生まれながらに備わる能力のレパートリーのひとつである。悪の多く は構造的なものに起因し、経験主義的な善悪のエコノミーの観点からみると、ハイリスク・ノーリターンなものである。人間が生んだ高度に組織化された社会 は、さまざまな欠陥はあるものの(あたかも免疫機構に似て)悪を極小化するようにできているが、残念ながら、個々人の善を自動的に強化(エンハンス)する ようにはできていない。なぜなら、強化とは、高地トレーニングや酸素療法のように、当たり前(=自然)以上のことを人間に強いるからである。悪から学ぶだ けでなく、善行が自然に身に付くような環境(=構造、文脈)の整備が不可欠である。
5. イントロダクションに移ります

・私が皆さんにお伝えしたいことを、まず設問形式で3点。これらの設問に御自身で回答が与えられば、私のミッションは完了したも同様です。それだけで学習 〈効果〉があります。
・私がここにいることの釈明を、3つの審問と2つの教訓でお答えします。
6. 私がお伝えしたいことは、以下の3点にまとめら れます。
(1)なぜ、倫理事象をめぐるアリーナにおいて、医学・保健学領域がスキャンダルの温床になるのか? →答えられますか?
(2)そのようなスキャンダルに塗れずに〈平穏〉に研究・教育・実践(臨床)に携わることは可能か? →可能でしょうか?
(3)研究者(=ふつうの人)にとって〈善〉とはなにか?そして〈善〉は身に付けることができるのか? →定義した〈善〉を身に付けられますか?
7. さて、その問いにお答えする前に、私の趣旨を 違ったかたちで、これもやはり質問と応答のかたちで表現してみましょう。

まず、最初のQアンドAです。
・Q:なぜあなた(=私)はここに立っているのでしょうか?そしてなぜ私たち(=研究科の関係者)は席に座っていなければならないのでしょうか?

・A:研究倫理に関するFDだからです。2010年3月の論文不正問題が発端。以降、研究倫理教育を続けて本年は3回目にあたります。客観的に考えて、こ のような執行部の判断は全くよいことですが、回を重ねるごとに今後はマンネリズム(陳腐化)が危惧されます。
8. そして、次のQアンドAです。

・Q:ヘルシンキ宣言を読めば、あるいは患者の権利宣言を読めば、患者に優しい医療ができますか?

・A:できません。ヘルシンキ宣言や、患者の権利宣言が策定された、歴史的背景や文言の作成のプロセス、また時代的修正に関する〈背景〉知識がないと、そ れはたんなるお題目・お経(呪文)に過ぎません。優しい医療は、別の次元の問題。
9. この2つのQアンドAから、まず暫定的に得られる教訓はいったいなんでしょうか?

教訓:壱と弐

倫理綱要を外部から押しつけられる徳目とすると身に付きません。実践を通して身体化=習慣化することが大切です。
10. そして、最後になります、3番目のQアンドAです。

・Q:倫理的に正しいことを学ぶために、ここに来たのに、なぜ(やりたくもない)研究不正の話や手口を毎回(恒例行事のように)聞かされなければならない のですか?

・A:聞かされる必要はありません。研究倫理を学ぶことは、悪を為さないためにあるからです。悪は否定的判別事象(negative instance)すぎません。重要なことは、みなさんの善悪の弁別の陶冶(=自分で判断できるようになる)にあります。ただし、善行の話はすぐに眠たく なりますが、悪業の話は眼が覚めます。これが唯一の取り柄。
11. この3番目のQアンドAの教訓はなんでしょうか? それは……

