はじめにかならずよんでください

文化相対主義

Cultural relativism


解説:池田光穂

文化相対主義(cultural relativism)とは他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)にお いて問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。

この定義は、文化相対主義をそのような認識論的立場あるいは信条として、我々は受け入れるべきだ という観点からなされたものである。また、伝統的にアメリカや日本の文化人類学の分 野の中に広く受け入れられているものである。

というのは、文化相対主義の定義は、本質的に矛盾をはらんだものであるこということを正直に述べ ておかねばならない。20世紀の後半になって、文化相対主義への批判やバッシング、はては理論としての無効性まで主張するものが現れた——それらの多くは 文化相対主義の論理的矛盾や限界をあらかじめ先取りしておいて批判をするという不当なものである——が、これは産湯と一緒に赤子を流すといった類の暴挙で あるからだ。

クリフォード・ギアツ(Clifford Geertz, 1926-2006) フランツ・ボアズ(Franz Boas, 1858-1942) ルース・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict, 1887-1948)

したがって文化相対主義を思想信条として採用する際に、正しい側面と誤った側面があることを理 解しなければならない。ギアツ(1926-2006)は次のように言う。

「文化の(あるいは歴史の、と言ってもよいが)相 対主義の正しさは、われわれがけっして他の 民族や他の時代の想像力をあたかもわれわれ自身のものであるかのようにきちんと理解することはできないとするところにある。他方その誤りは、それゆえにわ れわれはけっして真にそれを理解することなどできないとすることにある。われわれは他の民族や他の時代の想像力を十分に、少なくともわれわれ自身のもので はない他のすべてのことを理解するのと同じくらいには理解することができるのだ。ただし、われわれとそれとの間に介在するおせっかいな解説 の背後からみる のではなく、それをとおして見ることによってそれは可能になる」(ギ アツ 1991:78)『ローカルノレッジ』)

上掲の〈ただし、われわれとそれとの間に介在するおせっかいな解説の背後からみるのではなく、そ れをとおして見ることによってそれは可能になるという表現を通して、ギアツは何を言いたいのだろうか?

文化相対主義が、「人間の心性 human nature 」という人間のもっともしぶとい正当化の呪文に対して、いまだに有効性をたもち続けることに関する有益な議論は、ギアツ[2002](Geertz 1984)を参考にして、どうか考えてください。

ボアズは直接、文化相対主義という用語を使ったことがないが、彼の死後、ボアズの弟子(学生)た ちにより使われ、その初出は1948年の『アメリカン・アンソロポロジスト』(ジュリアン・スチュアード「人権の表明へのコメント」)だと言われている が、私は未確認である。

"The subsequent refusals to own the Universal Declaration, typically by the new political and military elites in Asia and Africa, made Herskovits’s statement nothing short of prescient. Much trouble may have been averted had the authors of the Declaration attended to his concerns. Be that as it may, the lesson for anthropology is to recognise how such reflections on the historically contingent nature of so-called universal declarations do not necessarily amount to cultural and moral relativism (Dembour 2001; Goodale 2009b: 40-64). As an anthropologist associated with the teachings of Franz Boas, an advocate of ‘cultural particularism’ in American anthropology, Herskovits is too easily given the epithet ‘relativist’ (Simpson 1973). Would a relativist point out that cultural differences actually became a means of governing colonised people, so much so that ‘the hard core of similarities between cultures [were] consistently overlooked’ (AAA 1947: 540, original emphasis)? This acknowledgement that similarities across obvious differences carried subversive potential hardly warrants a reputation for relativism. Rather, the question posed by these early disciplinary reflections on human rights is what anthropology’s sensibility to human diversity and historical contingency amounts to when it is not dismissed as cultural and moral relativism." - Human Rights, the Cambridge Encyclopedia of Anthropology.

