リヴァイアサンと「狭い回廊」仮説
Introduction to Political Theory of Hobbs' Leviathan
リヴァイアサン(Leviathan) は1651年の英国のトーマス・ホッブスの政治学書。「万人の万人対する闘争」を回 避して 社会契約論による民主的な社会をつくる根拠たる理論を構築した書物。ホッブスはベーコン、デカルト、スピノザなどと同時代の人であり、邦訳もあり名著であ るにも関わらず専門の学生でもよく読まれない不幸な書籍。それもそのはずタイトルを含めて旧約聖書の喩えが随所に出てくるからであろう。逆に邦訳でもきち んとホッブスがわかれば西洋の政治思想が面白いようにわかるために、いわばビデオゲームにおけるボス戦に相応しい本なのである。
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アセモグルとロビンソンの前提は、自由とは支配なき
状態であり、自由が成就するためには「選択の自由」と「自由を行使できる能力」が人々にあるべきだという考え方から出発する。高いレベルの幸福を達成する
ことができた国は、長期にわたって安定し
た高い経済成長率を示している。このような経済の状態は、持続可能な開発と呼ばれている。このような経済状態を「持続可能な発展」と呼びますが、この発展
には、絶え間ない技術の変化と向上、すなわち「科学技術の進歩」が伴います。このような現象がある国では見られるが、ある国では時間が止まったように見え
るのはなぜか、その理由を探っていくと、科学技術の進歩のためには、社会の幅広い層の財産権と、その企業や技術革新から収入を得る能力(発明の特許権を含
む)を守る必要があるという結論に達する[17]。しかし市民は特許を取得するとすぐに、誰も自分の発明をより完璧にした特許を取っていないので、自分の
特許から永遠に収入を得られることに興味を持つようになる。したがって、持続可能な開発のためには、特許とともに相当な富を得るために、このようなことを
許さないメカニズムが必要である。そのようなメカニズムとは、社会の幅広い層が国の統治に参加できる多元的な政治制度であるというのが著者らの結論である
[18]。この例では、先の特許の発明者は負けるが、他の誰もが勝つことになる。多元的な政治制度があれば、多数派にとって有益な決定がなされる。つま
り、前の発明者は新しい発明の特許を阻止することができなくなり、その結果、技術の継続的な向上が起こる[19][20]
経済成長を財と技術の継続的な変化として解釈することはJoseph Schumpeterによって最初に提案され、この過程を創造的破壊と呼んだ。
[この概念は経済モデルの形で、フィリップ・アギョンとピーター・ハウィットによってアギョン-ハウィットモデルで実装され、新製品の開発のインセンティ
ブはそれらの生産からの独占的利益であり、それはより良い製品の発明の後に終了する[23]。 [23]
既存の独占企業の所有者が、その経済力を利用して、新しい技術の導入を阻止することができないことを保証できるのは、多元的な政治制度だけなので、著者ら
によれば、それらは、国が持続可能な開発へ移行するための必要条件である。もう一つの前提条件は、国内の中央集権化のレベルが十分であることで、これがな
いと政治的多元主義がカオスに変わることができるからである(→「自由をめぐる「狭い回廊」仮説」)。
トーマス・ホッブス『リヴァイアサン』(1651)表扉
「自 然(神が世界を作り給い、統治し給う 技)は、人間の技術によって、他の多くのばあいと同じように、人工的動物(→ロボット)を作りうると いう点においても模倣される。生命とは四肢の運動にほかならず、その 運動はある内部の中心部分からはじまる、ということを考えると、すべての自動機械(時計のようにぜんまいと歯車で自動的に動く機械装置)は、人工的生命を もつといってならない道理があろうか。すなわち、心臓はなにかといえば、それはぜんまいにほかならず、神経はそれだけの数の細い線、関節はそれだけの数の 歯車にほかならないのであって、それらは、神が意図し給うたような運動を全身に与えるものではないだろうか。技術は、さらに進んで、自然のうちで、理性的 でもっともすぐれた作品、すなわち人間をも模倣するに至る。というの は、技 術(=技芸)は、コモン—ウェルスあるいは国家(ラテン語のキウィタス)、と呼ばれるかの 偉大なリヴァイアサンを創造するが、それは、人工的人間にほかならないからである。もっともこの人工的人間は、本来の人間を保護し防衛する目的をもってい るから、本来の人間よりも大きくて強い。そして人工的人間にあっては、主権は、全身に生命と運動を与えるような人工の魂であり、各部の長官たちやその他の 司法・行政の役人たちは、人工の関節である。賞罰(それによってすべての関節や四肢は、主権の地位に結び巧けられて、その義務を遂行するために働かされ る)は、神経であって、本来の人間の肉体と同じ働きをする。すべての個々の成員の富と財産は体力である。人民福祉、人民か安全をはかること は、人工的人間 のなすべき役目である。顧問官たちは、人工的人間が熟知していなければならないあらゆることについて提案するから記憶である。衡平と法は、 人工的理性と意 志であ る。平和は健康、騒擾は病気、内乱は死である。最後にいくの政治体の各部分を最初に作り出し、集め、結合した、約束および信約は、創世のさいに、神が宣し 給うた、人間をつくろうという、あの命令にたとえられる」——トーマス・ホッブス[1651]『ホッブス:リヴァイアサン』水田洋・田中浩訳、世界の大思 想13、河出書房、1967年
