解剖室という舞台
このコーナーでは、「いのち」に関する世界のさまざまな民族や社会でみられる興味深い慣習や信条 を紹介します。そのねらいは、周囲から消え去ってゆく「変わった習慣」を面白がったり、懐かしむことではありません。むしろ「いのち」の多様なあり方につ いて読者の皆さんとともに考えたいのです。いろいろなテーマについて多角的に取りあげますので、皆さんからのご意見をお待ちしております
歴史家フィリップ・アリエスは現代人の死の諸相を「転倒された死」と位置づけている。ヨーロッパ社会においてきわめて長きにわたって人間 の死は、共同体の出来事であるにせよ、個人的なものとして意味づけられたにせよ、常に生活のなかに意識されるべく位置づけられていた。
しかしながら、現代において死そのものは忌み嫌われ、それは医療化の過程とともに病院の中に隠ぺいされた。その結果、あたかも人間には死 が訪れないかのように現代生活が進行しているのだ。
それは死体解剖にしてもしかり。17世紀フランスにおける解剖実習は、あたかも「町中の人が仮面と清涼飲料水と気晴らしの趣向をたずさえ て相集う大きな社会儀式」のようであったという(アリエス『死を前にした人間』)。だが、現在では、ごく普通の日常生活を送っている人に解剖などというも のはほとんど無縁の存在になってしまった。
今回は“大衆の見せ物”という機能を完全に失った教育としての解剖について、現代アメリカの医学校を舞台に、人類学者D・シーガルの報告 をもとに描写してみよう。
日本の医学部や歯学部では1年半ないしは2年の教養課程を終えた時期に行われるが、米国の医学校では大学院と同じ扱いがされているので初 年度の授業のなかに解剖実習がある。
死が日常生活から排除されていることは冒頭に述べたが、それは死体解剖においても同様である。解剖は社会のなかで一部の特定の人しか行え ないからである。そして、死体と対面するという恐怖にも似た異質な体験を想像するだけでも、それは学生にとってインパクトが強いものであろうということは 容易に想像がつくだろう。じっさい実習が始まる前から学生たちは、それについて話合うことが多く、不安や戸惑いを隠すことができない。
他方、解剖学の教授は事前におこなわれる導入のための講義の中で、それが“死に直面すること”に他ならないことだと強調する。表向きで、 かつ合理的な考えに従った“実習の目的”は人体の成り立ちを理解することにあるのだが、暗黙には死体解剖という一般の人に禁じられた秘儀を遂行するため、 なんらかの道徳的規範がそこに求められていると言えよう。解剖学の教授は期せずして、そのような内的な倫理を学生に要求しているのである。
次に、教務アシスタントらに引率されて学生たちは解剖実習室に入る。室の入り口には「許可なき入室を禁ずる」というプレートが掲げられて いるが、これがまた学生たちを“禁断の領域”への侵入という気分にさせるのである。
さて広い解剖実習室の中には、念入りにシートで覆われていた低いステンレスの台がいくつかある。そして、そのシートの下に死体があるの だ。アシスタントの指導のもとに、学生は4、5人からなるグループに分けられ、チームで学期のあいだ実習することになる。
いよいよ死体を覆うシートが取り払われることになった。学生たちは固唾をのんでその作業にとりかかった。後のインタビューにおいて判明し たことだが、その時、彼らの心のなかを横切った関心とは、その“死体”の性別はいったい男女のどちらなのか?、そして彼/彼女はいったいどのような死因で 亡くなったか?ということであった。シートをはずしたときすぐに性別が分からなかったわけは、死体には剃髪と剃毛がされており、胸は既に平になっていたか らである。学生たちは、恥部をもって確認するまでは性別が分からなかったのである。
死体との最初の出会いに、当事者の性別と死因のことが気になったのは興味深い。死体は、未だ学生たちにとって完全に“対象”と化していな いのである。そして、人体の毛髪も含めて文字どうり身ぐるみごと剥がされた“身体”の究極的な識別が学生たちに“性別”をもってなされたからだ。しかしな がら、彼らは“死因”にも着目し、早くも“医師”として観察眼を光らせているのである。
その後、顔と性器の部分が再び覆われた——両方とも今日におけるプライバシーを象徴する身体の部分である。教官は、各グループの解剖台に 横たわっている死体の年齢や死因について説明をおこなった。その後、標本室において臓器の説明を受けるために、学生は移動させられたが、死体解剖実習の第 一講はこれで終了した。
講義後、学生たちは非常に緊張しており、“自分たちは献体に応ずるか?”という議論に熱中した。もっとも実習が進んでいくにつれて、彼ら のそのようなナイーブな感情は後退してゆく。学生たちは、“執刀解剖している自己”を医師として、また“解剖されている死体”を患者としてイメージするよ うになってゆく。例えば、実習上のミスは、外科手術における失敗と茶化された。そしてミスをした学生に対して周囲の学生が冗談を言って笑わすというほど、 死体と打ち解ける(?)までになった。それにともなって死体にたいする冒涜的な行為——性的な冗談や中傷——も、次第にエスカレートしていった。このよう な事態は、学生の解剖がルーティン化し、死体の解体が進行していくことと平行していた。
このようにして学期の解剖実習が終わった。かれらはレストランで実習修了の打ち上げを行い、「若い医者」になったことを教官やアシスタン トたちから祝福されている。
従来から医学教育の研究分野で指摘されてきたことだが、現在の教育としての解剖は、実習で学ぶ知識以上に、医師の仲間集団=結社に入門す るための秘密の儀式、すなわち“通過儀礼”として学生の意識に大きな影響を及ぼしているという。そこで、学生は医師の特権的な役割や、患者の身体を冷徹な 観察の“対象”と見なすことを学ぶという。実際シーガルの報告においても、学生=医師、死体=患者という認知的な図式が見てとることができる。
日本においても、病院の権力図式のミニチュアをそこにみることがある。解剖実習中は、医学生は教官から質問され、その学問的な知識につい て“絞られ”ている。しかしながら、そこに看護学生たちが見学に訪れたとき、医学生は彼女たちに教える“解剖教師”に早変わりする。
一般の人びとが描く解剖実習室はいささか薄気味の悪い空間であるが、じつは“死体=患者”と“学生=医師”が、現実の医療の権力構造を演 じるまことに興味深い“舞台”なのである。
クレジット:池田光穂「解剖室という舞台」2000年