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無神論者たちの最後のバトル

sobre ultima batalla de los ateos variables

池田光穂

[汎神論]

ジョン・トーランド(John Toland, 1670-1722)の『セリーナへの手紙』(三井礼子訳、法政大学出版局、2016)の第四書簡は、スピノザ批判になっている。トーランドは『秘教なき キリスト教』の作者で、また、彼(=スピノザ)の一連の書物も禁書リストにあがる ほどの、異端者であった。つまり、これらの著作は、時の教会権力(キリスト教もユダヤ教 も)から、無神論の烙印をおされているのである。

ジョン・トーランドの 「Christianity not Mysterious では、思弁的無神論と正統神学者とは異なると注意深く論じている。ジョン・ロックの認識論的合理主義の厳密な解釈を公式化してからは、聖書にはいかなる事 実も教条もないし、聖書は明瞭でも合理的でもなく、啓示とは人間の啓示であり、理解されえないものはわけのわからないものとして拒絶されるべきだと論じ た。/"Letters to Serena"もトーランドによる哲学への貢献である。人間の理性が偏見から完全には自由になれないという迷信について歴史的に考察する。また、一元論的 実体論への批判から形而上学的唯物論を展開した。/Pantheisticon, sive formula celebrandae sodalitatis socraticae (Pantheisticon, or the Form of Celebrating the Socratic Society)ではイングランド教会の祈祷書を真似て、異端神学を用いて批判した。1704 Letters to Serena ではパンテイズム(pantheism、汎神論)という表現を使い、真理へ到達する方法や、なぜ人々は間違った意識を持ってしまうのかを注意深く分析し た。pantheismはトーランドがスピノザの哲学を論じるなかで使用した。/パンテイズム(pantheism、汎神論)については、ジョセフ・ラフ ソン(Joseph Raphson)による1697年の著作 De Spatio Reali seu Ente Infinitoでスピノザを論じるなかで"pantheismus"を使用したのが最初とされる[9][10]。これを英語で"pantheism"と したのがトーランドとされる。/ソッツィーニ派について書かれた Socinianism Truly Stated, by a pantheist (1705)でトーランドは汎神論者だとした。」

[ユダヤ人論]

「"Primitive Constitution of the Christian Church"(1705)と Nazarenus ではユダヤ人キリスト教徒のエビオン派の正当性を論じて、教会を批判した。/自由な市民において完全な平等が必要だとする彼の信念は、ユダヤ人共同体にま で拡張されていき、1714年の『ユダヤ人帰化論、および全ての偏見に対してのユダヤ人の擁護』においてユダヤ人を擁護し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を 受け入れるよう主張した[4] [11]。これはユダヤ人の完全な市民権と平等権を主張した最初の著作である。/また1718年にトーランドは、「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」は ローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また教皇制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書か れていないと論じた[4][12]。トーランドは、これまでのキリスト教世界を批判する一方で、ユダヤ人を擁護した[4]。/トーランドの政治パンフレッ トのなかには煽動者の要素もあった。彼のジャコバイトへの攻撃には、当時の反カトリック主義的な感情に基づくものを超えたものでもなかった。 /Treatise of the Three Impostorsではキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の3つとも詐欺であると非難している。この書は中世から流布している写本であるとの噂がたった。 トーランドはこの写本 の私的なコピーをフランスのジャン・ルーセ(Jean Rousset)で受け取ったと主張したが、こうした写本は現在まで発見されていない。噂では、フランス語に翻訳されたともされたが、皮肉な返事をした ヴォルテールが訳したのでもなかった[13]。」ジョン・トーランド

これに先立つ無神論の系譜にあたる著述者としてはベルナール・フォントネル(Bernard Le Bovier de Fontenelle, 1657-1757)がいるが、彼の著述の名前は『世界の複数性についての対話(Entretiens sur la pluralité des mondes)』(1686)でる。

スピノザを無神論の代表とすると、しかしながら、トーランドやフォントネルがスピノザとなぜ 対立するのかが分かりにくくなる。その対比の端的に指摘すると、スピノザが宇宙の原理を、単一の原理から成り立つとしたのに、フォントネルたちは、宇宙の 複数性や多元性を説いていたのではないかと思い浮かぶことになる。

