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先住民による人体実験とその推論に関する資料と紹介

On Human Experiment for inquiring if Christian would be immortal or not by Native Indigenous People of the Hispañola island

Left; Carib (Kalina or Galibi) indian family after a painting by John Gabriel Stedman. 1818./ Right; A Leeward Islands Carib family outside a Hut, by Agostino Brunias, c. 1765 – 1770s

池田光穂

ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・オビエド・イ・ヴァルデス『ラス・インディアスの一般史と自然史』(1535年)(通称は、デ・オビエド、あ るいはオビエド)

エスパニョーラ島(イスパニョーラ島:現在のハイチとドミニカ共和国のある)において、サンクト・ホワン(サンファン)島のインディオたち(先 住民)の間に聞き知れていることにつき、あるいは知られている。彼らのことにつき、この島はきわめて巨大で、人口も稠密であり、その人口は彼の地の土着の 者(ナチュラーレス)で溢れていた、キリスト教徒による支配は不可能だと信じられていた。むしろそれどころか[キリスト教徒は]不死のごとくしなければな らぬ、つまり負傷を負いても、我々が死ぬであろう災厄においても不死でなければならぬ。そうして、日出ずる方角にどのようにたどり着いたか、かくのごとく 闘い、それは神の民かつ太陽の子孫であり、インディオたちは防衛力において、さほど能力を持たなかった。かくして、サンクト・ホワン島にやってきて、キリ スト教徒においては、だいたい概数において二百名を数えなかったにもかかわらず、ほどなく島の奥に入り、島の首長たちを征服した、その[二百名の]男たち は武器を取り、支配するまでは諦めないことを誓い、[インディオに]仕えることを拒み、自らの解放を得ることを望んだ。ところが[それゆえに?キリスト教 徒である]連中を畏れ、彼らは不死であると考えた。

かくして、島の首長たちは、このことについて議論するために、極秘に集まり、反逆に転じる前に、意見を合致させた、それは十分に実験することで あり、まず最初に問い、次に疑念を晴らし、不服従の、あるいは、はぐれたあるいは一人きりになったキリスト教徒において、その経験を確かめることにあっ た。ヤグアカ地方の領主で、ウラヨアンと呼ばれる首長(カシーケ)が、その任務につくことになった。ウラヨアンの領地をたまたま通りかかった、若者のサル セドがキリスト教徒のいるところへ向かうところであった、そして[彼らは]贈り物を、衣類などの荷物を運ぶことを申し出、15人から20名のインディオを 従えたこのカシーケを派遣した、そして[若者を歓待し]飽食で満たし、慈愛あることを示した。若者は、それに対して安心し、彼を受け入れてくれたカシーケ に対して感謝の念をもった、この島の西部にあり、サンクト・ヘルマンの町の広場に入る方角にある、グアラボという川を渡る段になって、カシーケたちは彼に 「旦那、[この川を]濡れずにお渡りになることを望まれますかい?」と言った。彼はハイと返事をし、また連中に対して喜んだ。本当はそうではなく、喩えそ うだとしても、その敵どもに信頼を寄せる明らかな危険性があったのにも関わらずなのであるが、僅かばかり思慮により、そのようなことを成すことになる、男 どもが申し出たのである。丈夫で屈強なインディオたちが選ばれ、肩車をして[彼を]乗せ、川の中流に至った時に、彼を川の水に浸け、連中の下に沈め、彼の 死を完全に確かめるまで、完全に溺死するまで、そこに留め置き、そして彼を担いで川を渡り切った。完全に彼が死んだのを確かめ、川岸に死体を置き、そして こう言った:「サルセドの旦那、さあ起きなされ、わしらを許してくだされ、わしらといっしょにこけてしまいましたが、それは道の途中でさ…」。このような 問いかけを[死体が]匂ってくるまで、キリスト教徒が死なずまた死体ではないことをもはや信じなくなるまで、ほぼ3日間続けた。

