ハイデガーの政治的存在論
L'ontologie politique de Martin Heidegger, The political ontology of Martin Heidegger, by Pierre Bourdieu
1934年4月23日のフライブルグ大学総長辞任前後の時期のハ
イデガー:ナチスの民族指導者の鷲章をつける// Otto Dix が描くHeidegger
解説:池田光穂
●マルチン・ハイデガーの政治的存在論(ピエール・ブルデュ)——L'ontologie politique de Martin Heidegger.
アウトライン |
(ハイデガーの 用語)時間性————(含意)福祉国家糾弾 (ハイデガーの用語)彷徨 の糾弾 ——(含意)反ユダヤ主義 1)歴史的文脈の検証 2)哲学者に陣地をあてがう大学 3)教員やポストを改廃する権力構造 4)ワイマール・ドイツの社会構造 |
序論 いかがわしい思想 | ・哲学の世俗からの切断という意識が哲学の限界づけられた考え方 ・哲学と言えども時代の子(ただしこれは超越論的な歴史主義を結果的に肯定する) ・ハイデガーに純粋性を認めるのはナンセンスだが、ハイデガーを政治思想家とするのもナンセンス ・哲学の世俗世界からの自律の有無を考えるのではなく、そこから逃れ得ないこと。あるいは逃れ得た/るべきという哲学者のポーズ(あるいは自己の学問への 無理解)を問うことが重要 ・哲学は特殊な時代性をもつ。すなわち、ナチの時代を生きたハイデガーとその著作の「特殊な時代性」について考察しなければならない。 ・ハイデガーの著作は哲学的に読むと《同時に》政治的にも読まねばならない——二重の読解。 ・さらには、これまでの通俗的な政治概念の相対化、すなわち、読解を通した「政治概念の刷新」がもとめられている。 1)哲学の時代性と純粋性 2)政治的かつ哲学的に読むこと |
第1章 純粋哲学と時代 精神 | ・ハイデガー哲学の時代は、「フェルキッシュ(民族的・民俗的)」という概念が重要視された時代である。 ・ハイデガーとその他の思想家(シュペングラー、ユンガー)との関係 1)両大戦間のイデオロギー的雰囲気 2)家父長制/回心/山岳 3)シュペングラーとトレルチ 4)大学内に広がる反主知主義 5)シュペングラーとハイデガー 6)ユンガーとハイデガー 7)ぼんやりした統一 8)倫理—政治的な方向感覚 9)保守的革命 10)第三の道 11)ハイデガー存在論の政治的基礎——「本源的人種」の概念など 12)政治と哲学の境界線 13)能動的ニヒリズムから受動的ニヒリズムへ |
第2章 哲学界と可能性 空間 | ・ハイデガーデビュー直前の新カント派の状況 ・時代状況から自律しているとはどういうことか? ・その哲学的読解。 1)哲学界における政治的立場表明 2)哲学界の状況と新しい立場 3)ハイデガーのハビトゥス 4)知的世界のいごこちの悪さ 5)ハイデガーの文体 |
第3章 哲学における 「保守的革命」 | ・ハイデガーの目論見は「保守的革命」にある ・「保守的革命」の文脈においては、政治と哲学は対応関係があり、また共存している。それ「相同的」と呼ぶ。 ・哲学的読解と、政治的読解の対応関係を明らかにする 1)政治・大学・哲学を貫く理論路線 2)徹底的な乗り越えの戦略 3)歴史・時間の存在論化とその実践的表現 4)超越論的なものの存在論化から否定的存在論へ |
第4章 検閲と作品制作 | ・ハイデガーの哲学文体の検証。 1)形式と内容 2)仮象だけの断絶と哲学体系 3)暴露=隠蔽 4)エリートと大衆 5)社会からの距離 6)倫理的主意主義 |
第5章 内的な読解と形 式の尊重 | ・ハイデガーが読者に要求する読解や解釈のやり方について 1)形式的言説は形式的読解を求める 2)哲学者の自己解釈 3)作品と解釈者の相対的立場 4)ハイデガーに共鳴する土壌 |
第6章 自己解釈と体系 の進化 | ・ハイデガーによる、ハイデガーの作品の読解 1)体系化の到達点としての「転回」 2)進化の原理としての警戒 3)本質的思考は本質的なことを思考しなかった |
ハイデガー「ドイツ大学の自己主張」は、画面のスクロールしてください。
●暴力と政治(権威)
私が与える暴力の定義と は、「人を従属させる破壊的な強制力のこと」である。〈従属させる強制力〉すなわち〈暴力〉の帰結とは、動産の破壊、人間や 動物の殺傷などがある。このために、人は暴力の被害が被らないように、命乞いのように懇願したり、(因果関係の認識として)謝る必要のない謝罪を口にす る。通常は、暴力概念は権力の発露として捉えることができるが(→「ソレルの暴力論」を参照)、以下の、ハンナ・アーレントの暴力概念は、そのように捉え ない特異的な解釈なので、注意が必要である。暴力の反対語は、ある意味空間(A)においては、非暴力であり、非暴力が含意するものは、誰でも想像がつくよ うに「平和」である。他方、「人を従属させる非破壊的な強制力」としての「権威」を暴力に対峙するもの、つまり反対語/反対概念とみなす立場もある。それ が、ハンナ・アーレントの暴力概念であり、この概念は、アーレントが影響を受けた夫ハインリッヒ・ブリュッヒャーとヴァルター・ベンヤミンの影響を受けて いるものと、私(池田)は考えている(→「暴力:その定義」)。
●カント『判断力批判』第一部にもとめる、政治的概念の鍛え方
「まず反省的判断力の働きに基づく趣味判断は、「関心」ないし「利害関心」と結びついていてはな らないということが重要です。カントの言い方では、あらゆる関心は趣 味判断を損ない、趣味判断か らその不偏不党性、つまり判断の公平性を奪う、ということになります。この見解は、この判断が存 在の認識に関わる理論的関心も、実践的行為に関わる道徳的な関心ももってはならない、という帰結 をもたらします。つまり、趣味判断は、知的欲求、感覚的・感性的欲求や道徳的意志などと関わる実 践的判断でもないのてす。したがって、趣味判断があらゆる目的とは分離された観想的な性格をもち、 こうした意味で趣味は自由であることになります。ここから、美感的判断力が自由な判 断でなければならないことが明らかでありましょう」牧野英二『カントを読む』Pp.258-259、岩波書店、2003年。
これらをまとめると次のようになる。1)反省的判断力は、関心や利害関心として結びつい
てはならない。
2)心や利害関心として結びついてはならない理由 は、趣味判断か らその不偏不党性、つまり判断の公平性を奪うからである。
3)この判断は認 識に関わる理論的関心も、実践的行為に関わる道徳的な関心ももってはならないからである。
4)趣味判断は、実践的な判断ではない。つまり、趣 味判断はあらゆる目的とは分離された観想的な性格をもち、
こうした意味で(のみ)趣味は自由である。
5)美感的判断力は自由な判断から生じる(アーレン
トはフランス滞在中にSSの将校に捕まって尋問を受けるが、その時、その将校がとても「ハンサム」であったことを述懐している)。
6)趣味の要求が、特定の共同体のなかで、排他的な
基準でなされることは「不道徳」をうむ——このような間主観的認識が「普遍性」をもつことは今後きちんと証明されなければならない。
7)美感的判断は、多様性をもつことが予測され、か
つ、その「優劣をめぐって」論争的性格をもつが、潜在的には「その価値判断が多元性を担保する限り」は、調停可能である。
8)調停可能という属性には、政治的判断も含まれよう。美感的判断における反省的判断力は、政治的判断における判断のプロセスにも「応用」可能となる(→
「カント『判断力批判』第一部を政治的判断力として読むハンナ・アーレントについて」)。
●マルチン・ハイデガー年譜
【年譜関係】マルチン・ハイデ ガー『存在と時間』ノート、よりコピペ
マルチン・ハイデガー年譜(ウィキペディア日本語による)
1889 9月26日 メスキルヒにてフ
リードリヒ・ハイデッガーとヨハンナの第一子として生まれる
1903 ハインリヒ・ズーゾ高等学校(Heinrich-Suso-Gymnasium)入学
1906 フライブルクのベルトホルト高等学校(Berthold Gymnasium)でアビトゥーアの準備
1907 ギムナジウム最終年にコンラート・グレーバー博士から、フランツ・ブレンターノの1862年の学位論文「アリストテレスにおける存在者の多様な
意義について」を贈られ、影響を受ける
1909 ティジスのイエズス会修練士修練期用新入生宿舎に登録、すぐに除籍。フライブルク大学神学部に冬学期から入学
1913 7月26日、指導教官はアルトゥール・シュナイダー教授を主査とし、副査ハインリヒ・リッケルトのもと学位論文『心
理学主義の判断論──論理学
への批判的・積極的寄与』を提出し、最優秀(summa cum laude)の評価
1919 プロテスタントに改宗。戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教
壇に立つ。
1922 (
1923-28 )論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の
提示』(ナトルプ報告)
解釈学的状況の提示
『ニコマコス倫理学』第6巻
『形而上学』第1巻の第1章と第2章
『自然学』第1巻から第5巻
(第2部について『形而上学』第7巻、第8巻、第9巻の解釈)
1927 エドムント・フッサールによっ
て創刊された『哲学および現象学研究のための年報』の第8巻においてハイデガー『存在と時間』
の初版を公刊。『現
象学の根本問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie)
1928 フッサールの後任としてフライブルク大学の教授に招聘され、就任
1929 4月、スイスのダボスで新カント派のエルンスト・カッシーラーとのダヴォス討論を行い、「神に存在論はない」「存在論を必要とするの
は有限者だけである」と語った[152][153]。この討論にはルドルフ・カルナップも参加しており、ハイデッガーに全てを物理学的用語で表現する可能
性について話すとハイデッガーは賛同したという(A parting of the ways : Carnap, Cassirer, and
Heidegger / Michael Friedman, Chicago : Open Court , 2000)。
1929 『カ
ントと形而上学の問題』(Kant und das Problem der
Metaphysik、1929年)『形而上学とは何か』("Was ist Metaphysik?"、1929年)
1932 ルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap,
1891-1970)は「言語の論理的分析による形而上学の克服」
[477]でハイデッガーの「形而上学とは何か」を批判し、形而上学は芸術の代用品にすぎず、形而上学者は「音楽的才能のない音楽家」でしかないと批判し
た
[478]。ハイデッガーは講義草稿でカルナップの哲学は「数学的科学性という見かけの下に伝統的な判断論を極端に平板化し、その根を失わせたもの」で、
「こうした種類の哲学が、ソ連の共産主義と内的にも外的にも関連しているのも、そしてアメリカにおいてその勝利を祝うことになるのも偶然ではない」と書い
ている。
1933 44歳
44歳。1月、ヒトラーが帝国宰相となる。
4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出。ナチス入党。
5月1日、22名の同僚とともにナチス党に入党。
5月27日「ド イツの大学の自己主張」学長就任演説(19330527)
夏学期「哲 学の根本問題(哲学の根本的問い)」講義。ハイデルベルク大学で「新しい帝国の大学」講演。
10月1日、フライブルク大学「指導者」に任命。
ハイデガー「ドイツの大学の自己主張(Die
Selbstbehauptung der Deutschen Universität)」 一九三三年五月二十七日 学長就任演説(引用元:http://makorin.blog.jp/archives/52004820.html) 一九三三年 第一版 フライブルク 一九三四年 第二版 ブレスラウ 学長職を引き受けることは、この大学の精神的指導を行う義務を負うことである。教師と学生は、この精神的指導に従って、真に足並みを揃えてドイツの大学 の本質に根を下ろすことによってのみ、目覚めて力をもつことができる。しかし、まず何よりも、そしていかなる時にも、指導者たるもの自身が指導される者で あるとき、つまりドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託に導かれるとき、そのときに初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大 さと力をもつに至るのである 我々はこうした精神的負託を知っているのだろうか。この問いに然りと答えるにせよ否と答えるにせよ、我々は次の問いからは逃れることができない。つま り、我々この大学の教師と学生は、ドイツの大学の本質に、真にそして足並みを揃えて、根を下ろしているのであろうか。そしてこのドイツの大学の本質は、我 々の現存在にとって真の影響力をもっているのであろうか。我々がこの本質を根本から希求するときにのみ、然りである。概して、大学の本質はその〈自治〉に あると見なされており、これは堅持さるべきものとされている。しかし、我々がどうして自治をこのように要求するのかを、我々はまともに考えてきたと言える であろうか。 自治とはしかし、我々自身に使命を課し、その実現の方策を自ら定め、我々がそうあらねばならないものに自らなるということなのである。しかし、ドイツ民 族の最高学府の教師であり学生である我々は、我々自身が何者であるかを知っているのであろうか。我々は、絶え間なき自己規定なしに、この上なく厳しい自己 規定なしに、これを知ることができるのであろうか ドイツの大学の自己主張とは、その本質に対する根源的かつ共通の意志である。ドイツの大学は、我々にとって、学問から出て、学問によって、ドイツ民族を 指導する者、ドイツ民族を守る者を教育し陶冶する最高学府なのである。ドイツの大学の本質へ至ろうとする意志は、ドイツ民族の歴史的、精神的負託へ至ろう とする意志としての学問への意志である。学問とドイツの運命は、何よりも、本質的意志において力をもたなければならない。学問とドイツの運命は、我々が ――教師も学生も――一方で学問をそのもっとも内奥の必然性に晒すときに、また他方で我々がドイツの運命の極度の困窮に立ち向かうときに、そしてそのとき にのみ、力をもつことになるであろう 規律 自分たち 根源的なもの 我々が、我々の精神的=歴史的現存在の始原の力に再び身を任せるときである この始原は、ギリシャ哲学が発生したときであって、ここに、西欧の人間は初めて、その言語によって民族性を自覚して、全体として存在するものに抗して立 上り、それに問いを突きつけ、それを存在者そのものとして理解する。あらゆる学問は、哲学なのである。そうと知ろうと知るまいと、そう望もうと望むまいと 関係なく、あらゆる学問は、哲学であって、哲学のあの始原から離れることはない。