かならず読んでください

マルチン・ハイデガー『存在と時間』ノート

On Heidegger's "Sein und Zeit"

池田光穂

Leonard Cohen (1934-2016)のYou want it darker の歌詞の最後では、Hineni, hineni, I'm ready, my Lord... で終わりますが、ヒネニはヘブライ語で「私はここにいる」を意味し、神が息子イサクを犠牲にするようにアブラハムに呼びかけたときの答えとのことです。こ れは、ロシュ・ハシャナの日に聖歌学者が唱える、神に宛てた準備と謙虚さの祈りの名前らしい。コーエンがなくなるまえに、病床の友人にあてた手紙の末尾に 「私も年をとり、からだがボロボロになる時期にきた。もうすぐあなたについてゆくと思う」と書いたというエピソードが知られています(出典:The Times of Israel https://www.timesofisrael.com/new-leonard-cohen-song-is-very-jewish-and-very-dark/

★『存在と時間』(ドイツ語: Sein und Zeit)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの1927年の大著であり、実存主義——本人は実存主義者であることを生前否定していた——の重要な文書である。存在と時間』は20世紀の哲学において最も 影響力のあるテキストのひとつである。その後の哲学、文学理論、その他多くの分野に多大な影響を与えた。賛否両論あるが、知的歴史におけるその地位は、カ ントやヘーゲルの著作と比較されてきた。本書は、ダーザイン、すなわち 「世界における存在 」の分析を通じて、存在論の復活を試みている。また、新語や複雑な言葉を多用し、個人のユニークで有限な可能性を把握し、それに立ち向かう手段としての 「真正性」を広範に扱っていることでも注目されている。

「ハイデガーは、「存在論という傲慢な言葉」(カン トの表現)の意味を根本的に変質させてしま うという代価を払い、現存在の存在論的構造の中に実存的諸特性を刻み込む。この諸特性は、認 識(了解、さらには言語)を可能にする(いわば再洗礼を授けられ存在論的になった)超越論的 諸条件として記述され(「基礎的実存疇」とか「現存在の存在の基礎的様態」としても示され) ているから、同時に彼は、超越論的なものの存在論化を行なっていることになる。こうして彼は、 反対物どうしの混合を最も基本的なかたちで実現する。この混合のせいで、彼のことを、対立す る二つの立場のいずれに還元することもできなくなり、その立場を把握することができなくなる のである。この超越論的存在論が、認識する存在を非存在(つまり、時間化する行為、投企)と 定義し、存在と時間を同一視しながら歴史を存在論化して、超越論的なものの存在論化を完成さ せると、右述の混合は、言わば倍加される。有名な転回(Kehre) が行なわれ、『存在と時間』の 超越論的存在論および実存的分析論から距離が取られるという事態が、歴史の存在論化を経由し て、全く自然に否定的存在論へ至りえたのも、当然である。否定的存在論は、「存在とは何か」 を「存在とは現存在に現われるかぎりで何か」と同一視し、大文字の存在を顕現のプロセス(一 種の「創造的進化」か)として提示する。そして、このプロセスの実現は、このプロセスを存在 させる思考に依存する、つまり歴史性に身を委ね従うという「放下Gelassenheit 」に依存する、と されるのである」(ブルデュ 2000:104-105

●『存在と時間』の構造

出典は"Ser y tiempo," https://es.wikipedia.org/wiki/Ser_y_tiempo.

★『存在と時間』のもともとの構造と目論見

+++++書かれた部分+++++木田 2000:4-5)

序論 存在への意味の問いの概要的提示

第1部 現存在を時間性にむかって解釈し、存在への 問いの超越的地平として時間を究明する

第1編 現 存在の準備的な基礎分析

第2編 現 存在と時間性

+++++書かれなかった部分+++++(木田 2000:5)

第3編 時間と存在

第2部 テンポラリテートの問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの概 要を示す

第1編 テンポラリテートの問題群の予備的段階とし てのカントの図式機能論および時間論

第2編 デカルトの〈Cogito ergo sum〉の存在論的基礎と〈res cogitans〉の問題群への中世存在論の継承

第3編 古代存在論の現象的基盤とその限界の判定基 準としてのアリストテレスの時間論

++

【解説】1927年のマルチン・ハイデ ガーの著作(Sein und Zeit, 1927[1967])。 「あらゆる存在了解内容一般を可能にする地平として時間を学的に解釈すること」を目的として書かれた(英訳は1962年)。ハイデガーの存在論でもっとも 有名なのは、存在的、存在論的の区別である。存在的とは、具体的な事物があるとかないとか、というものをめぐる議論であり、存在論的とは「〜がある」とい う時の「ある」とはどういうことかを議論するものである。このような存在論の基本的な問題は、もともとアリストテレスによって取り上げられ、ライプニッツ によって定義されたもので、quam(ラテン語で、文字通り「として」、あるいは「〜の能力において」)の研究であった。この問題へのアプローチにおい て、 ハイデガーは、アリストテレスとカントという、それぞれの哲学的立場が大きく異なる著者の伝統の間に自らを置いており、命題の論理の観点から存在の意味の 問題にアプローチしているわけではない。ハイデガーのアプローチには、理論的な知識は、人間個人と彼を取り巻く世界の実体(彼自身を含む)との間の最も基 本的でオリジナルな関係ではない、というテーゼが暗黙のうちに含まれている。1989年に「ナトルプ報告」と通称よばれている 『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』という 1923年の原稿が発見されて、古代ギリシャから現代にいたる存在論の系譜と、西洋哲学の 読み直し(=再解釈)をとして、構想でしかなかった『存在と時間』の第二部第三編であることが明らかになった。しかし、1927年の最初の出版から第6版 を重ねても上巻と書かれていたものが、1953年第7版では、その文字が削除されて、実質的に前半そのものが単著として完成とされた。同年『形而上学入 門』が書かれており、存在への問いは、継続されているとハイデガーは弁明するが、「存在一般の意味」の解明はなされなかったというのは、後年のハイデガー 研究者のコンセンサスである。

◎ハイデガー基礎用語集 (選択は、後藤嘉也『ハイデガー『存在と時間』』晃洋書房, 2011年などから)

https://en.wikipedia.org/wiki/Heideggerian_terminology



Aletheia
Main article: Aletheia
(Ancient Greek: ἀλήθεια)

Heidegger's idea of aletheia, or disclosure (Erschlossenheit), was an attempt to make sense of how things in the world appear to human beings as part of an opening in intelligibility, as "unclosedness" or "unconcealedness". (This is Heidegger's usual reading of aletheia as Unverborgenheit, "unconcealment".)[1] It is closely related to the notion of world disclosure, the way in which things get their sense as part of a holistically structured, pre-interpreted background of meaning. Initially, Heidegger wanted aletheia to stand for a re-interpreted definition of truth. However, he later corrected the association of aletheia with truth.
アレセイア
主な記事 アレセイア
(古代ギリシャ語:ἀλήθεια)

ハイデガーが提唱したアレテイア、すなわち開示(Erschlossenheit)の考え方は、世界の物事が「閉じられないもの」あるいは「隠されていな いもの」として、理解可能性の開口の一部として人間にどのように見えるかを理解しようとする試みであった。(これはハイデガーがアレテイアを Unverborgenheit、「隠蔽されていないもの」と読む常套句である)[1]。それは世界開示の概念、つまり全体論的に構造化され、あらかじめ 解釈された意味の背景の一部として物事が意味を持つようになる方法と密接に関連している。当初、ハイデガーはアレテイアを真理の再解釈された定義に立てた いと考えていた。しかし、ハイデガーは後に、アレテイアと真理との結びつきを修正した。


Apophantic
(German: apophantisch)

An assertion (as opposed to a question, a doubt or a more expressive sense) is apophantic. It is a statement that covers up meaning and instead gives something present-at-hand. For instance, "The President is on vacation", and, "Salt is Sodium Chloride" are sentences that, because of their apophantic character, can easily be picked up and repeated in news and gossip by 'The They.' However, the real ready-to-hand meaning and context may be lost.
アポファンティック
(ドイツ語:apophantisch)

疑問や疑念、より表現的な意味とは対照的に)断定はアポファンテックである。それは、意味を覆い隠し、代わりに手近なものを与える文である。例えば、「大 統領は休暇中です」、「塩は塩化ナトリウムです」などは、そのアポファンテックな性格から、ニュースやゴシップの中で「彼ら」が簡単に取り上げ、繰り返す ことができる文章である。しかし、すぐに使える本当の意味や文脈は失われてしまうかもしれない。


Being-with
(German: Mitsein)

The term "Being-with" refers to an ontological characteristic of the human being, that it is always already[a] with others of its kind. This assertion is to be understood not as a factual statement about an individual, that they are at the moment in spatial proximity to one or more other individuals, but rather a statement about the being of every human, that in the structures of its being-in-the-world one finds an implicit reference to other humans, as one could not live without others. Humans have been called (by others, not by Heidegger) "ultrasocial"[7] and "obligatorily gregarious".[8] Heidegger, from his phenomenological perspective, calls this feature of human life "Being-with" (Mitsein), and says it is essential to being human,[9] classifying it as inauthentic when a person fails to recognize how much, and in what ways, someone thinks of themself, and how they habitually behave as influenced by our social surroundings. Heidegger classifies it as authentic when someone pays attention to that influence and decides independently whether to go along with it or not. Living entirely without such influence, however, is not an option in the Heideggerian view.
存在-共にあること
(ドイツ語:Mitsein)

「存在-共にあること」という用語は、人間の本質的特性を指し、それは常にすでに同類の他者とともに存在しているということである。この主張は、個々人に ついて、彼らが現時点で1人または複数の他の個体と空間的に近接しているという事実を述べたものではなく、むしろ、人間存在の本質について述べたものであ り、人間は、他者なしには生きられないという意味で、世界に存在するという構造において、他の人間に対する暗黙の言及を見出すというものである。人間は (ハイデガーではなく、他の人々によって)「超社会的」[7]、「強制的に社交的」[8]であると称されてきた。ハイデガーは、現象学的な観点から、人間 の生活の特徴を「共に存在すること」(Mitsein)と呼び、 人間であることの本質的な要素であるとし、[9] ある人が、自分自身について他人がどれほど、またどのような形で考えているか、また、周囲の社会環境に影響されて習慣的にどのような行動を取っているかを 認識できない場合、それは不誠実であると分類している。 ハイデガーは、その影響に注意を払い、それに従うかどうかを独自に判断する場合は、本物であると分類している。 しかし、ハイデガーの考えでは、そのような影響を一切受けずに生きることは選択肢にはない。


Care (or concern)
(German: Sorge)

A fundamental basis of being-in-the-world is, for Heidegger, not matter or spirit but care:

Dasein's facticity is such that its Being-in-the-world has always dispersed itself or even split itself up into definite ways of Being-in. The multiplicity of these is indicated by the following examples: having to do with something, producing something, attending to something and looking after it, making use of something, giving something up and letting it go, undertaking, accomplishing, evincing, interrogating, considering, discussing, determining....[10]

All these ways of Being-in have concern (Sorge, care) as their kind of Being. Just as the scientist might investigate or search, and presume neutrality, it can be seen that beneath this there is the mood, the concern of the scientist to discover, to reveal new ideas or theories and to attempt to level off temporal aspects.
ケア(または関心)
(ドイツ語:Sorge)

ハイデガーにとって、世界に存在するという根本的な基盤は、物質でも精神でもなく、ケアである。

存在者の事実性は、その世界における存在が常に自己を分散させ、あるいは自己を明確な存在の仕方へと分裂させるようなものである。これらの多様性は、次の ような例によって示される。何かに関わり、何かを生み出し、何かを気にかけ、それを世話し、何かを利用し、何かを手放し、何かを放棄し、何かを引き受け、 何かを達成し、何かを明らかにし、何かを問いかけ、何かを考察し、何かを議論し、何かを決定する。

こうした「存在」のあり方はすべて、そのあり方の一種として「心配(Sorge、ケア)」を伴う。科学者が調査や探索を行い、中立性を仮定するのと同様 に、その下には、新しいアイデアや理論を発見し、明らかにし、一時的な側面を平準化しようとする科学者の気質、心配があることがわかる。


Clearing
(German: Lichtung)

In German, the word Lichtung means a clearing, as in, for example, a clearing in the woods. Since its root is the German word for light (Licht), it is sometimes also translated as "lighting", and in Heidegger's work it refers to the necessity of a clearing in which anything at all can appear, the clearing in which some thing or idea can show itself, or be unconcealed.[11] Note the relation that this has to Aletheia (see the article Aletheia and the #Aletheia section of this article) and disclosure.

Beings (Seiende, plural: Seienden), but not Being itself (Sein), stand out as if in a clearing, or physically, as if in a space. Thus, Hubert Dreyfus writes, "things show up in the light of our understanding of being."[12] Thus the clearing makes possible the disclosure of beings (Seienden), and also access to Dasein's own being. The clearing is not, itself, an entity that can be known directly, in the sense in which we know about the entities of the world. As Heidegger writes in On the Origin of the Work of Art:

In the midst of being as a whole an open place occurs. There is a clearing, a lighting. Thought of in reference to what is, to beings, this clearing is in a greater degree than are beings. This open center is therefore not surrounded by what is; rather, the lighting center itself encircles all that is, like the Nothing which we scarcely know. That which is can only be, as a being, if it stands within and stands out within what is lighted in this clearing. Only this clearing grants and guarantees to us humans a passage to those beings that we ourselves are not, and access to the being that we ourselves are.[13]
開けた場所
(ドイツ語:Lichtung)

ドイツ語で「Lichtung」とは、例えば森の中の空き地のような開けた場所を意味する。その語源はドイツ語で「光」を意味するLichtであるため、 「照明」と訳されることもある。ハイデガーの著作では、この「開けた場所」は、あらゆるものが現れることのできる場所、何かしらの物や考えが姿を現すこと のできる場所、あるいは隠されたものが明らかになることのできる場所であるとされている。

存在(Seiende、複数形:Seienden)は、存在そのもの(Sein)ではないが、まるで空き地のように際立っている。あるいは物理的には、ま るで空間のように際立っている。したがって、フーベルト・ドレイファスは「存在は、我々の存在に対する理解の光の中で姿を現す」と書いている。[12] したがって、空き地は存在(Seienden)の開示を可能にし、また、存在そのものへのアクセスも可能にする。しかし、その空間自体は、私たちが世界の 存在について知っているような意味で、直接的に知ることができる存在ではない。ハイデッガーは『芸術作品の起源について』の中で次のように書いている。

「存在の全体の中で、開かれた場所が生じる。そこには空間があり、照明がある。存在について考えた場合、この空間は存在よりも大きな存在である。この開か れた中心は、存在するものに囲まれているのではなく、むしろ、照明の中心そのものが、私たちがほとんど知らない「無」のように、存在するものすべてを取り 囲んでいる。存在するものは、この開けた場所で照明されているものの中に立ち、その中から突出している場合にのみ、存在するものたり得る。この開けた場所 だけが、私たち人間に、私たち自身ではない存在への通路と、私たち自身である存在へのアクセスを保証し、与えてくれるのだ。[13]


Destruktion
Founded in the work of Martin Luther,[14] Heidegger conceptualises philosophy as the task of destroying ontological concepts, including ordinary everyday meanings of words like time, history, being, theory, death, mind, body, matter, logic etc.:

