身体をとおしてみた技術と人間のかかわり
Humanistic relations with new technologies through our bodies
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以下の叙述とは全く関係のアブストラクト レ イ・カーツワイルの"The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology,"(2005)が公刊されて今年2021年で15周年を迎えた。公刊当時、毀誉褒貶をもって迎えられた同書もその楽観的予測通りにはいか ず歴史的使命を終えたかのように思われる。その一方で私たちの日常生活にインターネット端末は溢れ「それなしに」現代人の生活は考えられず、人工知能は地 球上で生活する人たちに不可欠な技術になった。この発表は科学技術と人間の日常生活の関係を「対話」のメタファーを通して、「違うかたちのでの大学教育に おけるSingularity はもうとっくに到来している」ことを考える。(出典:機械の「心」と対話 は可能か?:大学教育のなかでの審問) |
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1.はじめに
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現在、人間と技術の関わりかたが、問い直されている。わけても、我々の生活と密接に関連し、大きな影響を及ぼしているのは、ライフサ イエンスとコミュニケーションの両分野であろう。
「経済学で定義される技術とはインプットをアウトプットに変形する生産関数のことである」(岡田 2019:1)
ライフサイエンスの領域においては、医療機器(ME)の発達による臨床検査情報の迅速化や高度化、遺伝子レベルでの診断、凍結受精卵 保存などの生殖技術、集中治療や手術管理技術、新素材による人工骨・関節や人工臓器、などの発達が顕著である。
コミュニケーション分野では、衛星放送、文字放送、(今日ではガラパゴス技術の代名詞なったが)ハイビジョンなどのマスコミュニケーション媒体 の多様化、情報収集システムの迅速 化、市民レベルでの情報ネットワーク、パソコンネットなどは、誰でもすぐに列挙できよう。
これらの、分野はハイテクと呼ばれる高度先端技術によって、今日、格段の進歩を遂げつつある。ハイテクは、このような技術体系が単独 に機能しているだけでなく、それぞれが相互に関連させることができるという、いわばネットワーク化の技術が洗練されていることに特色がある。例えば、腎移 植や骨髄移植に関する臨床検査情報は、複数の機関で検索、照合できるような情報網のなかで、共有され、その情報交換が迅速化することによって、移植の効率 は飛躍的に向上する。
ライフサイエンスとコミュニケーションのあり方は、このように相互に関連している。そして、これらの技術の中で、我々の身体のあり 方、五感をはじめとする知覚による人類の体験などは、大きく変わろうとしている。
このような動向に対する人びとの受け取り方は概ね肯定的である。しかし、同時に、身体に直接的に関わってくる問題でもあり、長期にわ たる慢性的な影響を危惧する声も常にある。
以下において、これらのハイテクと身体のかかわりあいについて、とくに見落されがちなマイナスの側面を注視し、概括的に論じる。
※「イノベーションの定義」
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2.問い直される「人間」と「自然」
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我々が抱かざるを得ないのが、エネルギー浪費型の技術に依存したような現在の「進歩」に対する漠然とした不安である。これは、地球環 境問題における具体的な諸課題において、なかば現実のものとして、我々の眼前に提示されている。
そこには、「本来の姿」から逸脱した人間を、「自然」 という環境の中に連れ戻したい、という願望が見て取れる。あるいは、「人間の身 体もまた自然[あるいはその一部]である」という発想もうかがえる。そこで、問題にしたいのは、そのような発想は、どこからやって来たのか?、ということ である。
自然を切り開き、それを統御するという思想は、西洋独特のものである、という主張がある。他方、伝統的東洋あるいは日本においては、 「自然への愛着」とその摂理に従う原理がある、というのである。
だが、東洋における治水潅漑などのシステムの歴史やその伝統的知識の水準は、どうであろうか? 日本における盆栽や、近世における庭 園造営をみれば、いかに人工的に統制された環境のなかに、「自然のモデル」を取り込もうとしたか、その努力の足跡がわかるというものだ。そして、自然を愛 するはずの日本人が、国土を未曾有の乱開発に陥れているのである。東洋人の「自然への愛着」という理念的性向と、彼らが現実に自然とどのように関わったか と言うことは、分けて考えねばならない。
自然と人間を、あるいは、自然と文化を対峙させる概念は、どのような社会においても認められるのであり、後者が前者に対して高い価値 をおくという図式は変わらない。ただ、西洋の科学技術が導入された社会で、広範な自然破壊が進んだのは、効率のよいシステムがもたされた結果なのである。