「その後、アジアやア フリカの新しい政治的・軍事的エリートたちが世界宣言を承認することを拒否したため、ハースコビッツの発言は先見の明があったというほかな い。宣言の作成者が彼の懸念に耳を傾けていれば、多くの問題は避けられたかもしれない。それはともかく、人類学にとっての教訓は、いわゆる普遍的宣言の歴史的偶発性についての考察が、必ずしも文化 的・道徳的相対主義にならないことを認識することである(Dembour 2001; Goodale 2009b: 40-64)。アメリカ人類学における「文化的特殊主義(‘cultural particularism’ )」の提唱者であるフランツ・ボアズの教えを受け継ぐ人類 学者として、ハースコヴィッツは「相対主義者」(Simpson 1973)という蔑称を安易に与えられている。相対主義者は、文化的差異が実際に植民地化された人々を統治する手段となり、そのために「文化 間の類似性(の核心部分)は一貫して見過ごされてきた」(AAA 1947: 540、原文強調)と指摘するだろうか。このように、明らかな差異を超えた類似性が破壊的な可能性を秘めていることを認めることは、相対主義に対す る評価を保証するものではない。むしろ、人権に関するこうした初期の学問的考察が提起している問題は、人間の多様性と歴史的偶発性に対する人類学の感性が、文化的・道徳的相対主義として否定されな い場合に、どのような意味を持つのかということである。」

ルース・ベネディクトは、すでに1934年に、人びとが共有する「文化」概念がいかに異なり対比 的になるのか、ということを通して、ある社会の具体的な価値観を、別の社会の価値観でみることができないことを次のように示します。

「北西海岸がその文化の中で制度化するた めに選び出した人間行動の局面は、われわれの文明においては異常とみなされている局面である。しか しながら、それはわれわれが理解できるほどわれわれ自身の文化のもつ態度にたいへん近いものであり、その上にわれわれはそれについて議論できうる明確な言 葉をもっている。われれわれの社会においては、誇大妄想的偏執狂的傾向はとても危険なものである。その傾向はわれわれのとりうる態度の中から、ひとつの選 択を行わしめるものである。ひとつは、その傾向を異常で非難されるべきものという烙印を押すことであり、これはわれわれが自らの文明の中で選択した態度で ある。もうひとつの態度は、その傾向を理想的人間像の根本的特質とすることである。この態度が北西海岸地方の文化のとっている解決法である」(ベネディク ト 2008[1934]:301)※字句は一部変えました。

他方、ベネディクトは、文化の相対性というものが、皆が共有する価値をずらすことによって、当該 の文化の中においても共有可能なものになることを『文化の型(文化の諸パターン)』で主張する。『文化の型』の最後の文章は次のようにしめくくられる。

"The recognition of cultural relativity carries with it its own values, which need not be those of the absolutist philosophies. It challenges customary opinions and causes those who pave been bred to them acute discomfort. It rouses pessimism because it throws old formulas into confusion, not because it contains anything intrinsically difficult. As soon as the new opinion is embraced as customary belief, it will be another trusted bulwark of the good life. We shall arrive then at a more realistic social faith, accepting as grounds of hope and as new bases for tolerance the coexisting and equally valid patterns of life which mankind has created for itself from the raw materials of existence"(Benedict 2005[1934]:278).

文化の相対性を認めることは、それ自体に価値をもつということであり、絶対 主義的な哲学の価値というものを必ずしも必要としない。それは、これ まで人がお こなってきた慣習的な選択肢への挑戦と受け取られ、それによりこれまで育った人たちには性急な不快感をもたらすだろう。人が悲観的になるのは、それが古い やり方を混乱に陥れるからであり、なにがなんでも難しいことがそこに含まれるからではない。新しい選択肢が慣習的な信条として受け入れられるならば、それ はまた、すぐにでも別のよき生活の支え(bulwark)になるだろう。つまり、これまで共存してきたそして同時に価値あるものとしてきた、人類が生存 [のため]の生の素材から創造してきた生きた生活のパターンを、希望の地平として[そして]寛容の新しい基盤として受け入れることにより、私たちはより現 実的な社会的信念をもつようになるのだ

