はじめに
よんでください
動物は思考できない、というデカルトの説
La théorie de Descartes selon
laquelle les animaux ne peuvent pas penser

書影は明星大学附属図書館所蔵のものです。著作権は明星大学にありますので再利用はそちらにお問い合わせください(https://bit.ly/3tYOI2Q)
池田光穂
「われわれの情念の運動については、われ
われは思考の能力を持っているので、われわれのうちで思考を伴っていますが、しかし、それにもかかわ
わらず、情念は思考に支配されていないことは大変明らかです。というのも情念の動きはしばしば、われわれの意に反しておこりますし、したがって動物におい
てもありえるどころか、人間においても激しいこともありえますが、それゆえに動物が思考をもつと結論することはできません」——デカルト
からニューカッス
ル候へ、発信地:エフモント・ビンネル、1646年11月23日(#587)——第7巻(知泉書館版、Pp.202-203)
■方法序説(三宅徳嘉・小池健男訳(白水
社版)1973)——白水社版『デカルト著作集』2001年デジタル版
- 【序文】第五部では、著者が求めた〈自然学〉の諸問題の順序を、特に心臓の動きとその他の〈医学〉に属するいくつかの難問題との説明を、
それからまた私たちの魂と動物の魂とのあいだにある相違を……【引用される場合は著作集は原著にあたって当該ページを探してください】
- 【第1部第2】というのも、理性なり分別なり
は、私たちを人間にし、私たちを動物から区別するただひとつのものであるだけに、私はそれがひとりひとりのなかにそっくりそなわっていると
思いたいし、こうした点で〈哲学者たち〉の共通な意見に従いたいのです。【引用される場合は著作集は原著にあたって当該ページを探してください】
- 【第5部第11】ところで、このこの二つの手だてによって、また人間と動物のあいだにある違いを認識することもできるのです。というの
も、人間ならばどんなにぼんやりしていて頭のわるい人でも、頭のおかしい人も例外なしに、いろいろなことばをいっしょに並べ、それで一つづきの話を組み立
てて自分の考えをわからせる能力のないような人はいに、反対にほ
かの動物は、どんなに完全で生まれつきどんなにめぐまれていても、同じようなことをするものがないのは、大いに注目にあたいすることだからです。
これは動物に器官が欠けていることから起こるのではありません。というのも見てわかるとおり、鵲(かささぎ)と鸚鵡(おうむ)は私たちのようにことばを発
することはできても、私たちのようところで、つまり自分たちが考えてものを言っているのだと証拠だてながら話すことはできません。一方人間はつんぼでおし
に生まれついて、ほかの人間には話すのに役立っている器官が動物と同じか動物以上に欠けていても、ふつうは自分で何かの記号を発明し、つねひごろいっしょ
にいてこの人たちの言語を習いおぼえるゆとりのある人たちに、その記号によって自分の気持ちをわからせるからです。そしてこのことは、動物には理性が人間より少ないばかりでなく、理性がまったくないことも証拠
だてます。というのも、話すすべを知るためには、理性はごくわずかしか必要がないことがだれにでもわかるからです。同じ種の動物のあいだに
も、人間どうしのあいだと同様に、できふできが認められ、あるものはほかのものより訓練しやすいだけに、猿や鸚鵡で、それぞれの種のなかでいちばん完全な
ものならば、そうした動物の魂がわれわれの魂とまったくちがった性質のものではないと仮したばあいのはなしですが、子供のなかでいちばん頭のわるい子供
や、少なくとも頭が狂っているような子供にこの点でかなわないなどとは考えられません。ことばを自然の動きと混同してはいけません。自然の動きは情念をあ
らわすもので、動物と同じように機械にもまねができます。またある〈古代人たち〉が考えたように、動物はことばを話すけれども、私たちがそのことぱづかい
を理解しない、と考えるべきではありません。というのも、それがほんとうだとしたら、動物にも私たちの器官に対応する器官がいくつもある以上、仲間に意思
を伝えるのと同じようにうまく自分の言いたいことを私たちにもわからせることができるでしょうから。動物のなかには、ある種の行動では私たちにまさる技能
を証拠だてるものもたくさんいますが、しかし見てわかるように、その同じ動物がほかのことになると多くのばあいにそうした技能を少しも示さないこともまた
たいへん注目すべきことです。こういうぐあいで動物のほうが私た
ちよりやり方がうまくても、動物に精神があるという証明にはなりません。というのも、この理屈でいくと、動物には私たちのだれよりも精神が
たくさんあり、どんなことでも動物のほうがうまくやるということになるでしょうから。そうではなくて、むしろ動物たちに精神がなく、動物たちのなかで、器官の配置に従って動いて
いるのが〈自然〉であることを証明しているのです。たとえばだれにもわかるとおり、時計は、歯車とぜんまいだけで組み立てられていながら、
私たちがありったけの思慮をかたむけたばあいよりも正確に、時刻を数え、時間を計ることができるのです。【引用される場合は著作集は原著にあたって当該
ページを探してください】
- 【第5部第12】つまり動物の魂が私たちの魂と同じ性質のものであり、したがって私たちには、この生のあとに、恐れなければならないもの
も期待すべきものも、蝿や蟻以上には、何ひとつないと想像することです。一方、動物の魂と私たちの魂とはどれほど違うかがわかると、私たち
の魂が体にまった・存しない性質のものであること、したがって体とともに死ななければならないものではないということを証明理由がはるかによく理解されま
す。【引用される場合は著作集は原著にあたって当該ページを探してください】
■ノーバート・ウィナーの解説
