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「自然」と「文化」の境界面:神経生理学研究室の事例検討

Interface and Inter-ream between nature and culture: an examination of the case study of laboratory of neuro-physics of visual sensory system of mammals

池田光穂

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【1】  私の発表は「自然と文化の境界面:神経生理学研究室の事例検討」のタイトルで、日本の大学の神経生理学実験室における動物実験の分析を通して、近代社会 における人間と動物の関係について考察します。

【2】  この発表の資料となる調査は、科学研究費補助金(萌芽研究)を受けておこなった、神経生理学者との共同研究によるものです。


【3】  ゲーリー・ラーソンの風刺漫画に、動物の図書館「セルフヘルプのセクション」というものがあります。図書館のブースでは、さまざまな動物たちが『本能を 解放するやり方』や『自然淘汰を回避する方法』などの本を熱心に読んでいます。後ほど述べるフィリップ・ディスコラの人間と動物の4つのアイデンティフィ ケーション(=同定化)の図式に照らしあせると、この動物たちは、本を読むという「身体性」においても、知識を得てより良く生きようとする「内面性」にお いても、完全に人間の出来事と一致した世界を生きているかのようです。

【4】  人類学者は、人工的環境のなかでも自然的環境のなかでも、人間が「文化」を駆使して生きるさまを研究します。文化人類学における自然と文化に関する二元 論は、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』の冒頭において述べたものがあります。彼は次のように言います:「インセストすなわち近親相姦は、〈自然〉 と〈文化〉という2つの性格を、いささかの曖昧さを残すことなく不即不離のかたちで示す」と。他方、神経生理学者は「自然科学」の対象である神経細胞の振 る舞いを観察することで、自然の表象を「正しく」科学論文に記述しようとします。もちろんこれら双方の研究者たちが、そう信じて学問的実践をおこなってい るということであり、社会現象としてそのような理念が現実化しているかどうかは全く別の問題です。

【5】  ここでの私の目論見は、研究対象である神経生理学者たちが考え実践する「自然と文化」について考察することです。しかし同時に、それを研究対象にする人 類学者が考える「自然と文化」もまた合わせて分析するつもりです。なぜなら、実証科学者としての文化人類学者は、自然の表象としての「神経生理学者の行動 と理念」を明らかにしようとするからです。西洋近代文化の末端に位置する、私たち、双方の研究者たちは、実際に〈自然〉と〈文化〉の二分法を生きているの でしょうか。我々は果たしてルネ・デカルトの嫡子、つまり彼の「正統な」遺産相続者なのでしょうか。

【6】  デカルトは『哲学原理』(1644)において、「私は考える」というラテン語の一人称活用 cogito に非常に高い意味を与えました。そして、彼が言うところの「普遍的疑念」から自由になるために、思考すなわち意識として「考えるもの」res cogitanceと、延長をもつ身体としての res extensaを、人間とりわけ「私があること」(=存在すること)の出発点として位置づけました。これがデカルトの心身二元論とよばれるものです。

【7】  デカルトは、この心と身体をまとめ、統一した私、つまり「思惟する私」を確固とするものについて、その最終的な場所「魂の座」が身体のどこにあるのかを 探しました。彼は、目や耳のみならず、脳が左右の半球に分かれていることに着目し、身体の感覚器官からやってくるものと、脳が思考するものが唯一ひとつに なる場所を特定し、それは脳の中の「松果体」と呼ばれる部分に他ならないと考えました。残念ながら今日では、松果体はバイオリズムを制御するホルモンであ るメラトニンの分泌器官であり、(そんなものがあればの話ですが) res cogitance と res extensaの結節点でもありませんし、また「魂の座」でもありません。

【8】  それにも関わらず、デカルトは、実際の観察データにもとづいて合理的に推論したという点では、神経生理学者のみならずそれを理解する人類学者にとって も、ある意味での「科学の失敗から学ぶ反面教師」あるいは科学的発見の寓意(アレゴリー)となります。デカルトの失敗は、松果体というあまりにもぴったり な臓器があったために、それが魅力のある罠、今日の我々がいうところの「躓きの石」になったということです。「魂の座」としての松果体のアレゴリーは、レ ヴィ=ストロースが考えるインセストにもあてはまるかもしれないと皮肉ったとしても、いったい誰がそれを否定することができるでしょうか。