When tradition thus becomes master, it does so in such a way that what it 'transmits' is made so inaccessible, proximally and for the most part, that it rather becomes concealed. Tradition takes what has come down to us and delivers it over to self-evidence; it blocks our access to those primordial 'sources' from which the categories and concepts handed down to us have been in part quite genuinely drawn. Indeed it makes us forget that they have had such an origin, and makes us suppose that the necessity of going back to these sources is something which we need not even understand. (Being and Time, p. 43)

Heidegger considers that tradition can become calcified here and there:

If the question of Being is to have its own history made transparent, then this hardened tradition must be loosened up, and the concealments which it has brought about dissolved. We understand this task as one in which by taking the question of Being as our clue we are to destroy the traditional content of ancient ontology until we arrive at those primordial experiences in which we achieved our first ways of determining the nature of Being—the ways which have guided us ever since. (Being and Time, p. 44)

Heidegger then remarks on the positivity of his project of Destruktion:

...it has nothing to do with a vicious relativizing of ontological standpoints. But this destruction is just as far from having the negative sense of shaking off the ontological tradition. We must, on the contrary, stake out the positive possibilities of that tradition, and this means keeping it within its limits; and these in turn are given factically in the way the question is formulated at the time, and in the way the possible field for investigation is thus bounded off. On its negative side, this destruction does not relate itself toward the past; its criticism is aimed at 'today' and at the prevalent way of treating the history of ontology. .. But to bury the past in nullity (Nichtigkeit) is not the purpose of this destruction; its aim is positive; its negative function remains unexpressed and indirect. (Being and Time, p. 44)
破壊
マルティン・ルターの仕事に端を発する[14]ハイデッガーは、哲学を存在論的概念を破壊する作業として概念化し、時間、歴史、存在、理論、死、心、身体、物質、論理などといった日常的な言葉の意味も含む。

伝統がこのように支配者となる場合、伝統が「伝える」ものがほとんどの場合、ほとんど手の届かないものとなるような方法でそうなる。伝統は、私たちに伝え られたものを自明のものとして受け入れ、私たちに受け継がれてきたカテゴリーや概念が部分的に純粋に引き出された根源的な「源」へのアクセスを妨げる。実 際、それらがそのような起源を持っていたことを忘れさせ、それらの源に立ち返る必要性は理解する必要さえないものだと考えさせる。(『存在と時間』、43 ページ)

ハイデッガーは、伝統がいたるところで硬直化している可能性があると考える。

存在の問題が独自の歴史を透明化させるのであれば、この硬直化した伝統は緩められ、それがもたらした隠蔽は解消されなければならない。我々は、この課題 を、存在の問いを糸口として、古代の存在論の伝統的な内容を破壊し、存在の本質を決定する最初の方法、すなわちそれ以来我々を導いてきた方法を達成した原 初の経験に到達するまで続けるものとして理解している。(『存在と時間』、44ページ)

その後、ハイデガーは自身の「破壊」プロジェクトの肯定性について次のように述べている。

それは、存在論的観点の悪質な相対化とは何の関係もない。しかし、この破壊は、存在論的伝統を否定するという否定的な意味合いとは全く異なる。それどころ か、我々は、その伝統の肯定的な可能性を主張しなければならない。そして、それはその限界内に留まることを意味する。そして、その限界は、その時代におけ る問題の定式化の仕方、そして、調査の可能な分野がこのように限定される仕方において、事実上与えられる。否定的な面では、この破壊は過去とは関係を持た ない。その批判は「今日」に向けられ、存在論の歴史の一般的な扱い方に向けられている。しかし、過去を無効(Nichtigkeit)に葬ることがこの破 壊の目的ではない。その目的は肯定的であり、否定的な機能は表現されず間接的なままである。(『存在と時間』、p. 44)


Dasein

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Main article: Dasein
In his effort to redefine man, Heidegger introduces a statement: 'the ownmost of Dasein consists in its existence'.[15] Heidegger conceptualises existence around the unique qualities of man, which he considers "its own being is an issue for it".[16] In the Heideggerian view, man defines its own being through its actions and choices, and is able to choose amongst possibilities, actualizing at least one of the possibilities available while closing off others in the process. This grasping of only some possibilities defines man as one kind of self rather than another: a dishonest choice defines a person as dishonest, fixing broken windows defines a person as a glazier, and so on. These choices are made continually and on a daily basis, and so man is able to define itself as it moves along. Therefore, living the life of a person is a matter of constantly taking a stand on one's sense of self, and one's sense of self being defined by taking that stand. As no choice is 'once and for always', man has to continually keep on choosing for his sense of self.

Added to this is that the being of everything else on the planet poses an issue for man, as humanity deals with things as what they are and persons as who they are. Only persons, for example, relate to others as meaningful and fitting meaningfully into and with other things and/or activities. Only man, being that is in the manner of existence, can encounter another entity in its instrumental character. Again, 'to be an issue' means to be concerned about something and to care for something. In other words, being of Dasein as existence is so constituted that in its very being it has a caring relationship to its own being. This relationship is not a theoretical or self-reflective one, but rather a pre-theoretical one which Heidegger calls a relation or compartment of understanding. Dasein understands itself in its own being or Dasein is in the manner that its being is always disclosed to it. It is this disclosure of being that differentiates Dasein from all other beings. This manner of being of Dasein to which it relates or comports itself is called 'existence'.[17] Further, it is essential to have a clear understanding of the term 'ownmost'. It is the English rendering of the German wesen translated usually as 'essence' (the 'what'ness). The verbal form of German term wesen comes closer to the Indian root vasati, which means dwelling, living, growing, maturing, moving etc. Thus, this verbal dynamic character implied in the word wesen is to be kept in mind to understand the nuance of the Heideggerian usage of 'existence'. If traditionally wesen had been translated as essence in the sense of 'whatness', for Heidegger such a translation is unfit to understand what is uniquely human. Heidegger takes the form of existence from the Latin word ex-sistere (to stand out of itself) with an indication of the unique characteristic of the being of man in terms of a dynamic 'how' as against the traditional conception in terms of 'whatness'. Hence existence for Heidegger means how Dasein in its very way of being is always outside itself in a relationship of relating, caring as opposed to a relationship of cognitive understanding to other innerworldly beings. Thereby, it is to differentiate strictly, what is ownmost to Dasein from that of other modes of beings that Heidegger uses the term 'existence' for the being of man. For what is ownmost to other modes of beings, he uses the term present-at-hand. The various elements of Existence are called 'existentials' and that of what is present-at-hand are called the 'categories'. According to Heidegger "man alone exists, all other things are (they don't exist)". It is important to understand that this notion of 'existence' as what is ownmost to man is not a static concept to be defined once and for all in terms of a content, but has to be understood in terms of something that is to be enacted that varies from individual to individual and from time to time unlike other beings that have a fixed essence. That being whose ownmost is in the manner of existence is called Dasein. In German, da has a spatial connotation of either being 'there' or 'here'. Dasein thus can mean simply "being there or here". In German, it could also refer to the existence (as opposed to the essence) of something, especially that of man. However, Heidegger invests this term with a new ontological meaning. The German term Dasein consists of two components: Da and sein. In the Heideggerian usage, the suffix -sein stands for the being of man in the manner of existence and Da- stands for a three-fold disclosure. According to Heidegger, the being of man is in the manner of a threefold disclosure. That is, the ontological uniqueness of man consists in the fact that its being becomes the da/sphere, where not only its own being, but the being of other non-human beings as well as the phenomenon of world is disclosed to Dasein because of which it can encounter the innerworldly beings in their worlding character. Hence, for Heidegger the term Dasein is a title for the ontological structure of the ontical human being.


存在

この節には、もしかするとオリジナル研究が含まれているかもしれない。主張を検証し、インラインで引用を追加することで、それを改善してください。オリジ ナル研究のみで構成されるステートメントは削除すべきである。(2021年6月)(どのように、いつこのメッセージを削除するか学ぶ)
詳細は「存在」を参照
人間を再定義する試みにおいて、ハイデガーは「存在の最も本質的なものは、その存在にある」という主張を提示している。[15] ハイデガーは、人間独自の性質を軸に存在を概念化し、人間は「その存在自体が問題である」と考える。[16] 問題である」と考える。[16] ハイデガーの考えでは、人間は自らの行動や選択によって自己を定義し、可能性の中から選択することができ、その過程で他の可能性を排除しながら、少なくと も一つの可能性を実現することができる。このように、一部の可能性のみを把握することで、人間は別の自己ではなく、ある種の自己として定義される。不誠実 な選択は人を不誠実な人間と定義し、割れた窓の修理は人をガラス職人と定義する、といった具合である。これらの選択は絶え間なく、日常的に行われるため、 人は自らを定義しながら進んでいくことができる。したがって、人の人生とは、自己の感覚に対して常に立ち位置を定めることである。自己の感覚は、その立ち 位置を定めることによって定義される。一度きりの選択などないため、人は自己の感覚のために絶えず選択を続けなければならない。

これに加えて、地球上のあらゆるものの存在は人間にとって問題となる。なぜなら、人間は物事をありのままに扱い、人をその人として扱うからだ。例えば、人 間だけが他の物や活動と意味のある関係を築き、それらに意味を与えることができる。存在の仕方において人間だけが、道具的な性格を持つ別の存在と遭遇する ことができる。繰り返しになるが、「問題となる」とは、何かについて懸念を抱き、何かを気にかけることを意味する。言い換えれば、存在としての実存は、そ の存在そのものにおいて、自身の存在に対して思いやりを持つ関係を持つように構成されている。この関係は理論的または自己反省的なものではなく、むしろハ イデガーが「理解の関係」または「理解の区分」と呼ぶ、理論以前の関係である。 存在は、その存在において自らを理解する、または存在は、その存在が常にそれに対して明らかにされる方法において存在する。 存在が他のあらゆる存在と異なるのは、この存在の開示である。この「存在」のあり方は、それが関係する、あるいはそれにふさわしい「存在」のあり方であ り、「存在」と呼ばれる。[17] さらに、「最も自分らしい」という用語を明確に理解することが不可欠である。これは通常「本質」(「何々らしさ」)と訳されるドイツ語の「本性」の英語訳 である。ドイツ語の「本性」の動詞形は、インドの語根「vasati」に近く、これは「住まい」、「生活」、「成長」、「成熟」、「移動」などを意味す る。したがって、ハイデガーの「存在」の用法のニュアンスを理解するには、この動的な性格を持つ「存在」という言葉に留意する必要がある。もし伝統的に 「存在」が「本質」と訳されてきたのであれば、ハイデガーにとってそのような訳は人間独自の本質を理解するには不適切である。ハイデガーは、存在の形をラ テン語のex-sistere(それ自体から突出する)から取り、従来の「whatness」という概念に対する動的な「how」という観点から、人間存 在の独自な特徴を示している。したがって、ハイデガーにとっての存在とは、存在のあり方そのものであるDaseinが、他の内界の存在に対する認知理解の 関係とは対照的に、関わり合い、思いやる関係において、常にそれ自体の外にあることを意味する。したがって、厳密に区別するために、ハイデガーは人間の本 質を指すのに「存在」という言葉を使用している。人間以外の存在の本質を指すには、「手近にあるもの」という言葉を使用している。存在のさまざまな要素は 「存在論的」と呼ばれ、手近にあるものは「範疇」と呼ばれる。ハイデッガーによれば、「人間だけが存在し、他のすべてのものは存在しない」という。人間に とって最も本質的なものとしての「存在」という概念は、一度だけ定義される静的な概念ではなく、固定された本質を持つ他の存在とは異なり、個人によって、 また時によって異なる行為として理解されるべきものであることを理解することが重要である。存在の仕方において最も本質的な存在を「存在」と呼ぶ。ドイツ 語の「da」には、「そこ」または「ここ」という空間的な意味合いがある。したがって、「存在」は「そこにある」または「ここにいる」という意味になる。 ドイツ語では、特に人間について、本質とは対照的な存在を指すこともある。しかし、ハイデガーは、この用語に新たな存在論的な意味を与えた。ドイツ語の 「存在」という用語は、「da」と「sein」の2つの要素で構成される。ハイデガーの用法では、接尾辞 -sein は存在の仕方における人間の存在を表し、Da- は3つの側面での開示を表す。ハイデガーによれば、人間の存在は3つの側面での開示の仕方にある。つまり、人間の本質的な独自性は、その存在が 「da/sphere(存在の場)」となるという事実にある。そこでは、自身の存在だけでなく、人間以外の存在や世界の現象も、それが世界化の性格を持つ 内界の存在と遭遇できるという理由から、Daseinに開示される。したがって、ハイデガーにとってDaseinという用語は、存在論的な人間の本質的な 構造を表す名称である。



Disclosure
Main article: World disclosure
Further information: Reflective disclosure
(German: Erschlossenheit)

Hubert Dreyfus and Charles Spinosa write that: "According to Heidegger our nature is to be world disclosers. That is, by means of our equipment and coordinated practices we human beings open coherent, distinct contexts or worlds in which we perceive, feel, act, and think."[18]

Heidegger scholar Nikolas Kompridis writes: "World disclosure refers, with deliberate ambiguity, to a process which actually occurs at two different levels. At one level, it refers to the disclosure of an already interpreted, symbolically structured world; the world, that is, within which we always already find ourselves. At another level, it refers as much to the disclosure of new horizons of meaning as to the disclosure of previously hidden or unthematized dimensions of meaning."[19]
開示
詳細は「世界開示」を参照
さらに詳しい情報:反映的開示
(ドイツ語:Erschlossenheit

フーベルト・ドレイファスとチャールズ・スピノザは次のように書いている。「ハイデガーによれば、我々の本性は世界を明らかにすることである。つまり、我 々人間は、我々の能力と協調的な実践によって、一貫性のある、明確な文脈や世界を開示し、それによって我々は知覚し、感じ、行動し、考えるのである。」 [18]

ハイデッガー学者のニコラス・コンプリディスは次のように書いている。「世界開示とは、意図的に曖昧さを残した表現で、実際には2つの異なるレベルで起こ るプロセスを指している。1つのレベルでは、すでに解釈され、象徴的に構造化された世界の開示を指している。つまり、私たちが常にすでに存在している世界 である。もう1つのレベルでは、隠されていたり、テーマ化されていなかった意味の次元の開示と同様に、新しい意味の地平の開示を指している。」[19]


Discourse
(German: Rede) The ontological-existential structure of Dasein consists of "thrownness" (Geworfenheit), "projection" (Entwurf), and "being-along-with"/"engagement" (Sein-bei). These three basic features of existence are inseparably bound to "discourse" (Rede), understood as the deepest unfolding of language.[20]
言説
(ドイツ語:Rede) 存在の存在論的・実存的構造は、「投げ出されたもの」(Geworfenheit)、「計画」(Entwurf)、「ともに存在するもの/関与」 (Sein-bei)から成る。存在のこれら3つの基本的な特徴は、「言説」(Rede)と不可分に結びついている。言説は、言語の最も深い展開として理 解される。[20]


Equipment

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(German: das Zeug) Das Zeug refers to an object in the world with which one has meaningful dealings. A nearly un-translatable term, Heidegger's equipment can be thought of as a collective noun, so that it is never appropriate to call something 'an equipment'. Instead, its use often reflects it to mean a tool, or as an "in-order-to" for Dasein. Tools, in this collective sense, and in being ready-to-hand, always exist in a network of other tools and organizations, e.g., the paper is on a desk in a room at a university. It is inappropriate usually to see such equipment on its own or as something present-at-hand.

