かならずよんで ね!

モーリス・ブランショ

Maurice Blanchot, 1907-2003

池田光穂

モーリス・ブランショに関する情報をウィキペディア等から吸い上げ、(私じしんのために)勉強するのがこのページの目的である。

Maurice Blanchot (/blænˈʃoʊ/ blan-SHOH, French: [blɑ̃ʃo]; 22 September 1907 – 20 February 2003) was a French writer, philosopher and literary theorist.[4] His work, exploring a philosophy of death alongside poetic theories of meaning and sense, bore significant influence on post-structuralist philosophers such as Gilles Deleuze, Michel Foucault, Jacques Derrida and Jean-Luc Nancy.
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モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot、1907年9月22日 - 2003年2月20日)は、フランスの哲学者、作家、批評家。通称“顔の無い作家”。ストラスブール大学卒業。戦前のポール・ヴァレリーに比せられる戦後 最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。
モー リス・ブランショ(Maurice Blanchot, /blænˈ blan-SHOH, French: [blɒo]; 1907年9月22日 - 2003年2月20日)はフランスの作家、哲学者、文学理論家。 [詩的な意味論とともに死の哲学を探求し、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャン=リュック・ナンシーらポスト構造主義の哲学 者に多大な影響を与えた。
フランス・ソーヌ=エ=ロワール県のドゥヴルーズに生まれる。ストラス ブール大学でドイツ語や哲学を学んだ。在学中、一つ歳上で、同じくストラスブール大学に在籍していた哲学者エマニュエル・レヴィナスと親交を結んでいる。 また大学時代にはアクション・フランセーズなどの影響を強く受け、自らも右翼思想に接近。マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』と出会ったのもこの頃 であり、ハイデッガー哲学との対話・対決は、その後長らくブランショの課題の一つとなった。

Pre-1945
Blanchot was born in the village of Quain (Saône-et-Loire) on 22 September 1907.[5][6][7]

Blanchot studied philosophy at the University of Strasbourg, where he became a close friend of the Lithuanian-born French Jewish phenomenologist Emmanuel Levinas. He then embarked on a career as a political journalist in Paris. From 1932 to 1940 he was editor of the mainstream conservative daily the Journal des débats. In 1930 he earned his DES (diplôme d'études supérieures), roughly equivalent to an M.A. at the University of Paris, with a thesis titled "La Conception du Dogmatisme chez les Sceptiques anciens d'après Sextus Empiricus" ("The Conception of Dogmatism in the Ancient Sceptics According to Sextus Empiricus").[8]

Early in the 1930s he contributed to a series of radical nationalist magazines while also serving as editor of the fiercely anti-German daily Le rempart in 1933 and as editor of Paul Lévy's anti-Nazi polemical weekly Aux écoutes. In 1936 and 1937 he also contributed to the far right monthly Combat and to the nationalist-syndicalist daily L'Insurgé, which eventually ceased publication – largely as a result of Blanchot's intervention – because of the anti-semitism of some of its contributors. There is no dispute that Blanchot was nevertheless the author of a series of violently polemical articles attacking the government of the day and its confidence in the politics of the League of Nations, and warned persistently against the threat to peace in Europe posed by Nazi Germany.

