かならずよんで ね!

モーリス・ブランショ

Maurice Blanchot, 1907-2003

池田光穂

モーリス・ブランショに 関する情報をウィキペディア等から吸い上げ、(私じしんのために)勉強するのがこのページの目的である。★モーリス・ブランショはフランスの小説家、文芸 批評家、哲学者である。 1907年9月22日、ソーヌ=エ=ロワール県ドヴルーズ県のカンの村に生まれ、2003年2月20日、イヴリーヌ県メニル=サン=ドニで死去。彼の思想 と著作は、1950年代から1960年代にかけてのフランス文化の一部分と、フランス理論として知られるものの代表者たちに多大な影響を与えた。 モーリス・ブランショと反ユダヤ主義や極右との関係は、多くの議論の対象となっている。1930年代の彼の政治的選択は、反共産主義や反議会右派と結びつ いていた。占領期には、ヴィシー政府から資金援助を受けていた『ジュンヌ・フランス』(1942年まで)のために働き、元帥主義者たちとの緊密なつながり のおかげで、報道・出版業界で重要な役割を果たした。同時に、政権による迫害から一部の人々を守ろうとした。その後、アルジェリア戦争に反対する積極的な 運動家となり、68年5月にはシンクタンクや行動グループに参加し、ドゴール将軍の政策に大きく反対し、特定の共産主義界とも親しくなった。 ガリマール社発行の作品目録によれば、「彼の生涯は、文学とその特徴である沈黙に捧げられた1」。

Maurice Blanchot (/blænˈʃoʊ/ blan-SHOH, French: [blɑ̃ʃo]; 22 September 1907 – 20 February 2003) was a French writer, philosopher and literary theorist.[4] His work, exploring a philosophy of death alongside poetic theories of meaning and sense, bore significant influence on post-structuralist philosophers such as Gilles Deleuze, Michel Foucault, Jacques Derrida and Jean-Luc Nancy.
+++
モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot、1907年9月22日 - 2003年2月20日)は、フランスの哲学者、作家、批評家。通称“顔の無い作家”。ストラスブール大学卒業。戦前のポール・ヴァレリーに比せられる戦後 最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。
モー リス・ブランショ(Maurice Blanchot, /blænˈ blan-SHOH, French: [blɒo]; 1907年9月22日 - 2003年2月20日)はフランスの作家、哲学者、文学理論家。 [詩的な意味論とともに死の哲学を探求し、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャン=リュック・ナンシーらポスト構造主義の哲学 者に多大な影響を与えた。
Maurice Blanchot est un romancier, critique littéraire et philosophe français, né le 22 septembre 1907 au hameau de Quain, dans la commune de Devrouze en Saône-et-Loire, et mort le 20 février 2003 au Mesnil-Saint-Denis, Yvelines. Sa pensée et son écriture ont exercé une influence profonde sur tout un pan de la culture française des années 1950 et 1960 et sur les représentants de ce qu'on appelle la French Theory.

Les rapports de Maurice Blanchot avec l'antisémitisme et avec l'extrême droite font l'objet de nombreux débats. Ses choix politiques des années 1930 le rattachent à l'anticommunisme et à la droite anti-parlementaire. Sous l'Occupation, il travaille pour Jeune France (jusqu'en 1942), organisme financé par le gouvernement de Vichy, et il joue un rôle déterminant dans la presse et l'édition grâce à sa proximité avec les milieux maréchalistes. Dans le même temps, il tente de protéger certains des persécutions du régime. Par la suite, il milite activement contre la guerre d'Algérie, participe à des groupes de réflexion et d'actions pendant mai 68, combat en grande partie la politique du général de Gaulle, et se rapproche de certains milieux communistes.

