はじめによんでください

スピノザの人生と作品

La Vida de Baruch Spinoza, ברוך שפינוזה, 1632-1677

池田光穂

このページは、スピノザの 思想に心酔し、スピノザの思想が彼の天才的な才能によって独自に開花したという愚かなエピゴーネンたちの「神話」を打ち砕き、ある一人の天才が、歴史的、 文化的、宗教的文脈の中で自分と自分の家族が置かれた状況を「よりよく生きるために」「自分の情念に忠実に生きた」帰結としての稀有な思想家の誕生の瞬間 とその思考的継続について考察するためのものである。

☆"Baruch Spinoza —también conocido como Baruch de Spinoza o Benedict, Benito o Benedicto (de) Spinoza o Espinosa, según las distintas traducciones de su nombre, basadas en distintas hipótesis sobre su origen— (Ámsterdam, 24 de noviembre de 1632-La Haya, 21 de febrero de 1677) fue un filósofo neerlandés de origen sefardí portugués, heredero crítico del cartesianismo, considerado uno de los tres grandes racionalistas de la filosofía del siglo XVII, junto con el francés René Descartes y el alemán Gottfried Leibniz. Hostigado por su crítica racionalista de la ortodoxia religiosa, su obra cayó en el olvido hasta que fue reivindicada por grandes filósofos alemanes de principios del siglo XIX. Según Renan, "Schleiermacher, Goethe, Hegel, Schelling proclaman todos a una voz que Spinoza es el padre del pensamiento moderno"( Ernest Renan (1877:6).)." - Wikipedia Baruch Spinoza

スピノザはポルトガル系セ ファルディ・ユダヤ人のオランダ人哲学者で、デカルト主義の批判的継承者であり、フランスのルネ・デカルト、ドイツのゴットフリート・ライプニッツととも に17世紀哲学の三大合理主義者の一人とされている。宗教的正統性に対する合理主義的批判のために嫌がらせを受け、19世紀初頭のドイツの偉大な哲学者た ちによって正当性が証明されるまで、彼の著作は忘却の彼方にあった。ルナンによれば、「シュライエルマッハー、ゲーテ、ヘーゲル、シェリングは皆、スピノ ザこそ近代思想の父であると声を揃えて宣言した」。

★"Wherefore the more we endeavour to be guided by reason, the less do we depend on hope; we endeavour to free ourselves from fear, and, as far as we can, to dominate fortune, directing our actions by the sure counsels of wisdom." PROP. XLV. Hatred can never be good. - Ethics by Spinoza

★それゆえ、理性によって導かれるように努めれば努めるほど、希望に頼ることは少なくなる。 私たちは、恐れから自らを解放し、できる限り運を支配し、知恵の確かな助言によって行動を導くように努める。

☆PROP. LXVII. A free man thinks of death least of all things; and his wisdom is a meditation not of death but of life; Proof.—A free man is one who lives under the guidance of reason, who is not led by fear (IV. lxiii.), but who directly desires that which is good (IV. lxiii. Coroll.), in other words (IV. xxiv.), who strives to act, to live, and to preserve his being on the basis of seeking his own true advantage; wherefore such an one thinks of nothing less than of death, but his wisdom is a meditation of life. Q.E.D.. - Ethics by Spinoza

☆命題 67-自由人とは、理性の導きのもとに生きる人のことである。証明-自由な人とは、理性の導きのもとに生きる人であり、恐怖に導かれることなく、善である ことを直接に欲する人であり、言い換えれば、自分自身の真の利点を求めることを基礎として、行動し、生き、自分の存在を維持しようと努める人である。証明 終わり.

真理=アレーテイアとは「隔離ないものとして現にそ こにある」——マルチン・ハイデガー『アリストテレスの現象学的解釈』(高 田珠樹訳、p.60)

著作略号

1)『知性改善論』TIE(TRE)
2)『神、人間、および人間の幸福に関す る短論文』KV(CT) 3)『デカルトの哲学原理』と『形而上学 的思想』PPD・CM 4)『神学政治論TTP 5)『エ チカEラテン語 6)『政治論(Tractatus Politicus)』 TP
7)『ヘブライ語文法綱要』CGH 8)『書簡集』 9)偽作と散逸
自然
無神論
コナトゥスあるいは力
The Philosophy of Benedictus de Spinoza.
スピノザと精液
幾何学 神学政 治思想 生涯と精 神=当時の記録 ヘブライ語文法=英訳
自 由 破門状 イデオロギー 心の健全さ (心身平行論) 身 体
汎神論と汎神論論争
カバラ思想
新スピノザ主義
デカルト主義
神学
政治学
精神分析(フロイト)
20世紀文学
精液
破門状
心の健全さ
無神論者
延 長をもつ実体
Spinoza’s Ethics 2.0










年 譜(詳細は、下記、オランダ政治事情=スピノザ=ガリレイを 参照のこと)

1391 スペイン各地でポグロム発生

1474 スペインで異端審問制度の創設(1649 -)

「カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚(1469年)レコンキスタの完了 (1492年)により、スペインに待望の統一王 権が誕生した。フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教 に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベル ソの存在が邪魔なものになっていた。フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。さら にフェルナンドはユダヤ人金融業者から多額の債務を負っていたため、もし金融業者たちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるという思 惑もあった。 フェルナンドはローマ教皇と親交を深めることで自らの王権を強化しようと考えていたが、同時に教皇の影響力を自国からできる限り排除したいとも思ってい た。異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すこ とになる。フェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。そこでスペイン において王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。 教皇は当然、世俗権力によって異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知し、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。そこでフェルナンドはさまざまな 方策を用いて、この許可を得ようとした。ここで活躍したのがスペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハであった。彼の奔走の甲斐もあって、1478年に教皇はしぶ しぶながらカスティーリャ地方以外においてのみ独自の異端審問を行うことを許可した。(これによってボルハ枢機卿は後年のコンクラーヴェで スペイン王の強 力な後押しを受けることができた。彼こそが堕落した中世教皇の筆頭にあげられるアレクサンデル6世である。) こうしてユダヤ教徒とイスラム教徒に狙いを定めたフェルナンドとイザベルによって異 端審問所の長官に任命されたのがトマス・デ・トルケマダである。そもそ も「異端」審問というものは、「キリスト教徒でありながら、正しい信仰を持っていないもの」を裁くためのものであり、ユダヤ教徒やイスラム教徒をその信仰 ゆえに裁く権利はなかった。しかし初期のスペイン異端審問所は、一旦改宗しながらユダヤ教、イスラム教の習慣を守るコンベルソ、モリスコを多く裁いた。 シクストゥス4世はセビリアから始められたスペイン異端審問がユダヤ人に的をしぼって行われていることに見かねて抗議したが、フェルナンド王が自らの支配 下にあるシチリア王国の兵力による教皇庁への支援打ち切りをほのめかして恫喝したため、引き下がらざるを得なかった。教皇としてフェルナンド王の行きすぎ た行動や見境のない処罰がキリスト教と異端審問の名を借りて行われていることを看過できず、スペイン異端審問を「ユダヤ人の財産狙いの行為である」と断言 している。「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧 的に臨んでい た。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅か し始めたのだ。教皇領とイタリア半島の安全はシシリア王国の軍事力によって保障されていた。シシリア王国の主でもあるフェルナンドはこれを対教皇折衝の切 り札としていたのである。教皇はフェルナンドの要求を飲まざるを得ない状況に追い込まれた。こうしてスペイン異端審問に教皇の正式なお墨付きを得たフェル ナンドは、教皇の干渉なしに自由に異端審問を利用できるようになった。1484年に 死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度に わたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。そもそも異端審問のシステムにお いては裁くのは 教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。拷問は自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。刑 罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。異端審問を受けた被告 の処罰はしばしば都市の広場で行われた。異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を人々に知らしめるものであった。」スペイン異端審問Tomás de Torquemada, 1420-1498

1492 レコンキスタの完了。カトリック両王によ るユダヤ人追放令の発布

1499-1500 フェルナンド・デ・ロハス(Fernando de Rojas)『ラ・セレスティーナ』(Tragicomedia de Calisto y Melibea) の発行

1511 『痴愚神礼讃』パリで上梓。

1528-1540 フランシスコ・デ・ヴィトリア(ビトリア)がサラマンカで特別授業をおこなう(→サラマンカ学派の嚆矢)

1533 オラニエ公ウィレム1世生まれる(1533-1584)

1556 カール5世(Karl V., 1500-1558)退位。ネーデルランドがスペインの支配下に入る。フェリッペ2世即位。

1566 ネーデルランド(アントゥルペン)カト リック教会の聖画を破壊する運動がおこる

1568 ネーデルラントの反乱。アントゥルペン制 圧。オラニエ公ウィレム(1533-1584)の蹶起(「80年戦争」)。

1572 

オラニエ公ウィレム1世が、ホラント州、ゼーラント州の総督となり、反スペイン勢 力の中心となる。これを受けて、スペインの迫害を受けていたプロテスタントの多くがこれらの州へ流入するようになる

1577 ウィレム1世は、 1577年にユトレヒト州、1578年にはアムステルダムを自らの陣営に加え、1579年にユトレヒト同盟を結成、反スペイン陣営をまとめあげる。間もな くアントウェルペンなどの主要都市も合流、1580年には残りの北部4州も合流した。一方で、ユトレヒト同盟の成立とほぼ同時期に、ネーデルラント南部の 諸州はアラス同盟を結成し、フェリペ2世に対して協調的な姿勢をとった。

1581 1581年、北部諸州は連邦議会におい てフェリペ2世の統治権を否定した。教科書的な記述ではこれを「オランダ独立宣言」と表現する場合が多いが、実際には「独立宣言」は存在しない。また、 「独立宣言」によりネーデルラント連邦「共和国」が成立したとされるが、北部諸州はその前年にフランス国王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たな 君主として招く決定をしているため、共和政への強い志向があったわけではない。君主就任を要請したアンジュー公はカトリック教徒だった」オラニエ公ウィレム1世

1579 ユトレヒト同盟(=各州に自治権があることに合意し、また信仰の自由を原則)により、ネーデルラント連邦共和国成立。

1588-59 父親ミゲル、ポルトガル南部で生ま れる

1596 René Descartes、生まれる

1606 レンブラント・ファン・レイン、ライデンにてうまれる。

1612 ウリエル・ダ・コスタの家族、ポルトガル から逃亡、アムステルダムに到達。

1614 アムステルダム市当局、ユダヤ人がアウデ ルケルクに墓地のための土地購入を許可(ナドラー 2008:296)

1616 ウリエル・ダ・コスタ『伝統に対する提 言』

1618 8月14日ラビ・レオン・モレラはウリエ ル・ダ・コスタを破門(ナドラー 2008:303)。

1618-1619 ドルトレヒト会議(Synod of Dort)で「ドルト信仰基準Canons of Dort, Dordtse Leerregels)」が制定される。