教訓:参
不正から学ぶことは、十分な戒めにはなりますが、それだけでは人間の善意がもつ〈創造性〉を育むことができません。
12. 以上でイントロダクションは終わりました。ここ までで、何か質問はないでしょうか? なければ次に移ります。
次は、材料と方法です。
私の講演にいったい「材料と方法」などあるのでしょうか? それは、私自身のからだ(心と身体)です。
そして、その方法とは、私が「研究倫理」について学生・院生・そして先生方と一緒に対話することを通して、学ぶことが〈方法〉に他なりません。
つまり、私というものが、理解できて、これまでの、そしてこれからの〈研究倫理〉の理解の一助になることを考えてのことです。
 私の専門は医療人類学と臨床コミュニケーションです。海外調査はラテンアメリカを中心に20数 年のキャリアーがあります。また国内では神経生理学教室の 実験動物と人間の関係や、生命倫理学者との共同研究などがあります。
 文化人類学者の研究方法の常として、研究倫理を考える時の材料も、他の研究者の実践報告や科学社会学の理論を読んできた座学的知識と、自分の足で稼いだ 研究者とのインタビューや会話などが基礎となっています。
 研究倫理や臨床コミュニケーション教育に関しては、全米アカデミーの教科書を使ったり、オリジナルの事例集を使って大阪大学で大学院生との〈対話型の授 業〉をおこなっている経験をもとにしています。
この内容は以下のウェブページにあります。
◎研究倫理入門
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/101214R_Ethics.html
13. Resultsとして——

先の3つの設問について考えてみましょう。
質問を覚えてらっしゃいますか?
このスライドの6枚目に相当します。
14. (1)なぜ、倫理事象をめぐるアリーナにおいて、医学・保健学領域がスキャンダルの温床になるのか?

→Money, Moral, Power, and Structure (MMPS)
→研究費が他の分野に比べると大規模
→世間から道徳性を問われる職業
→世間から権能を付託されている
→専門性が複雑で内部者でも門外漢に
→自浄機能が上手に機能しない
15. (2)そのようなスキャンダルに塗れずに〈平穏〉に研究・教育・実践(臨床)に携わることは可能か

→可能だから、私はここにいます。
→ICと同様に、現在の私たちの倫理は過去の事故・逸脱・検討・反省・実証などの〈遺産〉に負っています。その負の遺産を有効活用することで、被害を極小 化できると思います。
16. (3)研究者(=ふつうの人)にとって〈善〉とはなにか?そして〈善〉は身に付けることができるのか?

→〈善〉とは社会的属性であり、個人に内在する[だけの]ものではなく、社会関係のなかで[も]体現されるものです。〈善〉は自分を犠牲にすることなく他 者に降り懸かる危害を極小化する、人間の行為上の理念です。我々は具体的な〈善〉を経験的に知っている以上、それが不可能だと断定することはできません。

→したがって逆説的ですが、本人の真意とは関係なく〈善〉が身に付いているように他者から判断されることが必要になります。
→ロビンソン・クルーソーが〈善〉を実現するためには、フライデーからそう判断される必要があり、それを可能にするためには、両者の間には相互承認(ヘー ゲル的な意味での)が必要なのです。
17. 善と徳について、ここで考えてみましょう。

・善と徳の使い分けは、good と virtue に対応しています。善を社会的属性としたのは外面的に観察や判断ができることを指します。それに対して徳は、日常的な使い方に従い、その人に内在する資質 のように理解します。しかし後者も、やはりその判断には外面的に観察や判断ができることに我々は頼らざるを得ないわけですので、こちらも行為に表出する社 会的属性と言うことができます。(→清浄な空気の比喩)
18. 研究倫理をまなぶ際に、悪(データの捏造、剽窃、改竄、これを研究不正の三悪と言います)から学ぶことは有効ですが、それだけでは人は善をなしません。

私の主張は、善きことをなしている人に、データの不正をいくら吹聴しても、リアリティのある学びは不可能であるということです。従って、悪から学ぶことに は、可能性もありますが、大きな限界もあるのです。
・村松秀『論文捏造』2006年、白楽ロックビル『科学研究者の事件と倫理』 2011年の衝撃!にも関わらず、ふつうの科学者にはよい読後感は得られな い。
・【効用】:天網恢々疎にして漏らさず(=捏造はハイリスク・ノーリターン)の教訓。「悪い手口を知ること」から反省材料を若干だが得ることができる。
・【弊害】:犯罪の常態化を知ることで逆にモラルハザードがおこる。万引きが発覚した子供が「なぜボクだけなんだ」と反論するように。悪の手口から学ぶこ との限界(戦記だけでは平和学の授業ができないように!)
19. 従って、悪から学ぶことには構造的な弊害があります。