In December 1940, he met Georges Bataille, who had written strong anti-fascist articles in the thirties, and who would remain a close friend until his death in 1962. Blanchot worked in Paris during the Nazi occupation. In order to support his family he continued to work as a book reviewer for the Journal des débats from 1941 to 1944, writing for instance about such figures as Sartre and Camus, Bataille and Michaux, Mallarmé and Duras for a putatively Pétainist Vichy readership. In these reviews he laid the foundations for later French critical thinking by examining the ambiguous rhetorical nature of language and the irreducibility of the written word to notions of truth or falsity. He refused the editorship of the collaborationist Nouvelle Revue Française for which, as part of an elaborate ploy, he had been suggested by Jean Paulhan. He was active in the Resistance and remained a bitter opponent of the fascist, anti-semitic novelist and journalist Robert Brasillach, who was the principal leader of the pro-Nazi collaborationist movement. In June 1944, Blanchot was almost executed by a Nazi firing squad (as recounted in his text The Instant of My Death).
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ブランショは、極右機関紙『コンバ(戦闘)』の右翼イデオローグとして 文筆活動を開始し、ラディカルな極右の論陣を張る。ピエール・アンドリューのドリュ=ラ=ロシェル伝(Pierr Andreu/Frederic Grover:DRIEU LA ROCHELLE.1979)によれば、ブランショは、1930年代には、後に対独協力派のファシスト作家となるピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの秘書を していた。当時、ブランショは、ブルジョワ社会と議会制民主主義を拒絶し、マルクス主義の物質への偏向を批判し、犠牲を厭わぬ英雄的な行動によって現状を 打倒し、フランスの精神的価値を高めようとの主張を繰り返していた。ただし、彼の思想は、現状に対する“拒否”の精神の重視と革命の意義の賞賛の二点で通 例の右翼思想と異なっており、この点がのちにブランショを右翼的立場から転換させる大きな契機となったのではないかと西谷修は指摘している。なお、『謎の 男トマ』をはじめとするブランショの初期の作品は、この頃に既に書き始められていた
1945年以前
ブランショは1907年9月22日、カン村(ソーヌ=エ=ロワール県)に生まれる[5][6][7]。

ストラスブール大学で哲学を学び、リトアニア出身のユダヤ系フランス人現象学者エマニュエル・レヴィナスと親交を結ぶ。その後、パリで政治ジャーナリスト の道を歩み始める。1932年から1940年まで、保守本流の日刊紙『Journal des débats』の編集長を務めた。1930年、パリ大学の修士課程に相当するDES(diplôme d'études supérieures)を取得し、「La Conception du Dogmatisme chez les Sceptiques anciens d'après Sextus Empiricus」と題する論文を発表した[8]。

1930年代初頭には、急進的な民族主義雑誌に寄稿する一方、1933年には激しい反ドイツの日刊紙『Le rempart』の編集長を務め、ポール・レヴィの反ナチ極論週刊誌『Aux écoutes』の編集長も務めた。1936年と1937年には、極右月刊誌『コンバット』と民族主義・シンジカリスト日刊誌『インシュルジェ』にも寄稿 したが、この『インシュルジェ』は、寄稿者の一部が反ユダヤ主義者であったため、ブランショの介入もあって廃刊となった。とはいえ、ブランショが当時の政 府と国際連盟の政治への信頼を攻撃する激しい極論を展開した一連の記事の著者であり、ナチス・ドイツがもたらすヨーロッパの平和への脅威に対して執拗に警 告を発していたことに議論の余地はない。

1940年12月には、30年代に強烈な反ファシズム記事を書いていたジョルジュ・バタイユと出会い、1962年に亡くなるまで親しい友人であり続けた。 ブランショはナチス占領下のパリで働いた。家族を養うため、1941年から1944年まで『Journal des débats』誌の書評家として働き続け、サルトルやカミュ、バタイユやミショー、マラルメやデュラスといった人物について、比較的ペテイニスト的なヴィ シーの読者に向けて執筆した。これらの批評の中で彼は、言語の曖昧な修辞学的性質や、書かれた言葉が真実や虚偽の概念に還元されないことを検証すること で、後のフランスの批評的思考の基礎を築いた。ジャン・ポーランの策略により、協力主義的な『ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』の編集長を拒否。レジス タンス活動にも積極的に参加し、ファシストで反ユダヤ主義の小説家・ジャーナリストのロベール・ブラジヤックとは激しく対立した。1944年6月、ブラン ショはナチスの銃殺隊によって処刑されそうになる。