"Nature (the art whereby God hath made and governs the world) is by the art of man, as in many other things, so in this also imitated, that it can make an artificial animal. For seeing life is but a motion of limbs, the beginning whereof is in some principal part within, why may we not say that all automata (engines that move themselves by springs and wheels as doth a watch) have an artificial life? For what is the heart, but a spring; and the nerves, but so many strings; and the joints, but so many wheels, giving motion to the whole body, such as was intended by the Artificer? Art goes yet further, imitating that rational and most excellent work of Nature, man. For by art is created that great Leviathan called a Commonwealth, or State (in Latin, Civitas), which is but an artificial man, though of greater stature and strength than the natural, for whose protection and defence it was intended; and in which the sovereignty is an artificial soul, as giving life and motion to the whole body; the magistrates and other officers of judicature and execution, artificial joints; reward and punishment (by which fastened to the seat of the sovereignty, every joint and member is moved to perform his duty) are the nerves, that do the same in the body natural; the wealth and riches of all the particular members are the strength; salus populi (the people’s safety) its business; counsellors, by whom all things needful for it to know are suggested unto it, are the memory; equity and laws, an artificial reason and will; concord, health; sedition, sickness; and civil war, death. Lastly, the pacts and covenants, by which the parts of this body politic were at first made, set together, and united, resemble that fiat, or the Let us make man, pronounced by God in the Creation."
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"And for
the other
Instance of attaining Soveraignity by Rebellion ; it is manifest, that
though the event follow, yet because it cannot reasonably be expected,
but rather the contrary; and because by gaining it so, others are
taught to gain the same in like manner, the attempt thereof is against
reason. Justice therefore, that is to say, Keeping of Covenant, is a
Rule of Reason, by which we are forbidden to do any thing destructive
to our life; and consequently a Law of Nature." Chap.15, Of other Lawes
of Nature., "Leviathan, Or, The Matter, Forme & Power of a
Commonwealth, Ecclesiasticall and Civill."