そうして[キリスト教徒たちが]死す運命にあることをやがて確認した後に、以上私が申し述べたように、カシーケもまたそれを知ることになった、 [しかしながら]カシーケは、毎日、他のインディオたちを遣わせて、サルセドが起き上がるかどうかを確認させた。それが真実であっても疑い、やがて彼自身 がみずからそれを観ることを求めた、かなりの日数が過ぎてから、あの罪人[=サルセドの遺体]が、ひどく傷みまた腐りきり朽ち果てるのを観たのである。か くのごとく大胆なことをおこない、その反逆のために確認をし、キリスト教徒の殺戮を企てたのであり、私がこの章にて述べた、煽動と実行に移したものなので ある。

原文

Historia general y natural de las Indias (1535)

Gonzalo Fernández de Oviedo y Valdés

Capítulo VIII

Por las cosas que habían oído los indios de la isla de Sanct Joan de la conquista y guerras pasadas en esta isla Española, e sabiendo, como sabían ellos, que esta isla es muy grande y que estaba muy poblada e llena de gente de los naturales della, creían que era imposible haberla sojuzgado los cristianos, sino porque debían ser inmortales, e que por heridas ni otro desastre nos podían morir; y que como habían venido de hacia donde el sol sale, así peleaban; que era gente celestial e hijos del sol, y que los indios no eran poderosos para los poder ofender. E como vieron que en la isla de Sanct Joan ya se habían entrado y hecho señores de la isla, aunque en los cristianos no había sino hasta doscientas personas, pocas más o menos, que fuesen hombres para tomar armas, estaban determinados de no se dejar sojuzgar de tan pocos, e querían procurar su libertad y no servirlos; pero temíanlos e pensaban que eran inmortales.

E juntados los señores de la isla en secreto, para disputar desta materia, acordaron que antes que se moviesen a su rebelión, era bien experimentar primero aquesto, y salir de su dubda, y hacer la experiencia en algún cristiano desmandado o que pudiesen haber aparte e solo. Y tomó cargo de saberlo un cacique llamado Urayoán, señor de la provincia de Yaguaca, el cual para ello tuvo esta manera. Acaescióse en su tierra un mancebo, que se llamaba Salcedo e pasaba a donde los cristianos estaban, y por manera de le hacer cortesía e ayudarle a llevar su ropa, envió este cacique con él quince o veinte indios, después que le hobo dado muy bien de comer e mostradole mucho amor. El cual, yendo seguro e muy obligado al cacique por el buen acogimiento, al pasar de un río que se dice Guarabo, que es a la parte occidental, y entra en la bahía en que agora está el pueblo e villa de Sanct Germán, dijéronle: "Señor, ¿quieres que te pasemos, porque no te mojes?" Y él dijo que sí, e holgó dello: que no debiera, siquiera porque, demás del peligro notorio en que caen los que confían de sus enemigos, se declaran los hombres que tal hacen, por de poca prudencia. Los indios le tomaron sobre sus hombros, para lo cual se escogieron los más recios y de más esfuerzo, y cuando fueron en la mitad del río, metiéronle debajo, del agua y cargaron con él los que le pasaban e los que habían quedado mirándole, porque todos iban, para su muerte, de un acuerdo, e ahogáronle. Y después que estuvo muerto, sacáronle a la ribera y costa del río, e decíanle: "Señor Salcedo, levántate y perdónanos: que caímos contigo, e iremos nuestro camino." E con estas preguntas e otras tales le tuvieron así tres días, hasta que olió mal, y aun hasta entonces ni creían que aquél estaba muerto ni que los cristianos morían.

Y desque se certificaron que eran mortales, por la forma que he dicho, hiciéronlo saber al cacique, el cual cada día enviaba otros indios a ver si se levantaba el Salcedo; e aun dubdando si le decían verdad, él mismo quiso ir a lo ver, hasta tanto que pasados algunos días, le vieron mucho más dañado e podrido a aquel pecador. Y de allí tomaron atrevimiento e confianza para su rebelión, e pusieron en obra de matar los cristianos e alzarse y hacer lo que tengo dicho en los capítulos de suso.

■池田光穂(このページの和訳者)によるコメント

このオビエドの記載にインスパイアされレヴィ=ストロースは『人種と歴史』(英語は Structural Anthropology 2, Penguin, p.329, 1971)のなかで、先住民による「実証主義」的精神あるいは推論様式の共通性について論じている。これは、その後の『野生の思考』につながる、人間の知 性の普遍性や共通性の議論の出発点になるものであると言える。これを解説するレヴィ=ストロース自身の解説は下記のとおりである。

"Dans les Grandes Antilles, quelques années après la découverte de l'Amérique, pendant que les Espagnols envoyaient des commissions d'enquête pour rechercher si les indigènes possédaient ou non une âme, ces derniers s'employaient à immerger des blancs prisonniers afin de vérifier par une surveillance prolongée si leur cadavre était, ou non, sujet à la putréfaction". Levi-Strauss, Race et Histoire, l'Ethnocentrisme, p.21, Gonthier, 1961.

