デカルト
René Descartes, 1596-1650
René Descartes (1596-1650), by Frans Hals (1581?-1666)/ René Descartes, 1650s. Creator: Jonas Suyderhoef.
Works, from Wikipedia, René Descartes
1535 ゴンサーロ・フェルナンデス・ デ・オビエド・イ・ヴァルデス『ラス・インディアスの一般史と自然史』 (1535年)【スペイン人溺死実験】
1596 デカルト、アンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれ る。
「ルネ・デカルトは三月三十一日日曜日、トゥレーヌのラ・エに、法律家ジョアシャン・デカルトとその妻ジャンヌ・ブロシャール(旧姓)の第
三子として、生まれる。四月三日に、サン・ジョルジュ教会でカトリックの洗礼を受ける」
1597 ジャソヌ・デカルト・ブロ
シャール(旧姓)=ルネの母親が死亡
1604-12 イエズス会のラ・フレー シュ(La Flèche)学院に入学。アンジューのラ・フレーシュにあって、イエズス会によって運営される王立学院に通う。
1609
「ヨハン・ヴァン・ヴレン(ウレニウス)が、リュトゲンドルトムントに、かつてはカ卜リックで、ルター派に改宗した牧師の息子として生まれ る。ヴレンはライデンで医学を学び、アムステルダムで医師を開業したが、一六四五年以降女王クリスティーナの侍医の一人として、ストックホルムの宮廷に招 かれる」(ピース 2000)。
1610 六月四日、ルネ・デカルトは、 国王アンリ四世の心臓が、王立学院のイ工ズス会教会に埋葬される儀式に参加した
1611
ヴィレム・ピース(ピソ)がライデンにうまれる。彼は後に医学を学び1637年、ブラジルのナッサウ=ジーゲン公ヨハン・モーリッツ伯爵の 爺に任命される。1644年、侯爵とともにオランダに戻り、アムステルダムで開業医を営み、熱帯医学に関する二つの基本文献を著す。アムステルダムの医学 校の監督・学部長になり、1650年学友のヨハン・ヴァン・ヴレンから、デカルトの病気と死に関係する報告書を受ける。ピソは1678年に亡くなり、アム ステルダムのヴェステル教会でレンブラントの隣に埋葬される(ピース 2000:146)。
1614 La Flèche学院卒業、ポワティエ大学に進学(法学、医学)
1616 ポワティエ大学(University of Poitiers)法学士。11月9日、10日にポワティエの法学部でバカロレアと法学修士号を与えられる
1618 オランダに赴きナッサウ伯マウ リッツの軍隊に加わる。11月要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら 自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。
デカルトは、アルシャンジェの大叔母から、ポワトゥーのル・ペロンにある小さな領地を相続し、以後、ル・ペロンの人と名乗るようになる。オ
ランダで軍事訓練地。最初の著作『音楽提要』を著す。出版は1650年にユトレヒトでなされる。物理学者イサーク・ベークマンとの交友が始まる。
1618. Musicae Compendium. A treatise on music theory and the aesthetics of music written for Descartes' early collaborator, Isaac Beeckman (first posthumous edition 1650).『音楽提要』
1619 三十年戦争(1618-1648)が起こったことを聞い たデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。
1619
4-7月コペンハーゲン、ダンツィヒ、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、ボヘミアに旅行する。7-9月皇帝フェルディナンド2世の戴
冠式のために、フランクフルトに滞在。
10月「精神力のすべてをかけてこれから自分自身の生きる道を見つけようとウルム(Ulm)市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10 日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる」
1623-1625 ヴェネツィア、ロー
マを渡り歩く。メルセンヌを
中心として、亡命中のホッブズ(Thomas Hobbes,
1588-1679)、ピエール・ガッサンディなどと交流。
1626–1628. Regulae ad directionem ingenii (Rules for the Direction of the Mind). Incomplete. First published posthumously in Dutch translation in 1684 and in the original Latin at Amsterdam in 1701 (R. Des-Cartes Opuscula Posthuma Physica et Mathematica). The best critical edition, which includes the Dutch translation of 1684, is edited by Giovanni Crapulli (The Hague: Martinus Nijhoff, 1966).
1628 オランダ移住直前に、みずから
の方法について考察して『精神指導の規則』(未完)をラテン語で書く
1630–1631. La recherche de la vérité par la lumière naturelle (The Search for Truth) unfinished dialogue published in 1701.