「デカルト(Descartes)は下等動物を自動機械と考えた.これは,動物は,救済されまたは永劫の罰に処されるような魂をもたないと
い
う,正統派キリスト教信者の態度に異論をとなえることをさけるためであった.私の知るかぎりではデカルトは,これらの生きた自動機械の機能がどんなもので
あるかについて論じたことはなかった.しかし感覚と意志との両面において,人間の魂が,その物質的環境とどう結び/つくかというそれに関連した重要な問題
を,デカルトは不十分な形ではあったが論じている.彼はこの関連が,彼にはわかっていた脳の中央部分,いわゆる松果腺において起ると考えた.この関連の性
質に関して一一それが物質に対する精神の直接の作用や,精神に対する物質の直接の作用をあらわしているかどうかについて一ーは彼はあまり明らかにしていな
い.多分彼は両方の意味の直接の作用を考えていたであろうが,外界に対して人間の経験が有効にはたらくことを,神のめぐみと正しさによるものとしている」
ウィーナー『サイバネティクス』Pp.95-96、岩波文庫、2011年
[To begin with,] Descartes considers the lower animals as
automata. This is done to avoid questioning the orthodox Christian
attitude that animals have no souls to be saved or damned. Just how
these living automata function is something that Descartes, so far as I
know, never discusses. However, the important allied question of the
mode of coupling of the human soul, both in sensation and in will, with
its material environment is one which Descartes does discuss, although
in a very unsatisfactory manner. He places this coupling in the one
median part of the brain known to him, the pineal gland. As to the
nature of his coupling-whether or not it represents a direct action of
mind on matter and of matter on mind-he is none too clear. He probably
does regard it as a direct action in both ways, but he attributes the
validity of human experience in its action on the out.side world to the
goodness and honesty of God. (Wiener, Cybernetics,, p.40)
■知泉書院版(索引集)
【第2巻】
動物(betem, animal):6-9, 71, 72, 80, 81, 93, 95, 97, 98, 101, 157,
165, 173, 175-177, 183, 219, 223, 224, 226.
【第5巻】
- 動物(animal)78, 112, 291, 293.
- 動物的(animalis)50
- 動物精気(animalis spiritus)32, 293
- 精気(esprit, spiritus)50, 60, 262, 289, 292-294.
- 自然精気(spiritus naturalis)292, 293.
- 生命精気(spititus vitalis)293.
【第7巻】
- 動物(animal)131, 138, 196, 202-204, 253, 269.
- 動物精気(esprits animaux)63, 246, 254.
★デカルト・カント・ベンサムの動物への理解一覧
(出典:https://www.med.akita-u.ac.jp/~doubutu/matsuda/kougi/nichidoukyou/decalt.html)
デカルト

|
カント

|
ベンサム

|
動物には精神(魂)がないから「単なる機械」である。
人間には精神があるから「単なる機械」ではない。
人間だけが精神(理性)をもっている証拠は人間のみが言葉を話すからである。
したがて人間は動物を道具として利用するができる。
|
動物には自意識がない。
動物は単に目的の手段としてのみ存在する。
その目的とは人間である。
したがて人間は動物を道具として利用することができる。
|
道徳的に正しい行為とはこの世の中にできるだけ多くの幸福をもたらすこ
とである。
苦痛は道徳の最大の敵である。
私たちが道徳的であろうとするならば、痛みを感じる存在に対して、痛みを与えてはならない。
動物も感覚があり、苦痛を感じることができるので、道徳的に扱われる権利がある。
したがてその権利を法律で守ってやらなければならない。
|
(出典:https://www.med.akita-u.ac.jp/~doubutu/matsuda/kougi/nichidoukyou/decalt.html)
●動物の心がわかる、知性研究の五大巨頭
リンク
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

池田蛙 授業蛙 電脳蛙 医人蛙 子供蛙
++
Copyleft,
CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099