Another, less prosaic, way of thinking of 'equipment' is as 'stuff one can work with' around us, along with its context. "The paper one can do things with, from the desk, in the university, in the city, on the world, in the universe." 'Equipment' refers to the thing, and its usefulness possibilities, and its context.


装置

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(ドイツ語:das Zeug)「Das Zeug」は、人が意味のある関わりを持つ世界の物体を指す。ほとんど翻訳不可能な用語であるが、ハイデガーの「装備」は集合名詞として考えることができ る。そのため、何かを「装備」と呼ぶことは決して適切ではない。むしろ、その使用は、道具や、あるいは「~するために」という意味で使われることが多い。 道具は、この集合的な意味において、また、すぐに使える状態で、常に他の道具や組織のネットワークの中に存在している。例えば、紙は大学の部屋の机の上に ある。このような道具を単独で、あるいは手元にあるものとして見るのは通常不適切である。

「設備」について、より現実離れしていない別の考え方として、身の回りの「使えるもの」として、その文脈とともに考える方法がある。「大学、都市、世界、 宇宙にある机の上にある、何かができる紙」である。「設備」とは、そのもの、その有用性、可能性、そしてその文脈を指す。



Ereignis
Ereignis is translated often as "an event", but is better understood in terms of something "coming into view". It comes from the German prefix, er-, comparable to 're-' in English, and äugen, to look.[21][22] It is a noun coming from a reflexive verb. Note that the German prefix er- also can connote an end or a fatality. A recent translation of the word by Kenneth Maly and Parvis Emad renders the word as "enowning"; that in connection with things that arise and appear, that they are arising 'into their own'. Hubert Dreyfus defined the term as "things coming into themselves by belonging together".

Ereignis appears in Heidegger's later works and is not easily summarized. The most sustained treatment of the theme occurs in the cryptic and difficult Contributions to Philosophy. In the following quotation he associates it with the fundamental idea of concern from Being and Time, the English etymology of con-cern is similar to that of the German:

...we must return to what we call a concern. The word Ereignis (concern) has been lifted from organically developing language. Er-eignen (to concern) means, originally, to distinguish or discern which one's eyes see, and in seeing calling to oneself, ap-propriate. The word con-cern we shall now harness as a theme word in the service of thought.[23]
Ereignis
Ereignisは「イベント」と訳されることが多いが、「視界に入る」という意味で理解するのがより適切である。これはドイツ語の接頭辞er-に由来 し、英語の「re-」に相当し、äugen(見る)に由来する。[21][22] これは再帰動詞に由来する名詞である。ドイツ語の接頭辞er-は、終わりや不運を暗示することもある。ケネス・マリーとパルヴィス・エマッドによる最近の 訳では、この単語は「enowning」と訳されている。つまり、生じ、現れるものに関連して、それらが「自分自身の中に」生じていることを意味する。ハ バート・ドレイファスは、この用語を「結びつきによって自分自身に帰属するもの」と定義している。

Ereignisはハイデガーの晩年の著作にも登場するが、簡単に要約できるものではない。このテーマに関する最も詳細な考察は、難解な『哲学への寄与』 に見られる。次の引用では、彼は『存在と時間』の根本的な考えと関連付けている。英語の「コンサーン」の語源はドイツ語のそれと似ている。

...私たちは「懸念」と呼ぶものに立ち返らなければならない。Ereignis(懸念)という言葉は、有機的に発展する言語から取り出されたものであ る。Er-eignen(懸念)は、もともとは、自分の目で見て識別し、見ながら自分に呼びかけ、所有することを意味する。con-cernという言葉 は、私たちが思考のテーマとして活用するものである。[23]


Existence
Main article: § Dasein
(German: Existenz)
存在
詳細は「§ 存在」を参照
(ドイツ語:Existenz)


Existentiell
Main article: Existentiell
(German: Existenziell)
Existential
詳細は「Existential」を参照
(ドイツ語: Existenziell)


Fundamental ontology
Traditional ontology asks "Why is there anything?", whereas Heidegger's fundamental ontology asks "What does it mean for something to be?". Taylor Carman writes (2003) that Heidegger's "fundamental ontology" is fundamental relative to traditional ontology in that it concerns "what any understanding of entities necessarily presupposes, namely, our understanding of that in virtue of which entities are entities."[24]
根本的な存在論
従来の存在論は「なぜ何かがあるのか?」という問いを立てるが、ハイデガーの根本的な存在論は「何かがあるとはどういうことか?」と問う。テイラー・カー マンは、ハイデガーの「根本的な存在論」は、従来の存在論と比較して根本的なものであると述べている。なぜなら、それは「実体のあらゆる理解が必然的に前 提としているもの、すなわち、実体が実体であることの理由である我々の理解」に関係しているからである。[24]


Gelassenheit
For the understanding of Gelassenheit in the Anabaptist tradition, see Ordnung § Gelassenheit.
Often translated as "releasement",[25] Heidegger's concept of Gelassenheit has been explained as "the spirit of disponibilité [availability] before What-Is which permits us simply to let things be in whatever may be their uncertainty and their mystery."[26] Heidegger elaborated the idea of Gelassenheit in 1959, with a homonymous volume which includes two texts: a 1955 talk entitled simply Gelassenheit,[27] and a 'conversation' (Gespräch) entitled Zur Erörterung der Gelassenheit: Aus einem Feldweggespräch über das Denken[28] ("Towards an Explication of Gelassenheit: From a Conversation on a Country Path about Thinking",[29] or "Toward an Emplacing Discussion [Erörterung] of Releasement [Gelassenheit]: From a Country Path Conversation about Thinking").[30] An English translation of this text was published in 1966 as "Conversation on a Country Path about Thinking".[30][31] Heidegger borrowed the term from the Christian mystical tradition, proximately from Meister Eckhart.[29][32][33]
ゲラッセンハイト
ゲラッセンハイトをアナバプテストの伝統で理解する場合は、オルドゥング § ゲラッセンハイトを参照のこと。
ゲラッセンハイトという概念は、しばしば「解放」と訳されるが[25]、ハイデガーは「存在するものの前に存在する可能性 (disponibilidad)の精神であり、それが、不確かさや神秘性があろうとも、ただあるがままにしておくことを私たちに許容する」と説明してい る[26]。 1959年に『ゲラッセンハイト』という同名の著作でゲラッセンハイトの概念を詳しく説明し、その著作には2つのテキストが含まれている。1955年の講 演「ゲラッセンハイト」[27]と、「ゲラッセンハイトの考察: Aus einem Feldweggespräch über das Denken[28](「ゲラッセンハイトの解明に向けて:思考についての田舎道の会話から」[29]、「解放[ゲラッセンハイト]の解明[エルーアリン グ]に向けて: 思考についての田舎道での会話」より)。[30] このテキストの英訳は1966年に「思考についての田舎道での会話」として出版された。[30][31] ハイデッガーはキリスト教神秘主義の伝統から、より直接的にマイスター・エックハルトからこの用語を借用した。[29][32][33]


Gestell
Main article: The Question Concerning Technology
Heidegger once again returns to discuss the essence of modern technology to name it Gestell. The original German meaning something more like scaffolding, he defines it primarily as a sort of enframing:

Enframing means the gathering together of that setting-upon that sets upon man, i.e., challenges him forth, to reveal the real, in the mode of ordering, as standing-reserve. Enframing means that way of revealing that holds sway in the essence of modern technology and that it is itself not technological.[34]

Once he has discussed enframing, Heidegger highlights the threat of technology. As he states, this threat "does not come in the first instance from the potentially lethal machines and apparatus of technology."[34] Rather, the threat is the essence because "the rule of enframing threatens man with the possibility that it could be denied to him to enter into a more original revealing and hence to experience the call of a more primal truth."[34] This is because challenging-forth conceals the process of bringing-forth, which means that truth itself is concealed and no longer unrevealed.[34] Unless humanity makes an effort to re-orient itself, it will not be able to find revealing and truth.

It is at this point that Heidegger has encountered a paradox: humanity must be able to navigate the dangerous orientation of enframing because it is in this dangerous orientation that we find the potential to be rescued.[35] To further elaborate on this, Heidegger returns to his discussion of essence. Ultimately, he concludes that "the essence of technology is in a lofty sense ambiguous" and that "such ambiguity points to the mystery of all revealing, i.e., of truth."[34]
ゲステル
詳細は「テクノロジーに関する問い」を参照
ハイデッガーは再び、現代技術の本質について論じ、それを「ゲステル」と呼ぶ。ドイツ語の原義は足場のようなもので、彼はそれを主に「囲い込み」の一種と定義している。

エンフレーミングとは、人間を包み込むような環境をひとまとめにすることであり、すなわち、人間に挑戦し、真実を明らかにするために、秩序ある方法で、準 備された状態として存在することを意味する。エンフレーミングとは、現代技術の本質において支配的な、真実を明らかにする方法であり、それ自体は技術的で はないことを意味する。

エンフレーミングについて論じた後、ハイデッガーはテクノロジーの脅威を強調する。彼が述べているように、この脅威は「テクノロジーの潜在的に致命的な機 械や装置から直接的に生じるものではない」[34]。むしろ、脅威の本質は「エンフレーミングの支配が人間に対して、より根源的な啓示へと踏み込むことを 否定される可能性、そして、 」[34] なぜなら、問いかけは、引き出すというプロセスを隠蔽するからである。つまり、真実そのものが隠蔽され、もはや明らかにされていないということである。 [34] 人類が自らを再方向づけする努力をしなければ、明らかにすることや真実を見つけることはできないだろう。

この点において、ハイデッガーはパラドックスに遭遇した。人類は、救済される可能性を見出すことができるのはこの危険な方向性においてであるため、危険な 方向性である「枠組み」をナビゲートできなければならない。[35] この点をさらに詳しく説明するために、ハイデッガーは本質についての議論に戻っている。最終的に、彼は「テクノロジーの本質は崇高な意味で曖昧である」と 結論づけ、「このような曖昧性は、あらゆる啓示、すなわち真実の神秘を指し示している」と述べている。[34]


Geworfenheit
Main article: Thrownness
Geworfenheit describes man's individual existences as "being thrown" (geworfen) into the world. For William J. Richardson, Heidegger used this single term, "thrown-ness", to "describe [the] two elements of the original situation, There-being's non-mastery of its own origin and its referential dependence on other beings".[36]
投げ出された状態
詳細は「投げ出された状態」を参照
投げ出された状態とは、人間が個々に世界に「投げ出された」(geworfen)存在であることを指す。ウィリアム・J・リチャードソンによると、ハイデ ガーは「投げ出された状態」というこの単語を用いて、「存在が自身の起源を支配できないこと、および他の存在への参照的依存という、原初的状況の2つの要 素を説明」した。[36]

Being-toward-death
Being-toward-death
(German: Sein-zum-Tode)

Being-toward-death is not an orientation that brings Dasein closer to its end, in terms of clinical death, but is rather a way of being.[3] Being-toward-death refers to a process of growing through the world where a certain foresight guides the Dasein towards gaining an authentic perspective. It is provided by dread of death. In the analysis of time, it is revealed as a threefold condition of Being. Time, the present, and the notion of the "eternal", are modes of temporality, which is the way humanity views time. For Heidegger, it is very different from the mistaken view of time as being a linear series of past, present and future. Instead he sees it as being an ecstasy, an outside-of-itself, of futural projections (possibilities) and one's place in history as a part of one's generation. Possibilities, then, are integral to understanding of time; projects, or thrown projection in-the-world, are what absorb and direct people. Futurity, as a direction toward the future that always contains the past—the has-been—is a primary mode of Dasein's temporality.

Death is that possibility which is the absolute impossibility of Dasein. As such, it cannot be compared to any other kind of ending or "running out" of something. For example, one's death is not an empirical event. For Heidegger, death is Dasein's ownmost (it is what illuminates Dasein in its individuality), it is non-relational (nobody can take one's death away from one, or die in one's place, and we can not understand our own death through the death of other Dasein), and it is not to be outstripped. The "not-yet" of life is always already a part of Dasein: "as soon as man comes to life, he is at once old enough to die." The threefold condition of death is thus simultaneously one's "ownmost potentiality-for-being, non-relational, and not to be out-stripped". Death is determinate in its inevitability, but an authentic Being-toward-death understands the indeterminate nature of one's own inevitable death—one never knows when or how it is going to come. However, this indeterminacy does not put death in some distant, futural "not-yet"; authentic Being-toward-death understands one's individual death as always already a part of one.[4]

With average, everyday (normal) discussion of death, all this is concealed. The "they-self" talks about it in a fugitive manner, passes it off as something that occurs at some time but is not yet "present-at-hand" as an actuality, and hides its character as one's ownmost possibility, presenting it as belonging to no one in particular. It becomes devalued—redefined as a neutral and mundane aspect of existence that merits no authentic consideration. "One dies" is interpreted as a fact, and comes to mean "nobody dies".[5]

On the other hand, authenticity takes Dasein out of the "They", in part by revealing its place as a part of the They. Heidegger states that Authentic being-toward-death calls Dasein's individual self out of its "they-self", and frees it to re-evaluate life from the standpoint of finitude. In so doing, Dasein opens itself up for "angst", translated alternately as "dread" or as "anxiety". Angst, as opposed to fear, does not have any distinct object for its dread; it is rather anxious in the face of Being-in-the-world in general—that is, it is anxious in the face of Dasein's own self. Angst is a shocking individuation of Dasein, when it realizes that it is not at home in the world, or when it comes face to face with its own "uncanny" (German Unheimlich, "not homelike"). In Dasein's individuation, it is open to hearing the "call of conscience" (German Gewissensruf), which comes from Dasein's own Self when it wants to be its Self. This Self is then open to truth, understood as unconcealment (Greek aletheia). In this moment of vision, Dasein understands what is hidden as well as hiddenness itself, indicating Heidegger's regular uniting of opposites; in this case, truth and untruth.[6]


死に向かっている存在
(ドイツ語:Sein-zum-Tode)

死に向かう存在とは、臨床的な死という意味で、ダーザインをその終わりに近づける志向性ではなく、むしろ存在のあり方である。それは死の恐怖によってもた らされる。時間の分析において、それは存在の三重の条件として明らかにされる。時間、現在、そして「永遠」の概念は、人類が時間を見る方法である時間性の 様式である。ハイデガーにとって、時間は過去、現在、未来という直線的な系列であるという誤った見方とは大きく異なる。ハイデガーにとって時間とは、過 去、現在、未来という直線的な系列であるという誤った見方とはまったく異なるものであり、それどころか、時間とは恍惚であり、未来への投影(可能性)であ り、自分の世代の一部としての歴史における自分の居場所であるという、自己の外側にあるものだと考えている。可能性とは、時間を理解するために不可欠なも のであり、世界における投影とは、人々を吸収し、方向づけるものである。未来性とは、常に過去-既成-を含む未来への方向性であり、ダーザインの時間性の 主要な様式である。