あらゆる学問は、たとえこの始原に劣らないものになっていようとも、その 本質の力をこの始原から汲み取っているのである 今日激しく行われている戦いは、数千年の時間を繫ぎ合わせ、ギリシャ精神とゲルマン精神をともに包含する一つの文化の、自らの現存在を求めての戦いとい う偉大なる目標をもつものなのである 実践を理論に一致させること 逆に、理論そのものを真の実践の最高の実現と理解すること ギリシャ人にとっては、学問は〈文化的遺産〉ではなく、民族=国家としての現存在全体のもっとも内奥の決定的中枢 事物に対する知はすべて、運命の大きな力の手中にあって、その前では無力である 精神的 これが学問の始原における本質である。しかしこの始原は、すでに二千五百年も前にことではないか。人間の行為における進歩がこの学問をも変えたのではな いか。確かにその通りである。後代のキリスト教的=神学的世界解釈も、近代になってからの数学的=技術的思考も、学問を時間的にも内容的にもその始原から 離してしまっている。しかしそうだとしても、始原そのものは決して克服されてもいなければ、無になってもいない。というのも、始原のギリシャの学問が偉大 なる何ものかであるとするならば、この偉大なるものの始原は、偉大なるものの中の最たるものだからである。学問の本質は、今日、さまざまな成果が生まれ、 〈国際機関〉が活躍しているにもかかわらず、空疎になっているが、始原の偉大さがいまなお存在しているならば、決して枯渇することも、根絶やしになること もありえないであろう。そして始原はいまもなお存続しているのである。それは、はるか昔に存在したものとして我々の背後にあるのではなく、我々の前に立っ ている。始原は、もっとも偉大なるものとして、あらかじめ、あらゆる到来するものの頭上を、我々の頭上をも、すでに超えて先へ行っている。始原は、我々の 未来に飛び去って、その偉大さをそこまでもって来るようにと、彼方から我々に命じているのである。 始原の偉大さを取り戻せというこの彼方からの命令に従うことを我々が決断するときにのみ、学問は、我々にとって、現存在のもっとも内奥の必然性となる。 そうでなければ、学問は、我々がたまたま出会う偶然であるか、さもなくば、知識の単なる進歩を助成するだけの危険のない安楽な気晴らしでしかない。 彼方からの始原の命令ずるところに従うとき、学問は、我々の精神的=民族的現存在の基本的出来事にならねばならない 国際機関 我々が、存在するもの全体の不確かさのただ中で、何かに頼るのではなく直接に問いを発する態度を取り続けるという意味で、この学問の本質を望むならば、 この本質への意志こそが、我々の民族のために、内的外的な危険に晒された世界、つまりは真に精神的な世界を作り出してくれる。というのも、〈精神〉は、明 晰ではあっても無内容な頭脳ではなく、無意味な才気の遊戯でもなく、知的分析の果てしない営みでもなく、ましてや世界理性などでもないからである。精神は あくまで、存在の本質へ向かって根源を志向する知的決断なのである。そして民族の精神的世界とは、文化の上部構造ではなく、もとより有用な知識や価値を蓄 えて置く兵器庫でもなく、民族の現存在をもっとも奥深いところで高揚させ、極度に震撼させる力、民族の大地と血に根ざした諸力をもっとも深いところで保持 する力なのである。精神的な世界のみが民族に偉大さを保証する。というのも、精神的な世界は、偉大さを求める意志と没落するに任せる無意志との間での絶え ざる決断が、我々の民族がその未来の歴史へ向かって踏み出した行進のための歩行法則となることを強く促すからである 我々が学問のこの本質を希求するならば、大学の教授たちは、世界の絶えざる不確定性という危険に立ち向かう最前線へ実際に進軍して行かねばならない。教 授たちがその最前線を固守するとき、そこから――あらゆる事物の攻撃に身をもって立ち向かうところから――共通の問いと共同体を志向する発言がしぼり出さ れてきて、教授たちも逞しい指導者になる。というのも、指導するに当たって決定的なことは、単に先頭に立つことではなく、ただ一人で進んで行くことができ る力だからである。それは強情さや支配欲からのものではなく、もっとも深いところで決定を下し、もっとも広範な形の義務を果たすためである。こうした力が 本質的なものに結びついて、最上の者を選び出し、新しい勇気に満ちた者たちの真の服従心を目覚めさせるのである。しかし我々はこうした服従心を目覚めさせ ることは今はもう必要としない。ドイツの学生たちがすでに進軍を始めているからである。彼らが求めているもの、それは、彼ら自身の決定を確固たる学に基づ く真理に高めてくれる指導者、彼らの決断をドイツ的に働く言葉と行為の明晰さに引き入れてくれる指導者である。 極度の困窮に陥っているドイツの運命に立ち向かおうとするドイツの学生のこの決断から、大学の本質へ迫ろうとする意志が生まれて来る。この意志は、ドイ ツの学生が学生の新しい権利を通じて自らの本質的規範のもとに立ち、そうすることによってまず何よりもこの本質に明確な輪郭を与えるというかぎりで、真の 意志である。自らに規範を与えることが、最高の自由である。さまざまに賛美されている〈大学の自由〉というものは、大学から放逐されねばならない。という のも、こうした自由は、否定的なものでしかないゆえに、真なるものではないからである。それは、主として無関心さ、意図や嗜好における任意性、行為におけ る放縦さを意味していた。だが、ドイツの学生の自由という概念は、今や、本源の真理に連れ戻される。そこから、将来、ドイツの学生の義務と奉仕が展開され る 義務 第一の義務は、民族共同体に対するものである。民族共同体は、民族のすべての階級と成員の努力、志望、能力に関与し、これを共に担い、共に行動すること を義務づけるものであって、この義務がこれから先も果たされ、学生の現存在に根を下ろすのは、労働奉仕によってである。 第二の義務は、諸民族のただ中にあるこの国家の栄誉と運命に対するものである。国家は、知と能力で固められ、規律によって引き締められた出撃体勢、最後 の一兵までの出動を要求する。この義務が将来学生の現存在全体を包み込み、これに浸透するのは、兵役によってである。 学生の第三の義務は、ドイツ民族の精神的負託に対するものである。ドイツ民族は、自らの運命に働きかけて、人間の現存在がもつ世界を構成する力を圧倒的 に見せつけながら、自らの歴史を作り上げ、自らの精神的世界を常に新たに戦い取っている。たとえ自己の現存在が極度に疑わしいものであろうとも、ドイツ民 族は、精神的な民族たらんと欲しており、自らにおいて、そして自らのために、もっとも高く、もっとも広く、もっとも豊かな知のもっとも厳しい明晰さを民族 の指導者たち、民族の番人たちに求めている。いまだ若くして大胆に成人の世界に乗り込んで行き、その意欲の翼を国家の将来の運命に向かって広げている学生 諸君は、根底からこうした知への奉仕を自らに課さねばならない。学生諸君にとって、この知的奉仕は、〈高級な〉職業に就くための変わりばえのしない速成の 訓練であってはならない。政治家と教師、医師と裁判官、司祭と建築家は、民族的=国家的な現存在を指導し、それを人間の存在がもつ世界を構成する力との基 本的関係において監視し、厳しく保持しなければならないがゆえに、こうした職業とそのための教育が、この知的奉仕に委ねられているのである。知は、職業に 役立てるものではなく、逆に職業の方が、民族の現存在全体のために、民族の最高の本質的な知を手に入れ、それを管理しているのである。しかしこうした知 は、我々にとって、本質や価値それ自体をのんびりと閲覧することではない。そうではなく、存在するものが跋扈するただ中で、現存在をこの上なく厳しく危険 に晒すことなのである。存在一般が疑わしいからこそ、民族は労働と闘争に向かわねばならず、民族の国家に統合されねばならない。こうした職業はこの国家に 帰属しているからである。 この三つの義務は――民族を通じて精神的負託を受けた国家の運命に対するものであって――ドイツの本質にとって、等しく根源的なものであり、根源から発 するこの三つの奉仕――労働奉仕、兵役、知的奉仕――は、等しく必須のものであり、同等のランクのものである 教師の本質的な意志が目覚め、強くなると、それは、学生の本質に対する知のもつ単純さとそのありように向かって行かざるをえないのに対し、学生の本質的 な意志は、知の最高の明晰さと規律に向かって行き、民族とその国家についての知識を、学生の本質の中に組み込んで行くことを断固として要求するようにな る。そのため、両者の意志は、必然的に互いに衝突することになる。あらゆる意志的な思考力、あらゆる心情の力、あらゆる肉体の能力は、闘争によって発展 し、闘争の中で高められ、闘争として保持されねばならない。 我々は問いを発する者の知の闘争を選び、カール・フォン・クラウゼヴィッツとともに、こう公言する、〈私は、偶然の手によって救われるなどという軽薄な 希望とは縁を切る〉と 教師と学生の闘争共同体は、教師と学生が他のすべての民族同胞よりもより簡明に、より厳粛に、より謙虚に、その現存在を打ち立てるときにのみ、ドイツの 大学を精神的立法の場に改造し、大学の中に民族の国家に対して最高の奉仕をするこの上なく引き締まった集合の中心を作り出すこととなる。すべての指導者 は、服従する者に独自の力を認めてやらねばならない。しかし、服従それ自身の中には、常に反発が含まれている。指導と服従のこうした本質的な敵対関係は、 拭い取ってはならないし、ましてや無理矢理に消し去ってはならないものである。 ただ闘争のみが、この対立を確保し、教師と学生の集団全体の中に、明確な自己主張をして真の政治のための決然たる自己省察たらしめる基本的な雰囲気を植 えつけるのである 我々はドイツの大学の本質を望んでいるのか、それとも望んでいないのか 我々のもとで問題になっているのは、我々が自己省察と自己主張を得ようとして好い加減にではなく根底から努力しているのかどうか、努力しているとして、 それはどの程度にか、あるいは、――善意から出たものにせよ――ただ古い制度だけを変えて、新しい制度をこれに付け加えているかどうかである。誰一人とし て我々のこうした行為を阻むものはいない。 しかし、西欧の精神的な力が失われ、西欧の箍が緩んでしまっているときに、そして老衰した偽りの文化が内部から崩れ落ち、すべての力を混乱に陥し入れ、 狂気の中で窒息させようとしているときに、我々がなおもそれを望むのか、それとも望まないかと問いかける者は誰一人いない。 こうした事態が起こるか、それとも起こらないか、それはひとえに、我々が歴史的=精神的民族としての我々自身をなおもう一度望むか、それとももはや望ま ないかどうかにかかっている。各々の個人は、この決断を回避するときでも、いやそのときにこそ、これに対して共に決断を下すことになる。 しかし、我々は、我々の民族がその歴史的負託を果たすことを望んでいる。 我々は、我々自身を望んでいる。というのも、すでに我々を超えて広がっている民族の若い力、もっとも若い力は、すでにこれを決断しているからである。 しかしこの決起の栄光、そしてその偉大さは、ギリシャの叡知から発せられたあの深淵かつ広範な熟慮の言葉を我々の中に担って行くときに初めて、我々に十 全に理解されるのである。 〈偉大なるものはすべて、嵐の中に立つ[……](プラトン、ポリテイア、四九七d、九) |
Martin
Heidegger, Die Selbstbehauptung der deutschen
Universität. Die Übernahme des Rektorats ist die Verpflichtung zur geistigen Führung dieser hohen Schule. Die Gefolgschaft der Lehrer und Schüler erwacht und erstarkt allein aus der wahrhaften und gemeinsamen Verwurzelung im Wesen der deutschen Universität. Dieses Wesen aber kommt ernst zu Klarheit, Rang und Macht, wenn zuvörderst und jederzeit die Führer selbst Geführte sind— geführt von der Unerbittlichkeit jenes geistigen Auftrags, der das Schicksal des deutschen Volkes in das Gepräge seiner Geschichte zwingt. Wissen wir um diesen geistigen Auftrag? Ob je oder nein, unabwendbar bleibt die Frage: sind wir, Lehrerschaft und Schülerschaft dieser hohen Schule, in das Wesen der deutschen Universität wahrhaft und gemeinsam verwurzelt? Hat dieses Wesen echte Prägekraft für unser Dasein? Doch nur dann, wenn wir dieses Wesen von Grund aus wollen. Wer möchte aber daran zweifeln? Gemeinhin sieht man den vorwaltenden Wesenscharakter der Universität in ihrer »Selbstverwaltung«; die soll erhalten bleiben. Allein— haben wir es auch ganz bedacht, was dieser Anspruch auf Selbstverwaltung von uns fordert? Selbstverwaltung heißt doch: uns selbst die Aufgabe setzen und selbst Weg und Weise ihrer Verwirklichung bestimmen, um darin selbst zu sein, was wir sein wollen. Aber wissen wir denn, wer wir selbst sind, diese Körperschaft von Lehrern und Schülern der höchsten Schule des deutschen Volkes? Können wir das überhaupt wissen, ohne die ständigste und härteste Selbstbesinnung? Weder die Kenntnis der heutigen Zustände der Universität, noch auch die Bekanntschaft mit ihrer früheren Geschichte verbürgen schon ein hinreichendes Wissen von ihrem Wesen— es sei denn, daß wir zuvor in Klarheit und Härte