1631-1632冬 アムステルダムで
生物学の研究と解剖を行う。記録は、ライプニッツにのみ残される(Excerpta
anatomica, Primae cogitaniones circa generationem animalium, Partes
similares et excrementa et morbi, ce dernier daté de 1631)
1630–1633. Le Monde (The World) and L'Homme (Man). Descartes' first systematic presentation of his natural philosophy. Man was published posthumously in Latin translation in 1662; and The World posthumously in 1664.
1632 ジャン・マビヨン(Jean
Mabillon,
1632-1707)、シャンパーニュ地方のサンピエルモンの農家に生まれる。
1633 ガリレイが地動説を唱えたのに 対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる(→『世界論』の公刊断 念)
1635 7月29日娘フランシーヌが
デーフェンターで洗礼。母親はヘレナ・ヤンス(家政婦)
1637. Discours de
la méthode (Discourse on the Method). An
introduction to the Essais, which include the Dioptrique, the Météores
and the Géométrie.『方法序説』ライデン。
写真は明星大学図書館所蔵の初版本、著作権は明星大学にありますのでそちらにお問い合わせください(https://bit.ly/3tYOI2Q)
1637. La Géométrie (Geometry). Descartes' major work in mathematics. There is an English translation by Michael Mahoney (New York: Dover, 1979).
1637年 『方法序説』出版。ユトレヒトのデネリによる紹介
1639年 デネリ死去。追悼演説でデカルト哲学への称賛。保守派ヴォエティウス(Voetium)神学教授、反デカルトキャンペーンを画 策、マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne, 1588-1648)に依頼。
Marin Mersenne, 1588-1648
1640 娘フランシーヌが死ぬ。
1641. Meditationes de prima philosophia (Meditations on First Philosophy), also known as Metaphysical Meditations. In Latin; a second edition, published the following year, included an additional objection and reply, and a Letter to Dinet. A French translation by the Duke of Luynes, probably done without Descartes' supervision, was published in 1647. Includes six Objections and Replies.『省察』パリ(翌年アムステルダム)
1642年 デカルト「R・D・ディネ師宛書簡」の出版(アムステルダム)
1642年3月27日アカデミー評議会議決
1642年8月執筆ヴォエティウス「驚くべき方法」
1643年 デカルト「ヴォエティウス宛書簡」の出版(アムステルダム)
1643年3月1日「ユトレヒト・アカデミーの証言」
6月23日「ユトレヒト市参事会の告示」
7月6日「デカルトからユトレヒト参事会への書簡」
9月23日「ユトレヒト参事会の判決」
1644. Principia philosophiae (Principles of Philosophy), a Latin textbook at first intended by Descartes to replace the Aristotelian textbooks then used in universities. A French translation, Principes de philosophie by Claude Picot, under the supervision of Descartes, appeared in 1647 with a letter-preface to Princess Elisabeth of Bohemia. 『哲学原理』(アムステルダム)
オランダに移住後にはじめてフランスを旅行する。フランス外交官ピエール・シャニュと親交をむすぶ(1649年のストックホルム宮廷への招
致の原因)
1644年1月22日「デカルトからフランス大使への請願書」
1645年 デカルト「ユトレヒト市参事会宛弁明書簡」
1645年4月20日「フローニンゲン・アカデミー評議会の判決」
1647. Notae in programma (Comments on a Certain Broadsheet). A reply to Descartes' one-time disciple Henricus Regius.
二度目のフランス旅行。クリスティーナ女王と、ピエール・シャニュの仲立ちで文通がはじまる。
1648. La description du corps humaine (The Description of the Human Body). Published posthumously by Clerselier in 1667.
1648. Responsiones Renati Des Cartes... (Conversation with Burman). Notes on a Q&A session between Descartes and Frans Burman on 16 April 1648. Rediscovered in 1895 and published for the first time in 1896. An annotated bilingual edition (Latin with French translation), edited by Jean-Marie Beyssade, was published in 1981 (Paris: PUF).
30年戦争の終結。
1649. Les passions de l'âme (Passions of the Soul). Dedicated to Princess Elisabeth of the Palatinate. 『情念論』(パリ)
1649
「スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る(1月〜2月)。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎 えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着」。クリスティーナへの献上するバレー台 本「平和の誕生」を書く。
オランダの画家フランス・ハルス(右端)による肖像画(53歳)※左のものが最初のオリジナルで右のものが描き直したものか?
