自然
Nature
Plate from Biologia centrali-americana. Insecta. Orthoptera London/Albertus Magnus, O.P. (c. 1200–1280)./ Liquidambar formosana
解説:池田光穂
自然とは、単体で存在するものではなく、文化や文明あるいは人工物などの対立概念として存在 する、人間が《抗することのできない原理》のことをさす。したがって、文化や文明あるいは人工物などは《抗することや介入することができる原理》に属する ことになる。自然は、人 間が《抗することのできない原理》なので、さまざまな、自然科学の対象になり、その普遍的な存在の有り様が明らかにされてきた。物理学の公式は、その自然 現象の反映であり、表象であり、また本質である。また、数学のように、公理という自然の第一階層からはじめてより高次の体系を構築するプロセスも、自然科 学の典型的なモデルとみなされている。
●能産的自然(natura naturans)と所産的自然(natura naturata)について
西洋文明において、人間は自然——ギリシャ語のフュ シス、ラテン語のナトゥーラ——と闘い、自然を克服したという説明を、我々日本人は好む。そして、しばしば「自然と調和したり、対話する」日本的あるいは 東洋的自然観をもちだして、西洋の自然認識との「違い」を持ち出してなんとかそれを説明した気持ち(=理解する)になっている。だが、これはあまりにも西 洋における「自然認識」についての浅薄で一面的な見方である。西洋もまた(たぶん東洋や極東たる「日本」と同様な情熱をもって)「自然とは何か?」につい て深く、そして長期にわたって考えてきたのだ。
その例を、能産的自然(natura naturans)と所産的自然(natura naturata)という2つの自然概念から考察することは、大変興味深い。デカルトによると、神から人間に与えられた認識能力、すなわち「自然の光 (lumen naturale)」により、良識(ボン・サンス)を得ることができるという(『哲学原理』I-30)。この場合の自然は、人間に対峙し克服すべきもので はなく、むしろ逆に人間に与えられる恩寵の一種なのである。自然は、野生につながる野蛮で統御不能な超自然的な秩序であると同時に、人間を人間たらしめる 「理性の働き」でもある。この自然の力がもつ、相矛盾する考え——人間の認識を超える最後は人間に付与される超自然的で人間の能力を超える奇跡的な秩序形 成力と、人間の理性を含めたそのような自然の作用を理解しその帰結としての秩序を反省的に眺めることができる人間の能力——と、その理解が重要なテーマと して浮上してくるのだ。
今道友信からの引用:「恩寵をラテン語ではグラー ティア(gratia)というので、中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, ca. 1225-1274)の思想の要約として、しばしば "Gratia naturam non tollit, sed eam perficit"=恩寵は自然を破壊せずこれを完成する、という文章が引用される。これが神としての超自然と人間を含めての自然一般との 関係をあらわし ている。動物はこのナトゥーラすなわち自然の世界にとどまるが、人間はとくに、それを超える営みをすることができる」(今道友信『自然哲学序説』p.19, 講談社学術文庫、1993年)。
能産的自然(蘭:natuurende Natuur)スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』第1部第8章
所産的自然(蘭:genatuurde Natuur)スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』第1部第9章
ルネサンスの自然哲学の考え方の中には、すでにこの 自然は二重の位置を与えれていて、自然に対する神の調停機能の理解として、神は「能産的自然(natura naturans)」、現象世界は「所産的自然(natura naturata)」と捉えて、この矛盾の一致を、神において認識するというものがある。知恵ある無知という考え方を提示したニコラウス・ クザーヌスがそ の例であるが、この用語を明確に区分し、能産的自然に神の位置をあてはめたのはスピノザだという。しかし、この2つの用語の最初の提唱者は、ヴィンデルバ ンドによるとアヴェロイズム(Averroism、アイブン・ルシュド=アヴェロエス ( Averroes, 1126-1198)中世の偉大なアリストテレス註釈者による哲学や思想)に由来するものだという。
"The original ground of all things, the deity, must therefore lie beyond Being and knowledge; it is above reason, above Being; it has no determination or quality, it is "Nothing." But this" deity" (of negative theology) reveals itself in the triune God, and the God who is and knows creates' out of nothing the creatures whose Ideas he knows within himself; for this knowing is his creating. This process of self-revelation belongs to the essence of the deity; it is hence a timeless necessity, and no ac.t of will in the proper sense of the word is required for God to produce the world. The deity, as productive or generative essence, as "un-natured Nature" [or Nature that has not yet taken on a nature], is real or actual only by knowing and unfolding itself in God and the world as produced reality, as natured Nature. God creates all-said Nicolaus Cusanus -- that is to say, he is all. And on the other hand, according to Eckhart, all things have essence or substance only in so far as they are themselves God; whatever else appears in them as phenomena, their determination in space and time, their" here" and" now" (" Hie" und "Nu," hic et nunc with Thomas), is nothing"(Wildelband 1901:335-336). | 「それゆえ、万物の根源である神性は、存在と知識を超えて存在しなけれ