我々は、「自然」を慈しみ、そこに帰るべきだと言われるが、人間にとっての環境をこのような図式で位置づければ、「自然」への回帰 は、考えるほど容易なものではない。なぜならば、そこには人間が考える限りの「自然」概念が投影されており、その枠組みの中で、自然を組替えることにしか 関心がないからである。
自然と文化(→レヴィ=ストロース「自然と文化」の読解)
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3.テクノロジー公害
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技術の発達が、人間の存在のあり方にとって脅威となることは、産業革命の当初から今日に至るまで−−批判内容こそ千差万別だが−−変 わることなく指摘されてきた。だが、今日における科学技術の発達は、工業化の初期の時代に比べると、その変化の速度がきわめて著しく、身体にとって「自 然」でないような生存環境が急速に造られつつある、という独特の危機感がある。
そのような例として、テクノストレス(techno-stress)を挙げてみよう。テクノストレスとは、人間とコンピュータの微妙な関係が崩 れた時に生じる症状で あるが、今日では、オフィス・オートメーション(OA)の導入が現代人に与える精神および身体的不適応状態の全般をさすと考えてもよい★1。
それには多様な症状がある。VDT(モニター・ディスプレイのこと)を長時間見つづけることによる眼のちらつきや、肩や腕の疲れ −−日本では労災が一部認定されている「頚肩腕症候群」−−に始まり、内臓の異常、OA機器そのものに対しての不適応や心身にわたる障害を起こし、職務が 完全に遂行できなくなるもの、OA機器には十分適応できるのだが、職場あるいは家族との人間関係に不調和を起こすものなど、あらゆる不適応症状を観察する ことができる。
このようなストレス反応は、OA化以前における機器操作の得手、不得手という問題とは、性格を異にする。それは、明らかに、コン ピュータが人間の知覚や認知活動に、具体的に介入してきたことに根ざしている。
すなわち、それは、コンピュータとのコミュニケーションの齟齬であったり、コンピュータとの間で得られた関係を、そのまま人間にあて はめることによって、他の人びとの不調和を起こす−−後者は機械によって苦しめられるのではなくて、逆に、生身の人間関係に苦痛を感じるようになる。例え ば、コンピュータによる迅速な作業の「時間感覚」に慣れてしまい、現実の人間との対応にいらいらするようになる、という具合いである。
ビジネスおよびゲームのプログラムソフトあるいはOA機器では、たいてい「対話型」の操作体系がアルゴリズムとして組み込まれてい る。我々は、そのようなアルゴリズムに従って作業するわけだが、実際には「機械と対話(コミュニケーション)」するという体験を行っているような感覚を もってしまう。
ロボット工学者は、試作した機械に愛称をつける習慣があるが、今日においては、それがオフィス内のコンピュータに対しておこなわれる のだ。
コンピュータやOAとは、大量の情報を効率よく処理する機械やシステムであったはずである。しかし、現実は、取り扱う情報をどんどん 肥大させ、ソフトウェアのための情報収集がおこなわれ、OA化することそのものが自己目的化していく傾向にある。このような情報への過重な期待とその処理 に負われる状況も、テクノストレスの生成をさらに加速している。
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4.情報化とヒューマニズム
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情報化社会は、さらに厄介な問題を抱えている。情報の集中化が、個人のプライバシーの尊厳に抵触するような事態を引き起こすことが、 それである。
プライバシーは、今日の日本では「個人に関する情報」として理解されやすい。しかし、法的には人格的諸利益の総体と解され、その概念 の発祥の地、米国においては、自己の領域に属する事柄を決める権利(自己決定権)としてプライバシーが理解されていることは注目すべきである★2。
すなわち、個人情報への「侵害」は、人格という抽象的実体のみならず、具体性をもった身体に対する「侵害」にもなり得る★3。これ は、「自己の領域」を厳格に確定しようとする人びとの具体的な知覚認識にも叶っている。このようにして見ると、個人の秘密としての情報を暴露されたときに 感じる恥辱感とは、極めて身体的な「恥辱の」感覚に近いものであることが、容易に理解できよう。
個人情報が日本において、無配慮に「流通」しており、このことに対する懸念が問題化しつつあるが、未だプライバシー感覚は、米国のよ うな身体感覚化にはいたっていない。だが、巷間におけるプライバシーの「暴露」には、しばしば個人の性生活に関する「秘密」が暴かれることから、個人に関 する情報(プライバシー)が身体−−それも最も危険な領域である性的部分−−への「侵襲」であるとみなすことも可能であり、「個人に関する情報」と 「その身体感覚」には強いつながりがあるとみてよい。
このような事態に際して、市民社会はどのように対応してゆけばよいのだろうか? それには、現代人が情報化社会にみる不安材料を検討 しなければならない。
