はじめによんでください

レス・エクステンサ

res extensa, 延長をもつもの, 延長のある実体

解説:池田光穂

デカルト(René Descartes, 1596-1650)による『情念論』(Les passions de l'Ame, 1649)に登場する、心(res cogitans = 思惟する実体)と身体(res extensa)の便宜的な区分うちの重要な一方、すなわち身体をレス・エクステンサすなわち「延長をもつ実体」と呼ぶ。res extensa(レス・エクステンサ)は、ルネ・デカルトがデ カルトの存在論(しばしば「急進的二元論」と呼ばれる)において、res cogitans(レス・コギタンス)と並んで記述した2つの物質のうちの1つである。ラテン語に訳すと、「res extensa」は「延長されたもの」を意味し、後者(res cogitans)は「思考するもの、拡張されていないもの」と表現される。デカルトはしばしばres extensaを「身体的物質」と訳したが、それは神のみが創造できるものである。

なぜ身体が延長なる実体なのかという意味 は、三次元の空間のどこかを占めるということからきている。あるいは身体は物質性をもつということにほ からない。

それに対して精神(こころ、心)、さらに は神や聖霊などは物質的な根拠をもたないにもかかわらず実在するものです。これがデカルト有名な「私は 考える、それゆえに私は存在する」(cogito ergo sum)の命題の根拠になっている。

デカルトはパトロンのひとりエリザベート から1643年5月16日の手紙(A.T.,III, 661)をもらい、(デカルトの考えによれば)心と身体は別々なのに、どうしてお互いに相 互作用を起こすのかということに質問を受けた(これは、失恋した時に心がキュンと冷たく感じたり、初恋のドキドキなど幾らでもあげられる我々の身近な例か らも自明である)。

デカルトは『情念論』において、心身の区 分は便宜的なものであり、正確に考えると心身の合一はあるのだと説く(→心と身体が交錯する器官が松果 体説である:「情動理解の文化人類学的基礎」参照)。これ(=心身合一説)は、デカ ルトが便宜的とは言いながら、心(精神)と身体の区分をつけていることと矛盾するので、デカルトを影響を受けた合理主義哲学者たちに、それを克服するため の哲学的課題を与えた(→「デカルト劇場」)。

デカルトの思想の変遷やそれが生まれたダ イナミズムを無視する現代人たちは、デカルトすなわち「心身二元論の元祖」と揶揄したり、ステレオタイ プすることが多いが、『情念論』を読めば、心身の分離とその合一の帳尻をどのように彼があわせようとしたかの格闘について感じ取れるはずである。

したがって、デカルト二元論などと訳知り 顔で主張することが(一面で正しいにも関わらず)どれほど表面的な理解であり、恥知らずなことであるこ とがよくわかるであろう。デカルトの心身二元論の矛盾あるいはアイロニーを批判したギルバート・ライル「機械の中の幽霊」という表現は、それから300年後に発せられることにな る。

Res extensa 〈対〉res cogitans

Res extensaとres cogitansは相互に排他的であり、これによって身体からの完全な知的独立を概念化することが可能になる[2]。res cogitansは魂とも呼ばれ、アリストテレスの『De Anima』などの思想家によって潜在性の不定領域と関連付けられている[4]。この2つの概念の両極性のために、自然科学はres extensaに焦点を当てた[4]。

デカルトの見解では、これら2つの概念の区別は、感覚と物質世界全体を表すres extensaに対する不信感によって引き起こされた方法論的必然であった[5]。しかし、これら2つのカテゴリカルな分離は問題を引き起こし、それはこ の問いで示すことができる: デカルトはこれに対する答えを提示していないが、ゴットフリート・ライプニッツは、伸展領域内の幾何学的な点にそれぞれ心を持たせることによって、この問 題に対処することができると提案している[6]。

デカルトの物質-属性-モードの存在論では、延長は身体的物質の第一の属性である。デカルトは『第二の瞑想』において、一片の蝋について述べている(蝋の 議論を参照)。固体の蝋片はある種の感覚的特質を持っている。しかし、蝋を溶かすと、固体の時に持っていた見かけ上の性質はすべて失われる。それでもデカ ルトは溶けた物質に蝋という観念を認める。

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文献

さらなる勉強のために

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