「社会人類学:エヴァンズ=プリチャードのマレット講演」(1950)
ノートと解説:池田光穂
【解説】
エヴァンズ=プリチャードが今から半世紀前に講演したこの内容は、1922年にはじまる社会 人類学の方向性をそれまでの自然科学(物理学や化学)をモデルにするものから、人文社会科学的伝統に“回帰?”しようとしたマニュフェストである。また、 彼の民族誌に端的に現れているように「文化の翻訳」の難しさ——それから7年後の1956年に書かれることになる『ヌアーの宗教』では彼自身が《ヌアーの 神概念》についての翻訳の難しさを、ほとんど矛盾する言明を吐露しながら実例として示すことになるのだ——を戒めをもって表明したものだ。「文化の翻訳」 という研究者の傾向性(ハビトゥス?)はのちに、タラル・アサド(『ライティング・カルチャー』所収論文)によって厳しい吟味にさらされることになる。https://monoskop.org/images/c/cb/Evans_Pritchard_E_E_Social_Anthropology_1951.pdf
0.E.E.Evans=Prichard; Marett Lecture(1950.6.3)
(Sir Eward Evan Evans-Prichard;1902-1973)
・人類学はひとつの職業となった;アマチュアの道楽からのTake off
・社会人類学の位置づけめぐる同時の疑問;自然科学か人文科学か、あるいは歴史との関係は?
・記念講演の展開
・啓蒙主義の落とし子としての人類学
モンテスキュー(1698-1755)
アランベール(1717-1783)
コンドルセ(1743-1794)
テュルゴー(1727-1781)
百科全書編集者たち
サン=シモン(1760-1825)
コント(1798-1857)
デュルケーム(1858-1917)とその弟子たち
レヴィ=ブリュール(1857-1939)
・ベーコンやニュートンの系譜:社会=自然体系=有機体
デービッド・ヒューム(1711-1776)
アダム・スミス(1723-1790)
トーマス・リード(1710-1796)
フランシス・ハチソン(フランシス・ハッチソン)1694-1746
デュガルド・スチュアート
アダム・ファーガソンAdam Ferguson1723—1816
・人間性の研究から法則性を見いだす
進歩の法則をみつけだす:発展段階の考え方;比較方法の誕生
・1861年〜1871年
メーン『古代法』Ancient Law,1861
ババオーフェン『母権論』Das Mutterrecht,1861
フュステル・ドゥ・クーランジュ『古代都市』La Cite' anitque, 1864
マクレナン(1827-1881)『原始婚姻』Primitive Marriage,1865★(→「トーテミズム」)
タイラー(1832-1917)『人類古代史研究』Resarches into the Early History of Mankind,1865★
モーガン(1818-1881)『血縁の体系』The Systems of Consanguinity,1871★ ㈼.19世紀の人類学
・彼らの意図は、社会制度研究から思弁的な要素を取り除くこと。そのために用いた視座や方法 は、
(1)実証的、(2)比較方法、(3)歴史的観点。
・当時共有された理解;
いたるところで起源をもとめる(マルク・ブロック「起源の強迫観念」la hantise des origines);
乱婚→単婚、共産性→財産、身分制→契約制度、採取狩猟から農業を経て産業、神学→科 学、アニミズム→一神教。
・広い博識と優れた総合力をもっていた。ただし、特定から一般へ、進歩の段階を仮説的に描い たにすぎない。制度は「起源」によってはとうてい理解されない。
・資料の枚挙とその体系化:
James Frazer(1854-1941), "Golden Bough"(1890-1915)
・ただし、E=Pは、彼らの学問的混乱の原因を<進歩の過程を再構成すること>にあったので はないという。そうではなく、啓蒙主義から受け継いだ<彼らの社会観>(=社会が法則性に還元できる自然体系/有機体)と考えたことである、という。なぜ なら、彼らの一貫性は、歴史的必然性を提示することに情熱が注がれていたからだ。したがって、そのような「発展段階論」が必然的であると仮定することによ り、その発展段階の仮説は規範的な性格を帯びたのである。