・何をもって研究の倫理を動機付けるか?
・研究者の善行は、これまで言われてきたところによると(1)真理を追究するロマン、(2)人びとに善きことをなしたい夢、(3)純粋に知ることを喜ぶ無 垢な心に支えられてきた(Merton’s the CUDOS)。他方、研究者を悪業から見る視座は、専門職者の狭量・独占・権威主義から、偽悪的に表象されてきた嫌いがある(Ziman’s PLACE)
・こういう対比は、明らかに善悪を分かつマニ教的断定(=なんでも白黒はっきり二分割する発想)として、なんら生産的議論を生み出さない。
20. つまり、悪を体系的に取り締まることは、個人と組織の両面作戦で包囲するという方法があります。

・研究者の悪業が横溢するようになると、制度は2つの〈近代的装置〉を使って、悪を制圧するように試みました。
・ひとつは、研究者の一人一人に訴える〈倫理教育〉です。もちろん、その中には、善の徳目を教えるのみならず、悪を列挙して、劣情に訴え、それを抑止する という発想です。ただし、これは善を維持するためには悪が必要になる。供犠の羊を常に必要とするという問題があります。
・他のひとつは、監視・処罰・啓蒙が組み合わされた制度です。研究公正(research integrity)という発想はここに由来します。これは公正性の観点から評価・判定・処罰基準を標準化する、研究組織の一種の〈免疫機構〉のようなも のです。
21. さて、そのような悪を構造的に取り締まることにも、限界があります。

それを、近代の逆説理論というものから説明しましょう。
・第二次大戦終結前後から登場する「近代の逆説」理論なるものがあります。つまり近代化はよいこと以上の弊害をもたらし、我々はその処方せんを未だ持たず にいる(例:全体主義の台頭や冷戦構造の維持)という説です。この理論的構成を使うと、研究の捏造・偽造・盗用という三悪は、研究者の悪よりも、そのよう なことに手を染める誘惑を産み出す研究制度(MMPS)の好まざる副産物のほうがより大きな問題をはらむことになります。しかし、この説明は「罪人を憎む よりも罪を憎め」という説諭と同様、近代が、システムに巻き込まれながらも自律能力を持つ「責任のある主体」を生み出した、肯定すべき現象の意味を過小評 価するものです。
22. では、そのような環境におかれている、責任のある主体、つまり皆さんはいったいどんなことをおこなうでしょうか?

 では「責任ある主体」とは何でしょうか?

 それは言い換えると「責任を果たせる人間」ということです。責任は常に〈他者からの/他者への働きかけ〉から生まれます。
 つまり、他者からの働きかけ(=審問)には応答責任(responsibility)が、他者への働きかけ(=実践)には、それを自ら弁明する説明責任 (accountability)という2つのタイプの責任があります。
23. 我々は、悪がなす恐ろしさや、悪の制御不能の面に絶望することなく、人間がもつ善行をなす力にもっと関心をむけるべきです。

それを私は「驚くべき経験的事実」と称します。
しかしながら本当に近代の逆説という現象は横溢しているのでしょうか?
——もし人が誰も見ていなかったら研究者は捏造・偽造・盗用をもっと頻繁におこなってもよいはずです。人が周りの〈敵〉を自由に殺すことができれば—— ホッブズの危惧はそうでした!——人間なんてロトカ=ヴォルテラの方程式なしにとっくに死滅していたはずです。人間の歴史的経験は、我々の想像以上に、人 間が平和裏に道徳的に隣人との関係を築く能力をもつことを示しています。利他行動や善行に遺伝的根拠を求めようとする社会生物学や行動遺伝学は、そのよう な否定しがたい経験的事実への理論的説明への試みです。社会システム論なら、近代が準備した「責任ある主体」の形成が、その安全弁として機能したと主張す るかもしれません。近代は逆説ではなく二面性を持つのです。
24. 私がお伝えしたかったことは以上です。

