対話主義
dialogism (Mikhail Bakhtin)
解説:池田光穂
「バフチーンは他者性をすべての生の基盤と捉え、対話を、すでに存在しているものといまだ存在していないものとの絶えざる交換をあらわす、個々 の存在の基本構造と捉えた。そうした変形を調整し成形するのは人間の意識である。意識は、「私」活動と「私の中の私でないもの」すべてとの絶えざる交換を 調整する。したがって、自己/他者という区別は根源的対立であり、他のすべての対立はそこから派生してくる。行為の現実世界のもっとも高度な構造原理は、 私と他者との具体的な構造体系的・認識論的対立なのである」(クラークとホルクイスト 1990:91)
ミハイル・バフチン(1895-1975)の主体概念は、このように完 結した自己=個人の範疇に閉じるものではなく、自分と相容れないものとの並存において現れてくるものである。そのような並存をコミュニケーション(交通)するものが、「対話」である。
複数の対話が並存している状態を、ポリフォニーという。ポリフォニーの開かれた秩序原理は対話論理から導かれる。これは、閉じた自己完結性を追 求するモノローグ的論理(monologic)とは対比される論理である。(→「ドストエフスキーの創作の問題」)
対話のアイディアは、ロシア・フォルマリスト[フォルマリズムとは1910中期〜1920末期の学術運動]のレフ・ペトロビッチ・ヤクビンス キー(Лев Петрович Якубинский, Lev Petrovich Yakubinskiy, 1892-1945)に由来するが、バフチンはヤクビンスキーの対話概念への挑戦から、バフチン独特の人格観ならびに対話観をつくりあげた。しかしなが ら、バフチンはフォルマリストとの交流を通して自分の思想を鍛えていったために、フォルマリズム運動がもつ、言語観ならび芸術観の根幹の部分は共通する点 も多い。
フォルマリズムでは、文学作品は自立的な言語世界をもつものであるために、言語表現とその構造から文学作品を批判的に検討することに力点がおか れた。また、文学の研究対象は作品そのものではなく、その作品がもつ文学性である(ロマン・ヤコブソン)と言われて、文学の外側から(例えば哲学や背景に ある社会史や心理学などから)解釈されることを拒否し、文学がもつ世界の内在的な理解にあったと言ってよい。フォルマリズムは1920年代末にマルクス主 義的ではないという点で弾圧が加えられて、1930年代には国外のプラハ言語学派に 批判的に継承されていった。
他者と対話できるためには、他者との意見や見解の不一致がなければならない。また、それが各人の視座や「声」の多様性の原因となり、ポリフォ ニーという状況を保証するのである。
そのため、我々が、他者と共感したり、感情移入があることは重要でないばかりか、有害である(「美的活動における作者と主人公」)。他者を理解 することは、他者と同一化することではないからである。他者はつねに外部に存在する——あるいは内部にあっても異質な存在価値を主張しているはずである。
そして、他者は「発語」し、そして自分と「異なるイントネーション」をもつ。
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「作品——芸術作品、文学作品——は完結しておらず、未完結でもない。作品は存在している。作品が語るのは、もっぱらそのこと、つまり、それが
存在しているということであり、——それ以上の何ごともない。このことを別にしては、作品とは何ものでもない。……作品の孤独を形づくる第1の骨組みは、
(作品にそれ以上表現させようとする者=作者の暗示[引用者註])かかる要求の不在であり、この不在が、作品が完結しているとか未完結だということを許さ
ない。作品は、何の根拠もなく存在し、また、何の用途もなく存在する」モーリス・ブランショ『文学空間』粟津・出口訳、p.11、現代思潮社、1962年
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