dieses Wesen für die Zukunft umgrenzen, in solcher Selbstbegrenzung es wollen, und daß wir in solchem Wollen uns selbst behaupten. Selbstverwaltung besteht nur auf dem Grunde der Selbstbesinnung. Selbstbesinnung aber geschieht nur in der Kraft der Selbstbehauptung der deutschen Universität. Werden wir sie vollziehen und wie? Die Selbstbehauptung der deutschen Universität ist der ursprüngliche, gemeinsame Wille zu ihrem Wesen. Die deutsche Universität gilt uns als die hohe Schule, die aus Wissenschaft und durch Wissenschaft die Führer und Hüter des Schicksals des deutschen Volkes in die Erziehung und Zucht nimmt. Der Wille zum Wesen der deutschen Universität ist der Wille zur Wissenschaft als Wille zum geschichtlichen geistigen Auftrag des deutschen Volkes als eines in seinem Staat sich selbst wissenden Volkes. Wissenschaft und deutsches Schicksal müssen zumal im Wesenswillen zur Macht kommen. Und sie werden es dann und nur dann, wenn wir— Lehrerschaft und Schülerschaft— einmal die Wissenschaft ihrer innersten Notwendigkeit aussetzen und wenn wir zum anderen dem deutschen Schicksal in seiner äußersten Not standhalten.— Das Wesen der Wissenschaft erfahren wir allerdings nicht in seiner innersten Notwendigkeit, solange wir nur— vom »neuen Wissenschaftsbegriff« redend— einer allzu heutigen Wissenschaft die Eigenständigkeit und Voraussetzungslosigkeit bestreiten. Dieses lediglich verneinende und kaum über die letzten Jahrzehnte zurückblickende Tun wird nachgerade zum Schein einer wahrhaften Bemühung um das Wesen der Wissenschaft. Wollen wir das Wesen der Wissenschaft fassen, dann müssen wir erst der Entscheidungsfrage unter die Augen gehen: soll Wissenschaft fernerhin für uns noch sein, oder sollen wir sie einem raschen Ende zutreiben lassen? Daß Wissenschaft überhaupt sein soll, ist niemals unbedingt notwendig. Soll Wissenschaft aber sein und soll sie für uns und durch uns sein, unter welcher Bedingung kann sie dann wahrhaft bestehen? Nur dann, wenn wir uns wieder unter die Macht des Anfangs unseres geistig-geschichtlichen Daseins stellen. Dieser Anfang ist der Aufbruch der griechischen Philosophie. Darin steht der abendländische Mensch aus einem Volkstum kraft seiner Sprache erstmals auf gegen das Seiende im Ganzen und befragt und begreift es als das Seiende, das es ist. Alle Wissenschaft ist Philosophie, mag sie es wissen und wollen— oder nicht. Alle Wissenschaft bleibt jenem Anfang der Philosophie verhaftet. Aus ihm schöpft sie die Kraft ihres Wesens, gesetzt, daß sie diesem Anfang überhaupt noch gewachsen bleibt. Wir wollen hier zwei auszeichnende Eigenschaften der ursprünglichen griechischen Wesens der Wissenschaft unserem Dasein zurückgewinnen. Bei den Griechen ging ein alter Bericht um, Prometheus sei der erste Philosoph gewesen. Diesen Prometheus läßt Aischylos einen Spruch sagen, der das Wesen des Wissens ausspricht: tegnh d`anagkhj asqenestera makrw (Prom. 514 ed. Wil.) »Wissen aber ist weit unkräftiger denn Notwendigkeit. « Das will sagen: jedes Wissen um die Dinge bleibt zuvor ausgeliefert der Übermacht des Schicksals und versagt vor ihr. Eben deshalb muß das Wissen seinen höchsten Trotz entfalten, für den erst die ganze Macht der Verborgenheit des Seienden aufsteht, um wirklich zu versagen. So öffnet sich gerade das Seiende in seiner unergründbaren Unabänderlichkeit und leiht dem Wissen seine Wahrheit. Dieser Spruch von der schöpferischen Unkraft des Wissens für ein rein auf sich selbst gestelltes und dabei selbstvergessenes Wissen finden möchte, das man uns als die »theoretische« Haltung deutet.— Aber was ist die qewria für den Griechen? Man sagt: die reine Betrachtung, die nur der Sache in ihrer Fülle und Forderung verbunden bleibt. Dieses betrachtende Verhalten soll unter Berufung auf die Griechen um seiner selbst willen geschehen. Aber diese Berufung hat unrecht. Denn einmal geschieht die «Theorie» nicht um ihrer selbst willen, sondern einzig in der Leidenschaft, dem Seienden als solchem nahe und unter seiner Bedrängnis zu bleiben. Zum andern aber kämpfen die Griechen gerade darum, dieses betrachtende Fragen als eine, ja als die höchste Weise der energeia, des »am-Werke-Seins«, des Menschen zu begreifen und zu vollziehen. Nicht stand ihr Sinn danach, die Praxis der Theorie anzugleichen, sondern umgekehrt, die Theorie selbst als die höchste Verwirklichung echter Praxis zu verstehen. Den Griechen ist die Wissenschaft nicht ein »Kulturgut«, sondern die innerst bestimmende Mitte des ganzen volklich-staatlichen Daseins. Wissenschaft ist ihnen auch nicht das bloße Mittel der Bewußtmachung des Unbewußten, sondern die das ganze Dasein scharfhaltende und es umgreifende Macht. Wissenschaft ist das fragende Standhalten inmitten des sich ständig verbergenden Seienden im Ganzen. Dieses handelnde Ausharren weiß dabei um seine Unkraft vor dem Schicksal. Das ist das anfängliche Wesen der Wissenschaft. Aber liegt dieser Anfang nicht schon zweieinhalb Jahrtausende zurück? Hat nicht der Fortschritt menschlichen Tuns auch die Wissenschaft verändert? Gewiß! Die nachkommende christlich-theologische Weltdeutung, ebenso wie das spätere mathematisch-technische Denken der Neuzeit haben die Wissenschaft zeitlich und sachlich von ihrem Anfang entfernt. Aber damit ist der Anfang selbst keineswegs überwunden oder gar zunichte gemacht. Denn gesetzt, die ursprüngliche griechische Wissenschaft ist etwas Großes, dann bleibt der Anfang dieses Großen sein Größtes. Das Wesen der Wissenschaft könnte nicht einmal entleert und vernutzt werden, wie es trotz aller Ergebnisse und »internationaler Organisationen« heute ist, wenn die Größe des Anfangs nicht noch bestünde. Der Anfang ist noch. Er liegt nicht hinter uns als das längst Gewesene, sondern er steht vor uns. Der Anfang ist als das Größte im voraus über alles Kommende und so auch über uns schon hinweggegangen. Der Anfang ist in unsere Zukunft eingefallen, er steht dort als die ferne Verfügung über uns, seine Größe wieder einzuholen. Nur wenn wir dieser fernen Verfügung entschlossen uns fügen, um die Größe des Anfangs zurückzugewinnen, nur dann wird uns die Wissenschaft zur innersten Notwendigkeit des Daseins. Andernfalls bleibt sie ein Zufall, in den wir geraten, oder das beruhigte Behagen einer gefahrlosen Beschäftigung zur Förderung eines bloßen Fortschritts von Kenntnissen. Fügen wir uns aber der fernen Verfügung des Anfangs, dann muß die Wissenschaft zum Grundgeschehnis unseres geistig-volklichen Daseins werden. Und wenn gar unser eigenstens Dasein selbst vor einer groß en Wandlung steht, wenn es wahr ist, was der leidenschaftlich den Gott suchende letzte deutsche