・極右のジャーナリスト
・ジェフリー・メールマン『巨匠たちの聖痕 : フランスにおける反ユダヤ主義の遺産』内田樹 [ほか] 訳, 国文社, 1987
1930年代末頃、ブランショは、政治的な活動から身を引き、文学活動 に沈潜するようになる。『謎の男トマ』初版を刊行した1941年には、ジョルジュ・バタイユと知り合い、彼をはじめとする非共産主義的な左翼の担い手たち とも交友するようになる。またユダヤ人のレヴィナスとは大学時代からの親交が続いていた。 第二次世界大戦中のブランショについては、親ドイツ的中立のヴィシー政権で職に就いていたとの報告がある一方で、二つの伝記的事実が公にされている。ユダ ヤ人哲学者レヴィナスの親族を第二次世界大戦中のユダヤ人狩りから匿ったことと、バタイユの主著『内的体験』の執筆過程に参与したことである(これはバタ イユ自身の証言がある)。当時の状況でユダヤ人を匿ったこと、そして、バタイユが戦前からナチスのフリードリヒ・ニーチェ濫用を咎め精神分析理論を活用し てその政治的な力学を批判的に分析していたことを考え合わせれば、戦中においてすでに彼の政治的姿勢は転向を経たものであったことがわかる。もっとも、そ れゆえに前記のピエール・アンドリューは、ブランショの転向について「もっとも信用のおけない人物」と酷評している。転向後のブランショの立場を要約して 説明することは難しいが、大まかに捉えて右翼的立場から左翼的立場に転じたことは確かだと思われる。極右時代のブランショも含めた知識人たちの反ユダヤ主 義を研究したジェフリー・メールマンの『巨匠たちの聖痕』があるにしても、彼の「転向」後の政治的態度は一貫しており、みずからの転向についての考えはそ の著作から窺い知ることはできないが、推測することは難しくない。
・転向と第二次大戦
ナチズムの成立・侵略と第二次世界大戦の経験はブランショに大きな衝撃 を与えた。とりわけホロコーストはブランショにとって決定的な出来事となり、彼はのちに繰り返しこの大虐殺について語ることになる。その彼の痛恨の思い は、例えば『問われる知識人』と題された一文の末尾の、ルネ・シャールの断章を引用しつつ語った部分に表れている。また戦争末期にドイツ軍(といってもド イツ人は指揮官だけで兵士はウラソフ[要曖昧さ回避]軍出身のロシア人だったが)に銃殺されかかり助かった経験は、のちのブランショの人生と著作に大きな 影響を及ぼした。フョードル・ドストエフスキーの処刑直前の恩赦の体験に比する人もあるこの体験は、例えば小説『白日の狂気』に反映されており、最後の小 説となった『私の死の瞬間』ではこの体験がそのまま用いられている。

Post-1945
After the war, Blanchot began working only as a novelist and literary critic. In 1947, Blanchot left Paris for the secluded village of Èze in the south of France, where he spent the next decade of his life. Like Sartre and other French intellectuals of the era, Blanchot avoided the academy as a means of livelihood, instead relying on his pen. Importantly, from 1953 to 1968, he published regularly in Nouvelle Revue Française. At the same time, he began a lifestyle of relative isolation, often not seeing close friends (like Levinas) for years, while continuing to write lengthy letters to them. Part of the reason for his self-imposed isolation (and only part of it – his isolation was closely connected to his writing and is often featured among his characters) was the fact that, for most of his life, Blanchot suffered from poor health.

Blanchot's political activities after the war shifted to the left. He is widely credited with being one of the main authors of the important "Manifesto of the 121", named after the number of its signatories, who included Jean-Paul Sartre, Robert Antelme, Alain Robbe-Grillet, Marguerite Duras, René Char, Henri Lefebvre, Alain Resnais, Simone Signoret and others, which supported the rights of conscripts to refuse to serve in the colonial war in Algeria. The manifesto was crucial to the intellectual response to the war.

In May 1968, Blanchot once again emerged from personal obscurity, in support of the student protests. It was his sole public appearance after the war. Yet for fifty years he remained a consistent champion of modern literature and its tradition in French letters. During the later years of his life, he repeatedly wrote against the intellectual attraction to fascism, and notably against Heidegger's post-war silence over The Holocaust.

Blanchot wrote more than thirty works of fiction, literary criticism, and philosophy. Up to the 1970s, he worked continually in his writing to break the barriers between what are generally perceived as different "genres" or "tendencies", and much of his later work moves freely between narration and philosophical investigation.

In 1983, Blanchot published La Communauté inavouable (The Unavowable Community). This work inspired The Inoperative Community (1986),[9] Jean-Luc Nancy's attempt to approach community in a non-religious, non-utilitarian and un-political exegesis.