死とは、ダーザインの絶対的不可能性である可能性である。そのため、他のいかなる種類の終わりや、何かの「使い果たし」と比較することはできない。例え ば、人の死は経験的な出来事ではない。ハイデガーにとって、死はダーザインの最たるものであり(ダーザインの個性を照らし出すものである)、非関係的なも のであり(誰も自分の死を奪うことはできないし、自分の代わりに死ぬこともできない。生の「まだないもの」は、常にすでにダーザインの一部なのだ: 「人間は生を受けるとすぐに、死ぬのに十分な年齢になる」。こうして死の三重の条件は、同時に自分の「存在するための最も潜在的な可能性であり、非関係的 なものであり、追い抜かれることのないもの」である。死はその必然性において確定的であるが、死に向かう本物の存在は、自分自身の必然的な死が不確定であ ることを理解している。しかし、この不確定性は、死をどこか遠い未来の「まだ来ていない」ところに置くのではなく、真正の「死に向かう存在」は、自分の個 々の死を、常にすでに自分の一部であると理解している[4]。

死についての平均的で日常的な(普通の)議論では、このようなことはすべて隠されている。彼ら自身」は死について逃亡的なやり方で語り、いつかは起こる が、まだ現実として「手元にある」ものではないものとして受け流し、自分自身の最も可能性のあるものとしての性格を隠し、特定の誰のものでもないものとし て提示する。それは切り捨てられ、本物の考察に値しない存在の中立的で平凡な側面として再定義される。「人は死ぬ」は事実として解釈され、「誰も死なな い」を意味するようになる[5]。

他方、真正性は、「彼ら」の一部としての位置を明らかにすることによって、ダーザインを「彼ら」から引き離す。ハイデガーは、「死に向かう真正性」はダー ザインの個々の自己を「彼ら自身」から引き離し、人生を有限性の観点から再評価するよう解放すると述べている。そうすることで、ダーセインは「恐怖」や 「不安」とも訳される「怒り」のために自らを開放する。恐怖とは対照的に、アングストはその恐怖に明確な対象を持たない。アングストはむしろ、世界におけ る存在一般に直面して不安なのであり、つまりダゼイン自身の自己に直面して不安なのである。怒りとは、ダーゼインが衝撃的な個体化を遂げることであり、そ れは、ダーゼインが、自分がこの世界に馴染んでいないことに気づくとき、あるいは、自分自身の「不気味さ」(ドイツ語でUnheimlich、「馴染んで いない」)に直面するときである。ダーザインの個性化において、ダーザインは「良心の呼び声」(独 Gewissensruf)を聞くことに開かれている。その時、この自己は真理に対して開かれている。この視覚の瞬間において、ダーゼインは隠されている ものを理解すると同時に、隠されていること自体も理解するのであり、ハイデガーが対立するもの(この場合は真理と非真理)を規則的に統合していることを示 している[6]。

































世界=内=存在

(German: In-der-Welt-sein)

Being-in-the-world is Heidegger's replacement for terms such as subject, object, consciousness, and world. For him, the split of things into subject/object, as is found in the Western tradition and even in language, must be overcome, as is indicated by the root structure of Husserl and Brentano's concept of intentionality, i.e., that all consciousness is consciousness of something, that there is no consciousness, as such, cut off from an object (be it the matter of a thought or of a perception). Nor are there objects without some consciousness beholding or being involved with them.

At the most basic level of being-in-the-world, Heidegger notes that there is always a mood, a mood that "assails us" in humanity's unreflecting devotion to the world. A mood comes neither from the "outside" nor from the "inside", but arises from being-in-the-world. A person may turn away from a mood but that is only to another mood, as part of facticity. Only with a mood is someone permitted to encounter things in the world. Dasein (a co-term for being-in-the-world) has an openness to the world that is constituted by the attunement of a mood or state of mind. As such, Dasein is a "thrown" "projection" (geworfener Entwurf), projecting itself onto the possibilities that lie before it or may be hidden, and interpreting and understanding the world in terms of possibilities. Such projecting has nothing to do with comporting oneself toward a plan that has been thought out. It is not a plan, since Dasein has, as Dasein, already projected itself. Dasein always understands itself in terms of possibilities. As projecting, the understanding of Dasein is its possibilities as possibilities. One can take up the possibilities of "The They" self and merely follow along or make some more authentic understanding.[2]

https://en.wikipedia.org/wiki/Heideggerian_terminology
(ドイツ語:In-der-Welt-sein)

ハイデガーが主体、客体、意識、世界といった用語に置き換えたのが「世界における存在」である。ハイデガーにとって、西洋の伝統や言語においてさえ見られ るような、物事を主体/客体に分割することは、フッサールやブレンターノの意図性の概念の根源的構造、すなわち、すべての意識は何かの意識であり、対象 (それが思考の問題であれ、知覚の問題であれ)から切り離された意識は存在しないということが示すように、克服されなければならない。また、何らかの意識 が対象物を見たり、対象物に関わったりすることなしに、対象物が存在することもない。

ハイデガーは、世界における存在の最も基本的なレベルにおいて、世界に対する人間の無反省な献身において「われわれを襲う」気分が常に存在すると指摘す る。気分は「外」からも「内」からもやって来ない。人は気分から背を向けることができるが、それは事実性の一部として、別の気分に向かうだけである。気分 によってのみ、人は世界の物事に出会うことが許されるのである。ダゼイン(「世界における存在」の造語)は、気分や心の状態の同調によって構成される世界 に対する開放性を持っている。このように、ダーザインは「投げかけられた」「投影」(geworfener Entwurf)であり、目の前に横たわる、あるいは隠されているかもしれない可能性に自らを投影し、可能性という観点から世界を解釈し理解する。このよ うな投影は、考え抜かれた計画に向かって自らを律することとは何の関係もない。ダゼインはダゼインとして、すでに自らを投影しているのだから。ダーザイン は常に可能性という観点から自らを理解している。投影するものとして、ダーザインを理解することは、その可能性を可能性として理解することである。人は 「彼ら」の自己の可能性を取り上げて、単にそれに従うこともできるし、より確かな理解をすることもできる[2]。



Metontology
Metontology is a neologism Heidegger introduced in his 1928 lecture course "Metaphysical Foundations of Logic." The term refers to the ontic sphere of human experience.[49][50] While ontology deals with the entire world in broad and abstract terms, metontology concerns concrete topics; Heidegger offers the examples of sexual differences and ethics.
メトロンティーク
メトロンティークは、ハイデガーが1928年の講義コース「論理学の形而上学基礎」で導入した新語である。この用語は、人間の経験の存在論的領域を指す。 [49][50] 存在論が世界全体を広範かつ抽象的な用語で扱うのに対し、メトロンティークは具体的なトピックを扱う。ハイデガーは、性的相違と倫理を例として挙げてい る。


Ontic
Main article: Ontic
(German: ontisch)

Heidegger uses the term ontic, often in contrast to the term ontological, when he gives descriptive characteristics of a particular thing and the "plain facts" of its existence. What is ontic is what makes something what it is.

For an individual discussing the nature of "being", one's ontic could refer to the physical, factual elements that produce and/or underlie one's own reality - the physical brain and its substructures. Moralists raise the question of a moral ontic when discussing whether there exists an external, objective, independent source or wellspring for morality that transcends culture and time.


存在的(オンティック)
詳細は存在論を参照
(ドイツ語:存在論的

)ハイデガーは、特定の事物の記述的特性や、その存在の「明白な事実」を説明する際に、存在論的という用語と対比して、存在論的という用語を頻繁に使用している。存在論的とは、何かをそれが何であるかのようにするものである。

「存在」の本質について論じる個人の場合、その個人の存在論的要素とは、その個人の現実を作り出し、またその現実の基盤となる物理的、事実的な要素、すな わち物理的な脳やその下部構造を指す可能性がある。道徳学者は、文化や時代を超えた道徳の源泉となるような、外部に存在する客観的かつ独立した源や根源が 存在するかどうかを論じる際に、道徳的要素の存在について疑問を投げかける。



Ontological
(German: ontologisch)

As opposed to "ontic" (ontisch), ontological is used when the nature, or meaningful structure of existence is at issue. Ontology, a discipline of philosophy, focuses on the formal study of Being. Thus, something that is ontological is concerned with understanding and investigating Being, the ground of Being, or the concept of Being itself.

For an individual discussing the nature of "being", the ontological could refer to one's own first-person, subjective, phenomenological experience of being.
存在論的
(ドイツ語:ontologisch)

存在論的(Ontological)は、「存在論的(Ontic)」とは対照的に、存在の本質や意味のある構造が問題となっている場合に用いられる。存在 論(Ontology)は哲学の一分野であり、存在の形式的な研究に焦点を当てている。したがって、存在論的なものは、存在の理解や調査、存在の根拠、あ るいは存在そのものの概念に関わるものである。

「存在」の本質について論じる個人にとって、存在論とは、自分自身の一人称、主観的、現象学的な存在経験を指す可能性がある。


Ontological difference
Central to Heidegger's philosophy is the difference between being as such and specific entities.[51][52] He calls this the "ontological difference", and accuses the Western tradition in philosophy of being forgetful of this distinction, which has led to misunderstanding "being as such" as a distinct entity.[51][53][54] (See reification)
存在論的差異
ハイデッガーの哲学の中心にあるのは、「存在そのもの」と特定の存在との間の差異である。[51][52] 彼はこれを「存在論的差異」と呼び、西洋の哲学の伝統がこの区別を忘れてしまったと非難している。この区別を忘れてしまったことが、「存在そのもの」を特 定の存在として誤解する原因となった。[51][53][54](再物化を参照)


Possibility
(German: Möglichkeit)

Möglichkeit is a term used only once in a particular edition of Being and Time. In the text, the term appears to denote "the possibility whose probability it is solely to be possible". At least, if it were used in context, this is the only plausible definition.


可能性
(ドイツ語:Möglichkeit)

可能性という用語は、『存在と時間』のある特定の版で一度だけ使用されている。テキストでは、この用語は「可能性のうちで、それが可能であることだけが確実であるもの」を意味しているように見える。少なくとも文脈から判断する限り、これが唯一の妥当な定義である。



Present-at-hand
(German: vorhanden, Vorhandenheit)

With the present-at-hand one has (in contrast to "ready-to-hand") an attitude like that of a scientist or theorist, of merely looking at or observing something. In seeing an entity as present-at-hand, the beholder is concerned only with the bare facts of a thing or a concept, as they are present and in order to theorize about it. This way of seeing is disinterested in the concern it may hold for Dasein, its history or usefulness. This attitude is often described as existing in neutral space without any particular mood or subjectivity. However, for Heidegger, it is not completely disinterested or neutral. It has a mood, and is part of the metaphysics of presence that tends to level all things down. Through his writings, Heidegger sets out to accomplish the Destruktion (see above) of this metaphysics of presence.

Present-at-hand is not the way things in the world are usually encountered, and it is only revealed as a deficient or secondary mode, e.g., when a hammer breaks it loses its usefulness and appears as merely there, present-at-hand. When a thing is revealed as present-at-hand, it stands apart from any useful set of equipment but soon loses this mode of being present-at-hand and becomes something, for example, that must be repaired or replaced.
手元にあるもの
(ドイツ語:vorhanden、Vorhandenheit)

手元にあるものとは、「手元にあるもの」とは対照的に、科学者や理論家の態度のように、単に何かを見たり観察したりすることである。手元にあるものとして 実体を見る場合、見る者は、それが存在し、それを理論化するために、物事や概念の事実のみに関心を持つ。この見方は、存在、歴史、有用性などへの関心は持 たない。この態度は、特定の気分や主観性を持たない中立的な空間にあると表現されることが多い。しかし、ハイデガーにとって、それは完全に無関心でも中立 でもない。それはある雰囲気を帯びており、あらゆるものを同一平面上に置こうとする「存在の形而上学」の一部である。ハイデッガーは著作を通じて、この 「存在の形而上学」の「破壊」(Destruktion)を成し遂げようとした。

「手近にある」という状態は、通常、世界における物のあり方ではない。それは、ハンマーが壊れると有用性を失い、ただそこにある「手近にある」ものとして 現れるように、欠陥のある状態や二次的な状態としてのみ現れる。物が「手近にある」状態として現れると、それは有用な設備とは区別されるが、すぐに「手近 にある」というあり方を失い、修理や交換が必要な何かに変化する。


Ready-to-hand

This section is written like a personal reflection, personal essay, or argumentative essay that states a Wikipedia editor's personal feelings or presents an original argument about a topic. Please help improve it by rewriting it in an encyclopedic style. (December 2021) (Learn how and when to remove this message)
(German: Griffbereit, zuhanden, zuhandenheit)

In almost all cases humanity is involved in the world in an ordinary, and more involved, way, undertaking tasks with a view to achieving something. Take for example, a hammer: it is ready-to-hand; we use it without theorizing. In fact, if we were to look at it as present-at-hand, we might easily make a mistake. Only when it breaks or something goes wrong might we see the hammer as present-at-hand, just lying there. Even then however, it may be not fully present-at-hand, as it is now showing itself as something to be repaired or disposed, and therefore a part of the totality of our involvements. In this case its Being may be seen as unreadiness-to-hand. Heidegger outlines three manners of unreadiness-to-hand: Conspicuous (damaged; e.g., a lamp's wiring has broken), Obtrusive (a part is missing which is required for the entity to function; e.g., we find the bulb is missing), Obstinate (when the entity is a hindrance to us in pursuing a project; e.g., the lamp blocks my view of the computer screen).

Importantly, the ready-to-hand only emerges from the prior attitude in which we care about what is going on and we see the hammer in a context or world of equipment that is handy or remote, and that is there "in order to" do something. In this sense the ready-to-hand is primordial compared to that of the present-at-hand. The term primordial here does not imply something Primitive, but rather refers to Heidegger's idea that Being can only be understood through what is everyday and "close" to us. Our everyday understanding of the world is necessarily a part of any kind of scientific or theoretical studies of entities—the present-at-hand—might be. Only by studying our "average-everyday" understanding of the world, as it is expressed in the totality of our relationships to the ready-to-hand entities of the world, can we lay appropriate bases for specific scientific investigations into specific entities within the world.

