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Ethik und Ästhetik sind Eins

Ethics and aesthetics are one and the same. 倫理学と美学はひとつである(『論理哲学論考』6.421)

池田光穂

6.4
Alle Sätze sind gleichwertig.

6.41
Der Sinn der Welt muss außerhalb ihrer liegen. In der Welt ist alles, wie es ist, und geschieht alles, wie es geschieht; es gibt i n ihr keinen Wert—und wenn es ihn gäbe, so hätte er keinen Wert.
Wenn es einen Wert gibt, der Wert hat, so muss er außerhalb alles Geschehens und So- Seins liegen. Denn alles Geschehen und So-Sein ist zufällig.
Was es nichtzufällig macht, kann nicht i n der Welt liegen, denn sonst wäre dies wieder zufällig.
Es muss außerhalb der Welt liegen.

6.42
Darum kann es auch keine Sätze der Ethik geben.
Sätze können nichts Höheres ausdrücken.

6.421
Es ist klar, dass sich die Ethik nicht aussprechen lässt.
Die Ethik ist transzendental.
(Ethik und Ästhetik sind Eins.)
6.4
All propositions are of equal value.

6.41
The sense of the world must lie outside the world. In the world everything is as it is, and everything happens as it does happen: in it no value exists—and if it did exist, it would have no value.
If there is any value that does have value, it must lie outside the whole sphere of what happens and is the case. For all that happens and is the case is accidental.
What makes it non-accidental cannot lie within the world, since if it did it would itself be accidental. It must lie outside the world.

6.42
So too it is impossible for there to be propositions of ethics.
Propositions can express nothing that is higher.

6.421
It is clear that ethics cannot be put into words.
Ethics is transcendental.
(Ethics and aesthetics are one and the same.)

「あるものは善ではないが美しくありうるというだけ でなく、むしろそれが善でないというまさにその点で美しくありうる(It is commonplace to observe that something may be true although it is not beautiful and not holy and not good.)」——マックス・ヴェーバー職業としての学問)p.126.

オットー・ノイラートルドルフ・カルナップは、(ウィーン)学団の哲学 がバウハウスのイデオロギーの一部であったNeue Sachlichkeit の一表現であると感じていた。

「当時一九二九年には美術と建築の分野 で非常に進歩的だったバウハウス・デッサウへわたくし(=ファイグル)を派遣 してくれた(ウィーン学団の最初の「使者」としてだったと思う)ことに対して、かれ(=ノイ ラート)には特別な感謝の念を抱いている。わたくし(=ファイグル)がカン ディンスキーとクレーを識ったのは、そこで過ごした一週間の逗留期間中の講義や討論を通じてで あった。ノイラートとカルナップは、学団の哲学がバウハウスのイデオロギーの一部であったノイエ・ザッハリッヒカイト(Neue Sachlichkeit)の一表現である、と感じていた。この「ザッハリッヒカイト」というドイツ語に対応する英語の同義語(=New Objectivity?)をわたくしは知らない。これに最も近いのは、おそらく、「事実を尊重する冷静な態度」とでもいうことになろうか。実際、これこ そはウィーン学団の基本的なムードであったのである。「オッカムのかみそり」(必要以上に実体概念をふやさない、というテーゼ)の美点を激賞している小冊 子『過剰なる本質概念』の中で、ハンス・ハーンは、哲学において「世界から目をそむけた」態度と「世界へ目を向けた」態度とを鋭く対比させている。これ は、本質的には、「彼岸的」すなわち超越的な思弁や神秘主義と、「此岸的」すなわち現実的科学的な啓蒙されたタイプの哲学的態度との区別に他ならなかっ た」(ヘルベルト・ファイグル 1973:230)。

"The New Objectivity (in German: Neue Sachlichkeit) is a term used to characterize the attitude of public life in Weimar Germany as well as the art, literature, music, and architecture created to adapt to it. Rather than some goal of philosophical objectivity, it was meant to imply a turn towards practical engagement with the world—an all-business attitude, understood by Germans as intrinsically American: "The Neue Sachlichkeit is Americanism, cult of the objective, the hard fact, the predilection for functional work, professional conscientiousness, and usefulness."" - Crockett, Dennis (1999). German Post-Expressionism: the art of the Great Disorder 1918-1924". University Park, Pa.: Pennsylvania State University Press, p.1, from - Wikipedia, The New Objectivity

"Mit Neuer Sachlichkeit bezeichnet man die Rückbesinnung auf die Welt des Sichtbaren als Reaktion auf die Sturm-und-Drang-Jahre der Vorkriegszeit.[1] Sie begann unmittelbar nach dem Ersten Weltkrieg (Deutsche Inflation 1914 bis 1923) zugleich mit der Hinwendung vieler Künstler zu sozialkritischen Bildthemen (George Grosz, Otto Dix, Christian Schad u. v. a.). Sie hat sich als eine führende Kunstrichtung der Weimarer Republik etabliert.[2] Der Zeitrahmen wird gemeinhin mit der Weimarer Republik gleichgesetzt. Die Kunstrichtung endete 1933 mit der Machtergreifung der Nationalsozialisten und der nachfolgenden Gleichschaltung der Medien[3][4] sowie der Durchsetzung einer sogenannten Deutschen Kunst."

