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ハイデガー「アリストテレスの現象学的解釈」

Introduction to Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles

池田光穂

事実に即したもの(=現象)は、釈意という補助線とその理解をおこなう自己(=主体)というものが措定されていなければならない。解釈学的現象学の基本

◎ あゆみ(高田珠樹「『ナトルプ報告』の成 立とその位置」『アリストテレスの現象学 的解釈』2008年や、サイト内リンク「マルチン・ハイデガー」「」ウィキ「ハイデッガー」などによる

1909  ティジスのイエズス会修練士修練期用新入生宿舎に登録、すぐに除籍。1909フライブルク大学神学部(Theologische Fakultät)に冬学期から入学

フ ライブルク大学(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)「ド イツで5番目に古い大学であり、1457年、オーストリア大公アルブレヒト6世によって創立された。ドイツで最も権威のある大学の一つであり、ヨーロッパ においてもトップクラスの名門大学の一つに数え上げられる。人文学、社会科学、自然科学等の分野において長い伝統を持つ。数多くの偉大な学者を輩出し続け ている事で知られ、19名のノーベル賞受賞者がフライブルク大学と関わりがあり、また、哲学者エトムント・フッサールやマルティン・ハイデガーなど、著 名な学者が卒業、そして教鞭を執った事でも知られる。学術研究分野において質・量ともに最も優れた大学が加盟する事ができるヨーロッパ研究大学連盟に、 オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、ハイデルベルク大学、その他16の大学と共に加盟している。また、2007年、ドイツにおける「卓越した大学 (Exzellenzinitiative)」に指定」

Erzherzog Albrecht VI. (Österreich). Miniatur des thronenden Herrschers mit Rosenkranz in einem für ihn angefertigten Gebetbuch (Pergamenthandschrift, 1455/63)

1913  

フ ライブルク大学神学部。7月26日、指導 教官はアルトゥール・シュナイダー教授を主査とし、副査ハインリヒ・リッケルト(Heinrich John Rickert, 1863-1936)のもと学位論文『心理学主義における判断論──論理学への批判的・積極的寄与』を提出し、最優秀(summa cum laude)の評価。マルガレートと婚約。

1915  

国 民軍として動員され、郵便監察業務を朝7時から夕方5時までこなし、1918年初頭まで続いた[フッサールはナトルプへの書簡の中で検閲業務と揶揄]。 1915年に教授資格論文(Habilitation)『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』を提出し、7月27日に試験講義「歴史科学における時間 概念」を行った。

冬 学期より私講師としてパルメニデス、カントのプロレゴメナを講義し、日中は動員されていたので、講義は夜行われた。受講生にエルフリーデ・ペトリがいる。マルガレートとの婚約を解消。

1915 -1916 

1915/16 年冬学期にはハイデガーは「古代哲学史」を講義し、1916年夏学期にはフライブルク大学の神学者エンゲルベルト・クレープスとアリストテレスについて のゼミナールを、1916/17年冬学期に「論理学の基本問題」を講じた(ファリアス 83-85)

1917  

フ ライブルグのフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859-1938)は、マールブルグ大学のナトルプ(Paul Gerhard Natorp, 1854-1924)より手紙をうける。ナ トルプは当時、28歳のハイデガーを中世 哲学の教授として迎えたいことを吐露。フッサールにハイデガーの資質について照会。当時はフッサールはハイデガーとはそれほど相互理解ある関係ではなかった。

夏 学期に空席になっていたフライブルク大学神学部教授にヨーゼフ・ガイガーが就任し、ファリアスはこのことと、がハイデガーをカトリックから離反させるこ とになったと論じている。ルター派のプロイセン将校の娘エルフリーデ・ペトリと結婚。

1919  

プ ロテスタントに改宗(長男が生まれるがカトリックの受洗はしなかった)。戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。 「1919年1月9日のエンゲルベルト・クレープス宛書簡で「歴史的認識の理論を越えた認識論的洞察から私にはカトリックの体系が疑問視されるようにな り、それは受け入れがたいものになってしまいました。しかしキリスト教と形而上学が受け入れがたくなったのではありません」として、今後は哲学者として自 分の「現存在と活動そのものを神の前に正当化する」ことができると確信していると書いた」

1919-1920

「1919 -1920年のフライブルク大学冬講義「現象学の根本問題[112]」ではフッサールのいう「記述」は認識論によって方向付けられており、これは「古い思 考習慣の残滓」 と批判され、対象化、客観化することなしに経験-「事実的生経験」のなかで、「予期連関において、十全な動機付けの網を、非反省的に生きながらも、省察的 に経験する」 ことが求められる[113]。この「省察」という用語にはポメレリア貴族のパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (Paul Yorck von Wartenburg) 伯の影響があるとされる[113]。また、生としての世界の現象を「環世界」「共世界(Mitwekt)」「自己世界」の3つに区分し、各世界はそのつど 自己表出の性格と持つとされた[114]。」