For Heidegger in Being and Time this illustrates, in a very practical way, the way the present-at-hand, as a present in a "now" or a present eternally (as, for example, a scientific law or a Platonic Form), has come to dominate intellectual thought, especially since the Enlightenment. To understand the question of being one must be careful not to fall into this leveling off, or forgetfulness of being, that has come to assail Western thought since Socrates, see the metaphysics of presence.
すぐ手に取れる

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(ドイツ語: Griffbereit, zuhanden, zuhandenheit)

ほとんどの場合、人間は世界において、何かを達成することを目的として、日常的かつより複雑な方法で関与し、課題に取り組んでいる。例えばハンマーを考え てみよう。ハンマーはすぐに手に取れる。私たちは理論化することなくハンマーを使う。実際、もし私たちがハンマーを「手元にある」と見なした場合、私たち は簡単に間違いを犯すかもしれない。ハンマーが「手元にある」と認識できるのは、壊れたり何か問題が起こったときだけかもしれない。しかし、その場合で も、修理や廃棄が必要であることを示しているため、完全に「手元にある」とは言えないかもしれない。つまり、それは私たちの関与の全体の一部である。この 場合、その存在は「手元にない」と見なされるかもしれない。ハイデッガーは、手元にない状態を3つの態様で概説している。目立つ(破損している、例えば、 ランプの配線が切れている)、邪魔になる(機能するために必要な部品が欠けている、例えば、電球が欠けていることに気づく)、頑固な(対象物がプロジェク トの遂行の妨げになる、例えば、ランプがコンピューターの画面の視界を遮る)。

重要なのは、手の届く範囲にあるものは、私たちが今起こっていることに気を配っているという以前の態度から生じるということだ。そして、ハンマーは、何か をする「ため」に、便利であるか、あるいは遠い場所にある設備や世界という文脈の中で見られる。この意味で、手の届く範囲にあるものは、現在手の届く範囲 にあるものに比べ、より根源的なものだ。ここでいう「原始的」という言葉は、原始的なものを意味するのではなく、むしろ、存在は日常的で「身近な」ものを 通してのみ理解できるというハイデガーの考え方を指している。私たちが日常的に理解している世界は、存在に関するあらゆる種類の科学的または理論的研究の 一部である。世界に対する私たちの「平均的な日常的な」理解を研究すること、つまり、私たちの身の回りの存在に対する私たちの関係の全体性において表現さ れることによってのみ、私たちは、世界における特定の存在に対する特定の科学的調査のための適切な基盤を築くことができる。

ハイデガーの『存在と時間』では、これは「今」という現在、あるいは永遠の現在(例えば、科学法則やプラトニックな形相)として、手近にあるものが知的思 考を支配するようになったことを、非常に現実的な方法で示している。特に啓蒙思想以降はそうである。存在の問題を理解するには、ソクラテス以来西洋思想を 襲ってきた、この平準化や存在の忘却に陥らないよう注意しなければならない。プレゼンスの形而上学を参照のこと。


Resoluteness
(German: Entschlossenheit)
Resoluteness refers to one's ability to "unclose" one's framework of intelligibility (i.e., to make sense of one's words and actions in terms of one's life as a whole), and the ability to be receptive to the "call of conscience".
断固とした態度
(ドイツ語:Entschlossenheit)
断固とした態度とは、自分の理解可能な枠組みを「開く」能力(すなわち、自分の言葉や行動を、自分の人生全体という観点から意味づける能力)と、「良心の呼びかけ」を受け入れる能力を指す。


Seinsvergessenheit
This is translated variously as "forgetting of being" or "oblivion of being". A closely related term is "Seinsverlassenheit", translated as "abandonment of being". Heidegger believed that a pervasive nihilism in the modern world stems from Seinsverlassenheit.[55] The "ontological difference," the distinction between being (Sein) and beings (das Seiende), is fundamental for Heidegger. The forgetfulness of being that, according to him, occurs in the course of Western philosophy amounts to the oblivion of this distinction.[56]
存在忘却
これは「存在の忘却」あるいは「存在の忘却」などと訳される。 関連用語として「存在の放棄」と訳される「存在の孤独」がある。 ハイデガーは、現代世界に蔓延するニヒリズムは「存在の孤独」に由来すると考えた。[55] 「存在論的差異」、すなわち「存在(Sein)」と「存在者(das Seiende)」の区別は、ハイデガーにとって根本的なものである。西洋哲学の過程で生じたとされる「存在の忘却」は、この区別を忘却することに等しい と彼は考えた。[56]
転回
Kehre Kehre, or "the turn" (die Kehre) is a term rarely used by Heidegger but employed by commentators who refer to a change in his writings as early as 1930 that became clearly established by the 1940s. Recurring themes that characterize much of the Kehre include poetry and technology.[37] Commentators (e.g. William J. Richardson)[38] describe, variously, a shift of focus, or a major change in outlook.[39]

The 1935 Introduction to Metaphysics "clearly shows the shift" to language from a previous emphasis on Dasein in Being and Time eight years earlier, according to Brian Bard's 1993 essay titled "Heidegger's Reading of Heraclitus".[40] In a 1950 lecture, Heidegger formulated the famous saying "Language speaks", later published in the 1959 essays collection Unterwegs zur Sprache, and collected in the 1971 English book Poetry, Language, Thought.[41][42][43]

This supposed shift—applied here to cover about thirty years of Heidegger's 40-year writing career—has been described by commentators from widely varied viewpoints; including as a shift in priority from Being and Time to Time and Being—namely, from dwelling (being) in the world to doing (time) in the world.[37][44][45] (This aspect, in particular the 1951 essay "Building, Dwelling Thinking", influenced several notable architectural theorists, including Christian Norberg-Schulz, Dalibor Vesely, Joseph Rykwert, and Daniel Libeskind.

Other interpreters believe "the Kehre" does not exist or is overstated in its significance. Thomas Sheehan (2001) believes this supposed change is "far less dramatic than usually suggested", and entailed a change in focus and method.[46] Sheehan contends that throughout his career, Heidegger never focused on "being", but rather tried to define "[that which] brings about being as a givenness of entities".[46][47] Mark Wrathall[48] argued (2011) that the Kehre is not found in Heidegger's writings but is simply a misconception. As evidence for this view, Wrathall sees a consistency of purpose in Heidegger's life-long pursuit and refinement of his notion of "unconcealment".

Among the notable works dating after 1930 are On the Essence of Truth (1930), Contributions to Philosophy (From Enowning), composed in the years 1936–38 but not published until 1989, Building Dwelling Thinking (1951), The Origin of the Work of Art (1950), What Is Called Thinking? (1954) and The Question Concerning Technology (1954). Also during this period, Heidegger wrote extensively on Nietzsche and the poet Hölderlin.
https://en.wikipedia.org/wiki/Heideggerian_terminology#Kehre
転回(ケーレ)
Kehre、あるいは「転回」(die Kehre)とは、ハイデガーが使用したことはほとんどないが、1930年の時点で彼の著作における変化について言及した論者によって使用された用語であ り、1940年代までに明確に確立された。ケーレの多くを特徴づける反復的なテーマには詩と技術が含まれる[37]。解説者(ウィリアム・J・リチャード ソンなど)[38]は、焦点の転換、あるいは展望の大きな変化と様々に表現している[39]。

1950年の講義においてハイデガーは、後に1959年のエッセイ集『Unterwegs zur Sprache』で発表され、1971年の英語版『Poetry, Language, Thought』に収録された有名な格言「言語は語る」を定式化している[41][42][43]。

この想定されるシフトは、ハイデガーの40年に及ぶ執筆活動のうちの約30年間をカバーするためにここで適用されているが、広く様々な観点から論者たちに よって説明されている。例えば、「存在と時間」から「時間と存在」への優先順位のシフト、すなわち世界に住む(存在する)から世界で行う(時間する)への シフトなどである。 [37][44][45](この側面、特に1951年に発表されたエッセイ「建築、住まう思考」は、クリスチャン・ノーバーグ=シュルツ、ダリボール・ ヴェセリ、ジョセフ・リクヴェルト、ダニエル・リベスキンドら著名な建築理論家たちに影響を与えた。

また、「ケーレ」は存在しないか、その重要性が誇張されていると考える解釈者もいる。トーマス・シーハン(Thomas Sheehan)[2001]は、この想定される変化は「通常示唆されるよりもはるかに劇的なものではなく」、焦点と方法の変化を伴うものだと考えている [46]。シーハンは、ハイデガーはそのキャリアを通じて「存在」に焦点を当てたことはなく、むしろ「存在の所与性として存在をもたらすもの」を定義しよ うとしたと主張している[46][47]。この見解の証拠として、Wrathallはハイデガーが生涯にわたって「隠蔽されないこと」という概念を追求 し、洗練させてきたことに一貫した目的があると見ている。

1930年以降の代表的な著作としては、『真理の本質について』(1930年)、1936年から38年にかけて書かれたが1989年まで出版されなかった 『哲学への貢献』(『エノウイングより』)、『住居を建てる思考』(1951年)、『芸術作品の起源』(1950年)、『思考と呼ばれるものは何か』 (1954年)、『技術に関する疑問』(1954年)などがある。またこの時期、ハイデガーはニーチェや詩人ヘルダーリンについても幅広く執筆している。


The One / the They

(German: Das Man, meaning "they-self")
See also: Problem of universals
One of the most interesting and important 'concepts' in Being and Time is that of Das Man, for which there is no exact English translation; different translations and commentators use different conventions. It is often translated as "the They" or "People" or "Anyone" but is more accurately translated as "One" (as in "'one' should always arrive on time"). Jan Patočka denoted for the concept Das Man a synonymous designation "public anonymous". Das Man derives from the impersonal singular pronoun man ('one', as distinct from 'I', or 'you', or 'he', or 'she', or 'they'). Both the German man and the English 'one' are neutral or indeterminate in respect of gender and, even, in a sense, of number, though both words suggest an unspecified, unspecifiable, indeterminate plurality. The semantic role of the word man in German is nearly identical to that of the word one in English.

Heidegger refers to this concept of the One in explaining inauthentic modes of existence, in which Dasein, instead of truly choosing to do something, does it only because "That is what one does" or "That is what people do". Thus, das Man is not a proper or measurable entity, but rather an amorphous part of social reality that functions effectively in the manner that it does through this intangibility.

Das Man constitutes a possibility of Dasein's Being, and so das Man cannot be said to be any particular someone. Rather, the existence of 'the They' is known to us through, for example, linguistic conventions and social norms. Heidegger states that, "The "they" prescribes one's state-of-mind, and determines what and how one 'sees'".

To give examples: when one makes an appeal to what is commonly known, one says "one does not do such a thing"; When one sits in a car or bus or reads a newspaper, one is participating in the world of 'the They'. This is a feature of 'the They' as it functions in society, an authority that has no particular source. In a non-moral sense Heidegger contrasts "the authentic self" ("my owned self") with "the they self" ("my un-owned self").

A related concept to this is that of the apophantic assertion.
ザ・ワン/ザ・ゼー

(ドイツ語:Das Man、「彼ら自身」の意)
参照:普遍的問題
『存在と時間』における最も興味深く重要な「概念」のひとつがDas Manである。これには正確な英訳がなく、さまざまな翻訳や解説者がさまざまな慣例を用いている。「彼ら」や「人々」あるいは「誰でも」と訳されることが 多いが、「1人」と訳すのがより正確である(「『1人』は常に時間通りに到着すべきである」というように)。ヤン・パトチカは、この概念を表すものとして 「公共の匿名」という同義語を挙げている。「1人」は人称を持たない単数代名詞「man」(「1人」、つまり「私」、「あなた」、「彼」、「彼女」、「彼 ら」とは異なる)に由来する。ドイツ語のmanも英語の「one」も、性別に関しては中立または不特定であり、ある意味では数に関しても同様である。ただ し、どちらの単語も、不特定かつ不特定多数であることを示唆している。ドイツ語のmanという単語の意味上の役割は、英語のoneという単語の意味上の役 割とほぼ同じである。

ハイデッガーは、この「1」という概念に言及し、真に何かを選択するのではなく、「それが1のやり方だ」あるいは「それが人々のやり方だ」という理由で何 かを選択する、不誠実な存在のあり方を説明している。したがって、「das Man」は、適切に測定できる実体ではなく、むしろ、この無定形性によって効果的に機能する社会的な現実の無定形な一部である。

「彼ら」は、存在の存在の可能性を構成するものであり、したがって「彼ら」は特定の誰かであるとは言えない。むしろ、「彼ら」の存在は、例えば言語の慣習 や社会規範を通じて私たちに知られている。ハイデガーは、「「彼ら」は、人の精神状態を規定し、人が何をどのように「見る」かを決定する」と述べている。

例を挙げると、一般的に知られていることに言及するとき、人は「そのようなことはしない」と言う。車やバスに乗ったり、新聞を読んだりするとき、人は「彼 ら」の世界に参加している。これは社会で機能する「彼ら」の特徴であり、特定の源を持たない権威である。非道徳的な意味において、ハイデッガーは「真正な 自己」(「私の所有する自己」)と「彼ら的な自己」(「私の所有しない自己」)を対比させている。

これに関連する概念として、アポファントティックな主張がある。


World
(German: Welt)
Further information: World disclosure
Heidegger gives us four ways of using the term world:

1. "World" is used as an ontical concept, and signifies the totality or aggregate (Inwood) of things (entities) which can be present-at-hand within the world.
2. "World" functions as an ontological term, and signifies the Being of those things we have just mentioned. And indeed 'world' can become a term for any realm which encompasses a multiplicity of entities: for instance, when one talks of the 'world' of a mathematician, 'world' signifies the realm of possible objects of mathematics.
3. "World" can be understood in another ontical sense—not, however, as those entities which Dasein essentially is not and which can be encountered within-the-world, but rather as the wherein a factical Dasein as such can be said to 'live'. "World" has here a pre-ontological existentiell signification. Here again there are different possibilities: "world" may stand for the 'public' we-world, or one's 'own' closest (domestic) environment.
4. Finally, "world" designates the ontologico-existential concept of worldhood (Weltheit). Worldhood itself may have as its modes whatever structural wholes any special 'worlds' may have at the time; but it embraces in itself the a priori character of worldhood in general.[57]
Note, it is the third definition that Heidegger normally uses.
世界
(ドイツ語:Welt)
さらに詳しい情報:世界の開示
ハイデガーは「世界」という用語の4つの用法を提示している。

1. 「世界」は存在論的概念として用いられ、世界の中で手近にあるもの(実体)の全体または集合(Inwood)を意味する。
2. 「世界」は存在論的概念として機能し、我々が今述べたそれらの存在を意味する。実際、「世界」は多数の存在を包括するあらゆる領域を表す用語となり得る。例えば、数学者の「世界」について語る場合、「世界」は数学の対象となり得る領域を意味する。
3. 「世界」は、もう一つの存在論的な意味で理解することができる。ただし、それは、本質的に「存在」ではない実体、つまり「世界」の中で遭遇しうる実体とし てではなく、むしろ、事実上の「存在」が「生きている」と言えるような場所としてである。「世界」は、ここでは存在論以前の存在論的な意味を持っている。 ここでもまた、さまざまな可能性がある。「世界」は、「公共」のわれわれの世界、あるいは「自分自身」の最も身近な(家庭内の)環境を表しているかもしれ ない。
4. 最後に、「世界」は世界性(Weltheit)という存在論的・実存的概念を指す。世界性それ自体は、その時々の特別な「世界」が持つ構造的な全体性をど のようなものであれ、その様態として持つ可能性がある。しかし、世界性は一般的に世界性としての先天的な性格を内包している。
注:通常ハイデガーが用いるのは3番目の定義である。
環世界 Umwelt
環世界(ウンヴェルト、Umwelt)=かんせか い、とは、ある生物——種内で共有する知覚があることが前提——が経験している知覚世界のことをさす。人間や類縁の他の動物(例:哺乳類)は、さまざまな 知覚能力を駆使して、世界のなかに主体的に生命活動をおこなっている、つまり生きている。生物が、そのことを自覚するか否かとは無関係に——あるいは問わ ずに、生物はさまざまな知覚経験を有しており、外界の刺激に反応したり、その外界にふさわしい行動(例:被捕食者に対して攻撃をしかけそれを殺傷し、摂食 する)をおこなっている。生物の行動とセットになった、このような知覚世界を、バルト系ドイツ人のヤコブ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexküll, 1864-1944)は、環世界=ウンヴェルトと呼んだ。
















































































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序論 存在への意味の問いの概要的提示【ハイデガーの序説】1- 8 ※これはマイケル・ゲルヴェンの解説区分