Philosoph, Friedrich Nietzsche, sagte: »Gott ist tot«— , wenn wir Ernst machen müssen mit dieser Verlassenheit des heutigen Menschen inmitten des Seienden, wie steht es dann mit der Wissenschaft? Dann wandelt sich das anfänglich bewundernde Ausharren der Greichen vor dem Seienden zum völlig ungedeckten Ausgesetztsein in das Verborgene und Ungewisse, d.i. Fragwürdige. Das Fragen ist dann nicht mehr nur die überwindbare Vorstufe zur Antwort als dem Wissen, sondern das Fragen wird selbst die höchste Gestalt des Wissens. Das Fragen entfaltet dann seine eigenste Kraft der Aufschließung des Wesentlichen aller Dinge. Das Fragen zwingt dann zur äußersten Vereinfachung des Blickes auf das Unumgängliche. Solches Fragen zerbricht die Verkapselung der Wissenschaften in gesonderte Fächer, holt sie zurück aus der ufer- und ziellosen Zerstreuung in vereinzelte Felder und Ecken und setzt die Wissenschaft wieder unmittelbar aus der Fruchtbarkeit und dem Segen aller weltbildenden Mächte des menschlich-geschichtlichen Daseins, als da sind: Natur, Geschichte, Sprache; Volk, Sitte, Staat; Dichten, Denken, Glauben; Krankheit, Wahnsinn, Tod; Recht, Wirtschaft, Technik. Wollen wir das Wesen der Wissenschaft im Sinne des fragenden, ungedeckten Standhaltens inmitten der Ungewißheit des Seienden in Ganzen, dann schafft dieser Wesenswille unserem Volke seine Welt der innersten und äußersten Gefahr, d.h. seine wahrhaft geistige Welt. Denn »Geist« ist weder leerer Scharfsinn, noch das unverbindliche Spiel des Witzes, noch das uferlose Treiben verstandesmäßiger Zergliederung, noch gar die Weltvernunft, sondern Geist ist ursprünglich gestimmte, wissende Entschlossenheit zum Wesen des Seins. Und die geistige Welt eines Volkes ist nicht der Überbau einer Kultur, sowenig wie das Zeughaus für verwendbare Kenntnisse und Werte, sondern sie ist die Macht der tiefsten Bewahrung seiner erd- und bluthaften Kräfte als Macht der innersten Erregung und weitesten Erschütterung seines Daseins. Eine geistige Welt allein verbürgt dem Volke die Größe. Denn sie zwingt dazu, daß die ständige Entscheidung zwischen dem Willen zur Größe und dem Gewährenlassen des Verfalls das Schrittgesetz wird für den Marsch, den unser Volk in seine künftige Geschichte angetreten hat. Wollen wir dieses Wesen der Wissenschaft, dann muß die Lehrerschaft der Universität wirklich vorrücken in den äußersten Posten der Gefahr der ständigen Weltungewißheit. Hält sie dort stand, d.h. erwächst ihr von dort— in der wesentlichen Nähe der Bedrängnis aller Dinge— das gemeinsame Fragen und gemeinschaftlich gestimmte Sagen, dann wird sie stark zur Führerschaft. Denn das Entscheidende im Führen ist nicht das bloße Vorangehen, sondern die Kraft zum Alleingehenkönnen, nicht aus Eigensinn und Herrschgelüste, sondern kraft einer tiefsten Bestimmung und weitesten Verpflichtung. Solche Kraft bindet an das Wesentliche, schafft die Auslese der Besten und weckt die echte Gefolgschaft derer, die neuen Mutes sind. Aber wir brauchen die Gefolgschaft nicht erst zu wecken. Die deutsche Studentenschaft ist auf dem Marsch. Und wen sie sucht, das sind jene Führer, durch die sie ihre eigene Bestimmung zur gegründeten, wissenden Wahrheit erheben und in die Klarheit des deutend-wirkenden Wortes und Werkes stellen will. Aus der Entschlossenheit der deutschen Studentenschaft, dem deutschen Schicksal in seiner äußersten Not standzuhalten, kommt ein Wille zum Wesen der Universität. Dieser Wille ist ein wahrer Wille, sofern die deutsche Studentenschaft durch das neue Studentenrecht sich selbst unter das Gesetz ihres Wesens stellt und damit dieses Wesen allererst umgrenzt. Sich selbst das Gesetz geben, ist höchste Freiheit. Die vielbesungene »akademische Freiheit« wird aus der deutschen Universität verstoßen; denn diese Freiheit war unecht, weil nur verneinend. Sie bedeutete vorwiegend Unbekümmertheit, Beliebigkeit der Absichten und Neigungen, Ungebundenheit im Tun und Lassen. Der Begriff der Freiheit des deutschen Studenten wird jetzt zu seiner Wahrheit zurückgebracht. Aus ihr entfalten sich künftig Bindung und Dienst der deutschen Studentenschaft. Die erste Bindung ist die in die Volksgemeinschaft. Sie verpflichtet zum mittragenden und mithandelnden Teilhaben am Mühen, Trachten und Können aller Stände und Glieder des Volkes. Diese Bindung wird fortan festgemacht und in das studentische Dasein eingewurzelt durch den Arbeitsdienst. Die zweite Bindung ist die an die Ehre und das Geschick der Nation inmitten der anderen Völker. Sie verlangt die in Wissen und Können gesicherte und durch Zucht gestraffte Bereitschaft zum Einsatz bis ins Letzte. Diese Bindung umgreift und durchdringt künftig das ganze studentische Dasein als Wehrdienst. Die dritte Bindung der Studentenschaft ist die an den geistigen Auftrag des deutschen Volkes. Dies Volk wirkt an seinem Schicksal, indem es seine Geschichte in die Offenbarkeit der Übermacht aller weltbildenden Mächte des menschlichen Daseins hineinstellt und sich seine geistige Welt immer neu erkämpft. So ausgesetzt in die äußerste Fragwürdigkeit des eigenen Daseins, will dies Volk ein geistiges Volk sein. Es fordert von sich und für sich in seinem Führern und Hütern die härteste Klarheit des höchsten, weitesten und reichsten Wissens. Eine studentische Jugend, die früh sich in die Mannheit hineinwagt und ihr Wollen über das künftige Geschick der Nation ausspannt, zwingt sich von Grund aus zum Dienst an diesem Wissen. Ihr wird der Wissensdienst nicht mehr sein dürfen die dumpfe und schnelle Abrichtung zu einem »vornehmen« Beruf. Weil der Staatsmann und Lehrer, der Arzt und der Richter, der Pfarrer und der Baumeister das volklich-staatliche Dasein führen und in seinen Grundbezügen zu den weltbildenden Mächten des menschlichen Seins bewachen und scharf halten, deshalb sind diese Berufe und die Erziehung zu ihnen dem Wissensdienst überantwortet. Das Wissen steht nicht im Dienste der Berufe, sondern umgekehrt: die Berufe erwirken und verwalten jenes höchste und wesentliche Wissen des Volkes um sein ganzes Dasein. Aber dieses Wissen ist uns nicht die beruhigte Kenntnisnahme von Wesenheiten und Werten an sich, sondern die schärfste Gefährdung des Daseins inmitten der Übermacht des Seienden. Die Fragwürdigkeit des Seins überhaupt zwingt dem Volk Arbeit und Kampf ab und zwingt es in seinen Staat, dem die Berufe zugehören. Die drei Bindungen— durch das Volk an das Geschick des Staates im geistigen Auftrag— sind dem deutschen Wesen gleichursprünglich. Die drei von da entspringenden Dienste— Arbeitsdienst, Wehrdienst und Wissensdienst— sind gleich notwendig und gleichen Ranges. Das mithandelnde