He died on 20 February 2003 in Le Mesnil-Saint-Denis, Yvelines, France.

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戦後、ブランショは、執筆活動に専念し、創作と思索を深めていくことに なる。1946年にバタイユが創刊した雑誌「クリティック」の編集に協力しながら、書くとはどういうことかについて考察し、ステファヌ・マラルメやフラン ツ・カフカのエクリチュールに見出した書き手の不在や死の経験を、また無為や忘却といった事柄を書くことそのものに結びつけていくことになる。戦後のブラ ンショは顔写真一枚公開することなく、ただ書かれたテクストを書物として提示するのみとなるが、それは「書くとはどういうことか」について考えていく中で 彼が辿りついた、「書くその場において、そして書かれたものにおいては書き手は不在となる」ということを自ら引き受けたことを示すものでもある。このこと から、ブランショは、「顔なき作家」「不在の作家」と呼ばれるようになる。
1945年以降
戦後、ブランショは小説家、文芸評論家としてのみ活動を始めた。1947年、ブランショはパリを離れ、南仏の人里離れたエズ村に移り住んだ。サルトルや当 時のフランスの知識人たちと同様、ブランショは生活の手段としてのアカデミーを避け、ペンに頼った。重要なのは、1953年から1968年まで『ヌーヴェ ル・ルヴュ・フランセーズ』に定期的に論文を発表していたことだ。同時に、比較的孤独な生活を始め、(レヴィナスのような)親しい友人とは何年も会わない ことが多かったが、一方で彼らには長い手紙を書き続けた。ブランショが自らに課した孤独の理由のひとつは(そしてそれはほんの一部であり、彼の孤独は執筆 活動と密接に結びついており、登場人物のなかにしばしば登場する)、生涯の大半を不健康に苦しんだことであった。

戦後、ブランショの政治活動は左翼にシフトした。ジャン=ポール・サルトル、ロベール・アンテルム、アラン・ロブ=グリエ、マルグリット・デュラス、ル ネ・シャル、アンリ・ルフェーヴル、アラン・レネ、シモーヌ・シニョレらが署名し、アルジェリアでの植民地戦争への従軍を拒否する徴兵の権利を支持した。 このマニフェストは、戦争に対する知的反応として極めて重要であった。

1968年5月、ブランショは学生たちの抗議活動を支援するため、再び個人的な無名時代から姿を現した。これが戦後唯一の公の場であった。しかし、ブラン ショは50年にわたり、フランス文学における近代文学とその伝統の一貫した擁護者であり続けた。晩年には、ファシズムに惹かれる知識人たちに反対する文章 を繰り返し書き、特にハイデガーが戦後ホロコーストについて沈黙したことに反対した。

ブランショは30以上の小説、文学評論、哲学作品を書いた。1970年代まで、ブランショは一般に異なる「ジャンル」や「傾向」として認識されるものの間の障壁を打ち破ろうと絶え間なく執筆に取り組み、晩年の作品の多くは、叙述と哲学的考察の間を自由に行き来している。

1983年、ブランショは『La Communauté inavouable』(認められざる共同体)を発表。この作品は、非宗教的、非功利主義的、非政治的な釈義で共同体にアプローチするジャン=リュック・ ナンシーの試みである『作動しない共同体』(1986年)[9]に影響を与えた。