1650 1月よりクリスティーナに進 講。
René Descartes, 1650s. Creator: Jonas Suyderhoef.
1650
ストックホルムの宮廷画家ダヴィッド・ベックが肖像画を描く(左のものが最初のオリジナルで右のものが描き直したものか?)。
2月11日デカルト死す(死因は風邪——インフルエンザの可能性もあ
る)——それに対して毒殺説を主張しているのがアイケ・ピース(2000)。
1650 ジャン・マビヨン(Jean Mabillon, 1632-1707)ランス大学付属の神学校に進学して神学と哲学を学ぶ(52年修士号)。
1653 8月ジャン・マビヨンは、市内のサン=レミ聖堂に移り、修道士になることを決意する。
1657. Correspondance (three volumes: 1657, 1659, 1667). Published by Descartes' literary executor Claude Clerselier. The third edition, in 1667, was the most complete; Clerselier omitted, however, much of the material pertaining to mathematics.
notes:
1658 ジャン・マビヨン、アミアン近郊のコルビー修道院(当時もっとも充実した図書館があった)に派遣さる。
1660 3月27日司祭に叙階(当時、典礼中に喀血し死を覚悟し、残りの人生を祈りと研究に捧げる決意をする)
1663 サン=ドニ大聖堂にて司牧。
サンドニは「フランスの歴代国王が戴冠式を挙げ、死後にはここに埋葬された。そのため、歴代国王にちなむ品物など多くの宝物が納められ ており、歴史に通じたマビヨンは修道院長よりその管理を命じられた。その頃、同じパリにあったサン・ジェルマン・デ・プレ修道院はサンモール学派の総本山 的存在として位置づけられており、そこの図書館司書であったジャン・リュク・ド・アシェリはベネティクト会の歴史に関する史料の収集・整理事業にあたって いた。アシェリはマビヨンの学識を知って彼をサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に移るように勧めた。1664年7月、マビヨンはサン・ジェルマン・デ・プ レ修道院に移り、アシェリの助手となる」ジャン・マビヨン(Jean Mabillon, 1632-1707)より
1663 スピノザ『デカルトの哲学原理(Principia philosophiae cartesianae)』
(→スピノザの人生と作品)
この書影はゲルハルト版による。
1664 1631-1632年冬の解剖 の記録の出版("Traité de l'homme")(→教養がもつ力とは?) (→「人間機械論再考」)
1666 デカルトの遺体、ブラレンス トームにより盗掘、サント=ジュヌヴィエーヴ修道院(サント・ジュヌヴィエ・デュ・モン)に移送埋葬。
1681 ジャン・マビヨンが、De Re Diplomatica を公刊する。
1698 ジャン・マビヨンが「著した『エウゼビウスのローマ書簡』(Eusebius Romanus)の中でローマのカタコンベの発掘で発見された遺体がきちんと鑑定されないまま、聖人の遺体と判断されて諸外国に送られていることに警鐘を 鳴らしたことから、1701年に禁書聖省から異端の嫌疑をかけられ、当該部分の修正を余儀なくされた。更に1687年以後、マビヨンをはじめとするサン・ モール学派が進めてきたアウグスティヌス全集編纂に対して、イエズス会はサン・モール学派の恩恵論が異端とされていたジャンセニスムの影響を受けていると いう言いがかりをつけてきたのである。そのため、1699年の全集編纂完了に際し、マビヨンは釈明となる序文を書かされることとなった。1701年、ロー マ教皇クレメンス11世は、アウグスティヌス全集の刊行とマビヨンら関係者の活動に祝福を与えた。このことがマビヨンに対するカトリック教会の高い評価を 意味するものとされ、反対派の中傷を鎮静化させる効果をもたらした」ジャン・マビヨン(Jean Mabillon, 1632-1707)より
1689 クリスティーナ死去(ローマ、
彼女はカソリックに改宗していた)。サン・ピエトロ聖堂に埋葬。
ca. 1690 Portret van René Descartes, by Cornelis A.Hellemans. 1687-1691. Rijksmuseum Amsterdam. 没後の版画
1691 デカルトの遺骨(頭頂骨)の記 録は誤りであることが明かされる。
1700 デカルトの頭蓋骨、スウェーデ ン商人オロフ・ボーンクの遺品の中から発見される。その後、スウェーデン内部で移動、相続される。
1791 デカルトの甥の息子が国民議会
で、「国会偉人殿堂」(のちのパンテオン)に埋葬されるべきと動議。
1792 フランス革命
サント=ジュヌヴィエーヴ修道院(サント・ジュヌヴィエ・デュ・モン)の閉鎖。
デカルトの遺体、サン・ジェルマン・デ・プレ教会に移送。頭蓋骨は、スウェーデン領内を転々とする。