主流派:ゴマルス派、反レモンストラント派(レモンストラント派に対抗して後の呼称となる『神学・政治論』におけるスピノザが使った用語)。主流派は17世紀半ばまでには すでに準国教的な地位を占めていた(吉田2014:362)。

非主流派:アルミニウス派、レモンストラント派

ドルトレヒトの宗教会議(1618- 1619)

1623 アムステルダム・アアマド(理事会)によ る、ウリエル・ダ・コスタ『パリサイ派の伝統の検証』の草稿への《ヘレム》=反駁がおこなわれる。

1624 ウリエル・ダ・コスタ『パリサイ派の伝統 の検証』アムステルダムで出版。ダ・コスタへの逮捕と投獄ならびに、同書の焚書。

1626 スミルナ(現在のトルコ)でアシュケナー ジ、サバタイ・ツェヴィ(シャブタイ・ツヴィ, Sabbatai Zevi, 1626-1676)生誕。

1627 祖父イサク・デ・エスピノーサ死亡

1930年代 モルテイラ〈対〉アボアブ論争(ナド ラー 2008、第3章)

1932 8月29日 ジョン・ロックが、イングランドのブロムリーで生まれる


1632 11月24日バルーフ・スピノザ生まれ る。

(この日付は没年月日から生涯年44年2ヶ月27 日を逆算して推定されたもの)アムステルダムの富裕なユダ ヤ人の貿易商の家庭に生まれる。ラテン名ベネディクトゥス、ポルトガル名ベントー、ヘブライ名バルーフ。父:ミカエル・デ・スピノザ、母:ハンナ・デボラ

メナッセ・ベン・イスラエル (MANASSEH BEN ISRAEL ca.1904-1657), El Conciliador 出版。


1637 ユダヤ人居住区に学校が設立される。

1938 11月5日母アンナ(ハンナ)・デボラ死 去

1639 

メナッセ・ベン・イスラエル (MANASSEH BEN ISRAEL ca.1904-1657),『ニシュマト・ハイム(生命の息 吹, Nishmat Hayyim)』執筆:創世記の瞬間に関 する釈義書(1924年にはじめて出版)

律法学院に入学(授業はスペイン語)。ラビ・サウル・レビ・モルテイ ラ、およびラビ・マナー・シェ・ベン・イスラエルに師 事。

1639-1675 エスノガ(シナゴーグ)の建 設。

1640 ウリエル・ダ・コスタ、タルムード・トー ラー会衆による鞭打ちと足踏みの刑。その後のダ・コスタのピストル自殺。

1641 継母エステル来嫁。

1644 

デカルト『哲学原理』 Principia philosophiae, 出版

1645-1646 律法学院での勉学を終えて、モーゼス・マイモニデスMōšéh ben Mayimōn, 1135-1204)やカスダイ・クレスカス(1340-1410?)に親しむ。

1648 シャブタイ・ツヴィの最初の発作がはじま る(スミルナ)

1649 兄イサクが死去、家事を手伝うようにな る。

1650 ルネ・デカルト、ストックホルムで客死。

1653 ファン・デン・エンデン(Franciscus van den Enden, 1602-1674)経営のラテン語学校で学び始める。

1654 (22歳)

父ミゲルの死亡により弟ガブリエル(アブラハム) とデ・スピノザ商会を継ぐ(「ベントー&ガブリエル商会」)。ユダヤ法を学ぶ。相続をめぐり、妹レベッカと係争、裁判になる。ファン・デン・エンデンの娘 クララ・マリア(12歳前後)に求 婚するが断られる。クララ・マリアは、17年後にテオドール・ケルクリングと結婚する。("Shortly after the marriage of his oldest daughter Clara Maria with Theodor Kerckring (also written as 'Kerckrinck') in 1671, Van den Enden moved to Paris, where he opened another Latin school. " - Franciscus van den Enden.)

甥のBenjamin de Casseres は、クラサオ(キュラソー)に移民とあるので、レベカの息子だろう。 (Wim Klooster 2001:365)[出典:The Jews and the expansion of Europe to the west, 1450 to1800 / edited by Paolo Bernardini and Norman Fiering]

1655 レンブラント『屠殺された牛』


1656 

7月27日にアムステルダムのユダヤ人共 同体からヘーレム(破門・追放).(→「スピノザに対する破門状(原文)」)。モルテイラによる尋問。 破門後に「ユダヤ教会離脱に関し身の証をたてるための弁明書」を執筆

破門により律法学院の卒業者名簿から削除される (右側下から4番目)。商会の経営権を弟に譲る(破門が原因で商売が困難になる?)。

アウデルケルクに移住するが、その後行き先不詳 (〜1660年)

1657 

この年の行状不詳。(この頃、結核に罹患 したと推測されている)

11月、メナッセ・ベン・イスラエル死去。

1658 

「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」をラテ ン語?で執筆する。蘭訳のみ存在(1810年に発見)

1660 

サウル・レビ・モルテイラ死去。

1660-1661 

アムステルダムを離れて、ライデン郊外の寒村、ラ インシュヴュルフ(Rijnsburg) に移住。レンズ磨き職 人になる。

コレギアント派と親しくまじわる。コレギアント (collegianten)は、厳格派カルビニズムに反対し、信仰の自由を標榜する俗人集団で、かつ神秘主義的傾向をもつ。


神・人間及び人間の幸福に関する短論文』 Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand

1661年頃、『知性改善論』執筆はじまる——後 半部に加筆しようとしていた形而上学編が『短論文』の改作で充てようとしていたが、それも叶わず後の『エチカ』に繋がるという(畠中 2006:7)。

1661

8月16日【書簡】オル デンブルグからスピノザへ(HENRY OLDENBURG 2 TO B. DE SPINOZA.)