2003年2月20日、フランスのイヴリーヌ県ル・メニル=サン=ドニにて死去。

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・顔なき作家
小説と批評の両面において注目されるようになったブランショは、 1955年に『文学空間』を発表した。さまざまな文学者や文学作品を論じながら、マルティン・ハイデッガーの存在論を批判的に応用し、書くことについて、 エクリチュールについて、死について、「非人称の死」について、そして書くにあたって書き手が潜り彷徨う場としての「文学空間」について論じたこの本に よって、ブランショは文学についての思想・思考に新たな一歩を記し、批評の新しい局面を開くとともに、現代思想の最前線に位置する思想家として知られるよ うになる。ブランショの影響はロラン・バルトをはじめ多くの批評家・思想家に見られ、その反響は特にポスト構造主義の哲学者たちに見出せる。また彼は同年 にアラン・ロブ=グリエの小説『覗くひと』の評価をめぐって起きた「ヌーヴォー・ロマン論争」においてはロラン・バルトらとともにロブ=グリエ擁護の論陣 を張るなど、20世紀後半の文学の新しい展開とその評価の確立にあたっても大きな役割を果たした。その後は小説と批評とが接近する様相を見せはじめ、 1962年、小説『期待 忘却』や1973年、評論『彼方への一歩』ではどちらも断章が連ねられた形式がとられている。
・文学空間(1955)
政治的には、エミール・ゾラやジャン=ポール・サルトルのような、知識 人として公衆の面前に姿を現して意見や主張を述べ自らの影響力の大きさを利用して社会を動かそうとする政治参加の手法に批判的立場をとりつつ、自らの政治 的活動を模索することになる。アルジェリア戦争の際には、アルジェリアの独立を阻止しようとするフランス政府を批判し、マルグリット・デュラスやディオニ ス・マスコロらとともに命令に対するフランス軍兵士の不服従を擁護する「121人宣言」に署名したりした。デュラスらとは、1968年の五月革命でも共に 「作家学生行動委員会」を組織し、街頭行動にも参加して、無署名文書を執筆したことでも知られる(ブランショはデュラスに対して作家としても高い評価を与 え、「彼女の書いたいくつかの本をもはやそれ以上に先はないほど完璧に」愛したことがあると語っており、デュラスも小説『ユダヤ人の家』をブランショに捧 げている)。五月革命はブランショにとって重要な意味を持った事件のひとつであり、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に触発されて書かれた論 考『明かしえぬ共同体』では彼自身の共同体についての思想やレヴィナスの他者論などが織り交ぜられながら“68年5月”が振り返られている。

晩年になるにつれ次第に著作の発表が間遠になったが、それでも執筆は続 けられた。1994年には、自らが銃殺されかかった体験を簡潔かつ慎重な文体によって記した小説『私の死の瞬間』を発表して反響を呼ぶ(ジャック・デリダ の『滞留』は、この小説に触発されたデリダ自身の講演をもとにしている)。これ以降のブランショの著作はどれも評論、論考であった。2003年、95歳で 死去。フランスでは新聞各紙が大きく取り上げ、デリダは墓地でのブランショの葬儀に際して参列者を前に弔辞を読んでいる。死去発表の4日後に「ル・モン ド」紙に掲載された、アメリカの対イラク戦争に反対する市民活動「Not in our name(我々の名において為すな)」のアピールにはブランショの署名も記されていた。

Work
Blanchot's work explores a philosophy of death, not in humanistic terms, but through concerns of paradox, impossibility, nonsense and the noumenal that stem from the conceptual impossibility of death. He constantly engaged with the "question of literature", a simultaneous enactment and interrogation of the idiosyncratic act of writing. For Blanchot, "literature begins at the moment when literature becomes a question".[10]

Blanchot drew on the poetics of Stéphane Mallarmé and Paul Celan, as well as the concept of negation in the Hegelian dialectic, for his theory of literary language as something that is always anti-realist and so distinct from everyday experience that realism does not simply stand for literature about reality, but for literature concerning paradoxes made by the qualities of the act of writing. Blanchot's literary theory parallels Hegel's philosophy, establishing that actual reality always succeeds conceptual reality. For instance, "I say flower," Mallarmé wrote in "Poetry in Crisis", "and outside the oblivion to which my voice relegates any shape, [...] there arises [...] the one absent from every bouquet."[11]

What the everyday use of language steps over or negates is the physical reality of the thing for the sake of the abstract concept. Literature - through its use of symbolism and metaphor - frees language from this utilitarianism, thereby drawing our attention to the fact that language refers not to the physical thing, but only to an idea of it. Literature, Blanchot writes, remains fascinated by this presence of absence, and our attention is drawn, through the sonority and rhythm of words, to the materiality of language.