■引用から……

「どうもすみません。あなたのせいで、へんてこな考 えに取りつかれましてね。そしてつい想像 が走ってしまって」。
「へんてこな考えって、一体何ですの?」。
「ああ、こんなことをあなたに白状しなきゃならないのは辛いのですが、実は、星のひとつひとつが、ひとつの世界かも知れないと思っているのですよ。それが 本当だとは誓って申しませんが、私としては本当だと思っています。そう信じると楽しくなりますのでね。このアイディアは私には気に入っています。実に楽し く思い付きましたのでね。私は思うのですが、真理でも何でも、魅力的でないといけませんからね」。

——ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル 『世界の複数性についての対話』 赤木昭三訳、Pp.22-23、工作舎、1992年

「想像力がそれを思い描こうたって、できっこないで すよ」と私は答えた。「想像力というもの は、目よりも遠くへは進めないものなのです。自然がこれらすべての世界のあいだに打ち立てた多様性を見て取れるのは、一種の普遍的な目しかありません。す べての人間の顔は一般的に言って、同じひとつのモデルにもとづいて作られているといえますが、しかしひとつの大きな民族の顔、たとえばヨーロッパ人の顔と アフリカ人かタタール人の顔は、二つの特殊なモデルにもとづいて作られたように見えますし、なおその上に、それぞれの家族の顔のモデルを見付けなければな らないでしょう。自然は、人間の顔のような単純なものでも、これほど多様に変化させる秘訣を知っていたのですが、それは一体どんな秘訣なのでしょうね。そ して私たち地球の人間は、宇宙の中では、ひとつの小さい家族みたいなもので、その顔はみんな似ていますが、別の惑星はまた別の家族で、その顔は、私たちと はまた違った様子をしているのですよ」。

——ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル 『世界の複数性についての対話』 赤木昭三訳、Pp.96-97、工作舎、1992年