9月【書簡】スピ ノザからオルデンブルグへ(SPINOZA TO OLDENBURG

9月27日【書簡】オル デンブルグからスピノザへ(OLDENBURG TO SPINOZA

このころ、レンブラント、破産しオランダの貧民街であるヨルダーン地区ローゼンフ ラフトの街に転居し、以降、同区のユダヤ人をモデルにする作品が増える。

知性改善論執筆、「哲学」と称する草稿に着手、の ちのエチカの第一部。

1662 

ボイルと硝石に関して論争;『知性改善 論』Tractatus de Intellectus Emendatione

1662年末には、『エチカ』第一部の主要部分は 完成か。

1663 

この年の4月下旬ごろ、デン・ハーフ郊外のフォー ルビュルフ(Voorburg)に移転。 エチカの執筆開始 か?——シモン・デ・フリースは、エチカの原稿に関して、弟子たちとの意見交換会(講読会=コレギエン)の話を伝える(畠中 2006:7-8)。

"Philosopher Baruch Spinoza lived in Voorburg from 1663 to 1670. In Voorburg, Spinoza continued work on the Ethics and corresponded with scientists, philosophers, and theologians throughout Europe. He also wrote and published his Theological Political Treatise in 1670, in defense of secular and constitutional government, and in support of Johan de Witt, the Grand Pensionary of the Netherlands, against the Stadtholder, the Prince of Orange." - Voorburg.

暮れに最初の著作『デカルトの哲学原理(Principia philosophiae cartesianae』を実名(下記を見よ)で出版;『形而上学的思想』Cogitata metaphysica.は、その附録とされる。イェレスが出資、リーウェルツが出版。 

1664 

ヤン・デ・ウィット(Jan de Witt, 1625-1672.08.20)と親交(オルデンブルグ宛書簡 参照)。バリングが『デカルトの哲学原理』をオランダ語に翻訳

12月12日付 ドルドレヒト(Dordrecht)の穀物仲買人ウィレム・ファン・ブレイエンベルグ(WILLIAM DE BLYENBERGH)より最初の私信(31/18)

ガブリエルは商会の経営権を他人に譲り、バルバド スに移住。

ドルトレヒトの眺め、アルベルト・カイプ画と、ドルトレヒトの宗教会議(1618- 1619)

1664-1665 ヨーロッパ全土での腺ペスト の流行。1664年大彗星。

近所に住む、ホイヘンスとの親交。ヤン・デ・ ウィットと知己に。

1665 

『エチカ』の執筆を中断、『神学・政治論』の執筆 にとりかかる(同年3月のブレイエンベルフ宛書簡23, 28)。同書簡には『エチカ』4部定理37の備考に相当するものがある(畠中 2006:8)。この動機は、オラニエ家とつるんだカルビニストを牽制し、デ・ウイットを擁護の目的もあった。

PROPOSITIO XXXVII. Bonum, quod unusquisque, qui sectatur virtutem, sibi appetit, reliquis hominibus etiam cupiet, et eo magis, quo maiorem Dei habuerit cognitionem.

6月3日 ブレイエンベルフ宛の最後の書簡(38[旧27])1665 年6月3日付で「倫理学は……、形而上学と物理学の基礎の上に立つべし」と述べる(→「倫理学と美学はひとつ」)。


6月バウメーステル宛書簡(28)には、第3部定 理80まで送ることにしたと記す。第3部は定理59までしかないので、定理4にまで進んでいた可能性。

『エチカ』は1665年の前半でほぼ完成していた (畠中 2006:8)。

Nadler, Steven M., Think least of death : Spinoza on how to live and how to die. Princeton University Press,2020.

"Summary: "The seventeenth-century Dutch-Jewish philosopher Baruch Spinoza has long been known - and vilified - for his heretical view of God and for the radical determinism he sees governing the cosmos and human freedom. Only recently, however, has he begun to be considered seriously as a moral philosopher. In his philosophical masterpiece, the Ethics, after establishing some metaphysical and epistemological foundations, he turns to the "big questions" that so often move one to reflect on, and even change, the values that inform their life: What is truly good? What is happiness? What is the relationship between being a good or virtuous person and enjoying happiness and human flourishing? The guiding thread of the book, and the source of its title, is a claim that comes late in the Ethics: "The free person thinks least of all of death, and his wisdom is a meditation not on death but on life." The life of the free person, according to Spinoza, is one of joy, not sadness. He does what is "most important" in life."

"From ... Steven Nadler, an engaging guide to what Spinoza can teach us about life's big questions In 1656, after being excommunicated from Amsterdam's Portuguese-Jewish community for "abominable heresies" and "monstrous deeds," the young Baruch Spinoza abandoned his family's import business to dedicate his life to philosophy. He quickly became notorious across Europe for his views on God, the Bible, and miracles, as well as for his uncompromising defense of free thought. Yet the radicalism of Spinoza's views has long obscured that his primary reason for turning to philosophy was to answer one of humanity's most urgent questions: How can we lead a good life and enjoy happiness in a world without a providential God? In Think Least of Death, .. Steven Nadler connects Spinoza's ideas with his life and times to offer a compelling account of how the philosopher can provide a guide to living one's best life. In the Ethics, Spinoza presents his vision of the ideal human being, the "free person" who, motivated by reason, lives a life of joy devoted to what is most important-improving oneself and others. Untroubled by passions such as hate, greed, and envy, free people treat others with benevolence, justice, and charity. Focusing on the rewards of goodness, they enjoy the pleasures of this world, but in moderation. "The free person thinks least of all of death," Spinoza writes, "and his wisdom is a meditation not on death but on life." An unmatched introduction to Spinoza's moral philosophy, Think Least of Death shows how his ideas still provide valuable insights about how to live today." - Nielsen BookData.