Blanchot's best-known fictional works are Thomas l'Obscur (Thomas the Obscure), an unsettling récit (which "is not the narration of an event, but that event itself, the approach to that event, the place where that event is made to happen ...")[12] about the experience of reading and loss, Death Sentence, Aminadab, and The Most High. His central theoretical works are "Literature and the Right to Death" (in The Work of Fire and The Gaze of Orpheus), The Space of Literature, The Infinite Conversation, and The Writing of the Disaster.
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ブランショは、その文学的営為の根本において、マラルメとフランツ・カ フカから多大な影響を受けた。日常的な言葉(物事や情報を道具的に交換するための言葉)ではない本質的な言葉として文学的言語を考えたマラルメの視点、ま た本質的な言葉によって創られた純粋な作品においては語り手・書き手は消滅して「語に主導権を譲る」というマラルメの考えは、ブランショの創作においても 文学思想においても決定的な重要性を持っている。同様に、カフカが日記やノートに書き記した様々な記述、例えば死や非人称的なものと書くこととの密接な関 わりを記した箇所や、「私」から「彼」への移行によって文学の豊かさを経験したと記した箇所などからも、ブランショは絶大なインパクトを受けている。この 二人からの影響を継承し、また友人たちや他の文学者・思想家たちと交流し感応しながら、ブランショは小説においても批評においても独自の地歩を達成して いった。
作品
ブランショの作品は、人文主義的な観点ではなく、死の概念的不可能性に由来するパラドックス、不可能性、ナンセンス、能天気といった問題を通して、死の哲 学を探求している。彼は常に「文学の問題」に取り組んでおり、それは書くという特異な行為の実現と問いかけの同時進行であった。ブランショにとって「文学 は、文学が問いとなる瞬間から始まる」[10]。

ブランショはステファヌ・マラルメとポール・セランの詩学、そしてヘーゲルの弁証法における否定の概念を用いて、常に反現実主義的であり、現実主義が単に 現実についての文学を意味するのではなく、書くという行為の特質によって作られるパラドックスに関する文学を意味するように、日常的な経験とは一線を画す ものとしての文学言語を理論化した。ブランショの文学理論はヘーゲルの哲学と類似しており、実際の現実が常に概念的現実を継承することを立証している。例 えば、「私は花と言う」とマラルメは『危機の詩』の中で書いているが、「そして、私の声がどんな形をも追いやる忘却の外に、[...]あらゆる花束から欠 落したものが[...]生じる」[11]。

言語の日常的な使用が踏み越える、あるいは否定するのは、抽象的な概念のために事物の物理的な現実である。文学は--象徴と比喩の使用を通じて--言語を この功利主義から解放し、それによって言語が物理的な事物を指すのではなく、その観念を指すにすぎないという事実に注意を向けさせる。ブランショは、文学 はこの不在の存在に魅了され続け、私たちの注意は、言葉の響きとリズムを通して、言語の物質性に引き寄せられると書いている。