■無神論から汎神論へ

◎汎神論論争 (Pantheismusstreit; Pantheism controversy

「スピノザの「神即自然」(deus sive natura)という思想は、当時のキリスト教から無神論のレッテルを貼られ、主著『エチカ』(Ethica)は、長い間人々の目に触れることはなかっ た。そして、長らく「スピノザ的」という表現をした場合、それは無神論であり、一種 のタブーとされてきた。 これらにより、長らくスピノザの哲学は忘れられていた。したがって、当時のドイツにおいてのスピノザ研究の水準はかなり低く、ほとんど知られていない。ま た、研究するにしても無神論と危険視されていたため、「果敢」に取り組む必要があった(なかでも、ゲーテやカントは「果敢」に挑もうとした人物である)。 /そのような中で、ドイツの劇作家レッシングが、彼の作品である『賢者ナータン』や 著『人類の教育』において、個々の宗教の教義を超越し、普遍の地平に到達すべきである、というこの論争の火種になるような考えを示し、また晩年には「自分 はスピノザ主義者かもしれない」と述べたことに、この論争は端を発する(厳密に言えば、ゲーテの「プロメテウス」の詩をヤコービとの対談の中で、「これは 私の立場と同じです」と述べたことである)。/レッシングは1781年に死去したが、2年後の1783年に、ヤコービは、レッシングの親友 であり哲学者のメンデルスゾーンがレッシングについての著述をする事を知る。そしてメンデルスゾーンに、「レッシングが晩年スピノザ主義であったことを 知っているか」という質問を、知人であるエリーゼ・ライマールスを介して書簡において質問する。メンデルスゾーンは、レッシングとはしばらく音信不通で あったので、この事は知らなかった。逆に、メンデルスゾーンがヤコービに、なぜレッ シングはこのような見解に至ったのかと問い合わせをして来たのである。 /メンデルスゾーンは、当時の一般のスピノザの哲学に対する考え方とは異なり、スピノザの『エチカ』に対し、さほど非合理なものでもなく、優れている部分 もあると考えていた。また、レッシングだけひとりスピノザ主義者と呼ぶことにも疑問を持っていた。これらに答えるべく、ヤコービはメンデルスゾーンに対して書簡を送り、スピノザ主義に対する見解やレッシングとの対 話の内容を明らかにした。 これを明らかにしたことにより、ヤコービとメンデルスゾーンとの間でスピノザ哲学のあり方について論争(主に書簡でのやり取り。このころの書簡は、現在の ようなメディアが発達していない情勢の中のものなので、その内容は公開されることも多かったし、著作や大学での講義と同等の影響力を持っていた)となるの であった。/その翌年(1784年)、メンデルスゾーンはヤコービのスピノザ主義に 対しての批判として"Erinnerungen"(回想録)というタイトルの論文を送った。そこには、スピノザ主義に対する批判、およびヤコービのスピノ ザに対する理解の批判が記されてあった。だがヤコービによれば、メン デルスゾーンはこの論文において、スピノザへの理解が原典を通じてではない間接的なものであり(当時の研究事情からすれば、それは仕方がないことでもあ る)、また、レッシングとの対話の内容も理解できておらず、誤解だらけであったとしている。 メンデルスゾーンがスピノザ主義の何たるかを十分理解できていない以上、水掛け論になるとして、かつてヤコービがハーグ在住の親友、ヘンムスターホイス宛 てに送った論文(フランス語)をメンデルスゾーンにも送った。/1785年になり、メンデルスゾーンはヤコービに対して、先の『回想録』の返答を得られて いないと手紙で言う。ヤコービは、その返答としてヘンムスターホイス宛ての論文を見 てもらうことが、現段階でのメンデルスゾーンのスピノザ理解を考慮すれば最善と思っていた。そこで改めて、「私にとってはただ傍観する回想録」という名前 の手紙をメンデルスゾーンに送った。そこで、ヤコービとメンデルスゾーンのスピノザ主義に対する理解が一致しないのは、メンデルスゾーンの理解不足が原因 だと主張した。/しかし、その後しばらくメンデルスゾーンから連絡はなかった。何ヶ月か経って書簡が届き、何ヶ月も回答をしなかった非礼 と、最近まで無関係な論文を執筆していた旨を語る。しかし、ヤコービにその論文を読むことを期待していないし、送ってもこなかった(ただし、ヤコービは友 人のハーマンを通じてすでにその論文の存在は知っていた)。さらに、かつての自身の「回想録」を紛失してしまったので、悪いがヤコービがまだ持っているな らそれを私に送ってくれまいか、という申し入れもしてきた。加えて、ここでメンデル スゾーンは、ヤコービのスピノザに対する論文ですら理解できなかった、と吐露している。次の機会にはヤコービの評価を得られるような著作を するから、今回の件はその時期から始めようとさえ言ってきた。/このような身勝手な 振る舞いはヤコービの怒りを買い、ヤコービはメンデルスゾーンの許可なくして往復書簡を公開するに至った。 これには「スピノザの教説について」というタイトルが付された。1785年1月28日であった。この公開を機に、カントやハーマン、ヘルダーやゲーテが目 をつけ、一大論争となった。メンデルスゾーンはさらに反論として「レッシングの友人たちへ」という内容の著作を書き、ヤコービも「メンデルスゾーンの告発 に抗して」と互いに反論しあったが、メンデルスゾーンの『レッシングの友人たちへ』 という内容の著の公刊を前に、メンデルスゾーンが死去したため、この論争は終わる形となった。」

「汎神論論争の帰結は、それまで無神論としてタブー 視されてきたスピノザ哲学が一気に花開いたこと、つまりスピノザの哲学が、無神論で はなく汎神論的であったとして、一つの哲学として認められたことであろう。そしてこれは、自然を生命に充ちた統一として崇めるドイツロマン主義の成立を促した。ドイツロマン主義の哲学者、シェリングやヘーゲル(彼らはドイツ観念論の代表でもあったが)と いった人物にも大きな影響を及ぼしたのである。/なお、この論争の14年後にフィヒテのイェナ追放をめぐる無神論論争が勃発するが、これも フィヒテの汎神論的な発想に端を発しており、汎神論論争と同様、スピノザ的汎神論の考えが伏線にあるものといわれている。」汎神論論争

●ジーザス・クライスト・スーパースター(ウィキペディア日本語)

『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (Jesus Christ Superstar) は、聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いた、台詞のない音楽と歌曲のみで物語が進行するロック・オペラ。アンドリュー・ロイド・ウェバーが 作曲、ティム・ライスが作詞をそれぞれ担当した。福音書の受難に関する記述、ジーザス・クライストおよび他の登場人物の心理の描写、ジーザスの弟子たちに 対する教えに不満を持つユダの物語を大まかに基にしている。ロック・オペラの歌詞に現代的な意識、感覚、スラングが取り込まれ、政治的描写には現代社会へ の皮肉が込められている。そのため舞台や映画での描かれ方にはアナクロニズムが存在する。