第 1部 現存在を時間性にむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明 する

第 1編 現存在の準備的な基礎分析

第2編 現存在と時間性(45)【死】45-53

第 3編 時間と存在《以下、刊 行されず》——ハイデガー『存在と時間』の構築 / 木田元編著、岩波書店 , 2000ならびに、後藤嘉也『ハイデガー『存在と時間』』晃洋書房、2011を参照。

第 2部 存在論の歴史の現象学的解体

第1編 カントの時間論について

第2編 デカルトの「我あり」と「思う」 について

第3編 アリストテレスの時間論について

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ハイデガー本人も言及し、かつ木田元『ハ イデガー「存在と時間」の構築』(2000年)の再構成で著名であるが、ハイデガーのこの著作には、後 半(下巻)があったはずであるが、それは完成することもなく未完のまま終わった。その弁明と考察の続きは、本人は1953年刊の『形而上学入門』を参照せ よとまで言っている。

部や編(ゲルヴェンの解釈は1編=実存論 的/第2編=存在論的)の構成もわかりにくくなっているために、ハイデガーのこの著作の解釈には、上巻 で書かれた、全84節いくつかにグルーピングして読解することをすすめてい るものが多い。

例えば、米国生まれのマイケル・ゲルヴェ ンは『注解』(1970)年において、冒頭の解説——『存在と時間』の概要と背景、を除き、全体で以下 の8章分に分けて、本書の意味の解明を試みようとしている。

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Being and Time (German: Sein und Zeit) is the 1927 magnum opus of German philosopher Martin Heidegger and a key document of existentialism. Being and Time is among the most influential texts of 20th century philosophy. It had a notable impact on subsequent philosophy, literary theory and many other fields. Though controversial, its stature in intellectual history has been compared with works by Kant and Hegel. The book attempts to revive ontology through an analysis of Dasein, or "being-in-the-world." It is also noted for an array of neologisms and complex language, as well as an extended treatment of "authenticity" as a means to grasp and confront the unique and finite possibilities of the individual.
『存在と時間』(ドイツ語: Sein und Zeit)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの1927年の大著であり、実存主義——本人は実存主義者であることを生前否定していた——の重要な文書である。存在と時間』は20世紀の哲学において最も 影響力のあるテキストのひとつである。その後の哲学、文学理論、その他多くの分野に多大な影響を与えた。賛否両論あるが、知的歴史におけるその地位は、カ ントやヘーゲルの著作と比較されてきた。本書は、ダーザイン、すなわち 「世界における存在 」の分析を通じて、存在論の復活を試みている。また、新語や複雑な言葉を多用し、個人のユニークで有限な可能性を把握し、それに立ち向かう手段としての 「真正性」を広範に扱っていることでも注目されている。
Background

Richard Wolin notes that the work "implicitly adopted the critique of mass society” epitomized earlier by Kierkegaard and Nietzsche.[1] "Elitist complaints about the "dictatorship of public opinion" were common currency to the German mandarins of the twenties," according to J. Habermas (1989).[2] Wolin writes that Being and Time is "suffused by a sensibility derived from secularized Protestantism” and its stress on original sin. The human condition is portrayed as "essentially a curse.”[1] Wolin cites the work's extended emphasis on “emotionally laden concepts” like guilt, conscience, angst and death.

The book is likened to a secularized version of Martin Luther's project, which aimed to turn Christian theology back to an earlier and more “original” phase. Taking this view, John D. Caputo notes that Heidegger made a systematic study of Luther in the 1920s after training for 10 years as a Catholic theologian.[3] Similarly, Hubert Dreyfus likens Division II of the volume to a secularized version of Kierkegaard's Christianity.[4] Almost all central concepts of Being and Time are derived from Augustine, Luther, and Kierkegaard, according to Christian Lotz.[5]

The critic George Steiner argues that Being and Time is a product of the crisis of German culture following Germany's defeat in World War I. In this respect Steiner compared it to Ernst Bloch's The Spirit of Utopia (1918), Oswald Spengler's The Decline of the West (1918), Franz Rosenzweig's The Star of Redemption (1921), Karl Barth's The Epistle to the Romans (1922), and Adolf Hitler's Mein Kampf (1925).[6]

In terms of structure, Being and Time consists of the lengthy two-part introduction, followed by Division One, the "Preparatory Fundamental Analysis of Dasein," and Division Two, "Dasein and Temporality.” Heidegger originally planned to write a separate, second volume but quickly abandoned the project. The unwritten “second half” was to include a critique of Western philosophy.[7]
背景

J.ハーバーマス(1989)によれば、「『世論の独裁』に対するエリート主義者の不満は、20年代のドイツの権力者にとっての常識であった」[1]。人 間の状態は「本質的に呪い」[1]として描かれており、罪悪感、良心、怒り、死といった「感情的な概念」が強調されている。

本書は、キリスト教神学をより初期の、より「独創的」な段階に引き戻すことを目指したマルティン・ルターのプロジェクトの世俗化版になぞらえられる。ジョ ン・D・カプトは、ハイデガーがカトリックの神学者として10年間修行した後、1920年代にルターを体系的に研究したと述べている[3]。同様に、ユ ベール・ドレイファスは、本書の第二部をキルケゴールのキリスト教の世俗化版になぞらえている[4]。

批評家のジョージ・シュタイナーは、『存在と時間』は第一次世界大戦におけるドイツの敗戦後のドイツ文化の危機の産物であると主張している。この点で、 シュタイナーはエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』(1918年)、オズワルド・シュペングラーの『西洋の衰退』(1918年)、フランツ・ロー ゼンツヴァイクの『贖罪の星』(1921年)、カール・バルトの『ローマ人への手紙』(1922年)、アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』(1925年)と 比較している[6]。

構成としては、『存在と時間』は長い2部構成の序論、それに続く第1部 「Daseinの準備的基礎分析」、第2部 「Daseinと時間性 」からなる。ハイデガーは当初、別の第二巻を書く予定だったが、すぐにその計画を断念した。書きかけの「後半」には西洋哲学批判が含まれる予定だった [7]。
Summary

Dasein

Being and Time explicitly rejects Descartes' notion of the human being as a subjective spectator of objects, according to Marcella Horrigan-Kelly (et al.).[8] The book instead holds that both subject and object are inseparable. In presenting the subject, "being" as inseparable from the objective "world," Heidegger introduced the term “Dasein” (literally being there), intended to embody a ‘‘living being’’ through their activity of ‘’being there” and “being in the world” (Horrigan-Kelly).[8] Understood as a unitary phenomenon rather than a contingent, additive combination, being-in-the-world is an essential characteristic of Dasein, according to Michael Wheeler (2011).[9]

Heidegger's account of Dasein passes through an analysis of Angst, "the Nothing" and mortality, and of the structure of "Care" as such. He then defines "authenticity," as a means to grasp and confront the finite possibilities of Dasein. Moreover, Dasein is "the being that will give access to the question of the meaning of Being," according to Heidegger.[10]

Being

The work claims that ordinary and even mundane "being-in-the-world" provides "access to the meaning, or 'sense of being.' [Sinn des Seins]." This access via Dasein is also that "in terms of which something becomes intelligible as something."[11] This meaning would then elucidate ordinary "prescientific" understanding, which precedes abstract ways of knowing, such as logic or theory.[12]

Heidegger's concept of Being is metaphorical, according to Richard Rorty, who agrees with Heidegger that there is no "hidden power" called Being. Heidegger emphasizes that no particular understanding of Being (nor of Dasein) is to be valued over another, according to an account of Rorty's analysis by Edward Grippe.[13] This supposed "non-linguistic, pre-cognitive access" to the meaning of Being didn't underscore any particular, preferred narrative.

Thomas Sheehan and Mark Wrathall each separately assert that commentators' emphasis on the term "Being" is misplaced, and that Heidegger's central focus was never on "Being" as such. Wrathall wrote (2011) that Heidegger's elaborate concept of "unconcealment" was his central, life-long focus, while Sheehan (2015) proposed that the philosopher's prime focus was on that which "brings about being as a givenness of entities.")[14][15] Being and Time actually offers "no sense of how we might answer the question of being as such," writes Simon Critchley in a nine-part blog commentary on the work for The Guardian (2009). The book instead provides "an answer to the question of what it means to be human" (Critchley).[16] Nonetheless, Heidegger does present the concept: "'Being' is not something like a being but is rather "what determines beings as beings."[17]

Time

Heidegger believes that time finds its meaning in death, according to Michael Kelley. That is, time is understood only from a finite or mortal vantage. Dasein's fundamental characteristic and mode of "being-in-the-world" is temporal: Having been "thrown" into a world implies a "pastness" in its being. "The present is the nodal moment which makes past and future intelligible," writes Lilian Alweiss.[18] Dasein occupies itself with the present tasks required by goals it has projected on the future.[19]

Dasein as an intertwined subject/object cannot be separated from its objective "historicality," a concept Heidegger credits in the text to Wilhelm Dilthey. Dasein is "stretched along" temporally between birth and death, and thrown into its world; into its future possibilities which Dasein is charged with assuming. Dasein's access to this world and these possibilities is always via a history and a tradition—or "world historicality".


概要

ダーザイン

マーセラ・ホリガン=ケリー(他)によれば、『存在と時間』は、デカルトの「人間は対象の主観的な観客である」という概念を明確に否定している[8]。ハ イデガーは主体である「存在すること」を客観的な「世界」と不可分なものとして提示する際に、「そこに存在すること」「世界に存在すること」(ホリガン= ケリー)という活動を通じて「生きていること」を体現することを意図した「ダゼイン」(文字通りそこに存在すること)という用語を導入した[8]。 マイケル・ホイーラー(2011年)によれば、偶発的で加法的な組み合わせではなく、単体的な現象として理解される「世界に存在すること」はダゼインの本 質的な特徴である[9]。

ハイデガーのダーザインの説明は、アングスト、「無」、死、そして「ケア」の構造についての分析を経ている。そして彼は「真正性」を、ダーザインの有限の 可能性を把握し、それに立ち向かうための手段として定義する。さらに、ハイデガーによれば、ダーゼインは「存在の意味という問いにアクセスするための存 在」である[10]。

存在

この作品では、平凡でありふれた「世界における存在」が「意味、すなわち『存在の感覚』へのアクセス」を提供すると主張している。[Sinn des Seins)"である。ダーザインを介したこのアクセスはまた、「何かが何かとして理解可能になる点で、」である[11]。この意味は、論理や理論といっ た抽象的な知の方法に先立つ、通常の「予知的」理解を解明することになる[12]。

リチャード・ローティによれば、ハイデガーの「存在」の概念は比喩的なものであり、ハイデガーは「存在」と呼ばれる「隠された力」が存在しないことに同意 している。エドワード・グリッペによるローティの分析の説明によれば、ハイデガーは、存在(またダーザイン)についての特定の理解が他のものよりも評価さ れることはないことを強調している[13]。この「非言語的で認知以前のアクセス」とされる存在の意味は、特定の好ましい物語を強調するものではなかっ た。

トーマス・シーハンとマーク・ウラソールはそれぞれ、論者たちが「存在」という用語を強調するのは見当違いであり、ハイデガーの中心的な焦点は決して「存 在」そのものではなかったと主張している。Wrathallは、ハイデガーの精巧な概念である「隠蔽されないこと」が彼の生涯の中心的な焦点であったと書 いており(2011年)、一方Sheehan(2015年)は、哲学者の主要な焦点は「実体の所与性としての存在」をもたらすものであったと提唱してい る。本書はその代わりに、「人間であるとはどういうことかという問いに対する答え」(クリッチリー)を提供している: 存在』とは存在のようなものではなく、むしろ『存在を存在として決定するもの』である」[17]。

時間

マイケル・ケリーによれば、ハイデガーは、時間は死においてその意味を見出すと考えている。つまり、時間は有限の、あるいは死すべき立場からしか理解され ない。ある世界に「投げ込まれた」ことは、その世界の存在に「過去性」があることを意味する。「現在とは、過去と未来を理解可能にする結節点である」とリ リアン・アルヴァイスは書いている[18]。

絡み合った主体/客体としてのダーゼインは、その客観的な「歴史性」から切り離すことはできない。ダーザインは、誕生と死のあいだで時間的に「引き伸ばさ れ」、その世界、つまりダーザインが引き受けるべき未来の可能性のなかに投げ込まれる。ダゼインがこの世界とこの可能性にアクセスするためには、常に歴史 と伝統、つまり「世界史性」が必要である。

Methodologies

Phenomenology

See also: Phenomenology
Heidegger's mentor Edmund Husserl developed a method of analysis called "phenomenological reduction" or "bracketing," that emphasized primordial experience as its key element. Husserl used this method to define the structures of consciousness and show how they are directed at both real and ideal objects within the world.[20]

Being and Time employs this method but purportedly modifies Husserl's subjectivist tendencies. Whereas Husserl conceived humans as constituted by consciousness, Heidegger countered that consciousness is peripheral to Dasein, which cannot be reduced to consciousness. Consciousness is thus an "effect" rather than a determinant of existence. By shifting the priority from consciousness (psychology) to existence (ontology), Heidegger altered the subsequent direction of phenomenology.

But Being and Time misrepresented its phenomenology as a departure from methods established earlier by Husserl, according to Daniel O. Dahlstrom.[21] In this vein, Robert J. Dostal asserts that "if we do not see how much it is the case that Husserlian phenomenology provides the framework for Heidegger's approach," then it's impossible to exactly understand Being and Time.[22]

On publication in 1927, Being and Time bore a dedication to Husserl, who beginning a decade earlier, championed Heidegger's work, and helped him secure the retiring Husserl's chair in Philosophy at the University of Freiburg in 1928.[23][24] Because Husserl was Jewish, in 1941 Heidegger, then a member of the Nazi Party, agreed to remove the dedication from Being and Time (restored in 1953 edition).[25]: 253–258 

Hermeneutics

See also: Hermeneutics § Heidegger (1889–1976)
Being and Time employed the "hermeneutic circle" as a method of analysis or structure for ideas. According to Susann M. Laverty (2003), Heidegger's circle moves from the parts of experience to the whole of experience and back and forth again and again to increase the depth of engagement and understanding. Laverty writes (Kvale 1996), "This spiraling through a hermeneutic circle ends when one has reached a place of sensible meaning, free of inner contradictions, for the moment."[26]

The hermeneutic circle and certain theories concerning history in Being and Time are acknowledged within the text to rely on the writings of Wilhelm Dilthey.[27] The technique was later employed in the writings of Jürgen Habermas, per "Influence and reception" below.