この年、シャブタイ・ツヴィは、エルサレムで破 門。エルサレムから姿をくらます。アムステルダムにも噂が広まる。

1666 9月シャブタイ・ツヴィは投獄され、イス ラム教に改宗。サバタイ・メシア運動は終焉する。

1667 ブレダの和平により、第二次英蘭戦争終 結。

1668 

ヤン・デ・ウィット、フランスの侵攻に備え、イギ リス・スウェーデンと三国同盟締結。ウィレム3世の総督就任を禁じる。

知人のクールバッハ(1633- 1669)、無神論著作を出版した咎で10年の禁固刑(1669年秋に獄中死)

9月以降か?ハーグに移住(ハーグはネー デルラント連邦があった)。

1669 10月4日レンブラント、アムステルダムで死す。西教会(Westerkerk) に埋葬。

Nadler, Steven M., Rembrandt's Jews. University of Chicago Press,2003.

"There is a popular and romantic myth about Rembrandt and the Jewish people. One of history's greatest artists, we are often told, had a special affinity for Judaism. With so many of Rembrandt's works devoted to stories of the Hebrew Bible, and with his apparent penchant for Jewish themes and the sympathetic portrayal of Jewish faces, it is no wonder that the myth has endured for centuries. Rembrandt's Jews puts this myth to the test as it examines both the legend and the reality of Rembrandt's relationship to Jews and Judaism. In his elegantly written and engrossing tour of Jewish Amsterdam—which begins in 1653 as workers are repairing Rembrandt's Portuguese-Jewish neighbor's house and completely disrupting the artist's life and livelihood—Steven Nadler tells us the stories of the artist's portraits of Jewish sitters, of his mundane and often contentious dealings with his neighbors in the Jewish quarter of Amsterdam, and of the tolerant setting that city provided for Sephardic and Ashkenazic Jews fleeing persecution in other parts of Europe. As Nadler shows, Rembrandt was only one of a number of prominent seventeenth-century Dutch painters and draftsmen who found inspiration in Jewish subjects. Looking at other artists, such as the landscape painter Jacob van Ruisdael and Emmanuel de Witte, a celebrated painter of architectural interiors, Nadler is able to build a deep and complex account of the remarkable relationship between Dutch and Jewish cultures in the period, evidenced in the dispassionate, even ordinary ways in which Jews and their religion are represented—far from the demonization and grotesque caricatures, the iconography of the outsider, so often found in depictions of Jews during the Middle Ages and the Renaissance. Through his close look at paintings, etchings, and drawings; in his discussion of intellectual and social life during the Dutch Golden Age; and even through his own travels in pursuit of his subject, Nadler takes the reader through Jewish Amsterdam then and now—a trip that, under ever-threatening Dutch skies, is full of colorful and eccentric personalities, fiery debates, and magnificent art."- Nielsen BookData.

1670 38歳

年頭に『神学・政治論』 を偽の出版地(ハンブルグ)、偽名の出版社、偽名の著者で公刊。出版当初から著者の特定はなされていたという。以降、禁書になるなど危険な書物として認 定。出版早々に、ヤコープ・トマジウス(1622-1682)が、最初の書評を、ライプツィッヒ大学の授業案内で「無神論と紙一重の自然主義」であると紹 介する(吉田 2014:370)。トマジウスはライプニッツの指導教員。(→「ス ピノザの自由の概念」「『政治神学論』について」)

6月末 アムステルダム教区による『神学・政治論』非難決議、オランダ各地での改革派教会の非難決議(吉田 2014:372)。

1671 イェレス宛書簡。10月ライプニッツと文 通開始

1672 

6月議会派のヤン・デ・ウィットも同書『神学・政治論』に嫌悪感を表明(吉田 2014:372)。

「(ルイ14世の)フランス軍20万がオランダに 侵攻 し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダの大半が占領され、アムステルダ ムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世(1650 -1702)の総督(=総督派)就任と共和政府(=議会派)の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任、共和政府=議会派のヤン(ヨハン)・デ・ウィットとその兄コルネリス・デ・ウィット(Cornelis de Witt, 1623-1672.08.20)が暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した」ウィ リアム3世=イングランド王

8月クーデターによる政権交代(ウィレム3世の総 督時代:1672 - 1702)。改革教会主流派に近い「総督派」が権力掌握。『神 学・政治論』がさらに危険視される。

The mutilated corpses of Johan and Cornelis de Witt, hung on the stake on the Groene Zoodje in The Hague, 20 August 1682.