1920

「1920 年4月8日、フッサール61歳祝賀会でヤスパースと出会う[5]。二男ヘルマン生まれる。1920年夏、「直観と表現の現象学;哲学的概念形成の理論」講 義[115]。1920年、マールブルク大学員外教授招聘候補に上げられ、パウル・ナトルプとフッサールがハイデガーを推薦したが、W・イェンシュ(心 理学者)は反対し、就任したのはニコライ・ハルトマンであった[116]。」

1921-1922

夏学期「アウグスティヌスとネオプラトニズム」「演習:霊魂論」、冬学期「アリストテレスの現象学的解釈

「1921 年講義「アウグスティヌスと新プラトン主義[117]」が開かれた。1921年6月、カール・ヤスパース『世界観の心理学』書評をヤスパースに送った [118]。1921年から1922年にかけて冬学期にフライブルク大学で「アリストテレスの現象学的解釈/現象学的研究入門」講義[119]。」

1922  

ハ ンス=ゲオルグ・ガダマーは、マールブルグ大学のパウル・ナトルプに学ぶ。

6 月24日ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867-1922.06.24)が極右テロ組織コンスル(Die Organisation Consul)のメンバーに暗殺される。


9月末〜10月半ばに書かれる、論 文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)。11月19日づけヤスパース宛て書簡で、60枚の序論を書いたと主張。マーブルグ大学とゲッティンゲン大学に送付。

夏学期「存在論と論理学に関するアリストテレス論文選の現象学的解釈」、「演習:ニコマコス倫理学」;冬学期「古代哲学における懐疑主義」「演習:自然学」

そ れ以外の余滴:「1922年夏学期、「存在論と論理学におけるアリストテレス論文選の現象学的解釈」講義[120]。……。トートナウベルクはシュヴァルツヴァルトの標高1000mの高地にあり、ヴォージュ山脈、スイスアルプス山 脈を眺望できる保養地である[121]。ハイデガーは1934年のラジオ放送された講演「我々はなぜ田舎に留まるか」において、「南部シュヴァルツヴァ ルトの広い谷間の急斜面の海抜1150メートルのところに小さなスキー小屋がある。広さは縦6メートル、横7メートルで、低い屋根の下に部屋が三つ、リビ ング・キッチンと寝室と勉強するときの独居房がある」「山々の重み、その原生岩の厳しさ、樅の木のゆっくりとした成長、花咲く牧草地の輝くばかりの、それ でいて素朴な華やかさ、秋の夜長に聞こえる谷間の小川のせせらぎ、雪に埋もれた平地の厳しいまでの素朴さ、これらすべてが、あの山の上の毎日の現存在を突 き抜けて行き、その中を揺れ動く。」とトートナウベルク山荘について語り、「冬の真夜中に、激しい雪嵐が小屋の周りに吹き荒れて、すべてを覆い尽くすと き、そのときが哲学の絶頂期である。そのとき、哲学の問いは、簡明かつ本質的たらざるをえない。すべての思考を徹底的に究明することは、厳しく鋭くあるこ と以外ではありえない。これを言葉で表す苦労は、聳え立つ樅の木の嵐に向かっての抵抗のようなものである」と述べた[122]。 1922年11月、フッサールの推薦でハイデガーはゲッティンゲン大学教授に招聘され(ヘルマン・ノールが教育学部に移ったため)、ゲオルク・ミッシュ の報告ではハイデガーは学生に人気があり、その哲学は生の哲学、フッサールの解釈学的方法、ディルタイの精神史を補完させようとしたものとされた [123]。選考の結果、第一候補はモーリッツ・ガイガー、ハイデガーは第二候補となった[124]。」

1923  

6 月19日ハイデガーは当日付の書簡で前日(6/18)にヤスパース宛の手紙にて、マールブルグ大学からの教授職の招聘があった旨を伝える。

ガ ダマーは、夏学期の間、フライブルグでハイデガーの個人的指導をうける。「1923年夏学期、「オントロギー、事実性の解釈学[125]」講義の序言で 「探求における同伴者は若きルターであり、模範はルターが憎んだアリストテレスであった。衝撃を与えたのはキルケゴールであり、私に眼をはめ込んだのは フッサールである」と書いた[126][127]。」

7 月ハイデガー、ヤスパースに招聘の状況や、近況を伝える手紙を認める「序論は1冊の本になってしまった」という本は『存在と時間』、序論は『アリストテレ ス現象学的解釈』の序論と思われる(高田 2008:149)。「1923年から28年の間、フッサールやゲオルク・ミッシュの推薦でマールブルク大学哲学部外教授として教壇に立った[123]。 1923年9月1日には神学教授クレープスを訪問し、クレープスがカトリック信仰に帰ることはないのかと質問すると、ハイデガーは「いまのところはまだ はっきりとそうとも言えない」がアウグスティヌスとアリストテレスの研究をしていると述べ、クレープスは「話しているとき、私はしばしば昔からの若い友 人、完全なカトリック信者の学者と向かい合って座っていると思った」という[90]。」

