レンブラント・ファン・レイン
Rembrandt van Rijn, 1606-1669
年譜情報は主にウィキペディア「レンブラント・ファン・レイン」などによる。このページでの私の関心は彼の生涯そのものよりも、レンブラントにまつわる4枚の解剖(解体)に関する図像である。
1511 『痴愚神礼讃』パリで上梓。
1556 カール5世(Karl V., 1500-1558)退位。ネーデルランドがスペインの支配下に入る。フェリッペ2世即位。
1566 ネーデルランド(アントゥルペン)カトリック教会の聖画を破壊する運動がおこる
1568 ネーデルラントの反乱。アントゥルペン制圧。オラニエ公ウィレム(1533-1584)の蹶起(「80年戦争」)。
1579 ユトレヒト同盟(=各州に自治権があることに合意し、また信仰の自由を原則)により、ネーデルラント連邦共和国成立。
1606
スペインから独立する直前のオランダ、ライデンの ウェッデステーグ3番地[6]にて、製粉業[7]を営む中流階級の[6]父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族で[6]パン屋を生業とす る一家の娘[8]である母ネールチェン(コルネリア[9])・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグ[10]の間に生まれた。
1616 レンブラントは、ラテン語学校に入学
1617 Anatomy lesson of Dr. Willem van der Meer(デルフトの医師) by Michiel Janszoon van Mierevelt, 1617, レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」は1632年に描かれる。
1620 14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受ける。同年末ごろ、は画家を志向する。
1621 歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ(Jacob Isaacszoon van Swanenburg, 1517-1638)に弟子入り。
1624 18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われた[1]アムステルダムのピーテル・ラストマンに師事。
「この期間は半年だけであったが、ここでレンブラントはカラヴァッジョ派(英語版)の明暗を用いる技法[1][12]や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ[9]。またアルブレヒト・デューラーの『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけた」
1625 『聖ステバノの殉教(聖ステバノの石打)』を製作。ラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンスと知り合い[8]、競い合う関係が始まる
1628
弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウ[9][15]やイサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った。
ユトレヒトの法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記
Rembrandt The Artist in his studio, 1628.
1628年ごろ
オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの秘書官コン
スタンティン・ホイヘンス(en)(数学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。ホイヘンス
は二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力と表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比
肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認める
1630 4月23日に父親が亡くなる。レンブラントはこれを機会にアムステルダムへ進出する決断をする
1631 以前から交流があった[7]画商にて画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフ(英語版)のアムステルダムにある工房に移り[14]、ここのアトリエで肖像画を中心とした仕事をこなし始める
1632
「医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授 が行う解剖の講義[注 4]を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする外科医組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を 得られる彼は、驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持 たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で[9]、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブ ラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く 姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作[17]となった『テュルプ博士の解剖学講義』によって、レンブラントは高い評価を得た」
この年の、11月24日バルーフ・スピノザ生まれる。2番目の絵画は"Das Portrait malte Nicolaes Pickenoy zum Dank für die erfolgte Behandlung seiner Tochter durch Dr. Tulp."
1633
アイレンブルフのいとこ[6][18](またいとこ [14]または姪[16]とも)で22歳[19]のサスキア・ファン・アイレンブルフと知り合う。同年婚約。アムステルダム市民となり、た聖ルカ組合 (ネーデルランドのギルド)の一員となる。提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群(『キリスト昇架』<ギャラリー> 『十字架降下』<ギャラリー>等)などを仕上げたが、これは公が気に入らず代金支払いが滞った
1934
「妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮
したサスキア』<ギャラリー>『アルテミシア』<ギャラリー>(ともに1634年)から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサ
ン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に収集するようになる。美術品
や、刀剣などの工芸品、多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した[16]。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダ
ヤ人街になりつつあったヨーデンブレーストラート(英語版)(聖アントニウス広小路[11])に、後にレンブラントの家と呼ばれることになる邸宅を
1639年に年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した[12]。これは13,000ギルダーもの費用を要し[22]、周囲からサスキアの財
産を食いつぶしているのではと非難を受けた[16]。一方で投機にも手を出しては失敗を重ねていた[23]。」
1635 12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスが生まれたが2ヶ月で死亡。
1638 7月生まれの長女コルネリア(母親と同名[9])、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる[14]。この年9月には母も亡くなった
1640 末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。
1642 妻サスキアの死
「妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブ
ラントは病床の彼女を描いた素描を残している[24]。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレ
ンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、
この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋
葬した[16]。」
1642
後半:「レンブラントの人生は暗転する[7]。サス キアの看病や[22]幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える[16]彼は乳母として北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ(ヘールチェ [14])・ディルクス(en)を雇った。やがてレンブラントは彼女と愛人関係となる[25]。」
その後のエピソード:「ある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込んで出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄された」ハウブラーケンによる)
聖書や福音書を主題とした絵も描き、『キリストと姦淫の女』<ギャラリー>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった
彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董
から古着まで買い漁り、また、様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術その
ものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時のプロテスタント的価値観が強いオランダでは嫌わ
れる「放蕩」であった[
1649
彼は若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル(英語版)を新たに雇い[19]、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たしめた。
1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚
約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを告訴した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。こ
の頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない
1650 年以降
レンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘール トヘが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え[19]、これが認められて彼女はハウダの更生施設(または精神病院[9])での[14]12年の拘禁刑に 断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した[25]。レンブラントとヘンドリッキ エの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが[9]、1654年に娘コルネリアが誕生した[14]。
強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務 めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していな かった[24]。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否[注 5]、ヘンドリッキエは二度聴聞を受け、別れるように言われたが従わなかった[25]。
美術品コレクションを売却し、その場をしのぐ
1652 英蘭戦争が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始める。
1655 『屠殺された牛』
1656 レンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった
7月20日、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した。
セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された[26]
1659
Rembrandt van Rijn - Self-Portrait, 1659(53歳ごろ)
1660 邸宅は12月18日に、11,218ギルダーで売れた。1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を開業してレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした
1661
邸宅を彼は去って貧民街である[9]ヨルダーン地区[11]ローゼンフラフトの街に住み着いた[29]。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルド(英語版)は厳しく、彼を画家として扱わないように定めた[30]
ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に
彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡に
よってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる
『クラウディウス・キウィリスの謀議』の完成、この絵は数箇月後には外され、レンブラントへ返却された
1662 織物商組合の幹部たち』
1663 『アレクサンダー大王』『ホメロス』ヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で[19]亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会(Westerkerk)に葬られた
1667
12月29日、トスカーナ大公国のコジモ3世がレンブラントのアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とある通り、彼の名声は健在だった。ここでコジモ3世はレンブラントの自画像を購入したと思われる
1668 2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したが、9月4日に急死。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送る
1669 10月4日にレンブラントは亡くなった。遺体は二人の妻、そして息子が眠る西教会(Westerkerk)に埋葬
1670 スピノザ、偽名と偽りの書肆出版地として『神学・政治論』を公刊し、直後に発禁の処分になる。
1678 弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記す
1888 黒田清輝「トウルヴ博士解剖講義」模写
黒田清輝「トウルヴ博士解剖講義」模写、1888年
(東京芸術大学蔵);黒田は1884年2月法学を学ぶために渡欧する。しかし滞在中の1886年(レンブラントと似ているが)画家に転向することを決意し
ラファエル・コラン(Raphael Collin, 1850-1916)に師事し、1893年に帰国する。
2006 レンブラント生誕400年
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