« Sa vie fut entièrement vouée à la littérature et au silence qui lui est propre1 » selon la notice de ses œuvres chez son éditeur Gallimard.
https://fr.wikipedia.org/wiki/Maurice_Blanchot
+++++++++++++++++++++++
フランス・ソーヌ=エ=ロワール県のドゥヴルーズに生まれる。ストラス ブール大学でドイツ語や哲学を学んだ。在学中、一つ歳上で、同じくストラスブール大学に在籍していた哲学者エマニュエル・レヴィナスと親交を結んでいる。 また大学時代にはアクション・フランセーズなどの影響を強く受け、自らも右翼思想に接近。マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』と出会ったのもこの頃 であり、ハイデッガー哲学との対話・対決は、その後長らくブランショの課題の一つとなった。


モーリス・ブランショはフランスの小説家、文芸批評家、哲学者である。 1907年9月22日、ソーヌ=エ=ロワール県ドヴルーズ県のカンの村に生まれ、2003年2月20日、イヴリーヌ県メニル=サン=ドニで死去。彼の思想 と著作は、1950年代から1960年代にかけてのフランス文化の一部分と、フランス理論として知られるものの代表者たちに多大な影響を与えた。

モーリス・ブランショと反ユダヤ主義や極右との関係は、多くの議論の対象となっている。1930年代の彼の政治的選択は、反共産主義や反議会右派と結びつ いていた。占領期には、ヴィシー政府から資金援助を受けていた『ジュンヌ・フランス』(1942年まで)のために働き、元帥主義者たちとの緊密なつながり のおかげで、報道・出版業界で重要な役割を果たした。同時に、政権による迫害から一部の人々を守ろうとした。その後、アルジェリア戦争に反対する積極的な 運動家となり、68年5月にはシンクタンクや行動グループに参加し、ドゴール将軍の政策に大きく反対し、特定の共産主義界とも親しくなった。

ガリマール社発行の作品目録によれば、「彼の生涯は、文学とその特徴である沈黙に捧げられた1」。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Maurice_Blanchot
Pre-1945
Blanchot was born in the village of Quain (Saône-et-Loire) on 22 September 1907.[5][6][7]

Blanchot studied philosophy at the University of Strasbourg, where he became a close friend of the Lithuanian-born French Jewish phenomenologist Emmanuel Levinas. He then embarked on a career as a political journalist in Paris. From 1932 to 1940 he was editor of the mainstream conservative daily the Journal des débats. In 1930 he earned his DES (diplôme d'études supérieures), roughly equivalent to an M.A. at the University of Paris, with a thesis titled "La Conception du Dogmatisme chez les Sceptiques anciens d'après Sextus Empiricus" ("The Conception of Dogmatism in the Ancient Sceptics According to Sextus Empiricus").[8]

Early in the 1930s he contributed to a series of radical nationalist magazines while also serving as editor of the fiercely anti-German daily Le rempart in 1933 and as editor of Paul Lévy's anti-Nazi polemical weekly Aux écoutes. In 1936 and 1937 he also contributed to the far right monthly Combat and to the nationalist-syndicalist daily L'Insurgé, which eventually ceased publication – largely as a result of Blanchot's intervention – because of the anti-semitism of some of its contributors. There is no dispute that Blanchot was nevertheless the author of a series of violently polemical articles attacking the government of the day and its confidence in the politics of the League of Nations, and warned persistently against the threat to peace in Europe posed by Nazi Germany.

In December 1940, he met Georges Bataille, who had written strong anti-fascist articles in the thirties, and who would remain a close friend until his death in 1962. Blanchot worked in Paris during the Nazi occupation. In order to support his family he continued to work as a book reviewer for the Journal des débats from 1941 to 1944, writing for instance about such figures as Sartre and Camus, Bataille and Michaux, Mallarmé and Duras for a putatively Pétainist Vichy readership. In these reviews he laid the foundations for later French critical thinking by examining the ambiguous rhetorical nature of language and the irreducibility of the written word to notions of truth or falsity. He refused the editorship of the collaborationist Nouvelle Revue Française for which, as part of an elaborate ploy, he had been suggested by Jean Paulhan. He was active in the Resistance and remained a bitter opponent of the fascist, anti-semitic novelist and journalist Robert Brasillach, who was the principal leader of the pro-Nazi collaborationist movement. In June 1944, Blanchot was almost executed by a Nazi firing squad (as recounted in his text The Instant of My Death).
+++++++++++
ブランショは、極右機関紙『コンバ(戦闘)』の右翼イデオローグとして 文筆活動を開始し、ラディカルな極右の論陣を張る。ピエール・アンドリューのドリュ=ラ=ロシェル伝(Pierr Andreu/Frederic Grover:DRIEU LA ROCHELLE.1979)によれば、ブランショは、1930年代には、後に対独協力派のファシスト作家となるピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの秘書を していた。当時、ブランショは、ブルジョワ社会と議会制民主主義を拒絶し、マルクス主義の物質への偏向を批判し、犠牲を厭わぬ英雄的な行動によって現状を 打倒し、フランスの精神的価値を高めようとの主張を繰り返していた。ただし、彼の思想は、現状に対する“拒否”の精神の重視と革命の意義の賞賛の二点で通 例の右翼思想と異なっており、この点がのちにブランショを右翼的立場から転換させる大きな契機となったのではないかと西谷修は指摘している。なお、『謎の 男トマ』をはじめとするブランショの初期の作品は、この頃に既に書き始められていた
1945年以前
ブランショは1907年9月22日、カン村(ソーヌ=エ=ロワール県)に生まれる[5][6][7]。