例えば「情報化による個人情報の集中」という社会問題がある。国家や地方公共団体が、効率よく業務を進めるためには、このような集中 化がなされることは、やむを得ないという意見がある。しかし、どのような情報を、どのように管理されているかという実態が、不明瞭のままでは、さきに言っ たような、権力による市民への「侵襲感」を払拭することはできないだろう。総務庁や警察庁などがまとめた報告書など★4があるが、国家権力による提唱は、 デリケートな問題を含んでいる。
しかし、私的企業に対する、権力的介入が必要とされる面もある。それは、信用金融社会を迎え、個人情報が金融機関に集中している実態 であり、プライバシーの点から、やはり大きな問題をはらんでいるからだ。国家が市民の権益を守るという点からみると、なんらかの対策がなされるべきだとい う意見もでてくるのである。
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5. 身体技術の復権
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現代は、伝統的なコミュニティーの機能が崩壊した時代、という見方がある。そこで、しばしば耳にするのが、「人びとの心が貧しくなっ た」というフレーズである。
だが、「心の貧しさ」を定量することはできない。もし、仮にそのような心性を認めたとしても、実際には、具体的な行動が観察されなけ ればならない。最後に、それを「身体技術」という視点からとらえ直してみよう。
身体技術とは、「自己あるいは他人の身体に関する等身大−−すなわち個人が自分で処するレベル−−の技術」のことである★5。広義に は傷病を直したり、健康管理をおこなう技術も含められるが、医療などの専門化した技術は、そこには含めない。あくまでも、自己および他者の身体の周辺での 対処技術のことを言っている。
この技術は、たんにセルフケアをおこなうだけではない。身体は、他者との重要な媒介点であることから、他者への接し方の技術でもある のだ。
子供たちは、身体を縦横無尽に使う遊びのなかに、他者との身体的な接触を感じ、その対処を学んでいく。このことは、他者に対する腕力 の振舞いの限度(=手加減)を体得する契機にもなる。また、自分や他者の傷病に対して、どのように振舞うか、どうすれば病気の傷みを評価でき、それに対し て適切な行動がおこすことができるかを体得してゆく。看病なども、その重要な技術を構成する一部であると言えよう。
このような技術の継承や修得は、本来子供が成長の中で、自分自身あるいは仲間たちの助力によって、身につけてゆくものであった。
しかし、長期にわたる規格化された学校教育、友人関係の範囲がクラスや学年などの年齢階梯に分極化されること、学校外における自然環 境の減少、お稽古ごとや学習塾などの「学校外」施設への収容、などの要因によって、次第に、身体技術を「学習」するチャンスを失い、やがて、その伝承その ものも後退していったものと推察される。
現実に、現代日本における都市の若者たちの間には、このような身体技術が失われて、新たな「人間関係性の様式」が形成されつつあると 言われる。この関係性の多くは、ファンクラブ、テレメッセージ、コンピュータネットなど、今日の新しいメディアに依存している。このようなメディアは、す べて対人関係における、即物的な身体性を完ぺきに排除したかたちで行なわれていることは、この身体技術を考える上で示唆的である。
今日における「医療化現象」−−傷病だけでなく生活そのも のが近代医療によって統制されていく現象−−の中で、身体技術という知的体 系が崩壊している事実も見逃せない。
健康診断や検診の態勢は、病気の早期発見・早期治療を促し、健康への配慮を人びとに啓蒙することには貢献した。しかし、他方で、「病 気」のもつ認知的脅威を一層おおきくした。例えば、臨床検査データが示す、病気のリスクファクターという概念は、「潜在的な病者」(=病者予備軍)を作り 上げ、病気への配慮というかたちで、日常の生活を統制することに成功した。このような現象は、病気への対処を近代医療に独占させる結果となった。
都市における夜間救急において、重篤な傷病人が拒絶−−むろん拒否には医療設備の不備やスタッフの不在などの複数の理由が挙げられる −−され社会問題化する一方で、家庭内で十分に対処できる傷病でさえ救急車で運ばれてくる場合があるという。このような例として、乳幼児の夜間の発熱があ る。この場合には、その子供の父母に、子供の病気を観察し対処する身体技術が欠落している、と言うことができるのである。都市における核家族による居住形 態によって、子供の養育に関する祖父母の身体技術が、うまく父母に伝わらず断裂していることは、容易に推測できる。
では、このような身体技術を我々に取り戻すには、いかなる方法があるのだろうか?、学校教育?、社会教育?、コミュニティー運動?。 問題は予想したよりも広範であり、身体技術の実態を多極的に調査研究し、これらを成果を取り込んだ、社会システム全体について、身体技術の「復権」を目指 していく他はないように、思われる。
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◎人間・コンピュータ・コミュニケーション
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