文化相対主義、あるいは、以下に触れ る、今日の多文化主義あるいは、多文化共生思想という思想がなぜ1930年代の初頭に遡れるのかを冷静に考え れば、それは、ナチの人種主義あるいは優生思想にみられる、精神障害者、ロマ、あるいはユダヤ人への嫌悪と排除思想との対抗関 係のなかで生まれてきたのは明らかである。とりわけ、自らもユダヤ人であったフランツ・ボ アズ、そして、その弟子ルース・ベネディクト、また、アメリカの文化相対 主義の思想の継承者とも言えるクリフォード・ギアーツは、北米における文化人類学の最良の文化相対主義 的見解を受け継いでいる。

さて、文化相対主義という発想の基本 的前提は、世界にさまざまな文化(複数の文化=cultures)があり、それらの間 に優劣のつけるということを留保しようという[倫理的]態度である。また、文化間の間の相対性のみならず、同一文化のなかにも多様性を認めて、また文化は 変化し、つねに固定化しているようにみえて、大きなうねりのように変化しているという考え方がある。このような考え方は、基本的に、西洋「文化」や西洋 「文明」の中心にいる、経済搾取や政治的抑圧の心配のない人たちからは大いに指示されてきた——あるいはそのように自分を西洋人に同化する現代日本の比較 的経済的にめぐまれた人たち=近代人からの支持のひとつの形態である。

しかし、自分たちの文化が、力のつよ い(=ヘゲモニックな)他者から、劣っていると見なされたり、自分たちのマイナーな文化を捨てて西洋の文化に同化せよと言われてきた地域や社会の人たちに は、自分たちの文化に対して、より複雑な態度をもつことが(皆さん自身の思考実験においてすら)容易に推測できる。そのような人たちにとって、文化の多元 性や、文化間に優劣をつけてはならない、ということは、これまでの歴史的な(=コロニアルな時代における)自文化や自己の属する集団(社会)に長い間否定 的評価がされてきた人たちには、都合のよい「支配者からの甘い懐柔のための言葉」に過ぎないという批判も、当然のことながら出てくる。これをポストコロニアル批判という。

ポストコロニアル批評家のガヤトリ・ スピバック(ないしはスピヴァック:Gayatri Chakravorty Spivak, 1942- )は、その代表格であろう。彼女は言う「多元論とは、中心的権威が反対意見を受け入れる かのよう に見せかけて実は骨抜きにするために用いる方法論のことである」と。

ガヤトリ・スピバック フランシス・フクヤマ レオ・シュトラウス



「たとえばひとはそうです ね、フラン スで産み出されている理論的な事柄の一部は、アフリカや、インドや、こうしたいわゆる自然な場所からきた人々には、自然に手に入ると言われています。もし ひとが啓蒙主義以後の理論の歴史を吟味してみれば、これまでの主要な問題は自伝の問題であったのです。つまり主体的構造が事実、客観的真実を与えることが できるのです。こうした同じ世紀の間、こうした他の場所に見いだされた「土 着の情報提供者」の書いたものは、疑いもなく民族誌学、比較言語学、比較宗教学 など、いわゆる諸科学の創始のための客観的証拠として扱われました。だから再び、理論的問題は知識のある人にのみ関連してきます。知識のあ る人は自我にま つわるすべての問題を持っています。世間に知られている人は、どういうわけか問題性のある自我をもっていないように思われます」(スピヴァック, 1992:119-120)『ポスト植民地主義の思想』彩流社。

他方、文化相対主義は、新保守主義 (ネオコンサーバティブ、ネオコン)の陣営からも、批判にさらされている。

フランシス・フクヤマは冷戦の終焉後 に、東西のイデオロギー的対立が終わり、民主主義が勝利することを主張し、「歴史の終わり」がくると主張(予言?)していた。フクヤマによると、それまで の、人類文化の理解は、文化の成熟度がばらばらであるゆえに、それらの社会へのより客観的な認識論的態度を担保するために文化相対主義が生まれたにすぎな いという。最終的にはいくつかのタイプの先端社会のなかで、融合することで、文化相対主義は克服できるという(Fukuyama 1992:338/邦訳下、262頁)