Wissen um das Volk, das sich bereithaltende Wissen um das Geschick des Staates schaffen in eins mit dem Wissen um den geistigen Auftrag erst das ursprüngliche und volle Wesen der Wissenschaft, deren Verwirklichung uns aufgegeben ist— gesetzt, daß wir uns in die ferne Verfügung des Anfangs unseres geistig-geschichtlichen Daseins fügen. Diese Wissenschaft ist gemeint, wenn das Wesen der deutschen Universität umgrenzt wird als die hohe Schule, die aus Wissenschaft und durch Wissenschaft die Führer und Hüter des Schicksals des deutschen Volkes ind die Erziehung und Zucht nimmt. Dieser ursprüngliche Begriff der Wissenschaft verpflichtet nicht nur zur »Sachlichkeit«, sondern zuerst zur Wesentlichkeit und Einfachheit des Fragens inmitten der geschichtlich-geistigen Welt des Volkes. Ja— hieraus kann sich erst Sachlichkeit wahrhaft begründen, d.h. ihre Art und Grenze finden. Die Wissenschaft nach diesem Sinne muß zur gestaltenden Macht der Körperschaft der deutschen Universität werden. Darin liegt ein Doppeltes: Lehrerschaft und Schülerschaft müssen einmal je in ihrer Weise vom Begriff der Wissenschaft ergriffen werden und ergriffen bleiben. Zugleich muß aber dieser Begriff der Wissenschaft umgestaltend eingreifen in die Grundformen, innerhalb derer die Lehrer und Schüler jeweils in Gemeinschaft wissenschaftlich handeln: in die Fakultäten und in die Fachschaften. Die Fakultät ist nur Fakultät, wenn sie sich zu einem im Wesen ihrer Wissenschaft verwurzelten Vermögen geistiger Gesetzgebung entfaltet, um die sie bedrängenden Mächte des Daseins in die eine geistige Welt des Volkes hineinzugestalten. Die Fachschaft ist nur Fachschaft, wenn sie sich von vornherein in den Bereich dieser geistigen Gesetzgebung stellt und damit die Schranken des Faches zu Fall bringt und das Muffige und Unechte äußerlicher Berufsabrichtung überwindet. In dem Augenblick, wo die Fakultäten und Fachschaften die wesentlichen und einfachen Fragen ihrer Wissenschaft in Gang bringen, sind Lehrer und Schüler auch schon von denselben letzten Notwendigkeiten und Bedrängnissen des volklichstaatlichen Daseins umgriffen. Die Ausgestaltung jedoch des ursprünglichen Wesens der Wissenschaft verlangt ein solches Ausmaß an Strenge, Verantwortung und überlegener Geduld, daß dem gegenüber etwa die gewissenhafte Befolgung oder die eifrige Abänderung fertiger Verfahrungsweisen kaum ins Gewicht fallen. Wenn aber die Griechen drei Jahrhunderte brauchten, um auch nur die Frage, was das Wissen sei, auf den rechten Boden und in die sichere Bahn zu bringen, dann dürfen wir erst recht nicht meinen, die Aufhellung und Entfaltung des Wesens der deutschen Universität erfolge im laufenden oder kommenden Semester. Aber eines freilich wissen wir aus dem angezeigten Wesen der Wissenschaft, daß die deutsche Universität nur dann zu Gestalt und Macht kommt, wenn die drei Dienste— Arbeits-, Wehr- und Wissensdienst— urprünglich zu einer prägenden Kraft sich zusammenfinden. Das will sagen: Der Wesenswille der Lehrerschaft muß zu der Einfachheit und Weite des Wissens um das Wesen der Wissenschaft erwachen und erstarken. Der Wesenswille der Schülerschaft muß sich in die höchste Klarheit und Zucht des Wissens hinaufzwingen und sie Mitwissenschaft um das Volk und seinen Staat in das Wesen der Wissenschaft fordernd und bestimmend hineingestalten. Beide Willen müssen sich gegenseitig zum Kampf stellen. Alle willentlichen und denkerischen Vermögen, alle Kräfte des Herzens und alle Fähigkeiten des Leibes müssen durch Kampf entfaltet, im Kampf gesteigert und als Kampf bewahrt bleiben. Wir wählen den wissenden Kampf der Fragenden und bekennen mit Carl von Clausewitz: »Ich sage mich los von der leichtsinnigen Hoffnung einer Errettung durch die Hand des Zufalls.« Die Kampfgemeinschaft der Lehrer und Schüler wird aber nur dann die deutsche Universität zur Stätte der geistigen Gesetzgebung umschaffen und in ihr die Mitte der straffsten Sammlung zum höchsten Dienst am Volke in seinem Staat erwirken, wenn Lehrerschaft und Schülerschaft einfacher, härter und bedürfnisloser als alle anderen Volksgenossen ihr Dasein einrichten. Alle Führung muß der Gefolgschaft die Eigenkraft zugestehen. Jedes Folgen aber trägt in sich den Widerstand. Dieser Wesensgegensatz im Führen und Folgen darf weder verwischt, noch gar ausgelöscht werden. Der Kampf allein hält den Gegensatz offen und pflanzt in die ganze Körperschaft von Lehrern und Schülern jene Grundstimmung, aus der heraus die sich begrenzende Selbstbehauptung die entschlossene Selbstbesinnung zur echten Selbstverwaltung ermächtigt. Wollen wir das Wesen der deutschen Universität, oder wollen wir es nicht? Es steht bei uns, ob und wie weit wir uns um die Selbstbesinnung und Selbstbehauptung von Grund aus und nicht nur beiläufig bemühen oder ob wir— in bester Absicht— nur alte Einrichtungen ändern und neue anfügen. Niemand wird uns hindern, dies zu tun. Aber niemand wird uns auch fragen, ob wir wollen oder nicht wollen, wenn die geistige Kraft des Abendlandes versagt und dieses in seinen Fugen kracht, wenn die abgelebte Scheinkultur in sich zusammenstürzt und alle Kräfte in die Verwirrung reißt und im Wahnsinn ersticken läßt. Ob solches geschieht oder nicht geschieht, das hängt allein daran, ob wir als geschichtlich-geistiges Volk uns selbst noch und wieder wollen— oder ob wir uns nicht mehr wollen. Jeder einzelne entscheidet darüber mit, auch dann und gerade dann, wenn er vor dieser Entscheidung ausweicht. Aber wir wollen, daß unser Volk seinen geschichtlichen Auftrag erfüllt. Wir wollen uns selbst. Denn die junge und jüngste Kraft des Volkes, die über uns schon hinweggreift, hat darüber bereits entschieden. Die Herrlichkeit aber und die Größe dieses Aufbruchs verstehen wir dann erst ganz, wenn wir in uns jene tiefe und weite Besonnenheit tragen, aus der die alte griechische Weisheit das Wort gesprochen: ta ... megala panta episfalh ... »Alles Große steht im Sturm...« (Platon, Politeia 497 d, 9) Aus: Heidegger, Martin; Die Selbstbehauptung der deutschen Universität; Breisgau, 19342; S. 5 - 22 |
1934
4月23日の会議で総長辞任を伝える。
5月、ドイツ法律アカデミー法哲学委員会(委員長ハンス・フランク)に招聘された。
6月30日から7月2日にかけて長いナイフの夜(レーム一 揆;SA粛清事件)で突撃隊がナチ党によって粛清。エルンスト・クリーク(Ernst Krieck, 1882-1947)と対立。クリークは「第三帝国」とい う用語の考案者(1917)といわれている。
夏学期、フライブルク大学で「言 葉の本質への問いとしての論理学」講義。
夏以降、ベルリン大学教官アカデミー設立計画。
1934-1935年冬学期「ヘ
ルダーリンの讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』」講義。
1935 46歳
夏学期、フライブルク大学で「形 而上学入門」を講義。(→より詳しくは「ハイデガー『形而上学入門』1935年講義」参照)
Introduction to
Metaphysics (German: Einführung in die Metaphysik) is a revised and
edited 1935 lecture course by Martin Heidegger first published in 1953.