Destructuring

See also: Deconstruction
In Being and Time Heidegger briefly refutes the philosophy of René Descartes (in an exercise he called "destructuring"), but the second volume, intended as a Destruktion of Western philosophy, was never written. Heidegger sought to explain how theoretical knowledge came to be seen, incorrectly in his view, as fundamental to being. This explanation takes the form of a destructuring (Destruktion) of the philosophical tradition, an interpretative strategy that reveals the fundamental experience of being hidden within the theoretical attitude of the metaphysics of presence.[28]: 11–13 

In later works, while becoming less systematic and more obscure than in Being and Time, Heidegger turns to the exegesis of historical texts, especially those of Presocratic philosophers, but also of Aristotle, Kant, Hegel, Plato, Nietzsche, and Hölderlin, among others.[29]: 24 

Influence and reception

Upon its publication, reviewers credited Heidegger with "brilliance" and "genius".[30] The book was later seen as the "most influential version of existential philosophy."[31] Jean-Paul Sartre's existentialism (of 1943) has been described as merely "a version of Being and Time".[32] The work also influenced other philosophers of Sartre's generation,[33] and exerted a notable influence on French philosophy.[34]

Heidegger's work influenced the output of the Frankfurt School including Jürgen Habermas's hermeneutics and Herbert Marcuse's early and abortive attempt to develop "Heideggerian Marxism."[35][36] Theodore Adorno, in his 1964 book The Jargon of Authenticity, was critical of Heidegger's popularity in post-war Western Europe. Adorno accused Heidegger of evading ethical judgment by disingenuously presenting "authenticity" as a value-free, technical term—rather than a positive doctrine of the good life.[37] Heidegger influenced psychoanalysis through Jacques Lacan as well as Medard Boss and others.[38] Paul Celan, in his essays on poetic theory, incorporated some of Heidegger's ideas.[39] Being and Time also separately influenced Alain Badiou's work Being and Event (1988),[33] and also separately the enactivist approach to cognition theory.[40][41]

Bertrand Russell was dismissive of Being and Time ("One cannot help suspecting that language is here running riot"), and the analytic philosopher A. J. Ayer outright called Heidegger a charlatan. But the American philosopher Richard Rorty ranked Heidegger among the important philosophers of the twentieth century, including John Dewey and Ludwig Wittgenstein.[42] The conservative British writer Roger Scruton called (2002) Being and Time a "description of a private spiritual journey" rather than genuine philosophy.[43] But Stephen Houlgate (1999) compares Heidegger's achievements in Being and Time to those of Kant and Hegel.[44] Simon Critchley (2009) writes that it is impossible to understand developments in continental philosophy after Heidegger without understanding Being and Time.[45]


方法論

現象学

こちらも参照のこと: 現象学
ハイデガーの師であるエドムント・フッサールは、「現象学的還元」または「ブラケティング」と呼ばれる分析方法を開発した。フッサールはこの方法を用いて 意識の構造を定義し、それらがどのように世界内の現実的な対象と理想的な対象の両方に向けられているかを示した[20]。

存在と時間』はこの方法を用いているが、フッサールの主観主義的傾向を修正したとされている。フッサールが人間を意識によって構成されると考えたのに対 し、ハイデガーは、意識はデーゼインの周辺的なものであり、デーゼインを意識に還元することはできないと反論した。したがって、意識は存在の決定要因では なく「結果」である。意識(心理学)から存在(存在論)に優先順位を移すことで、ハイデガーは現象学のその後の方向性を変えた。

しかし、ダニエル・O・ダールストロームによれば、『存在と時間』はその現象学をフッサールによって以前に確立された方法からの逸脱として誤って表現して いた[21]。 この流れでロバート・J・ドスタルは、「フッサールの現象学がハイデガーのアプローチの枠組みを提供していることがどれほど事実であるかを理解しなけれ ば、『存在と時間』を正確に理解することは不可能である」と主張している[22]。

1927年に出版された『存在と時間』には、その10年前からハイデガーの仕事を支持し、1928年にフライブルク大学でフッサールの哲学の椅子を確保す る手助けをしたフッサールへの献辞が記されていた[23][24]。フッサールがユダヤ人であったため、1941年に当時ナチ党員であったハイデガーは 『存在と時間』から献辞を削除することに同意した(1953年版では復活)[25]。 

解釈学

以下も参照: 解釈学§ハイデガー (1889-1976)
存在と時間』は、思想の分析あるいは構造化の方法として「解釈学的円環」を採用した。Susann M. Laverty (2003)によれば、ハイデガーの円は、経験の部分から経験の全体へと、何度も何度も往復することで、関与と理解の深みを増していく。ラヴァティは (Kvale 1996)、「解釈学的円環を螺旋状に巡るこの作業は、ひとまず内的矛盾から解放された、感覚的な意味の場所に到達したときに終わる」と書いている [26]。

存在と時間』における解釈学的円環と歴史に関するある種の理論は、本文中でヴィルヘルム・ディルタイの著作に依拠していることが認められている[27]。 この技法は後にユルゲン・ハーバーマスの著作に採用された。

破壊

以下も参照: 脱構築
ハイデガーは『存在と時間』の中でルネ・デカルトの哲学を簡潔に論駁している(彼が「デストラクチュアリング」と呼ぶエクササイズにおいて)。ハイデガー は、理論的知識が、彼の見解では誤っているが、存在の根源的なものであるとみなされるようになった経緯を説明しようとした。この説明は哲学的伝統の破壊 (Destruktion)という形をとっており、存在の形而上学の理論的態度の中に隠されている存在の根源的経験を明らかにする解釈戦略である [28]: 11-13 

ハイデガーはその後の作品において、『存在と時間』ほど体系的ではなく、より曖昧になりつつも、歴史的テクスト、とりわけプレソクラテスの哲学者たちのテ クスト、さらにはアリストテレス、カント、ヘーゲル、プラトン、ニーチェ、ヘルダーリンなどのテクストの釈義に目を向けるようになる[29]: 24。 

影響と受容

この本は後に「実存哲学の最も影響力のあるバージョン」[31]と見なされるようになった。ジャン=ポール・サルトルの実存主義(1943年)は「存在と 時間」のバージョンに過ぎないと評されている[32]。

ハイデガーの作品は、ユルゲン・ハーバーマスの解釈学やヘルベルト・マルクーゼの「ハイデガー的マルクス主義」を発展させようとする初期の頓挫した試みな ど、フランクフルト学派のアウトプットに影響を与えた[35][36]。テオドール・アドルノは1964年の著書『真正性の専門用語』において、戦後の西 欧におけるハイデガーの人気を批判していた。アドルノはハイデガーが「真正性」を価値観のない専門用語として、むしろ善き生の肯定的な教義として不誠実に 提示することによって倫理的判断を回避していると非難している。 [38]パウル・ツェランは詩的理論に関するエッセイの中でハイデガーのアイデアのいくつかを取り入れていた[39]。また『存在と時間』は別途アラン・ バディウの著作『存在と出来事』(1988年)にも影響を与えており[33]、認知論に対する制定主義的アプローチにも別途影響を与えていた[40] [41]。

バートランド・ラッセルは『存在と時間』を否定的であり(「言語がここで暴れているのではないかと疑わずにはいられない」)、分析哲学者のA・J・エアー はハイデガーをチャラ男と呼んだ。しかし、アメリカの哲学者リチャード・ローティは、ハイデガーをジョン・デューイやルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン を含む20世紀の重要な哲学者の一人に位置づけている。保守的なイギリスの作家ロジャー・スクルートンは、(2002年の)『存在と時間』を本物の哲学で はなく「私的な精神の旅の記述」と呼んだ。 [しかしスティーヴン・ホウルゲート(1999)は、『存在と時間』におけるハイデガーの業績をカントやヘーゲルの業績と比較している[44]。 サイモン・クリッチリー(2009)は、『存在と時間』を理解することなしにハイデガー以降の大陸哲学の発展を理解することは不可能だと書いている [45]。

Related work

Being and Time is the major achievement of Heidegger's early career, but he produced other important works during this period:

The publication in 1992 of the early lecture course, Platon: Sophistes (Plato's Sophist, 1924), made clear the way in which Heidegger's reading of Aristotle's Nicomachean Ethics was crucial to the formulation of the thought expressed in Being and Time.

The lecture course, Prolegomena zur Geschichte des Zeitbegriffs (History of the Concept of Time: Prolegomena, 1925), was something like an early version of Being and Time.[46]

The lecture courses immediately following the publication of Being and Time, such as Die Grundprobleme der Phänomenologie (The Basic Problems of Phenomenology, 1927), and Kant und das Problem der Metaphysik (Kant and the Problem of Metaphysics, 1929), elaborated some elements of the destruction of metaphysics which Heidegger intended to pursue in the unwritten second part of Being and Time.

Although Heidegger did not complete the project outlined in Being and Time, later works explicitly addressed the themes and concepts of Being and Time. Most important among the works which do so are the following:

Heidegger's inaugural lecture upon his return to Freiburg, "Was ist Metaphysik?" (What Is Metaphysics?, 1929), was an important and influential clarification of what Heidegger meant by being, non-being, and nothingness.

Einführung in die Metaphysik (An Introduction to Metaphysics), a lecture course delivered in 1935, is identified by Heidegger, in his preface to the seventh German edition of Being and Time, as relevant to the concerns which the second half of the book would have addressed.

Beiträge zur Philosophie (Vom Ereignis) (Contributions to Philosophy [From Enowning], composed 1936–38, published 1989), a sustained attempt at reckoning with the legacy of Being and Time.

Zeit und Sein (Time and Being),[47][48] a lecture delivered at the University of Freiburg on January 31, 1962. This was Heidegger's most direct confrontation with Being and Time. It was followed by a seminar on the lecture, which took place at Todtnauberg on September 11–13, 1962, a summary of which was written by Alfred Guzzoni.[n 1] Both the lecture and the summary of the seminar are included in Zur Sache des Denkens (1969; translated as On Time and Being [New York: Harper & Row, 1972]).

関連作品

存在と時間』はハイデガーの初期のキャリアにおける主要な業績であるが、この時期には他にも重要な著作がある:

1992年に出版された初期の講義録『プラトン:ソフィステス』(プラトンのソフィスト、1924年)は、ハイデガーがアリストテレスの『ニコマコス倫理 学』を読むことが、『存在と時間』で表現されている思想の定式化に極めて重要であったことを明らかにした。

講義コース『時間の概念の歴史:プロレゴメナ』(Prolegomena zur Geschichte des Zeitbegriffs、1925年)は、『存在と時間』の初期版のようなものであった[46]。

『存在と時間』の出版直後の講義科目である『現象学の基本問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie、1927年)や『カントと形而上学の問題』(Kant und das Problem der Metaphysik、1929年)などは、ハイデガーが『存在と時間』の未執筆の第二部で追求しようとしていた形而上学の破壊のいくつかの要素を精緻化 したものであった。

ハイデガーは『存在と時間』で概説されたプロジェクトを完成させることはできなかったが、その後の作品では『存在と時間』のテーマや概念に明確に取り組ん でいる。そのような著作の中で最も重要なものは以下のものである:

ハイデガーがフライブルクに戻ったときの就任講演 「Was ist Metaphysik?」(形而上学とは何か?(形而上学とは何か、1929年)は、ハイデガーが意味する「存在」「非存在」「無」について、重要かつ影 響力のある解明を行った。

1935年に行われた講義『形而上学入門』(Einführung in die Metaphysik)は、ハイデガーが『存在と時間』第7版(ドイツ語版)の序文で、本書の後半で扱われるであろう関心事に関連していると述べている。

Beiträge zur Philosophie (Vom Ereignis)』(哲学への貢献[所有から]、1936-38年構成、1989年出版)は、『存在と時間』の遺産を清算する持続的な試みである。

Zeit und Sein(時間と存在)』[47][48]は、1962年1月31日にフライブルク大学で行われた講義である。これはハイデガーにとって『存在と時間』と の最も直接的な対決であった。その後、1962年9月11日から13日にかけてトットナウベルクでこの講義に関するセミナーが開催され、その要約がアルフ レッド・グッツォーニによって書かれた[n 1]。この講義とセミナーの要約の両方が『Zur Sache des Denkens』(1969年、訳書は『時間と存在について』[New York: Harper & Row, 1972])に収録されている。
Existential isolation
Heideggerian terminology
実存的孤立
ハイデガー用語


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Introduction to Metaphysics (German: Einführung in die Metaphysik) is a revised and edited 1935 lecture course by Martin Heidegger first published in 1953. The work is notable for a discussion of the Presocratics and for illustrating Heidegger's supposed "Kehre," or turn in thought beginning in the 1930s—as well as for its mention of the "inner greatness" of Nazism. Heidegger suggested the work relates to the unwritten "second half" of his 1927 magnum opus Being and Time.
『形而上学入門』(ドイツ語:Einführung in die Metaphysik)は、マルティン・ハイデガーが1935年に行った講義を改訂・編集したもので、1953年に出版された。ハイデガーが1930年代 に始めたとされる「ケーレ」(思想の転回)を示すとともに、ナチズムの「内なる偉大さ」についても言及している。ハイデガーは、この作品が1927年の大 著『存在と時間』の未執筆の「後半」に関連することを示唆している。
Background and publication history
See also: Being and Time

Introduction to Metaphysics, originally a summer lecture course at the University of Freiburg in 1935, was first published eighteen years later by the Max Niemeyer Verlag (Halle, Germany), simultaneously with the Seventh German Edition of Being and Time.[1]

In a one-page preface accompanying this post-war edition of Being and Time, Heidegger wrote that the newly available Introduction to Metaphysics, would "elucidate" material contemplated for the once-promised but long-abandoned "second half" of Being and Time. The preface also noted that the text of this latest (1953) B&T edition had eliminated several references to itself as a "first half."[2][3]

Among English translations, the second edition (2014) of a version by Gregory Fried and Richard Polt from Yale Press (New Haven) was in print as of 2020.[citation needed] Ralph Manheim produced a 1959 translation praised by Fried and Polt in their introduction to the second edition as largely responsible for introducing Heidegger to the English-speaking world.[4] But Manheim worked prior to the 1962 Macquarrie version of Being and Time—which established several conventions for Heidegger's English translators.[citation needed] The work is included in Volume 40 (1983) of Heidegger's Gesamtausgabe (collected works) edited by Petra Jaeger.[5]


背景と出版の歴史

こちらも参照のこと: 存在と時間
『形而上学入門』は、元々は1935年にフライブルク大学で行われた夏期講義であったが、18年後にマックス・ニーマイヤー出版社(ドイツ、ハレ)から『存 在と時間』の第7ドイツ語版と同時に出版された[1]。

この『存在と時間』の戦後版に添えられた1ページの序文でハイデガーは、新しく利用可能になった『形而上学入門』は、かつて約束されながら長い間放棄され た『存在と時間』の「後半」のために構想されていた材料を「解明する」だろうと書いている。序文はまた、この最新版(1953年)のB&T版のテ キストが、それ自体を「前半」として言及するいくつかの記述を削除したことにも言及している[2][3]。

英訳の中では、イェール出版社(ニューヘイブン)のグレゴリー・フリードとリチャード・ポルトによる版の第2版(2014年)が2020年時点で印刷され ている[要出典]。ラルフ・マンハイムは1959年の翻訳を制作し、第2版の序文でフリードとポルトがハイデガーを英語圏に紹介する上で大きな役割を果た したと称賛している。 [4]しかし、マンハイムは1962年のマッコーリー版『存在と時間』よりも前に仕事をしており、ハイデガーの英語翻訳者のためのいくつかの慣例を確立し た[要出典]。この作品はペトラ・イェーガー編集のハイデガー著作集(Gesamtausgabe)の第40巻(1983年)に収録されている[5]。

Presocratic Revivalism

Further information: Heraclitus § Logos
Introduction to Metaphysics "was not about early Greek thought, and yet the Presocratics are at the pivotal center of discussion," writes Włodzimierz Julian Korab-Karpowicz. In this view, "the thinking of Heraclitus and Parmenides, which lies at the origin of philosophy, was falsified and misinterpreted" by Plato and Aristotle, thus tainting all of subsequent Western philosophy.[6]