繰り返しになると思いますが、以下の3つのことを学んできました。
(1)倫理事象をめぐるアリーナにおいて、医学・保健学領域がスキャンダルの温床になることは避けられない
(2)しかしながら、そのようなスキャンダルに塗れてもなお、その逆境を克服し〈平穏〉に研究・教育・実践(臨床)に携わることは可能である
(3)研究倫理教育とは、研究者(=ふつうの人)にとって〈善〉とはなにかを足元から考えることである。そして人間以上の能力を超えた〈徳〉を身に付ける ことを求めるのではなく、身の丈に合い、無理をしない=自然な〈善〉の修得について考えることである。
25. くどいようですが、最後に留めのまとめを、さらに3点!

 1.FD研修会「研究倫理」の3年目の節目にあたりを、これまでの不正行為を防止するための倫理の考察水準(Ver. 1.0)を超克するための方策を考えました。

 2.これからの研究倫理教育(Ver. 2.0)は、科学者の不正行為(捏造・偽造・盗用)の実態の解明と予防策の探究という後ろ向き原因探究(retrospective seeking for causality)だけでは、研究がもつ創発性や創造性と倫理実践の調和は期待できません。

 3.研究不正という躓きの石を、研究倫理 Ver. 2.0 発掘と発展という僥倖とするためには、琉球大学大学院医学系研究科の中に「生命倫理と医療研究倫理のためのナショナルセンター」設置を構想すべきだと考え ました(→「演者からの提案」を参考)。
26. 我々の偉大な先達の意見に耳を傾けてみましょう。和辻哲郎の1934年のことばです。ちなみに、この年の3年後に南京攻略のパロディである田川水泡の『の らくろ総攻撃』が描かれます。

「倫理学についていかなる定義を与えようとも、それは、問いを問いとして示すにすぎない。答えは結局倫理学者自身によって与えられるほかはないのであ る。……倫理的判断とは何であるか、人間的行為とは何であるか、倫理的評価とは何であるか。それは既知量として倫理学に与えられているのではなく、まさに 倫理学において根本的に解かれるべき問題なのである。だから倫理学とは何であるかを倫理学の初めに決定的に規定することはできない」
——和辻哲郎『人間の学としての倫理学』
(1934年=3年後には田河水泡『のらくろ総攻撃』が描かれた)
27. そして、最後は、琉球大学(あるいは、日本の他の国立大学でもいいのですが)の同士の皆さんに、私からの提案を差し上げます。

1.琉球大学大学院医学系研究科の中に「生命倫理と医療研究倫理のためのナショナルセンター(教育研究機関)」設置されることを提案をいたします。
2.財源は、学長裁量の人事ポスト(教授)と有期年限つきの特任教員(准教授・助教)を大学から拠出し、学振の「博士課程教育リーディングプログラム(オ ンリーワン型)」等の競争的資金の取得をめざし、また将来の人事ポスト返還後の恒常化を図るために、アウトカム成果を目論見、寄附講座化への転換も模索し ます。
3.現職の医療行政職を教育課程にリクルートするために医学系博士課程でも3年履修(MPHに相当)の飛び級修得可能な「本物の」資質能力強化プログラム を既存の研究科課程科目とカップリングします。
4.教育プログラムが軌道に載れば、医歯薬系の生命倫理学、医療倫理学ならびに研究倫理担当の教員の研修コース(サバティカルを含む)として開放し、国内 外の研究機関から受け入れます。このコースの維持のためには、奨学金基金受け入れや派遣元からの研修料の徴収など持続可能なコース運営を無理することなく 維持します。
5.医学研究科(とりわけ若手教員)のみならず全学からの教育と研究の支援態勢を仰ぎ、開講授業のおよそ1/3〜1/2は英語およびその他の外国語で運用 できるようにし、海外からの留学生にも多言語・多文化対応できるような体制づくりを努力します。
28. この講演の冒頭に、筒井先生から、スライドの飾りの絵柄はなんでしょうか?という質問を受けましたので、その種明かしです。