当初、舞台化は困難とされていたが、コンセプト・ア ルバム『ジーザス・クライスト・スーパースター (アルバム)(英語版)』のヒットにより、1971年にブロードウェイで初演された。1980年までに世界中で興行収入2億3,700万ドル以上をあげた [1]。1972年から1980年の8年間、ロンドンで上演され、1989年に『キャッツ』に破られるまでウェスト・エンド・ミュージカルのロングランの 記録を持っていた[2]。

ひとりの人間として神や民衆の狭間で苦悩する「ジー ザス・クライスト」と、その使徒の一人でありながら「裏切り者」の名を浴びて歴史にその名を刻むことになるイスカリオテのユダのふたりに、現代的な視点か ら「教団主導者には必須なはずの計画性に欠け、早すぎた聖者としての名声の上にあぐらをかいて、新しい方策を見いだすことができないジーザス」と「ジーザ スに対する期待があまりにも大きすぎたゆえに、やがてそれは大きな失望となり、ジーザスの存在はローマ支配下にあるユダヤ人社会を危険にさらすものになり かねない、という危惧を抱くようになるユダ」という新しい解釈を加え、その愛憎に満ちた両者の関係に、マグダラのマリアとの愛情に満ちたもうひとつの関係 を絡めて、鮮やかに描き出した作品である。

全編で語りの台詞はなく、音楽と歌曲のみで物語が進行するオペラ型式のロックミュージカルである。斬新な演出と芸術性が高く評価され、興行面でも大成功を収めた。ロイド・ウェバーを大ミュージカル作家に押し上げた出世作で、彼のブロードウェイにおけるデビュー作となった。

第1幕
12人の使徒の1人であるユダは、ジーザス・クライストの信者たちが制御がきかずローマ帝国から脅威とされ弾圧されることを危惧している("Heaven on Their Minds")。

他の使徒たちはジーザスと共にエルサレムへ行くことを望んでおり、ジーザスにそのことを尋ねると未来のことを心配するなと返される("What's the Buzz")。マリアはジーザスがくつろげるよう世話をする。ユダはジーザスに、教えと矛盾しているとされて不利益を被る可能性から、娼婦であったマリア と関わるべきではないと語る("Strange Thing Mystifying")。ジーザスはユダに、自分自身に何の罪もない者でなければ他人を裁くべきではないと語る。ジーザスは使徒たちを𠮟責し、誰も自 分の教えに忠実な者はいないのかと嘆く。マリアはジーザスに聖油を塗りながらなだめる("Everything's Alright")。ユダは、油に支払う費用は貧民を助けるのに使うべきだと怒る。ジーザスは貧困をなくす方法はなく、今そこにある幸せを喜ぶべきだと応 える。

一方、大祭司のカイアファはファリサイ派と司祭たちを召集する。ユダと同様、彼らはジーザスの信者たちがローマ帝国から脅威とされ、その結果として多くの ユダヤ人が困難に陥る可能性について恐れている。カイアファは大義のためにジーザスを殺害すべきと結論づける("This Jesus Must Die")。ジーザスと信者たちがエルサレムへの到着を喜んでいると、カイアファがジーザスに群衆の解散を要求する。しかしジーザスは歓喜に沸く群衆に挨 拶をする("Hosanna")。使徒の1人であるシモンはジーザスに、群衆を率いてローマ帝国に抗い、絶対的権力を持つことを提案する。ジーザスはこれ を拒否し、信者たちの中に真の力を理解している者は誰もいないと語る("Simon Zealotes/Poor Jerusalem")。

ユダヤ属州総督ピラトは1人のガリラヤ人が群衆の手による暴力で亡くなり、非難される夢を見る("Pilate's Dream")。ジーザスは聖堂が市場として使用されていることを知り、怒って皆を追い出す("The Temple")。ハンセン病の人々がジーザスに治癒を願う。人数が増えていき、圧倒されたジーザスは彼らを拒絶する。マリアはジーザスを寝かしつける ("Everything's Alright (Reprise)")。ジーザスが眠っている間、マリアはジーザスを愛していることを認識し畏れる("I Don't Know How to Love Him")。