これは、文化相対主義ならびに多文化共生社会(=日本語独特の用語)あるいは多文化主義に対する鋭い批判的論拠になっている。

それでもなお、文化相対主義を擁護す ると、2つの論法を我々は手にしていることがわかる。

まず最初の文化の多様性の概念における重要な課題は、それがそれぞれの社会の価値概念の創出に役 立っていることを再認識することである。そのために、それぞれの文化には、それぞれのメインストリームの価値観に正/不正の概念があること がわかる。すなわち、あらゆる文化において、正/不正の概念が存在することは、普遍的な正/不正の概念を否定するものではな く、むしろ、比較研究を通して普遍的な正/不正の概念の(我々の集合的な=自然権概念の)探究の出発点となる(シュトラウス 2013:26)(→「自然権」)。

そ して、その次には、ルース・ベネディクトやクリフォード・ギアーツは、文化相対主義にもとづく「異文化」の探究は、反響(エコー)のように、自文化の概念 の自明性を切り崩し、我々を反省へと誘うことを示唆する。つまり、ヘーゲルの弁証法に似て、文化相対主義にもとづく「異文化」の探究は、自文化への反省に 繋がることができれば、自文化の未来への「創造・修正・改造」に大いに役立つはずである。

【文献】

  • ギアツ、クリフォード 2002 「反=反相対主義」『解釈人類学と反=反相対主義』小泉 潤二編訳、Pp.59-94、東京:みすず書房.
  • ファイヤアーベント、パウル 1992[1987]「相対主義に関するノート」『理性よ、 さらば』(第1章)、植木哲也訳、法政大学出版会.
  • スピヴァック,ガヤトリ  1992 『ポス ト植民地主義の思想』彩流社.
  • Executive Board, American Anthropological Association 1947 "Statement on Human Rights" in American Anthropologist 49(4) 539-543
  • Steward, Julian 1948 "Comments on the Statement of Human Rights" in American Anthropologist 50(2) 351-352
  • Maslow, Abraham H. and John J. Honigmann. Synergy: Some Notes of Ruth Benedict. American Anthropologist, New Series, Vol. 72, No. 2 (Apr., 1970), pp. 320-333.
  • ルース・ベネディクト『文化の型』米山俊直訳、講談社学術文庫、講談社、2008年 (Benedict, Ruth., 1934. Patterns of culture. Boston: Houghton Mifflin.,)
  • 自然権と歴史 / レオ・シュトラウス著 ; 塚崎智, 石崎嘉彦訳, 昭和堂 , 1988/  ちくま文庫, 2013
  • Benedict, Ruth. Anthropology and the Abnormal," Journal of General Psychology, 10, 1934.
  • The end of history and the last man / Francis Fukuyama, Harmondsworth : Penguin books , 1992.
  • 以上の説明がよくわからない人は、こちらへ進んでください。

    以下は応用問題あるいは派生するテーマやトピックスです。

  • 文化相対主義をめぐる質疑応答
  • 「寛容であること」と相対主義の関係
  • アリストテレスと文化相対主義
  • 自文化に属することの〈蒙昧〉を取り除くためには?
  • 文化相対主義から政 治的相対主義への危ない綱渡りについて
  • 自民族中心主義


  • ミシェル・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592) ノーム・チョムスキーAvram Noam Chomsky, 1928- ) マシュー・アーノルド(Matthew Arnold, 1822-1888)



    ギアツ(2002:88-90)の論文には、1982年当時に刊行されたホリスとルークスの 編纂した論集に出てくる、3名の反相対主義者の議論が紹介されている。その3名とは、アーネスト・ゲルナー、ロビン・ホートン、そしてダン・スペルベルで ある。

    Distinguished Lecture: Anti Anti-Relativism (Abstract)
    American Anthropologist June, 1984 Vol. 86 (2): 263-277

    Geertz, Clifford

    The overall concern Geertz deals with is to descend upon anti-relativism. Cultural relativism aids largely as a ghost "to scare us away from certain ways of thinking and toward others"(263). Geertz believes that the "ways of thinking" we are being scared away from are more convincing than those that are pushed towards us.