Heidegger aimed to correct this misunderstanding (Charles Guignon 2014) by reviving Presocratic notions of 'being' with an emphasis on "understanding the way beings show up in (and as) an unfolding happening or event." Guignon adds that "we might call this alternative outlook 'event ontology.'"[7] (The concept of Ereignis, or "event," is more fully developed in Contributions to Philosophy 1938.) [8]

Heidegger used his discussion of Heraclitus' and Parmenides' respective notions of logos in his argument that to avoid nihilism, modern philosophy must "reinvert" the traditional, post-Socratic conception of the relationship between being and thinking, according to Daniel Dahlstrom.[9]


プレソクラテス復興主義

さらに詳しい情報 ヘラクレイトス§ロゴス
形而上学入門』は「初期ギリシアの思想についてではなく、プレソクラテス派が議論の極めて重要な中心となっている」とヴウォジミエシュ・ユリアン・コラブ =カルポヴィッチは書いている。この見解では、「哲学の原点にあるヘラクレイトスとパルメニデスの思考は、プラトンとアリストテレスによって改竄され、 誤った解釈をされた」ため、その後の西洋哲学のすべてが汚染されたことになる[6]。

ハイデガーはこの誤解を正すために(シャルル・ギニョン2014年)、「展開する出来事や出来事の中で(そして出来事として)存在者がどのように現れるか を理解する」ことに重点を置いて、プレソクラテス的な「存在」の概念を復活させることを目指した。ギニョンは、「この代替的な展望を『出来事存在論』と呼 ぶことができるかもしれない」[7]と付け加えている(「Ereignis」(「出来事」の概念)については、『哲学への貢献 1938』でより詳しく述べられている)。[8]

ダニエル・ダールストロムによれば、ハイデガーは、ニヒリズムを回避するためには、近代哲学は存在と思考との関係におけるソクラテス以後の伝統的な概念を 「再変換」しなければならないという主張において、ヘラクレイトスとパルメニデスのそれぞれのロゴスの概念についての議論を用いていた[9]。

Being and the Kehre

Further information: Kehre
In a significant contrast with Being and Time eight years earlier, Heidegger's Introduction to Metaphysics "no longer places the inquiry into the Being of Dasein at the center of his work," Instead, the author "looks to language as the site of a meaning of Being" (Brian Bard, 1993 essay, "Heidegger's Reading of Heraclitus"). The work "clearly shows the shift" in Heidegger's thought, Bard writes.[10]

This contrast is typically seen as the first instance of Heidegger's much-discussed Kehre, or turn in thinking, that became evident from the 1930s onward, according to Thomas Sheehan. But the supposed turn is "far less dramatic than usually suggested," according to Sheehan, and merely entailed a shift in focus and method.[11] Separately, Mark Wrathall argued (2011) that the Kehre itself is a complete misconception on the part of interpreters, while pointing to Heidegger's supposed consistency of purpose throughout his career.[12]

(Both Sheehan and Wrathall, separately, assert that Heidegger's central focus was never on "Being" as such. Wrathall wrote that Heidegger's elaborate concept of "unconcealment" was his central, life-long focus, while Sheehan proposed that the philosopher's prime focus was on that which "brings about being as a givenness of entities.")[12][13]


ビーイングとケーレ

さらなる情報 ケーレ
8年前の『存在と時間』とは対照的に、ハイデガーの『形而上学入門』は「もはやダーザインの存在への探究を作品の中心に据えてはいない」代わりに、著者は 「存在の意味の場としての言語に注目している」(Brian Bard, 1993 essay, 「Heidegger's Reading of Heraclitus」)。この作品はハイデガーの思想における「転換を明確に示している」とバードは書いている[10]。

トーマス・シーハンによれば、この対比は一般的に、1930年代以降に明らかになった、ハイデガーのよく議論されるケーレ(思考の転回)の最初の例とみな されている。しかし、シーハンによれば、この転回は「通常示唆されるよりもはるかに劇的なものではなく」、単に焦点と方法の転換を伴うものである [11]。これとは別に、マーク・ウラソールは、ハイデガーがそのキャリアを通じて一貫した目的を持っていたとされることを指摘しつつ、ケーレそのものが 解釈者側の完全な誤解であると主張している(2011年)[12]。

(シーハンもラソールも別々に、ハイデガーの中心的な焦点は決して「存在」ではなかったと主張している)。Wrathallはハイデガーの精巧な概念であ る「隠蔽されないこと」が彼の生涯の中心的な焦点であったと書いており、一方Sheehanはこの哲学者の主要な焦点は「実体の所与性としての存在」をも たらすものであったと提唱している[12][13]。

Politics

See also: Martin Heidegger and Nazism
Gregory Fried and Richard Polt praised the work for "the range and depth of its thought as well as for its intricate and nuanced style", arguing that it deserved its status as the successor to Being and Time. Regarding its mention of National Socialism, they write that, “Interpreters differ widely, and often acrimoniously, on whether Heidegger’s Nazism was due to a personal character defect” or whether the philosophy itself reflects a fascist outlook.[14]

Heidegger refers in the published text to the "inner truth and greatness of the movement," but adds a qualifying statement in parentheses: "(namely, the confrontation of planetary technology and modern humanity)." The qualification wasn't in the original lecture, although Heidegger falsely claimed otherwise. Moreover, the controversial page of the 1935 manuscript is missing from the Heidegger Archives in Marbach.[15]

Heidegger defended the "inner greatness" comment in a 1966 interview with Der Spiegel (posthumously published 1976), claiming it was intended to mislead Nazi informants who observed his lectures. Heidegger asserted that dedicated students would understand that the comment wasn't a celebration of Nazism.[16] Jurgen Habermas, in a 1953 review of the published work in the Frankfurter Allgemeine Zeitung noted the issue and wrote that "it's time to think with Heidegger against Heidegger."[17]

Although Julian Young claims (1998) that the book is "widely considered fascist in character," this characterization is false according to Young, who writes that the work implicitly condemns Nazism for its racism, militarism and attempted destruction of civil society.[18] The work has also been seen as being critical of Nazism for being insufficiently radical and suffering from the same spiritual impoverishment as the Soviet Union and the United States.[19]
政治

こちらも参照のこと: マルティン・ハイデガーとナチズム
グレゴリー・フリードとリチャード・ポルトは、この作品を「その思想の広さと深さ、そして複雑でニュアンスのある文体」によって賞賛し、『存在と時間』の 後継作品としての地位に値すると論じている。国家社会主義への言及については、「ハイデガーのナチズムが個人的な性格的欠陥によるものなのか、それとも哲 学そのものがファシズム的な考え方を反映しているのかについては、解釈者によって大きく異なり、しばしば激しく対立している」と書いている[14]。

ハイデガーは出版されたテキストの中で、「運動の内的真理と偉大さ」に言及しているが、括弧の中で修飾文を付け加えている: 「すなわち、惑星テクノロジーと現代人類の対決である。ハイデガーはそうでないと偽っているが、この修飾語は元の講義にはなかった。さらに、マルバッハに あるハイデガー・アーカイヴからは、1935年の原稿の論争の的になったページが失われている[15]。

ハイデガーは1966年の『シュピーゲル』誌のインタビュー(死後1976年に出版)で、「内なる偉大さ」発言は、彼の講義を観察していたナチスの情報提 供者を惑わすためのものだったと弁明している。ハイデガーは、熱心な学生であれば、このコメントがナチズムを称賛するものではないと理解するだろうと主張 した[16]。ユルゲン・ハーバーマスは、1953年に『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』誌に掲載された出版物の書評の中で、この問題 を指摘し、「ハイデガーに対してハイデガーとともに考える時が来た」と書いている[17]。

ジュリアン・ヤングは、本書は「広くファシズム的性格を持つと考えられている」と主張しているが(1998年)、ヤングによれば、この性格は誤りであり、 本書は人種差別、軍国主義、市民社会の破壊の試みについてナチズムを暗に非難していると書いている[18]。 また、本書はナチズムが急進的でなく、ソ連やアメリカと同じような精神的貧困に苦しんでいることに対して批判的であるとも見られている[19]。
https://en.wikipedia.org/wiki/Introduction_to_Metaphysics_(Heidegger_book)


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マルチン・ハイデガー年譜(ウィキペディア日本語による)

1889 9月26日 メスキルヒにてフ リードリヒ・ハイデッガーとヨハンナの第一子として生まれる

1903 ハインリヒ・ズーゾ高等学校 (Heinrich-Suso-Gymnasium入学

1906 フライブルクのベルトホルト高 等学校(Berthold Gymnasium)でアビトゥーアの準備

1907 ギムナジウム最終年にコンラー ト・グレーバー博士から、フランツ・ブレンターノの1862年の学位論文「アリストテレスにおける存在 者の多様な意義について」を贈られ、影響を受ける

1909 ティジスのイエズス会修練士修 練期用新入生宿舎に登録、すぐに除籍。フライブルク大学神学部に冬学期から入学

1913 7月26日、指導教官はアル トゥール・シュナイダー教授を主査とし、副査ハインリヒ・リッケルトのもと学位論文『心理学主義の判断論 ──論理学への批判的・積極的寄与』を提出し、最優秀(summa cum laude)の評価

1919 プロテスタントに改宗。戦争緊 急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブル ク大学の教壇に立つ。

1922  論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報 告)

1923-28 

1927  エドムント・フッサールによって創刊された『哲学および現象学研究のための 年報』の第8巻においてハイデガー『存在と時間』の初版を公刊。『現象学の根本 問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie)

1928 フッサールの後任としてフライ ブルク大学の教授に招聘され、就任

1929 4月、スイスのダボスで新カン ト派のエルンスト・カッシーラーとのダヴォス討論を行い、「神に存在論はない」「存在論を必要とするの は有限者だけである」と語った[152][153]。この討論にはルドルフ・カルナップも参加しており、ハイデッガーに全てを物理学的用語で表現する可能 性について話すとハイデッガーは賛同したという。

1929 『カントと形而上学の問題』 (Kant und das Problem der Metaphysik、1929年)『形而上学とは何か』("Was ist Metaphysik?"、1929年)

1932 ルドルフ・カルナップは「言語の論理的分析による形而上学の克 服」 [477]でハイデッガーの「形而上学とは何か」を批判し、形而上学は芸術の代用品にすぎず、形而上学者は「音楽的才能のない音楽家」でしかないと批判し た [478]。ハイデッガーは講義草稿でカルナップの哲学は「数学的科学性という見かけの下に伝統的な判断論を極端に平板化し、その根を失わせたもの」で、 「こうした種類の哲学が、ソ連の共産主義と内的にも外的にも関連しているのも、そしてアメリカにおいてその勝利を祝うことになるのも偶然ではない」と書い ている

1933 4月21日、ハイデッガーはフ ライブルク大学総長に選出。ナチス入党。

1934 1934年4月23日の会議で 総長辞任を伝える

1942  『存在と時間』第5版ではフッサールの献辞は削除される

1944 夏学期、ヘラクレイトス講義 [287]。この講義のなかでハイデッガーは「ドイツ民族が西洋の歴史的な民族でありつづけるの か、それ ともそうでないのかどうかという、このことだけが決定を迫られているのではなくて、今は大地の人間が大地もろともに危険にさらされているのであり、しかも 人間自身によってそうなのである[288]」「この惑星は炎に包まれている。人間の本質は支離滅裂になっている。ドイツ人がドイツ的なものを見出し、保持 するということが想定されるとすれば、世界史的な熟慮が生まれるのはドイツ人からのみである[289]」と語った

1945 11月から12月にかけてフラ ンス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会の査問を受ける。

1946 夏、フランス軍政当局はハイ デッガーの無期限教職禁止令を指令。これは大学からの免職ではなく、研究教授としての在留を認めたもので もあった[5]。12月、バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された

1949 11月から「ヨーロッパユダヤ 文化再建委員会」のナチス略奪文化財の調査で訪欧していたハンナ・アーレントが、ヤスパースに会ったあ と、1950年1月にフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[328]。ハイデッガーはアーレントのホテルを訪れ、またハイデッガーの家では妻エル フレーデと三人で会ったが、諍いとなった

1951 復職し、退官教授

1952 5月19日、ハンナ・アーレン トは再びフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[335]。6月6日の夫への手紙でハイデッガー の講義はすばらしいものであったが、その妻とは悶着をおこし、ハイデッガーの5万ページの未発表原稿は「本来ならそれを彼女(妻エルフレーデ)が数年のあ いだにスムーズにタイプすることができていたはず」なのにしなかった、ハイデッガーが頼れるのは弟だけと報告している

1953 『形而上学入門』がマックス・ ニーマイヤー書店より再刊される。当時24歳の学生ユルゲン・ハーバーマスは「『存在と時間』の魅力に 取り憑かれていただけに、文体の隅々までファシズム的なものの染み込んでいるこの講義を読んで大きなショックを受け」、「ハイデッガーとハイデッガーに対 して考える」を1953年7月25日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙上に発表し、「この運動の内的真理と偉大さ」という文中での表現に ついて注釈も序文での説明もないまま刊行したハイデッガーを「ファシスト的知性」と非難し、「数百万人の人間に対する、今日我々みなが知っている計画的な 殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは帰責能力をもって殺人を行った人々の実際の犯罪ではないのか。それに 対しては、一つの民族全体が良心の呵責を感じねばならぬのではないのか」と質問した。

1953 1927年の初版以来『存在と時間』の冒頭には「上巻」の文字 があったが、ハイデッガーは1953年の第7版からこれを削除。

1967 7月24日、詩人パウル・ツェ ランがフライブルク大学で朗読会を開き、ハイデッガーも聴衆としており、翌日7月25日、トートナウベ ルクのハイデッガー山荘を訪れた[371]。ツェランから詩を送られたハイデッガーは1968年1月30日付礼状書簡で「私は幾つかのことはまだ、いつの 日か、無-言を脱して対話に入れるものと思っています」と書いた[372]。1967年、ハンナ・アレントがハイデッガーを訪問。

1969 ハンナ・アレントが夫ハインリ ヒ・ブリューヒャーとハイデッガーを訪問し、それからは毎年のようにハイデッガー宅を訪問する

1976 5月26日死去

1987 Heidegger y el Nazismo, でヨーロッパで大スキャンダルになる。ガダマーやデリダは、ファリアスのハイデガーの読みを批判することで批判し、ハイデガーの反ユダヤ主義はすでに知ら れて問題にならずとした。ハイデガーを生粋のファシストとしたい派と、ハイデガーの哲学上のゆるぎない業績と、ハイデガーの「世俗的で矮小な」アイヒマン 的なナチへ関与には関心のない「哲学ユートピア」派に、無残にも別れてしまった。ハイデガーの詳細な伝記を書いたザフランスキーも、擁護派に回っている。 それぐらい、ハイデガーの思想は偉大ということか?

1989 マールブルク大学と同時期にや はりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュに提出した同内容の論 考が発見され、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明。

2013 ヴィットリオ・クロスターマン 社全集94-96巻に掲載されたハイデッガーが1930年代から1970年代にかけて書き続けた手稿 「黒ノート」に反ユダヤ主義についての箇所があることが問題に。ジャン=リュック・ナンシーのみが、一番まともで、ハイデガーのナチス協力とナチスへの信 奉はゆるぎないもので、誰も知っていたことで「ハイデッガーが反ユダヤ主義に加担したことは1950年代から知られていたし、ハイデッガーの限界とは我々 の限界でもあると論じた」Jean-Luc Nancy,Faust Kultur,2014.

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