ストラスブール大学で哲学を学び、リトアニア出身のユダヤ系フランス人現象学者エマニュエル・レヴィナスと親交を結ぶ。その後、パリで政治ジャーナリスト の道を歩み始める。1932年から1940年まで、保守本流の日刊紙『Journal des débats』の編集長を務めた。1930年、パリ大学の修士課程に相当するDES(diplôme d'études supérieures)を取得し、「La Conception du Dogmatisme chez les Sceptiques anciens d'après Sextus Empiricus」と題する論文を発表した[8]。

1930年代初頭には、急進的な民族主義雑誌に寄稿する一方、1933年には激しい反ドイツの日刊紙『Le rempart』の編集長を務め、ポール・レヴィの反ナチ極論週刊誌『Aux écoutes』の編集長も務めた。1936年と1937年には、極右月刊誌『コンバット』と民族主義・シンジカリスト日刊誌『インシュルジェ』にも寄稿 したが、この『インシュルジェ』は、寄稿者の一部が反ユダヤ主義者であったため、ブランショの介入もあって廃刊となった。とはいえ、ブランショが当時の政 府と国際連盟の政治への信頼を攻撃する激しい極論を展開した一連の記事の著者であり、ナチス・ドイツがもたらすヨーロッパの平和への脅威に対して執拗に警 告を発していたことに議論の余地はない。

1940年12月には、30年代に強烈な反ファシズム記事を書いていたジョルジュ・バタイユと出会い、1962年に亡くなるまで親しい友人であり続けた。 ブランショはナチス占領下のパリで働いた。家族を養うため、1941年から1944年まで『Journal des débats』誌の書評家として働き続け、サルトルやカミュ、バタイユやミショー、マラルメやデュラスといった人物について、比較的ペテイニスト的なヴィ シーの読者に向けて執筆した。これらの批評の中で彼は、言語の曖昧な修辞学的性質や、書かれた言葉が真実や虚偽の概念に還元されないことを検証すること で、後のフランスの批評的思考の基礎を築いた。ジャン・ポーランの策略により、協力主義的な『ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』の編集長を拒否。レジス タンス活動にも積極的に参加し、ファシストで反ユダヤ主義の小説家・ジャーナリストのロベール・ブラジヤックとは激しく対立した。1944年6月、ブラン ショはナチスの銃殺隊によって処刑されそうになる。