・最後の進化主義人類学としてウェスターマークやホブハウスがいる。
・進化主義に対する反発の3つの態度。
(1)心理学的説明(=時間性を無視できる)、
(2)伝播主義(=発展ではなく、社会の相互作用とくに一方から他方への偏向を重視する が、歴史主義的態度を有する)、
(3)機能主義(=歴史的アプローチに対する根本的異議申し立て)。
・折衷的な伝播主義の採用;
エリオット・スミス、ペリー、リヴァース(W.H.R.Rivers)。
・機能主義:
歴史的アプローチに対する嫌悪したが、人類学者には受けがよかった。なぜなら、<歴史の ない社会>を研究していたからである。
・経験主義的なイギリスの機能主義人類学に対して、哲学的な合理主義を持ち込んだのはデュル ケーム派である。
・Alfred Reginald Radcliffe-Brown; 1881-1955
・社会を自然体系であり、その部分は相互に関係しており、かつ全体を維持するのに役だってい る。それゆえ、社会人類学の目的は、社会の性質に関して予測を可能にするような法則や理論を導くことにある。(エヴァンス=プリチャードp.15)
・機能主義は歴史に関する情報を必要としない。
・社会を、自然体系とみなしたり有機体とみたりし、その法則性を導く志向性は、現代人類学の 総合的で専門的な現地調査の原動力になった。体系的・全体的(holistic)なアプローチ。
【機能主義批判】
「理論は正しくなくても、事実の発見を助けるという価値をもつことがある」(p.17)
・人間の社会が体系をなすことは、あくまでも仮説にすぎない。Bronislaw Kasper Malinowski(1884-1942)の「機能理論は、一種の文学的な技巧と殆んど異ならないもの」。「これは単純な決定論に、粗雑な目的論とプラ グマティズムを加えたようなもの」(ibid.)。「機能主義的な決定論は、その極端な形態においては、絶対的な相対主義に」なる(p.18)。
・理論的叙述は思弁的で、一般的にほとんど価値がない。「常識か、事後のレベルでの推測と殆 んど異ならないことが多い」(ibid.)。
・その誤りは自然科学をモデルにした「空理空論の哲学」であり、むしろ歴史学を模範にすべき だというのである。
・この章の目的は、機能主義が徹底的に否定する「歴史と人類学の関係」を再考し、その中から 歴史研究の意義を救いだそうとする主張である。
・いくつかの問い
㈰「特定の社会体系が、どのようにして現在に至ったかということについて知ることは、 その現在の構成を理解するのに役立つかどうか」(p.19)
㈪「例えば、政治制度や宗教制度などの社会学的な比較研究において、われわれは、歴史 家が扱うような社会を含むべきかどうか」(p.21)【註】ethno-historyのその後の隆盛をみれば、この方向は急速に展開した。
㈫社会人類学は、歴史への無関心から、(逆に、かたちを変えた)一種の歴史学なのでは ないか?(p.22)
・その答㈰について考えるには、「歴史」という意味を二つに分ける必要がある。
(1)歴史=「人びとの意識している伝統の一部であり、その生活の中で働いているも の」=「実際の出来事そのものと峻別された意味での、出来事に関する集団表象である」。この場合、社会人類学者にとってそれは<神話>である。
(2)歴史=過去の記録や文書:これらが存在しない未開社会の歴史を間接的に(推論に よって)再構成することを拒否。しかし、E・Pによると、19世紀人類学への批判を根拠にして、これを完全に否定することはないという。流し去る水と共 に、事実に基づいた歴史という赤ん坊まで捨てたという。
後者の例としてマリノフスキーをあげ批判する。
(i)歴史的な背景や知識を抜きにしてある時点における制度の機能作用を理解できるとい う考えは誤っている。
(ii)歴史を無視することが通時的研究を不能にするだけでなく、歴史という実験状況に よる機能論の検証そのものを不可能にする。
・このような反省の背景にある当時(50年代初頭)の状況;アイルランド、インド、ベドウィ ン、アメリカのマイノリティなど、重要な歴史的背景をになった社会を人類学者は研究している。さらに人類学者は「複雑な、文明化された社会」により関心を もつようになっている。