夏 学期講義『存在論 ― 事実性の解釈学』には、田辺元が受講する。

1923-1927

「フッ サールやゲオルク・ミッシュの推薦でマールブルク大学哲学部外教授として教壇に立った[123]。1923年9月1日には神学教授クレープスを訪問し、ク レープスがカトリック信仰に帰ることはないのかと質問すると、ハイデガーは「いまのところはまだはっきりとそうとも言えない」がアウグスティヌスとアリ ストテレスの研究をしていると述べ、クレープスは「話しているとき、私はしばしば昔からの若い友人、完全なカトリック信者の学者と向かい合って座っている と思った」という[90]。 マールブルク大学ではハンス・ゲオルク・ガダマー、フライブルクから移ったハイデガーの後を追ってやってきたユダヤ系のカール・レーヴィット、ユダヤ系 でシオニストであったレオ・シュトラウス、ハンナ・アーレント、ハンス・ヨナスがいた。ガダマーはハイデガーの個性は「彼が完全に自分の仕事に没頭し て、それが滲み出ていたことからきていた」、それは研究と業績の出版に集中するような教授の「授業」ではもはやなかったとし、精神的知的指導者のような人気が あった[128]。 1923年から1924年にかけて冬学期にマールブルク大学で「現象学的研究への入門」講義[129]。1924年春には日本の研究所に招聘されたが、実 現しなかった[130]。1924年5月2日、父フリードリヒ・ハイデガー死去[5]。1924年夏学期、「アリストテレス哲学の基礎概念」講義 [131]。1924年にハンナ・アーレントがマールブルク大学に入学し、その時から既婚者であったハイデガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が 始まる[132]。またハイデガーは教育学者でヘルマン・ノールの弟子であったエリザベート・ブロッホマン(Elisabeth Blochmann)とも愛人関係にあった[133]。1924年から1925年にかけて冬学期に「プラトン:ソフィスト」講義[134]。ハイデガー はマールブルクを「霧のかかった巣窟」といい、「俗物的雰囲気」を嫌ったが、ブルトマンとの対話においてフリードリヒ・ゴーガルテンやカール・バルト、ス コラ哲学、ルターなど神学の議論を交わした[135]。 1925年4月16日〜21日、カッセルのクールヘッセン文芸協会で「ヴィルヘルム・ディルタイの研究活動と歴史学的世界観をもとめる現代の争い」を講演 する(カッセル講演)。このなかでディルタイとフッサールを批判しながら、パウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯のいう「歴史的省察」を讃えた。1925 年夏学期の講義 『時間概念の歴史への序説[136]』 ではフッサールの現象学をギリシア語の意味から「それ自身においてあらわなるものをそれ自身から見させること」と定義し、現象学的探求からは存在の問いが 生じるはずであり、フッサールの純粋意識に意識の存在への問いが立てられていないと批判した[137:加藤 2012:23]。1925年から1926年にかけて冬学期に「論理学:真性への問い」講義[138]。この講義ではカントは存在と時間の関連について予感したが、問題の根本的理解にはいたらなかったと解釈した[139]。 1926年夏学期の講義 「古代哲学の根本諸概念」[140]。1926年から1927年にかけて冬学期に「トマス・アクィナスからカントまでの哲学の歴史」講義[141]。」

1924 17歳年下のハンナ・アーレントと親しくなる。父親フリードリッヒ死亡。7月マーブルグ大学の神学者の集まりで「時間の概念」 の講演。

Hannah Arendt 左の撮影年不詳。右の撮影年は1924年(Young-Bruehl, Elisabeth Yale University Press Hannah Arendt: For Love of the World )

1927  3月「現象学と神学」の講演をチュービンゲン大学で。4月『存在と時間』。5月母ヨハンナ死亡。

「1927 年2月、フッサール編集の「現象学年報」8号に「存在と時間」前半部を掲載し世界的な名声を手に入れ、マールブルク大学正教授となった[98]。しかし、 ヤスパースとの議論のあと、印刷が開始されていた「存在と時間」の第3編「時間と存在」の出版は中止され、原稿は発表されず、焼き捨てられた[142]。 1927年3月9日、チュービンゲンで「現象学と神学」講演[143]。1927年5月3日、母ヨハンナが逝去[5]。1927年夏学期、マールブルク大 学で「現象学の根本諸問題」講義[144]。1927年から1928年にかけて冬学期講義「カント純粋理性批判の現象学的解釈」[145]」

Elfride and Martin Heidegger and their two children, Jorg and Hermann (c. 1928)

1988  セオドア・J・キシール「初期ハイデガーにおけるミッシング・リンク」公刊

★ 章立て

リ ンク

文 献

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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