・極右のジャーナリスト
・ジェフリー・メールマン『巨匠たちの聖痕 : フランスにおける反ユダヤ主義の遺産』内田樹 [ほか] 訳, 国文社, 1987
1930年代末頃、ブランショは、政治的な活動から身を引き、文学活動 に沈潜するようになる。『謎の男トマ』初版を刊行した1941年には、ジョルジュ・バタイユと知り合い、彼をはじめとする非共産主義的な左翼の担い手たち とも交友するようになる。またユダヤ人のレヴィナスとは大学時代からの親交が続いていた。 第二次世界大戦中のブランショについては、親ドイツ的中立のヴィシー政権で職に就いていたとの報告がある一方で、二つの伝記的事実が公にされている。ユダ ヤ人哲学者レヴィナスの親族を第二次世界大戦中のユダヤ人狩りから匿ったことと、バタイユの主著『内的体験』の執筆過程に参与したことである(これはバタ イユ自身の証言がある)。当時の状況でユダヤ人を匿ったこと、そして、バタイユが戦前からナチスのフリードリヒ・ニーチェ濫用を咎め精神分析理論を活用し てその政治的な力学を批判的に分析していたことを考え合わせれば、戦中においてすでに彼の政治的姿勢は転向を経たものであったことがわかる。もっとも、そ れゆえに前記のピエール・アンドリューは、ブランショの転向について「もっとも信用のおけない人物」と酷評している。転向後のブランショの立場を要約して 説明することは難しいが、大まかに捉えて右翼的立場から左翼的立場に転じたことは確かだと思われる。極右時代のブランショも含めた知識人たちの反ユダヤ主 義を研究したジェフリー・メールマンの『巨匠たちの聖痕』があるにしても、彼の「転向」後の政治的態度は一貫しており、みずからの転向についての考えはそ の著作から窺い知ることはできないが、推測することは難しくない。
・転向と第二次大戦
ナチズムの成立・侵略と第二次世界大戦の経験はブランショに大きな衝撃 を与えた。とりわけホロコーストはブランショにとって決定的な出来事となり、彼はのちに繰り返しこの大虐殺について語ることになる。その彼の痛恨の思い は、例えば『問われる知識人』と題された一文の末尾の、ルネ・シャールの断章を引用しつつ語った部分に表れている。また戦争末期にドイツ軍(といってもド イツ人は指揮官だけで兵士はウラソフ[要曖昧さ回避]軍出身のロシア人だったが)に銃殺されかかり助かった経験は、のちのブランショの人生と著作に大きな 影響を及ぼした。フョードル・ドストエフスキーの処刑直前の恩赦の体験に比する人もあるこの体験は、例えば小説『白日の狂気』に反映されており、最後の小 説となった『私の死の瞬間』ではこの体験がそのまま用いられている。

Post-1945
After the war, Blanchot began working only as a novelist and literary critic. In 1947, Blanchot left Paris for the secluded village of Èze in the south of France, where he spent the next decade of his life. Like Sartre and other French intellectuals of the era, Blanchot avoided the academy as a means of livelihood, instead relying on his pen. Importantly, from 1953 to 1968, he published regularly in Nouvelle Revue Française. At the same time, he began a lifestyle of relative isolation, often not seeing close friends (like Levinas) for years, while continuing to write lengthy letters to them. Part of the reason for his self-imposed isolation (and only part of it – his isolation was closely connected to his writing and is often featured among his characters) was the fact that, for most of his life, Blanchot suffered from poor health.

Blanchot's political activities after the war shifted to the left. He is widely credited with being one of the main authors of the important "Manifesto of the 121", named after the number of its signatories, who included Jean-Paul Sartre, Robert Antelme, Alain Robbe-Grillet, Marguerite Duras, René Char, Henri Lefebvre, Alain Resnais, Simone Signoret and others, which supported the rights of conscripts to refuse to serve in the colonial war in Algeria. The manifesto was crucial to the intellectual response to the war.

In May 1968, Blanchot once again emerged from personal obscurity, in support of the student protests. It was his sole public appearance after the war. Yet for fifty years he remained a consistent champion of modern literature and its tradition in French letters. During the later years of his life, he repeatedly wrote against the intellectual attraction to fascism, and notably against Heidegger's post-war silence over The Holocaust.

Blanchot wrote more than thirty works of fiction, literary criticism, and philosophy. Up to the 1970s, he worked continually in his writing to break the barriers between what are generally perceived as different "genres" or "tendencies", and much of his later work moves freely between narration and philosophical investigation.

In 1983, Blanchot published La Communauté inavouable (The Unavowable Community). This work inspired The Inoperative Community (1986),[9] Jean-Luc Nancy's attempt to approach community in a non-religious, non-utilitarian and un-political exegesis.

He died on 20 February 2003 in Le Mesnil-Saint-Denis, Yvelines, France.