・その㈪(“歴史化された社会”と取り扱うか否か?)への答はなく、E・Pは機能主義がそれ を全く取り扱わない現状を指摘する。
・その㈫(社会人類学は一種の歴史学か?)への答えについて、人類学者が行うことを想起(イ メージ)しながら、人類学者の認識論的作業を解説する。すなわち、
(1)文化の翻訳
(2)構造的パターンの発見
(3)パターンの相互比較
(1)「文化の翻訳」:文学的・印象主義的技術
「人類学者は、数カ月ないし数年間、未開民族と生活を共にします。そしてできるだけ彼ら と親しく生活し、彼らの言語を学び、彼らの観念によって考え、彼らの価値観に従って感ずることを学びとります。そこで、人類学者は、自分の文化の、概念上 のカテゴリーや価値観によって、また人類学の全般的な知識によって、未開人との生活体験を、批判的に捉え、これに解釈を加えてゆくのです。言いかえます と、人類学者は一つの文化を別の文化に翻訳するわけです。」(p.22)。
これは歴史家がやっていることと同じである(p.25)。「社会人類学者が社会生活を 直接に研究するのに対して、歴史家は文書とその他残されている資料によって間接的に研究するという事実」があるが、「この違いは、研究技術にかかわるもの であって、方法論的なものでは」ない(p.25)。歴史学も社会人類学も(クローバーに倣って)「出来事を統合的に叙述する」ことにある。すなわち<通時 的>vs.<共時的>という違いは「特殊条件における力点の違い」であり、「両者の実際の関心の違いを意味するものではない」。民族誌的モノグラフ (ethnographic monograph)に近い歴史書としてブルクハルト(1818ー1897)『ルネサンスの文化』があり、人類学者が書く歴史書として(他に例がないとい う理由で)E・P『サヌシのキレナイカ』Sanusi of Cyrenaicaをあげる(p.26)。
人類学者がおこなう次のステップは構造的秩序の発見である。
(2)「構造的秩序ないしパターン」をみつけること。
ひとたびこれが見つけられると、「構造的な秩序を、全体として、一連の相互に関係した抽 象概念として見ることができる」ようになる、と主張する(p.23)。「社会人類学者は、現地の社会において、どんな現地人も説明できないもの、どんなに その土地に精通していても、普通の人は感知することのできないもの、すなわち社会の基本構造を発見するのです。この構造は、見ることができないのです。」 (p.23)。別の箇所では「分析を通じて、ある社会ないし文化の背後に横たわっている形態を明らかに」(p.27)するという。
これは人類学者による<不可視>の基本構造の発見のことを意味し、人類学によって<特 権化された>認識論的優越性を主張しているように思える。だが、これはあくまでも「基本的には、人類学者自身が想像力によって構成した概念」(p.24) だという。 彼によるとそのような認識は次のようにしてたち現れる。「パターンが表れてくるように、これらの抽象概念を相互に論理的に関連づけてゆくことによって、 人類学者は、社会をその本質において、一つの全体として、捉えることができるのです」(p.24)。「法則を求めるのではなく、意味あるパターンを探る」 (p.31):
【興味】ではE・Pは、ベネディクトをどのように読み、どのように理解していたのだろ うか?。
このような大胆なことをする歴史家もいる。ただし、ヴィーコ、ヘーゲル、マルクス、 マックス・ヴェーバーらのことではない。フュステル・ドゥ・クーランジュやヴィノグラドフなどのオーソドックスな歴史家をさす。彼らの共通点は古代研究に あり、それは取り扱う資料のサイズが適切であることを、人類学者が対象にするフィールドのサイズにたとえている(p.28)。
(2)’人類学者の全体としての社会の認識モデルとしての「言語学」
「言語学者は、分析を通じて、こみいった言語から、いくつか特定の抽象概念をとりだし、 これらの概念が、論理的なパターンにおいていかに関連しあっているかを明らかにすることができます」(p.24)
(3)パターンの比較
