res cogitans
レス・コギタンスとは、ラテン語で、文字 通り「考えるもの(‘thinking thing’.)」。デカルトは『第二省察』 において、体系的な疑いのプロセスを用いて、自分が「厳密な意味では、考えるもの、すなわち......」であるという結論に達する。アルキメデスの不動 のポイントを彼は、私は考える(cogito)の中に発見したと宣言する。
「私は、感覚する、すなわ ち物体的なものをいわば感覚を介して認める私と同じ私である。いま私は明かに、光を見、噪音を聴き、熱を感じる。これらは偽である、私は眠っているのだか ら、といわれるでもあろう。しかし私は見、聴き、暖くなると私には思われるということは確実である。これは偽であり得ない。これが本来、私において感覚す ると称せられることなのである。そしてこれは、かように厳密な意味において、思惟すること以外の何物でもないのである」第二省察)
考える私は、身体をもち、栄養を摂取し、 動き、そして感覚することができる。し かし、それらの要素や動態は、私から切り離すことができる——確実な根拠をもって本質がそこにあるとは信じられない。しかしながら、私と考えることは、私 が考えているかぎり、この2つは不可分で切り離すことはできない。私は、考えるもの(res cogitance)であり、これが精神(mens) だ。身体は、延長するもの(es extensa)として、精神と切り離 すことができる。これが有名な、デカルトの心身二元論である。この2つの実体か ら構成される、自我観、身体観、さらには宇宙観には、アリストテレス的な魂の概念が入る余地がない。
「二元論者や観念論者の考えによれば、精
神物質とは、心が構成される非物理的な物質である。この物質はしばしば意識と呼ばれる。
これは唯物論者と対立するもので、私たちが通常精神物質と考えているものは、究極的には物理的物質(すなわち脳)であるとする。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という主張で最も有名だが、心身問題にも多くの影響を与えている。彼は『第二省察』(II.8)と『哲学原理
(Principia Philosophiae)』(2.002)の中で、精神実体(彼はこれをres cogitansと呼び、res
extensaと区別している)の理論について述べている。
彼は「物質」という言葉について、現在流行している定義よりも正確な定義を使っている。多くの哲学者にとって、この言葉や「精神的物質」というフレーズは
特別な意味を持つ。
デカルトの直後の世代に属するゴットフリート・ライプニッツは、精神世界はモナド(物理的世界の一部ではない精神的物体)によって構築されているという立場をとった(モナド論参照)。
デカルトによれば、神はまず永遠の真理を創造し、次に世界を無から創造し、神の摂理によって世界を支配した。神は人間の被造物に特別な配慮をし、完全性と無限性の観念を手始めに、生得的な観念を彼らの思考に位置づけた[1]。
スピノザの『エチカ』では、「思考」と「延長」は、唯一なる神的実体の2つの無限の属性であるとして、「思考」と「延長」の区別を取り上げた。魂と身体は思考と伸張の二つの有限の様式である」https://en.wikipedia.org/wiki/Mental_substance)。
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