【9】  視覚の神経生理学研究は、歴史も深く、またその技法においても洗練されてきました。

【10】  現在では視覚の神経経路については、生理学と解剖学ならびに発生遺伝学の研究からその正確な経路が明らかにされています。

【11】  また神経細胞の配線図については、正確にわかっているために、視覚情報がどのように処理されているのかという研究に現在では焦点が移っています。

【12】  動物実験は、単に研究をする動物にさまざまな処理をしてデータを引き出すことだけではありません。飼育から実験終了後の遺体の処理、さらには動物慰霊祭 まで広い領域をカバーする一連の作業のことであります。

【13】  動物実験をおこなう視覚の生理学者は、実験動物の経費、実験に投下する時間的精神的コストなど要因により、1年間に数回から十数回の頻度で実験をおこな い、1回あたり最大数十時間の実験しか行うことはできません。生理学者の時間のほとんどは、実験データの整理や標本づくり、他のグループの研究の検討、投 稿論文の作成や査読者とのやりとり、そして学会発表用の資料作成に費やされているといっても過言ではありません。

【14】  では、生理学者と実験動物のあいだの関係はどのようなものでしょうか。実験動物の飼育では、飼育場所の清掃や餌やりなど、基本的な飼育を学ぶことが重要 なこととされています。実験前にも後にも動物の個性や特徴について語られることは多く、実験以外の局面では感情移入すらあるということもあります。つまり 実験動物をモノのように扱えるから冷静に動物実験できるようになるのではないかという「非人称化仮説」は本研究ではあてはまりませんでした。ただし神経学 的特徴を説明する際には、擬人化は一切なされず、神経学的な個体差は完全にないものと脱個性化して話されます。

【15】  神経生理学の実験室における〈自然〉が具体的には何をあらわしているか整理してみましょう。まず神経細胞の普遍的性質、つまり膜電位、神経スパイク、神 経伝達物質などが〈自然〉として抽出され、論文に表象されます。そこでは生物種に固有な神経回路や視覚情報処理における合目的性があると主張されます。実 験には失敗がつきものなのにも関わらず、最終的には観察者の影響を完全に排除できると信じているため、得られたデータはピュアな〈自然的性質〉を表象する ものとして加工されます。そして自然の〈客観性〉を保証するために、人為的な影響――彼らの言葉によると人工物すなわち artifact であるノイズを除外する実践的な努力が積み重ねられます。

【16】  実験動物の話をそれになじまない人に話すと露骨に嫌悪され、そのような行為は「かわいそう」だと言われてしまいます。この理由はなんでしょうか。生物学 者が好む議論はバイオフィリアやバイオフォビア、つまり生命への愛好や嫌悪が進化論による遺伝的な形質ではないかという、エドワード・ウィルソンらの理論 仮説があります。それとは対照的に(つまり真逆に)動物のイメージは「種としての人間がもつ偏見」がおのおのの文化によって社会的に構成されるために、自 然科学のシンボルとしての「ガラス電極」(=文化)が「動物の脳」(=自然)に差し込まれること自体、自然と文化の越境侵犯的な〈ハイブリッド〉状況に、 これらの嫌悪する人たちは恐れるのだと解釈することも可能です。後者の人間がもつ文化的性向は、これをBio-Prejudice(=生物偏見)が存在す ると皮肉って言ってみたい気になりますが、この〈悪い感情〉そのものは生物学的基盤をもつことは明白です。その意味で、動物すなわち〈自然〉の文化表象 は、いわゆる「二次的に構成された自然 second nature」あるいは「文化としての自然」と言えるものかも知れません。