1808 神学教授ベネディクト・ヤコ ブ・ベリクヴィスト博士論文「デカルトの頭蓋骨」ルントで公刊。
1821 デカルトの頭蓋骨が、解剖学教 授アンドレス・スパールマンの遺品の中からみつかり、発見した、ヨンス・ヤコブ・ベルツェーリウス教授 が、買い戻すことに成功。
1825
ベルツェーリウス教授は、パリのジョルジュ・キュヴィエ教授に、 スウェーデンの聖遺物窃盗を謝罪し、返還する。フランスアカデミー会長は、デカルトの骨を調査することを決定し、比較解剖博物館にその頭蓋骨を預ける。
キュビエ/Phrenological classification after Gall: Buffon
(left) and Descartes's skull./
1835 Gall, Franz Josef (1835). "On the Functions of the Brain and of Each of Its parts: With Observations on the Possibility of Determining the Instincts, Propensities, and Talents, Or the Moral and Intellectual Dispositions of Men and Animals, by the Configuration of the Brain and Head, Volume 1." Marsh, Capen & Lyon.
1878 比較解剖博物館の解散、デカル トの頭蓋骨は、パリの人類学博物館に移動し、現在までそこにある。
1912 Étienne
Gilson,
Index scolastico-cartésien, Franklin , 1912
1930 Études sur le rôle de la pensée médiévale dans la formation du système cartésien / par Étienne Gilson, Paris : Vrin , 1930
1993 フランス近代の反宗教思想 : リベルタンと地下写本 / 赤木昭三著, 岩波書店 , 1993.——その後のデカルト思想についての秀逸な著作
1.
17世紀のリベルタンとデカルト思想 |
||
1.1 序論的考察 |
||
1.2 17世紀前半の詩人たち |
テオフィル・ド・ヴィヨーとそのグループ |
|
1.3 人文学者リベルタン |
ラ・モット・ル・ヴァイエとガブリエル・ノーデ |
|
1.4 シラノ・ド・ベルジュラックの場合 |
||
1.5 17世紀後半のリベルタン |
||
1.6 17世紀末のリベルタン |
フォントネルを中心に |
|
1.7 結びにかえて |
||
2. 啓蒙前期の「哲学的」地下写本の世界 |
||
2.1 序論的考察 |
||
2.2 地下写本の主題の広がりと頻度 |
||
2.3 地下写本の諸体系 |
||
2.3.1. 『軍人哲学者』 |
理神論右派またはデカルト派理神論 |
|
2.3.2 『宗教の検討』 |
理神論中間派 |
|
2.3.3 『古代人の見解』四部作 |
理神論左派 |
|
2.3.4 『何事も信じない術』と『とらしゅブロスからのレウキッ
ペーヘの手紙』 |
懐疑主義的唯物論 |
|
2.3.5 メリエ司祭『覚え書』 |
デカルト派的無神論 |
|
2.3.6 『三人の山師論』と『ジョルダーノ・ブルーノ復活』三部作 |
自然主義的無神論 |
|
2.4 地下写本の思想傾向と主題 |
||
3. 結論 |
2010
In January 2010, a previously unknown letter from Descartes, dated 27 May 1641, was found by the Dutch philosopher Erik-Jan Bos when browsing through Google. Bos found the letter mentioned in a summary of autographs kept by Haverford College in Haverford, Pennsylvania. The College was unaware that the letter had never been published. This was the third letter by Descartes found in the last 25 years.[79][80]
notes; [79] Vlasblom, Dirk (25 February 2010). "Unknown letter from Descartes found". Nrc.nl. Retrieved 30 May 2012.[80].. (Dutch)" Hoe Descartes in 1641 op andere gedachten kwam – Onbekende brief van Franse filosoof gevonden"
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