The work is notable for a discussion of the Presocratics and for
illustrating Heidegger's supposed "Kehre," or turn in thought beginning
in the 1930s—as well as for its mention of the "inner greatness" of
Nazism. Heidegger suggested the work relates to the unwritten "second
half" of his 1927 magnum opus Being and Time. |
『形而上学入門』(ドイツ語:Einführung in die
Metaphysik)は、マルティン・ハイデガーが1935年に行った講義を改訂・編集したもので、1953年に出版された。ハイデガーが1930年代
に始めたとされる「ケーレ」(思想の転向)を示すとともに、ナチズムの「内なる偉大さ」についても言及している。ハイデガーは、この作品が1927年の大
著『存在と時間』の未執筆の「後半」に関連することを示唆している。 |
Background and publication history See also: Being and Time Introduction to Metaphysics, originally a summer lecture course at the University of Freiburg in 1935, was first published eighteen years later by the Max Niemeyer Verlag (Halle, Germany), simultaneously with the Seventh German Edition of Being and Time.[1] In a one-page preface accompanying this post-war edition of Being and Time, Heidegger wrote that the newly available Introduction to Metaphysics, would "elucidate" material contemplated for the once-promised but long-abandoned "second half" of Being and Time. The preface also noted that the text of this latest (1953) B&T edition had eliminated several references to itself as a "first half."[2][3] Among English translations, the second edition (2014) of a version by Gregory Fried and Richard Polt from Yale Press (New Haven) was in print as of 2020.[citation needed] Ralph Manheim produced a 1959 translation praised by Fried and Polt in their introduction to the second edition as largely responsible for introducing Heidegger to the English-speaking world.[4] But Manheim worked prior to the 1962 Macquarrie version of Being and Time—which established several conventions for Heidegger's English translators.[citation needed] The work is included in Volume 40 (1983) of Heidegger's Gesamtausgabe (collected works) edited by Petra Jaeger.[5] |
背景と出版の歴史 こちらも参照のこと: 存在と時間 形而上学入門』は、元々は1935年にフライブルク大学で行われた夏期講義であったが、18年後にマックス・ニーマイヤー出版社(ドイツ、ハレ)から『存在と時間』の第7ドイツ語版と同時に出版された[1]。 この『存在と時間』の戦後版に添えられた1ページの序文でハイデガーは、新しく利用可能になった『形而上学入門』は、かつて約束されながら長い間放棄され た『存在と時間』の「後半」のために構想されていた材料を「解明する」だろうと書いている。序文はまた、この最新版(1953年)のB&T版のテ キストが、それ自体を「前半」として言及するいくつかの記述を削除していることにも言及している[2][3]。 英訳の中では、イェール出版社(ニューヘイブン)のグレゴリー・フリードとリチャード・ポルトによる版の第2版(2014年)が2020年時点で印刷され ている[要出典]。ラルフ・マンハイムは1959年の翻訳を制作し、第2版の序文でフリードとポルトがハイデガーを英語圏に紹介する上で大きな役割を果た したと称賛している。 [4]しかし、マンハイムは1962年のマッコーリー版『存在と時間』よりも前に仕事をしており、ハイデガーの英語翻訳者のためのいくつかの慣例を確立し た[要出典]。この作品はペトラ・イェーガー編集のハイデガー著作集(Gesamtausgabe)の第40巻(1983年)に収録されている[5]。 |
Presocratic Revivalism Further information: Heraclitus § Logos Introduction to Metaphysics "was not about early Greek thought, and yet the Presocratics are at the pivotal center of discussion," writes Włodzimierz Julian Korab-Karpowicz. In this view, "the thinking of Heraclitus and Parmenides, which lies at the origin of philosophy, was falsified and misinterpreted" by Plato and Aristotle, thus tainting all of subsequent Western philosophy.[6] Heidegger aimed to correct this misunderstanding (Charles Guignon 2014) by reviving Presocratic notions of 'being' with an emphasis on "understanding the way beings show up in (and as) an unfolding happening or event." Guignon adds that "we might call this alternative outlook 'event ontology.'"[7] (The concept of Ereignis, or "event," is more fully developed in Contributions to Philosophy 1938.) [8] Heidegger used his discussion of Heraclitus' and Parmenides' respective notions of logos in his argument that to avoid nihilism, modern philosophy must "reinvert" the traditional, post-Socratic conception of the relationship between being and thinking, according to Daniel Dahlstrom.[9] |
プレソクラテス復興主義 さらに詳しい情報 ヘラクレイトス§ロゴス 形而上学入門』は「初期ギリシアの思想についてではなく、プレソクラテスが議論の極めて重要な中心となっている」とヴウォジミエシュ・ユリアン・コラブ= カルポヴィッチは書いている。この見解では、「哲学の原点にあるヘラクレイトスとパルメニデスの思考は、プラトンとアリストテレスによって改竄され、誤っ た解釈をされた」ため、その後の西洋哲学のすべてが汚染されたことになる[6]。 ハイデガーはこの誤解を正すために(シャルル・ギニョン2014年)、「展開する出来事や出来事の中で(そして出来事として)存在者がどのように現れるか を理解する」ことに重点を置いて、プレソクラテス的な「存在」の概念を復活させることを目指した。ギニョンは、「この代替的な展望を『出来事存在論』と呼 ぶことができるかもしれない」[7]と付け加えている(「Ereignis」(「出来事」の概念)については、『哲学への貢献 1938』でより詳しく述べられている)。[8] ダニエル・ダールストロムによれば、ハイデガーは、ニヒリズムを回避するためには、近代哲学は存在と思考との関係についての伝統的でソクラテス以後の概念 を「再変換」しなければならないという主張において、ヘラクレイトスとパルメニデスのそれぞれのロゴスの概念についての議論を用いていた[9]。 |
Being and the Kehre Further information: Kehre In a significant contrast with Being and Time eight years earlier, Heidegger's Introduction to Metaphysics "no longer places the inquiry into the Being of Dasein at the center of his work," Instead, the author "looks to language as the site of a meaning of Being" (Brian Bard, 1993 essay, "Heidegger's Reading of Heraclitus"). The work "clearly shows the shift" in Heidegger's thought, Bard writes.[10] This contrast is typically seen as the first instance of Heidegger's much-discussed Kehre, or turn in thinking, that became evident from the 1930s onward, according to Thomas Sheehan. But the supposed turn is "far less dramatic than usually suggested," according to Sheehan, and merely entailed a shift in focus and method.[11] Separately, Mark Wrathall argued (2011) that the Kehre itself is a complete misconception on the part of interpreters, while pointing to Heidegger's supposed consistency of purpose throughout his career.[12] (Both Sheehan and Wrathall, separately, assert that Heidegger's central focus was never on "Being" as such. Wrathall wrote that Heidegger's elaborate concept of "unconcealment" was his central, life-long focus, while Sheehan proposed that the philosopher's prime focus was on that which "brings about being as a givenness of entities.")[12][13] |