【17】  動物実験とは、動物にセンサーや薬物を埋め込む人工物から〈自然〉を取り出すプロセスに他なりません。客観的にとらえられるものを自然とし、それを理解 する人間の営為を文化と名付けるならば、自然科学者たちの活動は文化的知恵(sapientia)という活動レパートリーに入ることでしょう。しかし神経 生理学者たちは、自分たちは文化的活動に与っていないと言います。文化の違いが自然科学に反映したり影響を受けたりしていることはないのだと言うのです。

【18】  このように神経生理学者と文化人類学者が考える〈文化〉と〈自然〉の間には、共に二元論を共有しながらも微妙な差異がみられるようです。神経生理学者と 文化人類学者が、心に抱く自然と文化は、共に二分法的な秩序によって区分されていますが、〈自然〉と〈文化〉のハイブリッドの内部の両者の境界面では、あ たかも可動式の圧力隔壁、つまり文化と自然の間の壁のように、この壁が相互に押し合い引き合いしているのではないかと思われます。

【19】  ラトゥール[2008:27]によると、実際の現実は自然と文化がごっちゃになっている状態であり、ふつうこの状況に立ち向かう人類学者は、ネットワー ク化により産出された自然と文化のハイブリッドの現実を翻訳(translation)するという活動をおこなっています。しかしそれを分析しようとする 時、自然と文化のハイブリッドの現実を、自然と文化の領域に再びあるいは仮想的に二分化する文化的知恵 sapientia が働きます。翻訳(translation)と対照的な活動として、この活動を純化(purification)のプロセスであると彼は言います。ラ トゥールによると、純化は近代論者(modernist)のお得意の手口です。近代論者としての神経生理学者と文化人類学者の間には、それらの領域区分に おいて境界面の位置だけが異なるのです。

【20】  本研究における人間と動物の関係がどのような位相にあるのか、ここでフィリップ・ディスコラ(2006)における身体性と内面性から構成される4つの象 限について考えましょう。彼の議論によると、人間と他の種類の動物がどのような世界性――ディスコラは存在論(ontology)と呼ぶ――をもっている かで身体性と内面性から考える必要性を強調します。

 ディスコラの議論では、人間と動物の関係において、身体性の類似(+)と内面性の類似(+)に基調におくものはトーテミズムです。カンガルー のトーテムに属する男を指し示し「彼はカンガルーである」と言うとき、身体性と内面性は完全に一致します。他方、日本の神経生理学における動物実験では、 動物は、同じ中枢神経をもち同じ神経情報処理をする点で身体性は合致(+)しますが、デカルトの考えと同様、動物に洗練された心的メカニズムがあるとは考 えません。つまり内面性は一致しません(−)。これは自然主義(naturalism)と言えます。また、身体性は異なる(−)が、動物と内面性が繋がる (+)代表的な考えはアニミズムです。身体性(−)も内面性(−)も繋がらない関係は、人間と動物のあいだに直接的関係はなく、それぞれ人間界と動物界の 関係をつなぐものは、たんなる類推的=アナロジー的関係でしかありえません。その典型は中国の十二支における人間と干支(えと)の関係のようなものです。

【21】  実験動物を含めて、日本の社会における人間と動物の関係について、ディスコラが描く4つの象限にあてはまる動物の世界には、どのようなものがあるでしょ うか。まず身体性の類似(+)においても内面性の一致(+)においても際立ったものは、例えばディズニー映画『ファインディング・ニモ』にみられる動物の 社会をテーマにした子供向けのアニメーションの世界です。冒頭のゲーリー・ラーソンの風刺漫画を思い起こしてください。そして、身体性の類似(+)をもち ながらも内面性には共通性がない(−)ものが本研究でとりあげている実験動物の世界です。他方、身体性はまったく共通点をもたない(−)が、内面性には類 似点(+)を認めるものはペットの世界です。最後に、身体性(−)も内面性(−)をもちあわせないものが食肉にされる動物です。なぜならスーパーマーケッ トの食肉コーナーできれいに包装された肉を見ても、誰も動物の原形を想起する人はいないからです。