これにスピノザは抗議して"ULTIMI BARBARORUM"の抗議文を貼り付けようとするが、下宿の主人(ファン・デル・スピック)にとめられたエピソードがある。

1673 41歳

2月プファルツ(ファルツ——エリザベートの実 兄)選帝侯からハイデルベルク大学教授 に招 聘されるが、3月固辞。

ユトレヒトにフランス占領軍司令官コンデ(Louis, Grand Condé, 1621-1686)を訪問するが果たせず。

『神学・政治論』第三版が刊行されるが、メイエル 『聖書の解釈者としての哲学』が同時に合本されていた。

1674 

7月19日匿名で出版した、『神学・政治論(Tractatus Theologico-Politicus)』 をオランダ法院が禁書に指定。ホッブス『リヴァイアサン(1651)』、メイエル『聖書の解 釈者としての哲学』も同様に禁書。『神学・政治論』はその後も地下出版されるが、1970年の版型を使い執拗に販売されつづけていた(吉田 2014:376)。

フランス軍はオランダより引き上げる。

1675 43歳

『政治論』(畠中訳では「国家論」) Tractatus Politicus(〜1676)の執筆開始。未完。(→Spinoza_TP_Latin_English.pdf  ※パスワードはcscd)

Titlepage of Baruch Spinoza's Tractatus Politicus in the Opera Posthuma, 1677

『エチカ(Ethica, ordine geometrico demonstrata)』の実質的完成。しかし前年の『神学・政治論』禁書事件で公刊を自粛——オルデンブルグ宛書簡(7月[喪失]とその返書62)。 ライプニッツにあてた書簡では、エチカの内容を口外しないように念を押す(畠中 2006:9)。

『神学政治論』の注釈を執筆。『ヘブライ語文法』 『虹の計算』『偶然の計算』を執筆。モーセ五書のオランダ語訳を計画。亡くなるまで『政治論』に傾注。

同年、『エチカ』出版の打診のためにアムステルダ ムに逗留。

1676 

秋ライプニッツの訪問。パリからの帰還途中にハー グに寄り、2ヶ月逗留した。エチカの草稿をみていると推察されるが、のちライプニッツは訪問の事実すら否定する。

1677 

2月11日にハーグの下宿にて、バルーフ・デ・スピノザが死去(44歳3ヶ 月)

2月25日 埋葬

『ヘブライ語文法綱要』Compendium grammatices linguae hebraeae[英訳:BSpinoza_HebrewGrammar.pdf] 未完)in Opera posthuma. が、未完のまま遺される。


「エチカ」を含む、遺稿集 Opera posthumaの 公刊(翌年発禁)収載されたのは、同1677年11月[Four of these are well known:(1) the Ethica, (2) the Tractatus Politicus, (3) the Tractatus de Intellectus Emendatione, and (4) the Epistolae (letters by Spinoza to correspondents, expounding aspects of his philosophy). The fifth and final work of the Opera Posthuma is a grammar of the Hebrew language, (5) Compendium Grammatices Linguae Hebraeae.] Benedictus de Spinoza (1632-1677), Jarich Jelles (ca. 1619-1683), Lodewijk Meijer (1629-1681) - Baruch Spinoza, Opera posthuma, J. Rieuwertsz, Amsterdam 1677

"On 23 September 1677, it was handed over to the Roman Holy Office by Spinoza's former friend Niels Stensen (Nicolas Steno, 1638-1686) who had converted to Catholicism in 1667. Thus, it predates the publication of the Opera Posthuma, which is dated 1677, but which did not in fact appear until the first months of 1678. Recent research and fresh documentation allow us to determine the several stages of the manuscript's life before it reached Rome, where it was kept in the Archive of the Holy Office, and subsequently, transferred to the Vatican Apostolic Library, in 1922. " - Leen Spruit, Pina Totaro, The Vatican Manuscript of Spinoza's Ethica, Leiden, Boston, 2011.

Portrait of Nicolas Steno (1666–1677).

1678 遺稿集 Opera posthumaの発禁。

1685 クラサオでのユダヤ人人口が増大する (1950年代からはじまった移民の自然増とオランダからの移民、マルチニークからの再移民)(Wim Klooster 2001:353)[出典:The Jews and the expansion of Europe to the west, 1450 to1800 / edited by Paolo Bernardini and Norman Fiering]

1689 英国・名誉革命

1690-1692 Principia philosophiae: of beginselen der wysbegeerte [and other works].With:(2) Meditationes de prima philosophia of Bedenkingen van d'eerste wysbegeerte [and other works].(3) Proeven der wys-begeerte; ofte Redenering. Om door bequame middelen de reden wel te leiden [and other works].(4) Brieven, aan veele hoog-geagte personen, van verscheyde ampten, geschreven. Amsterdam, Jan Claesz ten Hoorn, 1690-1692. 4 volumes. 4to. With an engraved frontispiece and engraved portrait of the author in volume 1, and about 200 woodcut diagrams and other illustrations (including about 5 full-page) plus repeats. Contemporary and largely uniform blind-tooled vellum.

1693 RECHTZINNIGE THEOLOGANT, OF GODGELEERDE STAATKUNDIGE VERHANDELINGE. UIT HET LATIJN VERTAALT. [THE ORTHODOX THEOLOGIAN OR THEOLOGICAL-POLITICAL TREATISE; TRACTATUS THEOLOGICO-POLITICUS]

1721 この年まで、ホラント州条例は、ユダヤ人 の葬列はオランダ改革派(カルヴァン派)の教会を通る毎に通行税を払う義務がある(ナドラー2008:295)

1780 7月5日

リード リヒ・ハインリヒ・ヤコービ(Friedrich Heinrich Jacobi, 1743-1819)は「ヴォルフェンビュッテルに尊敬するゴットホルト・エフライ ム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)を訪ね, 6日・ 7日の両日対話をした.その折,ゲーテの頌歌 Prometheussを,作者名を告げずに, レッシングに見せた. これをきっかけに,ヤコービはレッシングがスピノチストであることを確信した.翌7日にも,その話題が続き,レッシングは「スピノザの哲学以外にいかなる哲学も存在しません」と言い, 「あなたもむしろ完全にスピノザの友人になりなさい」と勧めるほどであった.二人は激論し, レッシングはスピノチストであることを,ヤコービは「スピノザは無神論者」であることを主張し て譲らなかった.その半年後の1781年2月15日にレッシングは他界する.」(芳原 1998:412-413)(→汎神論論争)。

「ヤコービ(1743-1819)との対話におい て,レッシング(1729-81)が〈一にして全〉を支持したことにより,「スピノザ主義者」であることを告白した。汎神論的立場を表すスピノザ主義を標榜することは(当時は)無神論者と見なされかねなかった。 レッシングの死後,ヤコービがモーゼス・メンデルスゾーン(1729-86) に「レッシングはスピノザ主義者だった」と書き送った。それに対しレッシングの友人であったメンデルスゾーンが異論を呈し,「レッシングはスピノザ主義者 だったのか?」,さらに「スピノザ主義とは何か?」という問題へ発展していった」https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB26083172.