ビーイングとケーレ さらなる情報 ケーレ 8年前の『存在と時間』とは対照的に、ハイデガーの『形而上学入門』は「もはやダゼインの存在への探究を作品の中心に据えてはいない」代わりに、著者は 「存在の意味の場としての言語に注目している」(Brian Bard, 1993 essay, 「Heidegger's Reading of Heraclitus」)。この作品はハイデガーの思想における「転換を明確に示している」とバードは書いている[10]。 トーマス・シーハンによれば、この対比は一般的に、1930年代以降に明らかになった、ハイデガーのよく議論されるケーレ(思考の転回)の最初の例とみな されている。しかし、シーハンによれば、この転回は「通常示唆されるよりもはるかに劇的なものではなく」、単に焦点と方法の転換を伴うものであった [11]。これとは別に、マーク・ラスホールは、ハイデガーがそのキャリアを通じて一貫した目的を持っていたとされることを指摘しつつ、ケーレそのものが 解釈者側の完全な誤解であると主張している(2011年)[12]。 (シーハンもラソールも別々に、ハイデガーの中心的な焦点は決して「存在」ではなかったと主張している)。Wrathallはハイデガーの精巧な概念であ る「隠蔽されないこと」が彼の中心的な、生涯にわたる焦点であったと書いており、一方Sheehanはこの哲学者の主要な焦点は「実体の所与性としての存 在」をもたらすものであったと提唱している)[12][13]。 |
Politics See also: Martin Heidegger and Nazism Gregory Fried and Richard Polt praised the work for "the range and depth of its thought as well as for its intricate and nuanced style", arguing that it deserved its status as the successor to Being and Time. Regarding its mention of National Socialism, they write that, “Interpreters differ widely, and often acrimoniously, on whether Heidegger’s Nazism was due to a personal character defect” or whether the philosophy itself reflects a fascist outlook.[14] Heidegger refers in the published text to the "inner truth and greatness of the movement," but adds a qualifying statement in parentheses: "(namely, the confrontation of planetary technology and modern humanity)." The qualification wasn't in the original lecture, although Heidegger falsely claimed otherwise. Moreover, the controversial page of the 1935 manuscript is missing from the Heidegger Archives in Marbach.[15] Heidegger defended the "inner greatness" comment in a 1966 interview with Der Spiegel (posthumously published 1976), claiming it was intended to mislead Nazi informants who observed his lectures. Heidegger asserted that dedicated students would understand that the comment wasn't a celebration of Nazism.[16] Jurgen Habermas, in a 1953 review of the published work in the Frankfurter Allgemeine Zeitung noted the issue and wrote that "it's time to think with Heidegger against Heidegger."[17] Although Julian Young claims (1998) that the book is "widely considered fascist in character," this characterization is false according to Young, who writes that the work implicitly condemns Nazism for its racism, militarism and attempted destruction of civil society.[18] The work has also been seen as being critical of Nazism for being insufficiently radical and suffering from the same spiritual impoverishment as the Soviet Union and the United States.[19] |
政治 こちらも参照のこと: マルティン・ハイデガーとナチズム グレゴリー・フリードとリチャード・ポルトは、この作品を「その思想の広さと深さ、そして複雑でニュアンスのある文体」によって賞賛し、『存在と時間』の 後継作品としての地位に値すると論じている。国家社会主義への言及については、「ハイデガーのナチズムが個人的な性格の欠陥によるものなのか、それとも哲 学そのものがファシズム的な考え方を反映しているのかについては、解釈者によって大きく異なり、しばしば険悪な論争を呼んでいる」と書いている[14]。 ハイデガーは出版されたテキストの中で、「運動の内的真理と偉大さ」に言及しているが、括弧の中で修飾文を付け加えている: 「すなわち、惑星テクノロジーと現代人類の対決である。ハイデガーはそうでないと偽っているが、この修飾語は元の講義にはなかった。さらに、マルバッハに あるハイデガー・アーカイヴからは、1935年の原稿の論争の的になったページが失われている[15]。 ハイデガーは1966年の『シュピーゲル』誌のインタビュー(死後1976年に出版)で、「内なる偉大さ」発言は、彼の講義を観察していたナチスの情報提 供者を惑わすためのものだったと弁明している。ハイデガーは、熱心な学生であれば、このコメントがナチズムを称賛するものではないと理解するだろうと主張 した[16]。ユルゲン・ハーバーマスは、1953年に『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』誌に掲載された出版物の書評の中で、この問題 を指摘し、「ハイデガーに対してハイデガーとともに考える時が来た」と書いている[17]。 ジュリアン・ヤングは、本書は「広くファシスト的性格をもつと考えられている」と主張しているが(1998年)、ヤングによれば、この性格は誤りであり、 本書は人種主義、軍国主義、市民社会の破壊の試みについてナチズムを暗に非難していると書いている[18]。 本書はまた、ナチズムが十分に急進的でなく、ソ連やアメリカと同じような精神的貧困に苦しんでいることを批判しているとも見られている[19]。 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Introduction_to_Metaphysics_(Heidegger_book) |
この講義録は、1953年に出版された。
秋、物理学者カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー、ハイゼンベルクとトートナウベルク山荘で数日間対話する。
11月13日、フライブルク芸術学協会で「芸術作品の起源」講演。
ニーチェ全集刊行委員となり、「ニーチェ文庫」を訪問。
1935年から1936年にかけての冬学期に「物
への問い:カントの超越論的原則論に向けて」講義。
1936 47歳
1月、チューリヒで「芸術作品の起源」講演。
夏学期、フライブルク大学で「シェ リング『人間的自由の本質について』」講義。
ローマのイタリアドイツ文化研究所で「ヘ ルダーリンと詩の本質」「ヨーロッパとドイツ哲学」の講演。
ヒトラー・ユーゲントの機関紙『意志と力』から非難される。
5月14日、ローゼンベルク事務局からの調査を受ける。
5月29日、ハイデッガーへの監視命令が国家秘密情報機関から出された。
11月17日-24日と12月4日に、フランクフルト自由ドイツ高等神学校で「芸術作品の起源」講演。
1936年から1937年にかけての冬学期に「ニーチェ,芸術としての力への意志」講義。
1936年から1938年にかけて草稿群『哲学への寄与論考』を書いた。
1937 48歳
夏学期、フライブルク大学で「西洋的思考におけるニーチェの形而上学的な根本の立場」講義。
ジャン・ヴァール(Jean André Wahl、1888−1974)に、自分の問題は実存ではなく存在でありヤスパースとは異なると語る。
1937年から1938年にかけての冬学期に「哲学の根本的問い 論理学精選諸問題」講義。
1938 49歳
6月9日、フライブルク大学で「形而上学による近世的世界像の基礎づけ」を講演、のちに「世 界像の時代(Die Zeit des Weltbildes)」と改題。
1938年から1939年にかけての冬学期「ニーチェ 反時代的考察第二編」講義
1939 50歳
夏学期、「認識としての力への意思についての教説」講義。
9月、ナチスのポーランド侵攻により第二次世界大戦開始。
ゼミナール「言語の本質について:言語の形而上学:ヘルダー言語起源論に寄せて」。
1939年から1940年の冬、ユンガー「労働者」について議論。
1940 51歳
「真性についてのプラトンの教説」を『精神的伝統』第二年次年報に発表。
第二学期講義「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」
1941 52歳
フライブルク大学で「ド イツ観念論の形而上学:シェリング」を講義。
夏学期、「根本諸概念」講義。
1941-1942年冬学期、予告された「ニー
チェの形而上学」ではなく、「ヘ
ルダーリンの讃歌『回想』」講義。
1942 53歳
『存在と時間』第5版ではフッサールの献辞は削除される。
草稿「形而上学の克服」。
夏学期、「ヘ ルダーリンの讃歌『イスター』」講義。
1942-1943年冬学期にパルメニデス講義。
「ヘー
ゲルの経験概念」講演。
1943 54歳
真理の本質について」出版。
ヘラクレイトス講義。
講演「ニーチェの言葉:神は死んだ」。
1944 55歳
1944 年ハイデガー(55歳)夏学期、ヘラクレイトス講義。この講義のなかでハイデッガーは「ドイツ民族が西洋の歴史的な民族でありつづけるのか、それともそう でないのかどうかという、このことだけが決定を迫られているのではなくて、今は大地の人間が大地もろともに危険にさらされているのであり、しかも 人間自身によってそうなのである[『全集55』79ページ]」「こ の惑星は炎に包まれている。人間の本質は支離滅裂になっている。ドイツ人がドイツ的なものを見出し、保持 するということが想定されるとすれば、世界史的な熟慮が生まれるのはドイツ人からのみである。それは思い上がりではないが、しかし元初的な苦境を決着にい たるまで持ちこたえるという必然性の知である[『全集55』138ページ]」と語った。