【22】  結論と考察に入ります。存在様式に関するディスコラの解釈によると、現代社会のなかで動物は、それぞれ自然主義(ナチュラリズム)、アニミズム、トーテ ミズム、そしてアナロジズムのすべてのアイデンティフィケーション(=同定化)に該当します。自然主義にもとづく研究対象である実験動物は、自然科学とい う枠組みの中でデータを産出するモノでしかありえません。ここでの〈自然〉とは、全体性を表象するものではなく、部分的真理としての〈自然〉に他なりませ ん。

【23】  近代論者である神経生理学者の実践は、〈自然〉の意味産出に関わることであり、それは純化(purification)というプロセスをおこなうことで す。その点では人類学者も同様の活動をおこなっています。実験動物から〈自然〉の真理を引き出すためには、真理を保証するための社会的なゲームの規約の手 続き、つまり倫理委員会、客観性の担保、査読制度という社会性に根ざした正当化の文脈が不可欠です。神経生理学者は、現代社会の純化 (purification)という真理ゲームのプレイヤーの一人と言えます。

【24】  この純粋化の真理ゲームにおいて、ここで未解決な問題があります。それは技術をどのように考えるかです。真理探究のゲームプレイヤーではなく、実際に 〈自然の力〉を引き出そうとする非正統的科学者の存在があります。例えばNPT(核拡散防止条約)に非加盟の国の物理学者たち、ガレージサイエンティス ト、麻薬カルテルに従事する化学者(ケミスト)などは、私たちのいう自然と文化の二分法とはまったく無縁の存在です。彼らは、既存の〈文化〉の存在を脅か す核の破壊力や、麻薬精製が産む巨額の利益を、あたかも錬金術のように〈自然〉から直接引き出そうとしています。彼らは正統的な真理ゲームの圏外で、科学 の純粋な力――知は力なり(フランシス・ベーコン)――を引き出そうとしていますが、真理と知の結びつきという私のこれまでの一連の議論と、非正統的科学 者がおこなう技術と〈文化を破壊する力〉の結びつきという関係を上手に位置づけることができません。

【25】  私たちは、自然の虚構性つまり文化性に意味づけられる〈自然〉の中に生きているのでしょうか。それともダナ・ハラウェイ流のジェンダー・ポリティクスに まみれたサイボーグ化した身体のコミュニティのメンバーとしてそこにいるのでしょうか。あるいはロバート・ヤング流の、植民地主義が作り上げた雑種性と いった特質をもつポストコロニアルな〈権力の空間〉なかでの存在なのでしょうか。さらには、人間のみがなす近代の政治性を、相対化したいブルーノ・ラ トゥールがいうところの翻訳的プロセスのネットワーク的ハイブリッドの中に生きているのでしょうか。

【26】  図之拾は、ビベイロ・デ・カストロ(1998)による西洋の形而上学とアメリカ先住民のパースペクティズムの位置づけを、アルジダス・グレマスの意味 の四角形を使って整理し表現したものです。ここでは西洋近代の理性概念もアメリカ先住民のアニミズムも思考様式としては形而上学的な観念論の相対 性に位置 づけられます。それらは多文化主義(multiculturalsm)つまり、それぞれの文化に対応する認識論として理解することができます。ビベイロ・ デ・カストロは、そのような認識論を根拠づけている確固とした複数の自然界があると主張して、それをマルチナチュラリズム (mutinaturalism)と呼びます。

【27】 図之拾壱をご覧ください。ディスコラやビベイロ・デ・カストロがつかう「存在論(ontology)」は、しばしば、先住民がもつ環境に関する認識論すな わち〈文化〉にすぎないのではないかという批判があげられます。しかしながら、社会の存在様式とは、その人たちが住まう自然環境とそれについての理念的思 考すなわち形而上学(メタフィジカ)とのセット、あるいはハイブリッドとして理解することができれば、それは認識論と相互補完関係をなす自然環境そのもの すなわち人間と動物の存在論的根拠になりえると言うことはできないでしょうか。

【28】 私の発表は以上です。ご静聴ありがとうございました。また本研究に関わったすべての皆さんに感謝いたします。

文献
「自然」の二重性:神経科学の実験室における動物と研究者(pdf)初校校正原稿

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099