ただし、これをウィトゲンシュタインの「倫理学と美学はひとつである」という有名なテーゼ(『論理哲 学論考』6.421)と一緒にしてはならないだろう。ウィトゲンシュタインの設計した家を、なんとファイグルに言わせればそれを「宮殿」と表現しているの です。この表現に僕はびっくり。しかしながら、先の、前期ウィトゲンシュタインがかもしだすアリストクラティックな論理構築=美学を、現在の我々が理解で きないとなると、自分の階級のものではない美的様式=宮殿というファイグルの言挙げもわからないわけではない。

バルーフ・デ・スピノザは、ブレイエンベルフ宛の最 後の書簡(38 [旧27])1665年6月3日付で「倫理学は……、形而上学と物理学の基礎の上に立つべし」と述べている。

"but also requested me to impart a great portion of my Ethics, which, as everyone knows, ought to be based on physics and metaphysics." - LETTER XXXVIII. (XXVII.) SPINOZA TO BLYENBERGH.

●6.421から入る『論 理哲学論考』(大熊康彦訳)

6.421か ら入る『論 理哲学論考

Es ist klar, dass sich die Ethik nicht aussprechen lässt.  倫理は言葉では表せない、ことは明らかである。

Die Ethik ist transzendental. 倫理は超越論的である。

(Ethik und Ästhetik sind Eins.) 倫理と美学はひとつである。

●ウィトゲンシュタイン「倫理学講話」1929年

私のテーマは、ご存知のように、倫理学です。まず、ムーア教授が著書 『倫理学原理』において述べている倫理学についての説明をとりあげてみます[1]。彼によればこうです。「倫理学は善なるものへの普遍的探究である」。こ こで私は、倫理学という用語をもう少し広い意味で用いようと思います。「広い」とはつまり、一般に美学と呼ばれるものの、私には最も本質的と思われる部分 を含むという意味において、です。そして、私が倫理学のテーマであると考えるものを、できる限り皆さんに分かっていただくため、先に挙げた倫理学の定義と 置き換えられる表現を皆さんの前に並べて見せましょう。そのどれもが、程度に差はあれ、同じ内容を持っています。それらを列挙することで、どの定義も共通 に持っている典型的な特徴を明らかにしたいと思います。これはちょうど、ゴールトンが[2]、違った顔のすべてに共通する特徴を明らかにするために、同じ 感光板の上でそれらの顔の写真を数多く撮ったときと同じ効果を狙うものです。写真の集合を見ることで、例えば中国人の顔の典型というのがどんな特徴を持っ ているかを理解できるわけです。だから、私が挙げる一連の似たような定義を見れば、きっと、それらの全てに共通する特徴を理解し、それがまた倫理学の特徴 でもあることを理解していただけるでしょう。ではやってみます。先ほどの「倫理学は善なるものへの探究である」という定義の代わりに、「価値あるものへの 探究」「本当に重要なものへの探究」と言うこともできるでしょうし、あるいは「人生に意味についての探究」「人生に価値を与えるものの探究」、さらには 「正しく生きる方法の探究」と言ってもよいでしょう。これらの句を見れば、倫理学が関心を向けるもについて、おおまかな理解を得られます。これらの表現を 見渡してまず最初に気付くのは、どの表現も二つの異なった意味で用いられているということです。そのうちの一つを瑣末な、あるいは相対的な意味、もう片方 を倫理的または絶対的な意味と呼びましょう……