対するユダは自分の言うことを聞いてくれないジーザスに自分を認めさせようと、ファリサイ派の人々を探し出し、ジーザスを捕まえるのを手助けすると提案す る。代わりにユダは銀貨30枚を提示される。最初は断るが、カイアファにこれで貧民を助けることができると提案されて受け入れる("Damned for All Time/Blood Money")。

第2幕

最後の晩餐において、使徒たちは酔っ払い、ジーザスのことをあまり気にしていない。ジーザスは皆が飲んでいるワインはジーザスの血、パンはジーザスの体か もしれないと語る。ジーザスは使徒たちに自分のことを覚えておいてほしいと語るが、理解に乏しく落胆し、ペトロがのちに3度否認し、他の誰かも自分を裏切 ると予見する。ユダはそれは自分だと認め、ジーザスが物事をより良くしようとしないことを理解できないと語り出て行く("The Last Supper")。

残された使徒たちは眠りにつき、ジーザスは祈りのためにゲッセマネの庭園に向かう("Gethsemane (I Only Want to Say)")。ジーザスは神に、自分の使命は成功したものがあるのか、待ち受ける自身の恐ろしい死をなぜ苦しみ待ち続けなければならないのかを怒りを交え て問う。応えはなく、神の意思に逆らうことはできないと悟り、神に委ねる。

ユダがローマ兵士たちと共に到着し、ユダはジーザスの頬にキスをしてローマ兵士たちにジーザスの存在を知らせた("The Arrest")。ジーザスがサンヘドリンの裁判にかけられ、カイアファはジーザスに自身を「神の子」だというのかと質問し、ジーザスは「その通りだ」と 応える。アンナスはこれが充分な証拠となると語り、カイアファはジーザスをピラトのもとに送る。一方ペトロはジーザスを知っていることを3人の人々に否定 される("Peter's Denial")。マリアはジーザスがこれを予言していたことに気付く。

ピラトはジーザスにユダヤ王なのか尋ねる。ジーザスは再び「その通りだ」と応える。ジーザスがガリラヤから来たことから、ピラトは管轄外としてジーザスを ヘロデ王のもとに送る("Pilate and Christ")。派手なヘロデ王はジーザスに奇跡を起こして自分が神であることを証明させようとする("King Herod's Song")。しかしジーザスはこれを無視し、ヘロデ王は怒りジーザスをピラトのもとに戻す。マリア、ペトロ、使徒たちはジーザスの信者となった時のこと を思い出し、平穏が戻ることを願う("Could We Start Again, Please?")。

ユダはジーザスの辛辣な扱いを恐れる。ユダは永久に裏切者として語り継がれることを危惧し、ファリサイ派の人々に後悔を口にする。カイアファとアンナスは 正しいことをしたのだとユダに確信させる。ユダは受け取っていた硬貨を投げ捨て出て行く。ユダは自分を操る神を呪い、自殺をはかる("Judas's Death")。

ジーザスの裁判にて、ピラトはジーザスを尋問しようとするが、ジーザスのはりつけを要求する殺気立った群衆により中断する[注釈 1]。ピラトはジーザスは無罪であり死に値しないが、群衆を満足させるためジーザスをむち打ちにかける("Trial Before Pilate")。ピラトはジーザスに自己弁護の機会を与えるが、ジーザスは弱弱しく全ては神の導きであると語る。群衆はジーザスの死を要求し続け、つい にピラトはジーザスのはりつけに仕方なく同意する。

ジーザスのはりつけの前にユダの魂が戻り、なぜジーザスはこの時この機会に来ることを選んだのか、これも神の導きなのかと尋ねる ("Superstar")。ジーザスは十字架にはりつけにされ、最後の言葉を発し息絶える("The Crucifixion")。ジーザスの遺体が十字架から下ろされ埋葬される("John Nineteen: Forty-One")。




リンク

文献

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For all undergraduate students!!!, you do not paste but [re]think my message. Remind Wittgenstein's phrase,

"I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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天球の惑星を配した図、これは1824年版:赤木訳 の1742年版では、この惑星の配置がタペストリーの刺繍として表現されている。

出典: ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル『世界の複数性についての対話』赤木昭三訳、工作舎、1992年による(Pp.224-225)