リヴァイアサ ン・テーゼ
1.ホッブスは、国家を神から与えられた神聖不可侵 なものとみない。国家は、人間がつくりあげた人工物であるとみる(上述の「序説」の文章によく表れている。)
2.人間の生活は、思考を伴わない運動(生命的運 動)と、思考を伴う運動(アニマル的運動)に分かれる(→ゾーエとビオスというアガンベン的区別を 参照)。
3.人間の生存の手段は、力(=権力)と呼ばれる。
人間は不快を避け快をもとめ、また権力への意思をもつために、人間の運動とは力(=権力)を追求する運動である。
4.bellum omnium contra omnes つまり、万人の万人対する闘争とは、人間の自然状態は、各人が他者にむかって剥き出しの暴力によって対峙することで(自然状態のままの人間は)秩序をもっ た社会(=コモンウェルス、キウィタス)を維持することができない。 人間は自然状態にあると、自然権そのものを自分自身により否定してしまう存在になってし まう。(→「万人の万人に対する闘争」)
5.そのために、各人がもつ暴力を権力というひとつ の機関(ホッブスの場合は「王権力」)に委ねること により、各人が他の個人に対して剥き出しの暴力をもって対峙することがなくなり、協力の機会が生まれるとするものだ。このような教えは、人間が理性の知恵 である自然法という観点から示される必要がある。平和を実現させるためには、各人各人に優越する主権の存在が必要である。
6.それゆえに、生存権と自然権は、ホッブスにとっ ては絶対不可侵であるが、この論理は、個人の平等 な状態から出発し、最終的に個人の平等な生存権を保証しようとする論理となっている。(ホッブスは、処罰 をうける人が抵抗する権利を認めているが、集団的反抗=革命権というものは(否定もしなかったが)承認しなかった。)
7.このテーゼで、ホッブスは、権力を統一する機関
としての「王権力」を措定したが、同時に第16章「人格、本人、および人格化されたもの」(水田・田中訳,
Pp.107-111)のなかで、群集は代表者によって人格を代表することをできるという、今日における民主主義における主権者としての国民や市民の可能
性についても指摘している。それゆえに、ホッブス
は、近代の民主主義における社会契約論を考案した始祖の一人として評価されることが多いのである。
では、リヴァイ アサ ンとはなにか?
リヴァイアサンとは、コモンウェルスであり、ラテン 語のキウィタスを可能にする強大な権力である。上掲の、リヴァイアサン・テーゼにおける、人びとの平等の自由と権力を配分することができる《各人各人に優 越する主権》のことである。第17章「コモンウェルスについて」の章で、リヴァイアサンは、「不死なる神」のもとで、平和を維持し、外敵から防衛されるこ とを可能にするものが「可死の神」をリヴァイアサンと呼んでいる。(原著, p.87:水田・田中訳, p115)
結論
1651年の英国のトーマス・ホッブスの政治学書。
「万人の万人対する闘争」を回避して社会契約論による民主的な社会をつくる根拠たる理論を構築した書物。ホッブスはベーコン、デカルト、スピノザなどと同
時代の人であり、邦訳もあり名著であるにも関わらず専門の学生でもよく読まれない不幸な書籍。それもそのはずタイトルを含めて旧約聖書の喩えが随所に出て
くるからであろう。逆にきちんとホッブスがわかれば西洋の政治思想が面白いようにわかるために、いわばビデオゲームにおけるボス戦に相応しい本なのであ
る。
さ らに勉強する人のために
ホッブスを、社会的・歴史的文脈から解釈しなければ
ならないという主張は「クエンティン・スキナーの2つの結論」を参照してくだ
さい
参照点としてのジョン・ロックについて考えることも 重要かもしれない。ブロノフスキーによる「ホッブスとロック」の冒頭の以下の文章をよく読んでみよう。
"Thomas Hobbes published his Leviathan in 1651, expressly stating that his 'Discourse of Civil and Ecclesiastical Government' was 'occasioned by the disorders of the present time'.I And John Locke, in the preface to his Two Treatises.of Government, published in 1690, openly declared that his work was to 'justify' the 1688 continuation of the 1640-60 struggle and 'to establish the throne of our great restorer, our present KingWilliam', against the Stuart claims./ In their works, however, Hobbes and Locke rose far above the exigencies of contemporary politics and gave classic statements of two positions. Hobbes stated the case for absolute sovereignty and the Leviathan state; while Locke put forth the defence of parliamentary government and the limited, liberal state. They wrote two of the great books around which political argument, to a large extent, henceforth revolved." (Bronowski 1960:227)
リヴァイアサン | トーマス・ホッブス |
クレジット
一番最初のタイトルは、「国家は我々自身を形づく る:社会意識の産出に関する予備的考察」でした。その次に「国家は我々自身を形づくる、あるいは リヴァイアサン入門」となり、現在の「リヴァイアサン」になりました。
リンク集
文献
冒頭
図の拡大図
「技術は、コモン—ウェルスあるいは国家(ラテン語 のキウィタス)、と呼ばれるかの 偉大なリヴァイアサンを創造するが、それは、人工的人間にほかならないからである。もっともこの人工的人間は、本来の人間を保護し防衛する目的をもってい るから、本来の人間よりも大きくて強い」/旧約 聖書・ヨブ記の版画本(20世紀)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099