ばならない。しかし、(否定神学の)この "神
"は三位一体の神のうちに自らを現し、存在し知っている神は、自らの内にそのイデアを知っている被造物を無から創造する。この自己啓示の過程は神の本質に
属するものであり、それゆえ、それは時を超越した必然であり、神が世界を創造するためには、正しい意味での意志の働きは必要とされない。生産的あるいは生
成的本質としての神、"自然化されていない自然"[あるいは、まだ自然を帯びていない自然]としての神は、神と、生産された現実としての世界、自然化され
た自然としての世界において、自らを知り、展開することによってのみ、現実的あるいは実在的である。神はすべてを創造する--ニコラウス・クザーヌスは言
う。他方、エックハルトによれば、万物は、それ自身が神である限りにおいてのみ本質あるいは実体を持つ。現象としてのそれらに現れる他のもの、空間と時間
におけるそれらの決定、それらの "ここ "と "今"(トマスによれば "Hie "と "Nu"、"hic et nunc")は何ものでもない」。 |
"The more... in the system of Averroes, matter was regarded as eternally in motion within itself, and as actuated by unity of life, the less could the moving Form be separated from it realiter, and thus the same divine All-being appeared on the one hand as Form and moving force (natura naturans), and on the other hand as matter, as "moved world (natura naturata)."(Wildelband 1901:338). | アヴェロイスの体系において、物質がそれ自身の内部で永遠に運動し、生
命の統一によって作動していると見なされれば見なされるほど、運動する形象はそれ自体から切り離されることができなくなり、その結果、同じ神的な全存在
が、一方では形象と運動する力(natura naturans)として、他方では物質として、「運動する世界(natura
naturata)」として現れる。 |
"The conceptions which lie at the basis of this unfolding of the metaphysical fantasy in Bruno had their source in the main "in Nicolaus Cusanus, whose teachings had been preserved by Charles Bouille, though in his exposition they had to some degree lost their vivid freshness. Just this the Nolan knew how to restore. He not only raised the principle of the coincidentia oppositorum to the artistic reconciliation of contrasts, to the harmonious total action of opposing partial forces in the divine primitive essence, but above all he gave to the conceptions of the infinite and the finite a far wider reaching significance. As regards the deity and its relation to the world, the Neo-Platonic relations are essentially retained. God himself, as the unity exalted above all opposites, cannot be apprehended through any finite attribute or qualification, and therefore is unknowable in his own proper essence (negative theology) ; but at the same time he is still thought as the inexhaustible, infinite world-force, as the natura naturans, which in eternal change forms, and "unfolds" itself purposefully and in conformity with law, into the natura naturata."(Wildelband 1901:368). | ブルーノの形而上学的幻想の展開の根底にある概念は、シャルル・ブイー
ユがその教えを保存していたニコラウス・クザーヌスにその源流がある。ノーランは、この新鮮さを取り戻す方法を知っていた。ノーランは、対立の一致
(coincidentia
oppositorum)の原理を、対照の芸術的な和解、神の原初的本質における対立する部分的な力の調和的な全体作用にまで高めただけでなく、何よりも
無限と有限の概念に、はるかに広範な意味を与えた。神と世界との関係に関しては、新プラトン主義的な関係が基本的に維持されている。神自身は、すべての対
立物の上に高められた統一体として、いかなる有限の属性や資格によっても理解することができず、したがって、彼自身の本質において知ることができない(否
定神学)。しかし、同時に、彼は依然として、無尽蔵の無限の世界力として、永遠の変化において、それ自身を形成し、目的を持って、法則に従って、ナトゥー
ラ・ナトゥラータへと「展開」するナトゥーラ・ナトゥランスとして考えられている。 |
"Hence Spinoza can say also that' God consists of countless attributes, or Deus SIVE omnia ejus attributa. (*) * Which, however, is in nowise to be interpreted as if the attributes were self-subsistent prime realities and "God" only the collective name for them (as K. Thomas supposed, Sp. als Metaphysiker, Konigsberg, 1840). Such a crassly nominalistic cap-stone would press the whole system out of joint. | それゆえスピノザは、「神は無数の属性から成る」、すなわち「Deus
SIVE omnia ejus attributa」とも言うことができる。(*) *
しかし、このことは、あたかも属性が自存的な素実在であり、「神」はその集合的名称にすぎないかのように解釈してはならない(K.