……倫理学という科学がもしあるとすれば、それが何であるべきかをよく考えれば、答えは明らかであると言わねばなりません。つまり、私たちが考えたり喋っ たりすることは何であれ、それは倫理学ではないし、他のテーマよりも重要で、本質的に崇高であるようなテーマについての科学の本は書くことができない、と いうことは、明らかだと思われます。 [これに関して] 私は自分の感情を次のようなメタファーによってしか表現できません。それは、もし誰かが本当に倫 理学についての本と言えるような本を書いたとすれば、その本は爆発してこの世界の全ての書物を破壊してしまうだろう、という喩えです。科学において使われ るような言葉は、単に乗り物にすぎません。それは、意味(meaning)と意義(sense)、自然的な意味と意義を載せて運ぶだけの乗り物です。  [一方] 倫理学は、それが何物かであるとすれば、ですが、超自然的であり、私たちの言葉は事実を表現するだけなのです。私がティーカップに1ガロンの水 を注いだとしても、ティーカップはその容量までしか水を保持できません。 [それと同じことです。] 事実と命題に関する限り、あるのはただ相対的な価 値、相対的な善、相対的な正義などでしかない、と私は言いました。先に進む前に、このことをもっと明白な例を使って説明させてください。正しい道とは、任 意の前もって定められた目標に通じている道のことであり、そうした目標がないのに、正しい道について話すのは明らかに無意味です。では「絶対的に正しい 道」という表現が何を意味しうるのかを考えてみましょう。私が思うにその道は、それを見ると誰もが論理的必然性を伴って歩まなくてはならない道、歩まなけ ればそれを恥ずかしく思うような道のことでしょう。同様に絶対的な善とは、自分の趣味や性向とは無関係に、誰もがそれを必然的に行なうこと、行なわなけれ ば罪の意識を感じることでありましょう(もし絶対的善が記述可能な物事の状態であればの話ですが)。しかし、私はそのような物事の状態は幻想であると言い たいのです。いかなる状態も、それ自体の中に絶対的判断を強制する力など持っていません。では、それでも「絶対的な善」とか「絶対的な価値」といった表現 を使いたい誘惑に駆られる人間は、私も含めて、何を心に抱き何を表現しようとしているのでしょうか?この点を理解しようとするときはいつも、自分がこれら の表現を用いる場合を想い起こすことが自然であり、その場合私は、例えば私が皆さんに快楽の心理学について講義したときに皆さんが置かれるであろう状況に あるのです。そのとき皆さんがなさることは、自分が決まって快楽を感じる典型的な状況を想い起こすことでしょう。というのも、その状況を心の中に思い浮か べていれば、私が皆さんにお話するべきことは全て、具体的で、いわば扱いうるものになるからです。おそらくある人は、快楽を感じる状況の例として、気持ち のいい夏の日に散歩しているときを選ぶでしょう。

皆さんはきっとこう言われることでしょう。「よろしい。もし私たちが、特定の経験に、絶対的または倫理的価値と重要さと呼ばれる性質を帰属させたい誘惑に 常に駆られるとすれば、そのことが示すのは、そういう言葉で私たちが無意味なことを言おうとしているということではない。そうではなく、結局のところ、 『ある経験は絶対的な価値を持つ』と言うことで私たちが意味することの全ては、 [その経験が] 他の事実と同じようにまさに事実であるということ、そし てそれが帰着するところは、倫理的・宗教的表現で言おうとすることについての正しい論理的分析を見つけることに、私たちは未だ成功していないということで ある」と。このように言われると、いわば閃光に照らし出されたかのように、私は以下のことが分かるのです。それは、絶対的な価値という言葉によって言おう とすることを、私が考えうるいかなる記述も記述できないし、仮に誰かが提案できるような有意義な記述があるとしても、私はまさにその有意義さの故に、最初 からそうした記述を拒否するだろう、ということです。つまり、 [その理由は] 今や私は、それらの無意味な表現が無意味である理由は、私がまだ正しい表 現を発見していないことではなく、無意味さこそがその本質であることにあると見てとれるからです。というのも、それらの表現によって私が成したいことは、 世界を越えて行くこと、すなわち有意義な言語を超えて行くことだからです。私の全傾向、そして私の信じるところ、今まで倫理や宗教について書いてきた全て の人間の傾向は、言語の限界へ向かって走っていこうとすることです。私たちの牢獄の壁へ向かって走ることは、完全に、絶対に成功する望みがありません。倫 理学が、人生に対する究極的な意味、絶対的な善、絶対的な価値について何かを言おうとする欲求から生じたものである限り、それは科学ではありえません。倫 理学が語ることは、いかなる意味においても私たちの知識を増やしません。しかし、それは人間の心の中の傾向を記した文書であり、私は個人的にこの傾向に敬 意を払わないわけにはいきません。そして、私がそれを嘲ることは、生涯にわたってないでしょう。


●「今日の芸術」という著作で岡本太郎(1954 [1999])は、芸術が心地よさや善なるものとは無縁のショックであることを宣言して、このように主張する;「今 日の芸術は,   うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよく あってはならない。そ れが芸術における根本条件である、と確信するからです」(岡本 1999:98)

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文献

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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