    Anthropological data, not theory, has made the field of anthropology appear to be a huge argument against absolutism. The idea that some have contaminated anthropology with relativism and others have tried to eliminate it is one myth that confuses Geertzís lecture on anti anti-relativism. The broader implications of anthropological research are a debate about how to live with the implications, not about them. Once this fact is understood, and relativism and anti-relativism are seen as accustomed responses to these implications, there is an improvement in focus for the discussion.

    Relativists desire for us to worry about provincialism, which is that our perceptions, intellects, and sympathies will be limited by the "overlearned and overvalued acceptances of our own society" (265). Anti-relativists want us to worry about a type of "spiritual entropy", a degradation of the mind. In this sense, everything is as significant as it is insignificant. Anti-relativism has largely contrived the anxiety it dwells in.

    Geertz focuses on two ideas "of central importance" (267). First is the attempt to reinstate the concept, free of context, of "Human Nature" as a defense against relativism. Second is the attempt to reinstate the concept of "The Human Mind". The question then becomes, what should we do with the inarguable facts uncovered by research as we go about analyzing and interpreting other facets of different cultures.

    These two concepts toward culture free restoration take many unequal forms. One form is on the naturalist side, the other on the rationalist. Different perspectives are also being generated out of many other ideas such as experimental psychology and artificial intelligence. Geertz then goes on to explain the concepts of "Human Nature" and "The Human Mind" with excerpts and writings of anthropologists, such as Midgeley, Spiro and Sperber.

    The opposition to anti-relativism is not that it discards the relativistís approach to knowledge or morality, but that it envisions the defeat of these approaches by arranging morality beyond culture, and knowledge beyond both morality and culture.

    This article was clear in the sense that Geertzís writing is, for the most part, easy to follow. He does have long sentences, which force the reader to look closely at what is stated. Geertzís wit and cleverness make for enjoyable reading. An example as he ends his lecture is, "If we wanted home truths, we should have stayed at home" (276).
    特別講演 反反相対主義(要旨)
    アメリカ人類学者 1984年6月号 Vol.86 (2): 263-277

    ギアーツ、クリフォード

    ギアーツが扱う全体的な関心事は、反相対主義に下ることである。文化相対主義は、「特定の思考方法から我々を遠ざけ、他の思考方法に向かわせようとする」 亡霊として大きく役立っている(263)。ギアーツは、われわれが怖気づく「考え方」は、われわれに向かってくる「考え方」よりも説得力があると信じてい る。

    理論ではなく人類学のデータが、人類学の分野を絶対主義に対する巨大な反論のように見せている。ある者は人類学を相対主義で汚染し、ある者はそれを排除し ようとしたという考えは、ゲルツの反反相対主義に関する講義を混乱させる一つの神話である。人類学的研究の広範な含意は、その含意についてではなく、その 含意とともにいかに生きるかについての議論である。この事実が理解され、相対主義や反相対主義がこれらの意味合いに対する慣れ親しんだ反応と見なされれ ば、議論の焦点は改善される。

    相対主義者は、われわれの認識、知性、共感が「われわれ自身の社会で過剰に学習され、過剰に評価された受容」(265)によって制限されるという田舎主義 を心配するようわれわれに望む。反相対主義者は、一種の「精神的エントロピー」、つまり心の劣化を心配するよう求めている。この意味で、すべてのものは取 るに足らないものと同じくらい重要なのである。反相対主義は、それが宿す不安の大部分を作り出している。