ブランショの最も有名なフィクション作品は、読書と喪失の経験について書かれた不穏なレシット(「ある出来事の語りではなく、その出来事そのもの、その出 来事へのアプローチ、その出来事が起こる場所」)である『Thomas l'Obscur(Tomas the Obscure)』[12]、『Death Sentence』、『Aminadab』、『The Most High』である。主な理論的著作に『文学と死の権利』(『炎の仕事』『オルフェウスのまなざし』所収)、『文学の空間』、『無限の会話』、『災厄の記 述』などがある。
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・作風と思想
Themes
Blanchot engages with Heidegger on the question of how literature and death are both experienced as an anonymous passivity, an experience that Blanchot variously refers to as "the Neutral" (le neutre). Unlike Heidegger, Blanchot instead rejects the possibility of an authentic relation to death, because he rejects the conceptual possibility of death. In a manner similar to Levinas, who Blanchot later became influenced by with regards to the question of responsibility to the Other, he reverses Heidegger's position on death as the "possibility of the absolute impossibility" of Dasein, instead viewing death as the "impossibility of every possibility".[13]
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小説について、『謎の男トマ』や『アミナダブ』、『至高者』などの初期 の作品では、ジャン・ジロドゥーやカフカの影響が見られ、一応は小説的でありつつも既に従来のリアリズムからの逸脱・転倒が起きている。また、これらの作 品での主人公の体験する彷徨や紆余曲折が、ブランショの文学批評における「書き手の彷徨」や「死を潜ること」と対応していると見る評者もいる。『死の宣 告』以降はさらに伝統的リアリズムからの離脱が進み、作品の簡約化・簡潔化が進むと共に、次第に登場人物の固有名が明かされない傾向が強くなっていく (1950年に刊行された『謎の男トマ』改訂版で大幅な削除・短縮が行われたことに、このような作風の変遷が典型的に表れているとされる)。名前のわから ない1人称の語り手による回想という形式の作品がいくつか続くなかで、作品の突き詰めはいっそう進み、『期待 忘却』では物語そのものが断片化・断章化され、そのなかでの名前の無い男女の対話がおこなわれるという形をとる。晩年の最後の作『私の死の瞬間』では語り 手自身の問いかけを孕んだ簡潔な筆致によって一人の男の銃殺されかかる体験(ブランショ自身の実体験である)が記された。
テーマ
ブランショは、文学と死がともに匿名的な受動性としてどのように経験されるかという問題についてハイデガーと関わっている。ハイデガーとは異なり、ブラン ショは死との真正な関係の可能性を否定する。他者への責任という問題に関して後にブランショが影響を受けることになるレヴィナスと似たようなやり方で、彼 は死に対するハイデガーの立場を、ダーザインの「絶対的不可能性の可能性」として逆転させ、その代わりに死を「あらゆる可能性の不可能性」と見なしている [13]。
文学思想においては、前述のマラルメやカフカをはじめ、ライナー・マリ ア・リルケ、フリードリヒ・ヘルダーリン、アルベール・カミュ、ハーマン・メルヴィルなどさまざまな作家・詩人の批評を通して、自らの思想を提示した。日 常の活動的な「営み」から逸脱した「無為」として文学活動を捉え、その無為のさなかで作家は自らの死に臨み、死を前にして自らを支配し続け、顕現する非人 称的なもののさなかを潜り、まさに「文学空間」を彷徨うのだ、それが書くということなのだと語るブランショは、その行為をオルペウスの冥界下りになぞらえ ている(このオルペウスというモチーフもマラルメを経由している)。神秘神学やユダヤ思想とも共鳴しながら提示されたブランショの文学思想は、それまでの 「創作とは何か」ということについての考えに大きな変化をもたらすとともに、ロラン・バルトの『エクリチュールの零度』と並んで、現代思想におけるエクリ チュールの問題の前景化に多大な役割を果たした。

また、ブランショは、文学理論家とだけ見られることも多いが、その思想 の射程はずっと広範囲にわたっている。たとえば、ブランショは、死について「死においては、〈私〉が死ぬのではなく、〈私〉は死ぬ能力を失っている」と考 え、バタイユらとともに死を「経験できないものの経験」「不可能な経験」として論じた最初の世代である。[要出典]また『文学空間』以降、ナチスに加担し たハイデッガーの哲学への内在的批判を継続的に続けた。『友愛』などでの友愛についての論考、『明かしえぬ共同体』での共同体及び共同性についての思索も 重要であるほか、現代思想における主体批判とそれ以降の思想の向かう先をそれぞれの思想家が論じた評論集『主体の後に誰が来るのか?』にも参加している。 マルクス主義・共産主義に対する論考でも重要な論点を示しており(ブランショは共産主義に対し、批判しつつも避けがたい重要な課題だと考える両義的な態度 をとっていた)。ダニエル・ベンサイードは、『友愛』のなかでブランショがカール・マルクスについて述べた箇所を「過去の多くの注釈やテーゼよりも、はる かに多くを語っている」と讃えた。また、デリダは、『マルクスの亡霊たち』の中で、ブランショが提起した問題を論じている。晩年には、エマニュエル・レヴィナスの哲学やユダヤ思想への傾倒を強め、ミシェル・フーコーが『自己への配慮』などの著作や講義などで古代ギリシャを取り上げたことに対して、それはヘブライでもよかったのではないかと書き記した。