1785 リード リヒ・ハインリヒ・ヤコービ『スピノザの学説に関するモーゼス・メンデルスゾーン氏宛書簡』出版し、ヤコービと、カント、ハーマン、ヘルダー、 ゲーテらが論争に加わる(邦訳題「スピノザの学説に関 する書簡」)。

1791 「20歳の学生だったヘーゲルはヘルダー リンとともに『スピノザ書簡(1785)』を読み、1791年2月12日のノートには汎神論論争のスローガンでもあった「ヘン・カイ・パーン(一にして 全)」と書き付けている[1]。」

1802-1803 ドイツ・イェナで『スピノザ全 集』が刊行される。

1810 「神・人間及び人間の幸福に関する短論 文」(蘭訳)が発見される。

1894 リュシアン・レヴィ=ブリュル『ヤコービの哲学』公刊。

1918 大正7年:小尾範治(1885- ?)『ス ピノザ哲學大系(エチカ)』岩波書店。本邦初のエチカの全訳。Otto Baensch のドイツ語版からの翻訳(宮永 2014:220)

c1920 Der Teologish-Politisher Traktat. Published by Farlag M. Jankovsky no date c 1920, New York, 1920, 375 pp. Text is in Yiddish

1922 

ウィトゲンシュタイン、英独対訳版『論理哲学論考 (Tractatus Logico-Philosophicus)』を出版(→ウィトゲ ンシュタイン

The draft of "Ethica" "was kept in the Archive of the Holy Office [of the Vatican], and subsequently, transferred to the Vatican Apostolic Library, in 1922." - Source.

1923

the Tractatus Theologico-Politicusの最初のイディッシュ語版"DER TEOLOGISH-POLITISHER TRAKTAT "が出版される。Der Teologish-politisher Traktat. Volständig übersetzt durch N. Perlman (Perelman). New York, Farlag M. Jankowitsch, (1923). Orig. blue cloth, black lettering. X, 375 pp. Owner's stamp on title. EUR 100.-- ~First complete Yiddish translation of Tractatus Theologico-Politicus.

Di etik. Yidish: W. Natanson. Warsaw, Kultur-Lige, 1923. Orig. cloth, slight wear to edges. 320 pp. incl. portrait. Name on title. Foldingmarks in portrait. EUR 150.-- ~First Yiddish translation. William Nathanson, Kiev 1883, emigrated to the US about 1903. According to Nathanson Spinoza and Bergson are `the two greatest Jewish philosophers'.

1926 11月2日アインシュタイン、オランダに あるスピノザハウス(Rijnsburg)を訪問する。

1927  小尾範治(1885- ?)『ス ピノザ哲學大系(エチカ)』岩波書店、が岩波文庫として出版

1931 畠中尚志訳『知性改善論』 スピノザ 岩波文庫 1931、改版1968

畠中尚志(はたなか・なおし: 1899-1980)旧制第二高等学校(仙台)卒業、東京帝国大学法学部中退(1925)。脊髄カリエスにて福岡で加療(1928,1929)中に Tractatus de intellectus emendatione, et de via, qua optime in veram rerum cognitionem dirigitur(知性改善論)を訳し始める。大学ノート3冊になった時点で、岩波書店編集部に送付。岩波書店は出隆(いで・たかし1892- 1980)に相談し、1931年に出版。(畠中尚志「スピノザを訳した日々のこと」『図 書』岩波書店、1977年2月号)336-340号。1931年東京の病院で右腎臓摘出——印税の一部は手術代として支払われる。1932年福岡 での生活に戻る。

1932 

SHATZKY, JACOB (ed.). - Spinoza-Bukh. (With English title: Spinoza-book. In Commemoration of the Tercentenary of Benedictus de Spinoza 1632-1932). New York, Spinoza Institute of America, 1932. Orig. cloth with lettering in gold, slightly bumped corners, minor wear to bottom spine. 239 pp. Very good. EUR 70.-- ~Contains: Tractatus de Intellectus Emendatione translated into Yiddish by S. Wiener and S. Yudkoff. Other contributors: Ch. Zhitlowsky, J. Twersky, Jacob Milch, W. Natanson, A.A. Roback, L. Rudy and Jacob Shatzky

Spinoza  / von Carl Gebhardt (1881-1934), P. Reclam , 1932 . - (Universal-Bibliothek ; Nr.7193,7194)

スピノザ生誕300年「スピノザ生誕記念日を迎え て(上)」東京朝日新聞、昭和7年11月24日

斉藤晌(さいとう・しょう:1898-?)『スピ ノザ全集』〜第二巻(1933年)

1934 斉藤晌と畠中尚志の論争(『思想』 1934年7月月号、8月号、11月号)