ThomasがSp. als Metaphysiker, Konigsberg,
1840で述べているように)。このような無分別な名辞論的冠石は、システム全体を破綻に追い込むことになる。 |
And the same relation is afterwards repeated between the attributes and the modes. Every attribute, because it expresses the infinite essence of God in a definite manner, is again infinite in its own way; but it does not exist otherwise than with and in its countless modifications. God then exists only in things as their universal essence, and they only in him as the modes of his reality., In this sense , Spinoza adopts from Nicolaus Cusanus and Giordano Bruno the expressions natura naturans and natura naturata. God is Nature: as the universal world-essence, he is the natura naturans ; as sum-total of the individual things in which this essence exists modified, he is the natura naturata. If in this connection the natura naturans is called occasionally also the efficient cause of things, this creative force must not be thought as something distinct from its workings; this cause exists nowhere but in its workings. This is Spinoza's complete and unreserved pantheism."(Wildelband 1901:409). | そして同じ関係が、属性と諸様態の間でも繰り返される。あらゆる属性
は、神の無限の本質を明確な仕方で表現しているので、それ自体もまた無限である。この意味で、スピノザはニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノ
から、natura naturansとnatura
naturataという表現を採用している。神は自然である:普遍的な世界本質として、神はナトゥーラ・ナトゥランスであり、この本質が変化して存在する
個々の事物の総体として、神はナトゥーラ・ナトゥラータである。この関連において、ナトゥーラ・ナチュラータが時折、事物の効率的原因とも呼ばれるとして
も、この創造的な力は、その働きとは別個のものとして考えられてはならない。これがスピノザの完全かつ無条件の汎神論である。 |
"There was a long Western lineage for variants of the doublet natura naturans / natura naturata, a lineage adverted to in Spinoza's remark(quoted in paragraph [b] below) that even the Thomists speak of God as natura naturans. (St. Thomas himself had remarked more cautiously that "certain ones" employed this terminology, thus establishing his own critical distance from it.) Much more to the point for Spinoza's adoption of this pairing, however, was its presence in the textbooks of Heereboord and other current authors studied at Leiden and elsewhere"(Collins 1984:46). | natura naturans / natura
naturata という二つの変種には長い西洋の系譜があり、その系譜は、スピノザが、トマス主義者でさえ神を natura naturans
として語るという発言(以下の段落[b]で引用)で言及されている。(聖トマス自身は、「ある種の者たち」がこの用語を用いていると、より慎重に発言し、
彼自身のこの用語からの批判的な距離を確立していた)。しかし、スピノザがこの対を採用したのは、ライデンや他の場所で研究されたヘーレボルドや他の現役
の著者の教科書にこの対があったからである。 |
"As far as the pair itself is concerned, Spinoza wants to use it to mark a distinction that never breaks up into a disruption of the unity of nature. The usage of natura naturans / natura naturata signifies most basically an active coupling or knitting together of all the components in nature. Hence it corresponds to the primary, most adequate sense of "the whole of nature." Something would be lacking in the wholeness of nature were only one member of the relationship present. It is this active intrinsic componency that prevents a shredding of nature's integrity. The latter admits of differentiation but not of a one-sided rendering absolute of either the naturing or the natured principle"(Collins 1984:46-47). | 対それ自体に関する限り、スピノザは、自然の統一性の崩壊に決して分裂 しない区別を示すために、この対を使いたがっている。natura naturans / natura naturataの用法は、最も基本的には、自然におけるすべての構成要素の能動的な結合あるいは結びつきを意味する。それゆえ、それは "自然の全体 "という第一義的で最も適切な意味に相当する。自然の全体性において、その関係の構成要素が1つしか存在しなかったら、何かが欠けてしまうだろう。自然の 完全性が寸断されるのを防ぐのは、この積極的な本質的構成要素性である。後者は分化を認めるが、自然化する原理と自然化される原理のいずれかを一方的に絶 対化することは認めない。 |
以下は、Stanford Encyclopedia of Philosophy, Baruch Spinoza より、なお引用文(翻訳)のIp, I は『倫理学』からの引用
"There are, Spinoza insists, two sides of Nature. First, there is the active, productive aspect of the universe—God and his attributes, from which all else follows. This is what Spinoza, employing the same terms he used in the Short Treatise, calls Natura naturans, “naturing Nature”. Strictly speaking, this is identical with God. The other aspect of the universe is that which is produced and sustained by the active aspect, Natura naturata, “natured Nature”. | スピノザは、自然には二つの側面があると主張する。第一に、宇宙の活動
的で生産的な側面、すなわち神とその属性があり、そこから他のすべてが導かれる。これはスピノザが『小論』で用いたのと同じ用語を用いて、Natura