    ギアーツは「中心的な重要性を持つ」(267)2つの考え方に焦点を当てている。第一は、相対主義に対する防御として、文脈にとらわれない「人間の本質」 という概念を復権させようとする試みである。第二は、「人間の心」という概念を復活させようとする試みである。そこで問題となるのは、研究によって明らか になった議論の余地のない事実を、異文化の他の側面を分析・解釈する際にどう扱うべきかということである。

    文化の自由な回復に向けたこの2つの概念は、多くの不平等な形をとっている。ひとつは自然主義的な側面であり、もうひとつは合理主義的な側面である。実験 心理学や人工知能など、他の多くの考え方からも異なる視点が生まれている。そしてギアーツは、「人間の本質」と「人間の心」という概念について、ミッジ リー、スピロ、スペルバーといった人類学者の文章を抜粋しながら説明していく。

    反相対主義への反論は、知識や道徳に対する相対主義者のアプローチを否定するのではなく、道徳を文化の彼方に、知識を道徳と文化の両方の彼方に配置することによって、これらのアプローチの敗北を想定しているのである。

    この論文は、ギアーツの文章が大部分においてわかりやすいという意味で、明快であった。彼は長い文章を書くが、それは読者に述べられていることをよく見る ことを強いる。ギアーツのウィットと巧みさは、読書を楽しいものにしてくれる。彼の講義の最後を締めくくる例として、「家庭の真実を知りたければ、家にい るべきだった」(276)という言葉がある。
    In the article "Distinguished Lecture: Anti Anti-Relativism" Clifford Geertz attempts to destroy the fear of cultural relativism. To be more specific, Geertz does not want to defend relativism, but to attack anti-relativism. He points out that whatever cultural relativism may be, or originally have been, these days it serves largely as a specter to scare us away from certain ways of thinking towards others.

    Geertz points out that the early practices of observation practiced by anthropologists are poorly based. He argues, however, that is not anthropological theory that has made this field of study controversial it is anthropological data. According to Geertz, the notion that it was Boas, Benedict and Melville who infected the field of anthropology with the relativistís virus is but another myth that infused this whole discussion. Instead, it is those that have bent anthropology so often that have introduced much traffic with its materials.

    Geertz goes on to say that as anthropologists, we came to recognize the unscientific snobbery in calling indigenous people "natives". Even more respectable journals could show them naked without offense because "their pendulous breasts were inhuman to us as the udders of a cow." We eventually began to embrace relativism, and we went on to endorse a nice equality among cultures. Thus, the large sense of superiority that was once one of the white manís burdens was replaced by an equally heavy sense of guilt.

    abstracts by: KELLY MARCIKIC (Michigan State University); PATRICIA MAIOLO York University
    特別講演」の中で、クリフォード・ギアーツは文化相対主義の恐怖を打ち 砕こうと試みている: クリフォード・ギアーツは文化相対主義の恐怖を打ち砕こうとしている。より具体的に言えば、ギアーツは相対主義を擁護したいのではなく、反相対主義を攻撃 したいのである。彼は、文化的相対主義がどのようなものであろうと、あるいはもともとそうであったにせよ、最近では、特定の思考方法から他者を遠ざけるた めの妖怪として大いに役立っていると指摘する。

    ギアーツは、人類学者が実践してきた初期の観察実践は根拠に乏しいと指摘する。しかし彼は、この研究分野を論争の的にしているのは人類学の理論ではなく、 人類学のデータであると主張する。ギアーツによれば、人類学の分野に相対主義者のウイルスを感染させたのはボアズ、ベネディクト、メルヴィルであるという 考え方は、この議論全体にはびこるもう一つの神話に過ぎないという。むしろ、人類学を曲げてきた者たちこそが、その材料で多くの交通をもたらしたのであ る。