1940 

畠中尚志訳『国家論』 スピノザ 岩波文庫 1940、改版1980

1940年5月オランダはナチスドイツに占領。6 月ヤン・ズ ヴァルテンディク(Jan Zwartendijk, 1896-1976が、オランダ亡命政府の非常勤領事になる。「こ の時、リトアニアに居住していたユダヤ系オランダ人らはズヴァルテンディクにオランダ領東インドへの査証を発給するよう求めた。ドゥデッカーの許可を得 て、ズヴァルテンディクは彼らを助けることに同意した。話は広まり、ドイツ占領下のポーランドから逃げ出したユダヤ人もズヴァルテンディクの助けを求め た。 ヤン・ズヴァルテンディクが1940年に自筆署名した査証 ズヴァルテンディクは、数日の間に、補佐官の助力を得て、ユダヤ人に対し2200 枚を超えるオランダ領東インドにあるキュラソー行きの査証を発給した。 その後、亡命者らは日本国領事の杉原千畝に助けを求め、杉原は公式の外交方針に反して彼らに日本の通過査証を発給した。これは多くの亡命者らに対して、リ トアニアからシベリア鉄道を経由して極東へ逃れる機会を与えた。 7月16日以降の3週間、ズヴァルテンディクは2400枚以上のキュラソー行きのデ・ファクト査証を書き上げ、ユダヤ人らはさらにそれを書き写した。助 かった多くのユダヤ人は彼を「ミスター・フィリップス・ラジオ」としか知らなかった。ソ連がリトアニアを併合した時、ソ連はフィリップス社の事業所とカウ ナスの大使館および領事館を1940年8月3日に閉鎖した。ズヴァルテンディクは占領下のオランダに戻り、アイントホーフェンにあるフィ リップス社の本社で退職まで勤め上げた。彼はこの件に関して口を開かなかったという」ヤ ン・ズ ヴァルテンディク

1944 畠中尚志訳『神学・政治論』 スピノザ 岩波文庫(上下) 1944

1948 ゲープハルト『ス ピノザ概説』豊川昇訳、東京:創元社。

1951 畠中尚志訳『エチカ 倫理学』 スピノザ 岩波文庫(上下) 1951、改版1975。ワイド版2006

1955 畠中尚志訳『神・人間及び人間の幸福に関 する短論文』 スピノザ 岩波文庫(ドイツ語からの翻訳)

1958 畠中尚志訳『スピノザ往復書簡集』 岩波文庫 1958(書簡の相手は19人)

correspondence_spinoziana_jap_Part1.pdfcorrespondence_spinoziana_jap_Part2.pdfcorrespondence_spinoziana_jap_Part3.pdf

1959 畠中尚志訳『デカルトの哲学原理』 スピノザ 岩波文庫 1959

1967 畠中尚志訳『思想の自由について』 スピノザ 理想社 1967 

1971 Spinoza et le spinozisme / Joseph Moreau, Paris : Presses Universitaires de France , 1971

1979 中村為治訳『スピノザ倫理学』山本書店. (ラテン語と日本語対訳)

1987 

"Im Mittelpunkt seines Lebens standen die Gestalt und das Denken des niederländisch-sephardischen Philosophen Baruch Spinoza. Die von Gebhardt bearbeiteten Spinoza-Bände erschienen innerhalb der Philosophischen Bibliothek des Dürr- bzw. Meiner-Verlages. 1908 gab er eine erneuerte Ausgabe des „Theologisch-politischen Traktats“ heraus. 1914 edierte er die Briefe und im selben Jahr die „Lebensbeschreibungen und Gespräche“. 1922 schloss er die Werkeausgabe mit der „Kurzen Abhandlung von Gott, dem Menschen und seinem Glück“ ab. Von diesen Editionen aus erarbeitete er die erste textkritische Spinoza-Ausgabe. Gefördert von der Heidelberger Akademie der Wissenschaften, erschienen die „Opera“ 1925 in vier Bänden (bei Carl Winter in Heidelberg). Der von Gebhardt noch weitgehend fertiggestellte Abschlussband wurde erst 1987 publiziert"-von Gebhardt.

1988 5月13日アムステルダムのホテル・プリ ンス・ヘンドリックの窓からChesney Henry Baker Jr.(チェット・ベイカー, 1929-1988)転落して死亡。薬物の過剰摂取と言われる。

1989 Yirmiyahu Yovel, Spinoza and other heretics, Princeton, N.J. : Princeton University Press , 1989

2003 Pierre-François Moreau, Spinoza et le spinozisme. Presses universitaires de France.

++

日本語で読めるス ピノザ

ス ピノザの作品(ゲルハルト) Opera: Baruch de Spinoza, Nach der von Carl Gebhardt, besorgten Ausgabe von 1925.

Absolute
Abstructions
Act
Action
Adequate- Inadequate
Affections, Affects
Affirmation
Analogy
Appetite
Attribute
Automation
Beings of Reason, of Imagination
Blessedness
Capacity
Cause
City
Common Nations
Comprehend
Conatus
Cosciouness
Death
Definition, Demonstration
Desire
Determination
Duration
Eminence
Encounter (Occurusus)
Error Esence
Eternity
Existence
Explain- Imply (Explicare, Impliacre)
False
Feelings
Fictions
Finality
Freedom
Geometric Beings
Good - Bad
Idea








































スピノザ(オランダ宗教・政治事情ならびにガリレオとの生涯)関連年表はこちらです!(移転しました)

リンク

文献

リンク

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

La Vida de Baruch Spinoza, 1632-1677


Mitzub'ixi, 1956-


el libro deleuziano q se doné por embajada francia en EXPO'70