御静聴ありがとうございました!
池田光穂 rosaldo★cscd.osaka-u.ac.jp
このイラストは、ルネ・デカルト(1596-1650)のTraité de l'homme(1648年に執筆が終わっていたが異端審問を恐れて出版しなかった)が含まれる L’homme de René Descartes, 1664年の、該当部分の14ページの空白の中に埋め込まれたイラストです。この後に、眼球の筋肉とそれを動かす動物精気の働きを描く解剖図(XIX図= 邦訳では第3図) が登場します。エッチングの挿画のタッチからみて一連の解剖図の作者とは異なる書肆の作家の作品のようですが、詳細は不明です(→「人間機械論・再考」)。

(冒頭の再掲です)この講演の目的は、研究倫理の遵守(コンプライアン ス)に関するこれまでに試みられてきたいくつかの方法について再考することを通して、よき研究者である/よき研究者であろうとすることとは、どう いうこと か、ということを考えるものです。私に究極の妙案があるわけではありません。ただ多くの修正主義者の主張に類似して次の3つの道を模索してみたいと思いま す。つまり、(a)研究倫理における悪の構造的な、あるいは社会的な発生理由を考えてみよう、(b)悪の経験が正しく分析されることで「よき研究者であろ うとする」次の世代に貢献できる方途はあるのかについて考えてみよう、そして(c)どのような社会的道徳も理想とするのは「理解すること」と「行為するこ と・実践すること」の合致にあります。なるべく聴衆の皆さんには、小難しくならず、眠たくならず、また単純すぎて「ボク・ワタシ、そんなこと知ってるも ん!」という反応が出ないように工夫したいと思います。具体的なエピソードを多く交えて、退屈しないように講演を進めたいと思います。

〈長い要旨:あるは本文草稿〉

 この講演の目的は、研究倫理の遵守(コンプライア ンス)に関するこれまでに試みられてきた3つの方法について再考することを通して、よき研究者である/よき研究者であろうとすることとは、どういうこと か、ということを考えるものです。これら3つの方法とは、(1)何も考えずに「正しくやれ」と連呼すること、(2)悪事や失敗例から学ぶという反省的かつ 教訓的方法、(3)十分に設計もせず、話しあいやコミュニケーションが重要だとグループワークさせる近年流行のメソッド、です。私がその3つのすべてに不 満をもつのは、これらの方法が、研究における「悪の問題」を内在化したり、自分にも降り掛かるかもしれない可能性として考えたりする思考法を排除している ように思えるからです。その理由は、社会的な存在としての研究者のあり方を捨象し、悪の問題を個人の倫理や道徳に帰属させてしまうことにあるようです。つ まり、通常は機能している負のフィードバックが効かずに、悪が構造的に再生産されてしまう「社会的理由を、それ以降執念深く考えることを、我々はどこかで 抑圧してしまうのではないでしょうか。これは私たちに弊害をもたらす「心の習慣」にほかなりません。