フーコーが青春時代を回顧して「僕はブランショになろうと熱望してい た」と述懐し、また『外の思考』などの著作においてブランショに言及していることや、ジル・ドゥルーズが「ブランショこそが死の新しい概念を作り上げた」 と称賛していることは注目すべきである。ジャック・デリダも、その文体からしてブランショの圧倒的影響下にあり、『滞留』や『境域』などの著作で、ブラン ショに言及している。また、日本の哲学者田邊元も、晩年に「マラルメ論」を執筆する際、前年に出版されていたブランショの『文学空間』を取り寄せ精読して いた。また、ブランショの友人であったエマニュエル・レヴィナスは、ブランショに関する論考(『モーリス・ブランショ』として出版)を発表している。

Thomas l'obscur (1941年) (邦題『謎のトマ』 ※初版)
Aminadab (1942年) (邦題『アミナダブ』)
Le Très-Haut (1948年) (邦題『至高者』)
L'Arrêt de mort (1948年) (邦題『死の宣告』)
Thomas l'obscur (1950年) (邦題『謎の男トマ』 ※新版、初版を大幅に改定)
Au moment voulu (1951年) (邦題『望みのときに』)
Le ressassement éternel (1951年) (『永遠の繰り言』)
Celui qui ne m'accompagnait pas (1953年) (邦題『私についてこなかった男』)
Le Dernier Homme (1957年) (邦題『最後の人』)
L'Attente, l'oubli (1962年) (邦題『期待 忘却』『待つこと 忘れること』)
La folie du jour (1973年) (邦題『白日の狂気』)
Après Coup, précédé par Le ressassement éternel (1983年) (『事後的に 永遠の繰り言』)
L’instant de ma mort(1994年) (邦題『私の死の瞬間』)
・小説
Comment la littérature est-elle possible ? (1942年)(『文学はいかにして可能か』)
Faux pas (1943年) (邦題『踏みはずし』)
La part du feu (1949年) (『火の部分』、邦題『完訳 焔の文学』)
Lautréamont et Sade (1949年) (邦題『ロートレアモンとサド』)
L'espace littéraire (1955年) (邦題『文学空間』)
La Bête de Lascaux (1958年) (『ラスコーの野獣』)
Le livre à venir (1959年) (邦題『来るべき書物』)
L'entretien infini (1969年) (邦題『終わりなき対話』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)
L'amitié (1971年) (『友愛』)
Le pas au-delà (1973年) (『彼方への一歩』)
L'écriture du désastre (1980年) (『災厄のエクリチュール』)
De Kafka à Kafka (1981年) (『カフカからカフカへ』)
La communauté inavouable (1983年) (邦題『明かしえぬ共同体』)
Le dernier à parler (1984年) (『最後に語る人』)
Michel Foucault tel que je l'imagine (1986年) (邦題『ミシェル・フーコー 想いに映るまま』)
Joë Bousquet (1987年)
Une voix venue d'ailleurs - Sur les poèmes de LR des Forêts (1992年) (『他処から来た声――ルイ=ルネ・デ・フォレの詩について』)
Pour l'amitié (1996年) (邦題『友愛のために』)
Les intellectuels en question (1996年)(邦題『問われる知識人―ある省察の覚書』)
Henri Michaux ou le refus de l'enfermement (1999年) (『アンリ・ミショー あるいは閉塞の拒否』)
Une voix venue d’ailleurs (2002年) (『他処から来た声』)
Ecrits politiques (1958-1993) (2003年) (邦題『政治論集 1958~1993』)
Chroniques littéraires du "Journal des Débats" (2007年)
Lettres à Vadim Kozovoï (1976-1998)" (2009年)
La Condition critique. Articles, 1945-1998" (2010年)
ジャン・ポーランと『言語と文学』
・批評
エマニュエル・レヴィナス『モーリス・ブランショ』内田樹訳、国文社、1992年、新装版2015年
クリストフ・ビダン『モーリス・ブランショ 不可視のパートナー』上田和彦ほか訳、水声社、2014年
ジャン=リュック・ナンシー『モーリス・ブランショ 政治的パッション』安原伸一朗訳、水声社、2020年
・作家論
死にゆく者に立会い「君は死んでは『いけない』」という禁止の言葉を言うこと。この感覚が人をして共同体(=社会)を作ろう共同体を維持しようとする気にさせる。そしてそれを実践する。
社会存立のための弁証法、より





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その他の情報


The ROA troops in Belgium or France, 1944
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099