naturans、「自然化する自然」と呼ぶものである。厳密に言えば、これは神と同一である。宇宙のもう一つの側面は、能動的な側面、ナトゥーラ・ナ
トゥラータ、「自然化する自然」によって生み出され維持されるものである。 |
By Natura naturata I understand whatever follows from the necessity of God's nature, or from any of God's attributes, i.e., all the modes of God's attributes insofar as they are considered as things that are in God, and can neither be nor be conceived without God. (Ip29s). | ナ
トゥーラ・ナトゥラータとは、神の本性の必然性から、あるいは神の属性のいずれかから導かれるもの、すなわち、神の中にあるものとして考えられる限りにお
いて、神の属性のすべての態様を意味する。 |
There is some debate in the literature about whether God is also to be identified with Natura naturata. Be that as it may, Spinoza's fundamental insight in Book One is that Nature is an indivisible, uncaused, substantial whole—in fact, it is the only substantial whole. Outside of Nature, there is nothing, and everything that exists is a part of Nature and is brought into being by Nature with a deterministic necessity. This unified, unique, productive, necessary being just is what is meant by ‘God’. Because of the necessity inherent in Nature, there is no teleology in the universe. Nature does not act for any ends, and things do not exist for any set purposes. There are no “final causes” (to use the common Aristotelian phrase). God does not “do” things for the sake of anything else. The order of things just follows from God's essences with an inviolable determinism. All talk of God's purposes, intentions, goals, preferences or aims is just an anthropomorphizing fiction. | 神もまたナトゥーラ・ナトゥラータと同一視されるべきかどうかについて
は、文献上いくつかの議論がある。それはともかくとして、スピノザが第1巻で示した基本的な洞察は、自然は不可分であり、無因であり、実質的な全体である
ということである。自然の外には何もなく、存在するすべてのものは自然の一部であり、決定論的必然性をもって自然によって生み出される。この統一された、
唯一無二の、生産的で必要な存在こそが、まさに「神」の意味するところである。自然には必然性が内在しているため、宇宙には目的論が存在しない。自然はい
かなる目的のためにも行動せず、物事はいかなる目的のためにも存在しない。アリストテレス的な言い方をすれば、「最終原因」は存在しない。神は何かのため
に物事を「する」のではない。物事の秩序は、神の本質から不可侵の決定論で導かれるだけなのだ。神の目的、意図、目標、嗜好、目的などという話はすべて、
擬人化した虚構にすぎない。 |
All the prejudices I here undertake to expose depend on this one: that men commonly suppose that all natural things act, as men do, on account of an end; indeed, they maintain as certain that God himself directs all things to some certain end, for they say that God has made all things for man, and man that he might worship God. (I, Appendix) | 私
がここで暴こうとするすべての偏見は、このひとつに依存している。すなわち、人は一般に、すべての自然的なものは、人がそうであるように、ある目的のため
に行動すると考えている。実際、彼らは、神が万物をある特定の目的のために指示していることは確かだと主張している。 |
"Natural law[-> Natural Law] (Latin: ius naturale, lex naturalis) is a system of law based on a close observation of human nature, and based on values intrinsic to human nature that can be deduced and applied independent of positive law (the enacted laws of a state or society).[2] According to natural law theory, all people have inherent rights, conferred not by act of legislation but by "God, nature, or reason."[3] Natural law theory can also refer to "theories of ethics, theories of politics, theories of civil law, and theories of religious morality."[4]"- Thomas Aquinas, a Catholic philosopher of the Middle Ages, revived and developed the concept of natural law from ancient Greek philosophy, - Natural law. | 自然法[-> 自然法](ラテン語: ius
naturale, lex
naturalis)とは、人間の本性をよく観察し、人間の本性に内在する価値観に基づく法体系であり、実定法(国家や社会で制定された法律)とは無関係
に推論・適用することができる[2]。
自然法理論によれば、すべての人は、立法行為によってではなく、「神、自然、理性」によって与えられる固有の権利を有している。
「中世のカトリック哲学者であるトマス・アクィナスは、古代ギリシャ哲学から自然法の概念を復活させ、発展させた、 |
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source: http://www.jewishencyclopedia.com/articles/13964-spinoza-baruch-benedict-de-spinoza
知力と重力、ふたりは仲良し
重力の虹ならぬ、虹の重力。恩寵か必然の負債かどう かはわからないが、地球の生命体に重力という賜物がある。ホモ・サピエンスにとっての知力と同じようなもの。知力は我々の人生を豊かにすると同様に荒廃も させる。平和に協力するゲームに参加するし、裏で亡き者にする欲望したい誘惑も知力が給備する。スピノザの神(自然)と同じようなものか?呪ってもいけな いし、また有難がっても愚か。
Thomas Aquinas, by Carlo Crivelli (1430-1495) / Albertus Magnus, O.P. (c. 1200–1280).
★西洋哲学における「自然」の概念(「東洋哲学における自然」の説明は割愛しています)
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文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
Thomas
Aquinas, by Carlo Crivelli (1430-1495)