 学生や大学院生は言うまでもなく、大学教員でさえ「研究倫理」のレクチャーを聞かされることは、苦痛ないしは退屈であるに相違ありません。それは子供に (猿でも知っているような?!)「よき道徳」を悪事の喩えから講釈するのと同じ反応をもたらすからです。すなわち「ボク・ワタシ、そんなことしないも ん!」と能天気な反応が戻ってきます。左様、その通りです。なかなか「良心の声」に抗って悪事に手を染める者は世の中、それほど多くありません。だからこ そ研究データの捏造や出入りする業者との癒着(いわゆる汚職)という悪事が露見した時には、そのインパクト(雑誌の名声や贈収賄の額面)が大きければ大き いほど、(元)同僚への処罰の厳しさに不平をいう者はいなくなります。ヨハネ福音書のイエスのごとく「あなたたちの中でたとえ軽微でもデータの加工をした ことのない者が、まず、この悪人に罵倒を浴びせなさい」と諭す研究科長や学長は、それほど多くはいないでしょう——否むしろ皆無かも知れません。研究機関 とて先陣をめぐる熾烈な争いがある以上、処分が下された(元)同僚に憐憫の情をかける暇もないでしょう。調査委員会のメンバーや研究倫理の専門家以外には それ以降、詳細に読まれることのない分厚い報告書が遺されるだけです。しかしながら、もし違反者に対する厳しい措置が行われ、本質的な悪人——つまり根っ からの罪人——を放逐して、研究の場が「完全に」浄化されるとすれば、なぜこれほどまでに悪事は幾度も繰り返されるのでしょうか? 

だからと言って(1) の方法のように、善なる教義=ドグマを日々暗記するほど唱えれば未来永劫に抑止できるわけでもありません。また(2)と(3)の方法を使って、自分が過去 に起こした軽微な悪事を吐露して、根源的に考えるなどは、宗教的な懺悔の方法であり、一度打ち明けてしまうと、その後の人間関係に不可逆で微妙な変化をも たらします。飽きもせず毎度毎度出てくる性悪説や病理の用語で片づけるのは「論点先取(begging the question)」と いう最も古典的な部類の誤謬というもので、一歩も前に進めたこと にはなりません。我々は「悪の問題」を内在化させつつも、悪事の分析に通じたらその真逆のことをやればよい、という単純な論理だけで処するのも問題があり ます。我々は、合理的な精神世界を生きているから、オッカムの剃刀のごとく「よき研究者である/よき研究者であろうとする」最短の途を探求すべきです。

 ここで、私に究極の妙案があるわけではありません。ただ多くの修正主義者の主張——一元論で考えずに相対的で部分的な真理を探究する折衷的なやり方をと る——に類似して次の3つの道を模索してみたいと思います。つまり、(a)研究倫理における悪の構造的な、あるいは社会的な発生理由を考えてみよう、 (b)臭いものに蓋という発想はもう終わりにしよう、罪を憎んで人を憎まず、処罰にきちんと服した人がノーマライズできる社会環境とは何か、そのような悪 の経験が正しく分析されることで「よき研究者であろうとする」次の世代に貢献できる方途はあるのか?(c)どのような社会的道徳も理想とするのは「理解す ること」と「行為すること・実践すること」の合致にあります。頭でっかちで行動を伴わない主張や、行っている行動に適切な言葉を与えられないことは、より 多くの賛同者を得ることに失敗します。日々の何気ない行動の積み重ねが、倫理的な理想にも叶うというのが、最もストレスの少ない到達目標にならないでしょ うか?

 なるべく聴衆の皆さんには、小難しくならず、眠たくならず、また単純すぎて「ボク・ワタシ、そんなこと知ってるもん!」という反応が出ないように工夫し たいと思います。具体的なエピソードを多く交えて、退屈しないように講演を進めたいと思います。それらが講演者にとっての聴衆に対する「倫理的目標」です が、その判定を出すのは果たして皆さん自身の「倫理的責務」になるでしょうか? これらの考察は、皆さんと共に実際にやってみないとわかりません。

ウェブページを整理しましたので、FDセミナーへの参加予定者は是非ごらんください。
研究倫理入門
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/101214R_Ethics.html
また、私の略歴や業績については、下記のウィキペディア(日本語)をご覧ください。

〈文献〉ヌスバウム『感情と法』河野哲也・監訳、慶 応義塾大学出版会、2010年

◎池田光穂(圧縮URL)
http://bit.ly/N5dTK5

人間にとっての真のケイパビリティとは?

【図】財・ケイパビリティ・機能の関係(神島裕子、 57ページより)[神島裕子「マーサ・ヌスバウム」Pp.67-71、中央公論新社、2013年]

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文献

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