「語つまりそのなかで歴史的な人間の本質が自らを委
ね渡している語とは、真有の語である。この元初的な語は詩作と思索のなかで保有される。たとえ何がそしていかに西洋の外的な歴運が接合されるにせよ、ドイ
ツ人たちの最大にして本当の試練、つまり彼らがあるいは無知な者たちによって彼らの意に反して試されるかもしれない彼の試練はなおも目前に迫っている、す
なわち、彼ら、ドイツ人たちは真有の真性との融和の内にあるのかどうか、また彼らは死への覚悟を越えて、現代世界の視野の狭さに対して元初的なものをその
目立たない飾りの内へと救い出すほど十分に強靭であるのかどうかと」[『全集55』208ページ]
軍務を免除された500人の学者と芸術家のなかに入れられず、「不用」グループの最年長の筆頭として国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)に招集された。
夏、ライン川保塁工事に従事。
1944年-45年の冬学期にフライブルク大学で「哲 学入門―思索と詩作」 を講義、11月8日で招集のため中断した。
11月27日、連合軍の爆撃でフライブルクは壊滅した。
1945 56歳
4月30日、ヒトラー自殺。
5月7日、ドイツ降伏。
6月、フランス軍がバーデン=ヴュルテンベルク州を占領。
フィヒテナウのヴィルデンシュタイン城に避難。城近くの岩山の上でカント、ヘルダーリンを講義した。
夏学期は6月24日に終了。
6月27日、ベルンハルト・フォン・ザクセン=マイニンゲン公の森林官宅で講演「貧しさ」。
7月16日、フランス占領軍がレーテブック47番地の家屋接収を通告したため、市長に抗議。
7月23日、非ナチ化純化委員会の査問。ヤスパースを頼るが、厳しい内容の報告をされる。
11月から12月にかけてフランス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会の査問を受ける。
年末にコンラート・グレーバー大司教に救援を求めた。
1946 57歳
1月19日、純化委員会がハイデッガーの教職活動剥奪と年金減額をフランス軍政当局に提案。フランス軍政局は年金削除を命じた。
3月8日、グレーバー大司教は教皇ピウス12世にハイデッガーは沈思反省していると報告。
バーデンヴァイラー在のビンスワンガー派の精神科医ヴィクトリア・フライヘル・フォン・ゲープザッテルの診察を受ける。
フライブルクの家は占領軍の宿営として接収されたためトートナウベルクの山荘に住んだ。
夏、フランス軍政当局はハイデッガーの無期限教職禁止令を指令。これは大学からの免職ではなく、研究教授としての在留を認めたものでもあっ た [5]。12月、バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された。
夏、フランス軍政当局が無期限教職禁止令を指令。
中国人シャオレンイーと『老子』のドイツ語訳に着手したが、中断した。
10月、ベルンのペルー大使館秘書官アダルペルト・ワグナーから経済援助をうける。
11月10日、ジャン・ボーフレが書簡で質問。
12月、バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された。
1947 58歳
5月、フランス軍政局は年金削除を取り消す。ジャン・ボーフレへの返信。
1949 60歳
2月6日、ヤスパースとの文通を開始。
3月、フランス軍政局はナチスとの関係は「服従することなき同行者。制裁に及ばず」と最終決定。
5月、フライブルク大学評議会がハイデッガーを名誉教授として復権させ、教職活動の再開案を過半数で可決した。
ジャン・ボーフレへの返信が「『ヒューマニズム』に関する書簡」としてベルンで出版。
11月から「ヨーロッパユダヤ文化再建委員会」のナチス略奪文化財の調査でハンナ・アーレントが訪欧していた。
1950 61歳
ハンナ・アーレントが、ヤスパースに会ったあ と、1月にフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[328]。ハイデッガーはアーレントのホテルを訪れ、またハイデッガーの家では妻エル フレーデと三人で会ったが、諍いとなった
1951 復職し、退官教授
1952 5月19日、ハンナ・アーレントは再びフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った[335]。6月6日の夫への手紙でハイデッガー
の講義はすばらしいものであったが、その妻とは悶着をおこし、ハイデッガーの5万ページの未発表原稿は「本来ならそれを彼女(妻エルフレーデ)が数年のあ
いだにスムーズにタイプすることができていたはず」なのにしなかった、ハイデッガーが頼れるのは弟だけと報告している
1953 『形而上学入門』がマックス・ニーマイヤー書店より再刊される。当時24歳の学生ユルゲン・ハーバーマスは「『存在と時間』の魅力に
取り憑かれていただけに、文体の隅々までファシズム的なものの染み込んでいるこの講義を読んで大きなショックを受け」、「ハイデッガーとハイデッガーに対
して考える」を1953年7月25日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙上に発表し、「この運動の内的真理と偉大さ」という文中での表現に
ついて注釈も序文での説明もないまま刊行したハイデッガーを「ファシスト的知性」と非難し、「数百万人の人間に対する、今日我々みなが知っている計画的な
殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは帰責能力をもって殺人を行った人々の実際の犯罪ではないのか。それに
対しては、一つの民族全体が良心の呵責を感じねばならぬのではないのか」と質問した。
1953 1927年の初版以来『存在と時間』の冒頭には「上巻」の文字があったが、ハイデッガーは1953年の第7版からこれを削除。
1967 7月24日、詩人パウル・ツェランがフライブルク大学で朗読会を開き、ハイデッガーも聴衆としており、翌日7月25日、トートナウベ
ルクのハイデッガー山荘を訪れた[371]。ツェランから詩を送られたハイデッガーは1968年1月30日付礼状書簡で「私は幾つかのことはまだ、いつの
日か、無-言を脱して対話に入れるものと思っています」と書いた[372]。1967年、ハンナ・アレントがハイデッガーを訪問。
1969 ハンナ・アレントが夫ハインリヒ・ブリューヒャーとハイデッガーを訪問し、それからは毎年のようにハイデッガー宅を訪問する
1976 5月26日死去
1987 Heidegger y el Nazismo,
でヨーロッパで大スキャンダルになる。ガダマーやデリダは、ファリアスのハイデガーの読みを批判することで批判し、ハイデガーの反ユダヤ主義はすでに知ら
れて問題にならずとした。ハイデガーを生粋のファシストとしたい派と、ハイデガーの哲学上のゆるぎない業績と、ハイデガーの「世俗的で矮小な」アイヒマン
的なナチへ関与には関心のない「哲学ユートピア」派に、無残にも別れてしまった。ハイデガーの詳細な伝記を書いたザフランスキーも、擁護派に回っている。
それぐらい、ハイデガーの思想は偉大ということか?
1989 マールブルク大学と同時期にやはりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュに提出した同内容の論考が発見さ
れ、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明。
2013 ヴィットリオ・クロスターマン社全集94-96巻に掲載されたハイデッガーが1930年代から1970年代にかけて書き続けた手稿
「黒ノート」に反ユダヤ主義についての箇所があることが問題に。この件に関しては、ジャン=リュック・ナンシーのみが、一番まともで、ハイデガーのナチス協力とナチスへの信
奉はゆるぎないもので、誰も知っていたことで「ハイデッガーが反ユダヤ主義に加担したことは1950年代から知られていたし、ハイデッガーの限界とは我々
の限界でもあると論じた」
▲▲▲▲▶︎ナチズムと存在論(的修辞)には深い関係があり、ハイデガーがそれに関わったことは 間違いが ない。
▶︎︎ナチズムは、反共産主義のイデオロギーを標榜しており、経済階級は民族Volkという、超 概念的な単一体のなかに溶け込んでいくだろうと予測された。
「フェルキッシュ (独: völkisch)は、 フォルク(独: Volk)からの派生語として重要な語である。フェルキッシュは19世紀末から第二次世界大戦終了時までドイツにおいて普通に使われ、当時の出版物と政治 において大きな役割を果たした。20世紀の中頃からこの表現は殆ど使われなくなった(独和辞典では古語として扱われている)。しかしながら、現代のドイツ においてこの語に合致した運動や政党が2013年‐2014年頃から勃興し、フェルキッシュという語を使った解説記事が増えている。フェルキッシュという 語は現代において人種主義 (レイシズム)という概念に移し替えられたり、反セム主義の一種であると記述されることもある。ドイツ語圏においてフェルキッシュ運動、フェルキッシュ・ナショナリズムという用語も使われて いる。 フェルキッシュは「民族の、国家主義的」と訳される場合もあるが、近代ドイツの歴史と密接につながっているため、英語のナショナリズム (nationalsm) ともエスノセントリズム (ethnocentrism) とも異なる意味を含んでいる。ナチス政権時代において、1933年からフェルキッシュ、もしくはドイツ・フェルキッシュという語はしばしば国家社会主義と同義語として使われた[15]。この語は政権側で頻繁に 使用されるボキャブラリーに入っていた[16](ナチスの言語, Sprache des Nationalsozialismusも参照)。フェルキッシュとは別の人種差別的メルクマールを欧州におけるファシズム陣営は作り出した[17]。 フェルキッシュ概念に、同じイデオロギーに根拠づけられたフレムトフェルキッシュ(異 民族)(独:fremdvölkisch) という語が対置することになった。それゆえ、異民族によって構成される住民集団はド イツ民族共同体にとって危険な存在と見なされ、居住地域を分けることが 語られた。なるほど、フレムトフェルキッシュ(異民族)は労働力の一部として必要な存在とされたが、法的権利や保護は縮小されるか、認められない扱いを受 けるとされた[18]。フレムトフェルキッシュ(異民族)という語の造語に関して、ナチス政権関係者による関与は大きくはない。ナチス政権成立の1933 年より前において、人種学(優生学)者ハンス・ギュンターが ドイツ民族の人種学という学問分野においてこの専門用語を用いていた。さらに、19世紀に結成された全ドイツ連盟という汎ゲルマン主義組織の指導者ハイン リヒ・クラース(ドイツ語版)も1912年においてフレムトフェルキッシュ(異民族)外国人をドイツの労働力として用いることに賛成していた[19]。」
Fremdvölkische: Fremdvölkische
('foreign
races') was a term used during the Nazi era to describe people who were
not of "German or related blood" (Nuremberg Laws). The term at first
was used only by members of the Schutzstaffel, but later was used by
the Reich police, justice system, and state bureaucracy.
▶︎ハイデガー自身の特殊な言語観:ドイツ語が古代ギリシャから直接継承された言語。ラテン語 は、異形の導管であったが、ドイツ語はその影響を受けなかった。(Heidegger's German- Centrism)
▶︎︎歴史と民族の存在はとても深く結びついている(1935)
▶ハイデガーはナチズムに協力したよりも、むしろ、急進的ナチズムの推進者だった(49-50)
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Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099