「一つの社会で、これらのパターンをとりだし、つぎに、これらの他の社会におけるパター ンと比較するのです。個々の社会を新しく研究することによって、人類学者は、基本的な社会構造の差異の範囲に関する知識をふやし、社会形態の類型を有効に おこなうことができるし、その基礎的な特質と差異の理由をよりよく捉えることができるのです。」(pp.24-25)。そしてそれらの比較と分類は絶えず おこなわれる。
この章の結論として、歴史家と社会人類学者の互酬的な共同が可能だという。
「歴史家は、社会人類学に、検証と解釈による批判的な手続きによって、ふるいにかけら れ、証明された、きわめて貴重な資料を提供することができます。社会人類学者は、将来の歴史家に対して、注意深い、綿密な観察に基づいた、もっとも正確な 記録を提供することができます。また、人類学者は、潜在している構造的な形態を見い出すことによって、普遍的なものについてある種の示唆を歴史に与えるこ とができます。」(p.29)
「社会人類学は、歴史学のひとつであり、基本的には、哲学ないし文芸にふくまれる」 (p.30)
・社会を自然体系ではなく<道徳の体系>として取り扱い、過程よりも構成されたものに関心 をもつ。すなわち、科学的な法則ではなく、パターンを探求し、<説明>よりも<解釈>をおこなうことを意味する。
・人類学の硬い野心的な理論構成は、自然科学をモデルにしたことによる弊害である。「社会 人類学を、人文科学の一つである歴史学のひとつとみなすことによって、‥‥哲学的教義(ドグマ?)から解放され、‥‥かえって、本当に経験に基づい た、真の意味で科学たりうる機会が与えられる」(pp.30-31)
・「社会人類学は、純粋に物語的歴史、政治史とは違った意味での社会史、制度史の歩んでいる のと同様な道を進まねばならない」(p.31)
・さらに研究による知識の再生産についてE・Pは次のような条件を出す。「個々の研究の成果 が、以前に行われた研究の結論を検証するだけでなく、現地調査の問題に細分することのできるような新しい仮説をつくっていくように構成されるという条件で す。」(p.32)
・ではなぜ社会人類学が自然科学をモデルにすることを放棄しないのか?について、E・Pはそ の原因を二つあげる。(1)法則を定立し、これにより予測や計画を目的としないような学問は、一生これに費やすには値しないという感情、(2)自然法則や 進歩といった概念とおなじように哲学から受け継いだもの(=知的エートス??)(p.32)。
・自然科学をモデルにすることが「学問の応用」を強調する態度を生み出す、というE・Pの指 摘は示唆に富む!。(資料を実際に仕事に応用すること、イギリスでは植民地の諸問題、アメリカでは政治上の、産業上の問題への応用が強調される)「慎重さ の強弱は別として、両方とも、人類学を、実用性に訴えることによって正当化した」(p.32)
・実証主義は、しばしば誤った倫理や貧血科学的ヒューマニズム、あるいは代理宗教に陥る。 (貧血科学的ヒューマニズムは、サン=シモンやその弟子のコントたちのように、政治的手段によらず、科学による人間知性の改革による発展を考えたことを意 味する)。
・自然科学をモデルにした人類学の伝統は、人間の社会を変数に還元できような自然体系であ る、という暗黙の前提に立っている。そのなかで、人類学は経験に照らすという知的伝統をもつ歴史学に背を向けてしまった。
【註】この批判は今でも傾聴に値する。アナール(f. Annales)派による歴史学革の革新に対して、人類学のそれはなかったのはなぜか?
・E・Pのいうパターンとして社会を把握する知的伝統は、啓蒙運動よりもより古いものである (pp.34-5)。
[※彼は具体的にはギリシャの哲学者などをイメージしているのだろうか?]。その根拠を<他 者の存在>に求めていると理解することは、彼の見解をねじ曲げているだろうか?。E・Pはいう「社会生活にパターンがあるのは、理性的な存在である人間 は、自分の周囲の人たちとの関係が秩序を保ち、お互いに理解されるような世界に生きていかなければならないからです。」(pp.34-35)
・「社会人類学は、当分は、主として未開社会に、相変わらず、力を注いでいくでしょうが、今 世紀の後半においては、前よりも、いっそう複雑な文化に、とくに極東、近東地方の諸文明に注意をむけるだろう」(p.35)そして、「東洋研究」(オリエ ンタリズム)に並んだ位置を占めるだろうという。
【文献】