「大アンティル諸島では、アメリカ大陸発見から数年後、スペイン人が原住民に魂があるかどうかを調査するために調査団を派遣していた一方 で、白人の捕虜を浸漬して、死体が腐敗していないかどうかを長期間の監視によって調べていた。」

しかしながら、オビエドのこの文章を読む際に、彼の報告をそのまま「直接観察の記録」あるいは「民族誌的観察記述」として読むわけにいかないこ とに留意する必要がある。

サンクト・ホワンの先住民の首長(カシーケ)たちの推論と、それの実証的精神には、まさに目を見張るものがある。しかし、修道士のクロニスタの 記録には、さまざまなキリスト教文化による「潤色」の疑いがあることも忘れてはなるまい。まず事実関係において、次のような疑問や問題のテーマが生じる。

1)サンクト・ホワンの先住民の首長(カシーケ)たちは、キリスト教徒たちと合間見え交流する機会があったと思われるのに、白人の死には出会っ ていないのか?

2)白人たちは、先住民たちを平定し、かつカソリックに改宗させるために「魂(âme)の不滅性」を説いたのであり、肉体性の不滅を主張したの ではないのか?

つぎに、このような事実関係がクリアされていたら、白人と先住民の間の思考のやりとりの過程において、つぎのような命題が交わされている必要が ある。

3)もしそうだとしたら、スペインの白人たちは、デカルトより以前に(勿論デカルトとは異なった様式での)心身二元論のすでに知っていたこ とになる。

4)そして、サンクト・ホワンの先住民たちは、白人との交流のなかで、この霊魂と身体の二元論(前者は不滅で後者は朽ち果てるもの)を理解でき なかったことになり、またその説明の(彼らの)心身一元論にもとづいて実証する、つまり肉体が朽ち果てても魂が不滅ゆえに、サルセドの魂が溺死した後にも 答えるはずだと考えた。

ところが、この「証明」をめぐる問題は、オビエドの記述に従うと、白人の不死が証明されなかったゆえに、先住民は僭越にも?白人に対して刃向か うことになった。つまり、先住民は白人と、同じような身体のステータスを有することがわかり、(畏敬すべき)白人の言うことを聞かない「理由」になったの である。しかしながら、オビエドの論述には、このように先住民が考えたことについての推論が見当たらない。どちらかというと他のクロニスタ同様むしろ、白 人に刃向かう生意気な先住民の風貌をよろしく伝えたものになっている。それは、ウラヨアンのサルセドに対する語りや、肉体が朽ち果てるまで、しつこく観察 を続けたサンクト・ホワンの先住民はどうも滑稽(つまり奇譚として)に描かれている。

長くカソリック圏とりわけ民衆的カソリシズムの世界で調査した人類学者ならば、これは福音書にある死後の復活を遂げたイエス・キリストのエピ ソードと、教徒はきたるべき最後の審判まで死後の肉体を「休ませておく」ことの慣習の影響を多く受けていることに気づくはずだ。また、スペイン人たちが先 住民に対して布教する際にも、カソリシズムが準備する肉体の牢獄性や朽ち果てやすさ(メメント・モリ)と、魂の不死性を主張したはずだ。このカソリック神 学による説明は、即物的な先住民の実証実験の前にもろに崩れ去る。しかし、この証明の重要さに白人は気付いていないことが、今日におけるレヴィ=ストロー スの説明以降を生きる私たちに大きな示唆を与える。

これは、クロニスタによる記録が改宗前の先住民が、いかに浅薄で愚かであるのかというメッセージを伝えており、レヴィ=ストロースの説明あるい は再解釈は(北米人類学の流儀の影響も受けた)、その知性の外的表象化における多様性の背景にある、人間の知的推論過程の共通性へと(読者を誘い)転換さ せるものになっていることでもある。

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