    ギアーツはさらに、人類学者として、先住民を「原住民」と呼ぶことの非科学的な俗物性を認識するようになったと言う。さらに立派な雑誌は、彼らの裸を悪気 なく見せることができた。「彼らのたわわな乳房は、牛の乳房のように私たちにとって非人間的だった 」からだ。私たちはやがて相対主義を受け入れるようになり、文化間の素晴らしい平等を是認するようになった。こうして、かつて白人の重荷の一つであった大 きな優越感は、同じように重い罪悪感に取って代わられた。

    要旨 KELLY MARCIKIC(ミシガン州立大学); PATRICIA MAIOLO ヨーク大学
    http://hypergeertz.jku.at/GeertzTexts/Anti_Relativism.htm

    Distinguished Lecture: Anti Anti-Relativism


    しかしながら、モンテーニュはそれ(=ゲルナー・ホートン・スペルベルの時代)よりもはるか以前に、人間のもっとも 普遍的な特質はその多 様性にあるということを主張しているために、啓蒙的理性がおしなべて文化現象に対して反相対的な普遍主義を専横に主張するという一般化はできない。

    ミシェル・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592)

    チョムスキーのように、諸言語の多様性という事実を認めることと、普遍的文法を信じることは 相矛盾しない。

    ノーム・チョムス キーAvram Noam Chomsky, 1928- )

    耕作することから自己陶冶としての文化への展開、そして高級文化と低級文化への分裂へ

    文化(カルチャー)は、耕作すること(カルチャー)と同義であることから、努力して身に 付けるものという、高級な知識や身のこなしだという見方が、19世紀イギリスでは重要な位置を占めた。『教養と無秩序』(Culture and Anarchy, 1869)の作者であり、詩人で文化批評家(Cultural criticのマシュー・アーノルドMatthew Arnold, 1822-1888) 見解がそれである。岩波文庫の多田英次の翻訳からして、文化=カルチャーを「教養」と表現している。ここから、文化には、高邁な文化つまり、ハイカル チャーと、身分の低い人たち、大衆が身に付けているローカルチャーという分類ができる。ローカルチャーは文化(教養)には属さず、無秩序でアナーキーなも のなのである。この偏見は、身分の高いひとたちの教養=文化観が色濃くあらわれている。それに対して20世紀の後半から、レイモンド・ウィリアムズ(Raymond Henry Williams, 1921-1988)や、スチュアート・ホール(Stuart Hall, 1932-2014) のような、大衆文化論や、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)という学派をつくりあげて、例えば英国の国民文化の中にもさまざまな階級や地域、あるい は時代により複数の文化がせめぎ合い、それぞれの社会のセグメント(部分的集団)のなかで、生まれ・再生産され・そして破棄されたり変形されたりすること で、多様性が継承されていくありさまに注意を促すようになった。カルチュラル・スタディーズ 派の人たちは、同一文化の中にも多様性と変化というダイナミズムがあり、ある特定の文化の中にも異文化と同文化(ないしは自文化としてふさわしいもの)と いうものがせめぎ合うことを明らかにした。これは、文化相対主義が前提とするような、社会は比較的均質で、自文化を再生産していくという単純な文化論では 理解が十分に不可能になるのではないかという警鐘と、自文化ですら、歴史的相対化や微細な差異への注目を通して、自文化そのものを自文化の中にいながら相 対化できるという道を切り開いたとも言えるのである。

    文化相対主義を奉じること(=ドグマ化すること)と、多文化主義を 容認することには、少し距離がある

    多文化主義は、リベラルデモクラシーの論客には現在では一種の「公定イデオロギー」化している。多文化主義の定義は次のとおり:多文化主義は、人間における文化のあり 方を複数でと らえることを前提に、複数の文化が共存する状態を「善し」とする見解や実践の原理のことをさす。マルチカルチャリズム (multiculturalism)とも呼ぶ。ウィル・キムリッカは、政 治学での多文化主義の論客のひとり。

    多文化主義に対する手厳しい論客には、ガヤトリ・スピバック、ナンシー・フレイザー、スラヴォ イ・ジジェクなどがいる が、その反論のためのレトリックは多様である(→「多文化主義」)。


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