++++++++++
戦後、ブランショは、執筆活動に専念し、創作と思索を深めていくことに なる。1946年にバタイユが創刊した雑誌「クリティック」の編集に協力しながら、書くとはどういうことかについて考察し、ステファヌ・マラルメやフラン ツ・カフカのエクリチュールに見出した書き手の不在や死の経験を、また無為や忘却といった事柄を書くことそのものに結びつけていくことになる。戦後のブラ ンショは顔写真一枚公開することなく、ただ書かれたテクストを書物として提示するのみとなるが、それは「書くとはどういうことか」について考えていく中で 彼が辿りついた、「書くその場において、そして書かれたものにおいては書き手は不在となる」ということを自ら引き受けたことを示すものでもある。このこと から、ブランショは、「顔なき作家」「不在の作家」と呼ばれるようになる。
1945年以降
戦後、ブランショは小説家、文芸評論家としてのみ活動を始めた。1947年、ブランショはパリを離れ、南仏の人里離れたエズ村に移り住んだ。サルトルや当 時のフランスの知識人たちと同様、ブランショは生活の手段としてのアカデミーを避け、ペンに頼った。重要なのは、1953年から1968年まで『ヌーヴェ ル・ルヴュ・フランセーズ』に定期的に論文を発表していたことだ。同時に、比較的孤独な生活を始め、(レヴィナスのような)親しい友人とは何年も会わない ことが多かったが、一方で彼らには長い手紙を書き続けた。ブランショが自らに課した孤独の理由のひとつは(そしてそれはほんの一部であり、彼の孤独は執筆 活動と密接に結びついており、登場人物のなかにしばしば登場する)、生涯の大半を不健康に苦しんだことであった。

戦後、ブランショの政治活動は左翼にシフトした。ジャン=ポール・サルトル、ロベール・アンテルム、アラン・ロブ=グリエ、マルグリット・デュラス、ル ネ・シャル、アンリ・ルフェーヴル、アラン・レネ、シモーヌ・シニョレらが署名し、アルジェリアでの植民地戦争への従軍を拒否する徴兵の権利を支持した。 このマニフェストは、戦争に対する知的反応として極めて重要であった。

1968年5月、ブランショは学生たちの抗議活動を支援するため、再び個人的な無名時代から姿を現した。これが戦後唯一の公の場であった。しかし、ブラン ショは50年にわたり、フランス文学における近代文学とその伝統の一貫した擁護者であり続けた。晩年には、ファシズムに惹かれる知識人たちに反対する文章 を繰り返し書き、特にハイデガーが戦後ホロコーストについて沈黙したことに反対した。

ブランショは30以上の小説、文学評論、哲学作品を書いた。1970年代まで、ブランショは一般に異なる「ジャンル」や「傾向」として認識されるものの間 の障壁を打ち破ろうと絶え間なく執筆に取り組み、晩年の作品の多くは、叙述と哲学的考察の間を自由に行き来している。

1983年、ブランショは『La Communauté inavouable』(認められざる共同体)を発表。この作品は、非宗教的、非功利主義的、非政治的な釈義で共同体にアプローチするジャン=リュック・ ナンシーの試みである『作動しない共同体』(1986年)[9]に影響を与えた。

2003年2月20日、フランスのイヴリーヌ県ル・メニル=サン=ドニにて死去。

++++++
・顔なき作家
小説と批評の両面において注目されるようになったブランショは、 1955年に『文学空間』を発表した。さまざまな文学者や文学作品を論じながら、マルティン・ハイデッガーの存在論を批判的に応用し、書くことについて、 エクリチュールについて、死について、「非人称の死」について、そして書くにあたって書き手が潜り彷徨う場としての「文学空間」について論じたこの本に よって、ブランショは文学についての思想・思考に新たな一歩を記し、批評の新しい局面を開くとともに、現代思想の最前線に位置する思想家として知られるよ うになる。ブランショの影響はロラン・バルトをはじめ多くの批評家・思想家に見られ、その反響は特にポスト構造主義の哲学者たちに見出せる。また彼は同年 にアラン・ロブ=グリエの小説『覗くひと』の評価をめぐって起きた「ヌーヴォー・ロマン論争」においてはロラン・バルトらとともにロブ=グリエ擁護の論陣 を張るなど、20世紀後半の文学の新しい展開とその評価の確立にあたっても大きな役割を果たした。その後は小説と批評とが接近する様相を見せはじめ、 1962年、小説『期待 忘却』や1973年、評論『彼方への一歩』ではどちらも断章が連ねられた形式がとられている。
・文学空間(1955)
政治的には、エミール・ゾラやジャン=ポール・サルトルのような、知識 人として公衆の面前に姿を現して意見や主張を述べ自らの影響力の大きさを利用して社会を動かそうとする政治参加の手法に批判的立場をとりつつ、自らの政治 的活動を模索することになる。アルジェリア戦争の際には、アルジェリアの独立を阻止しようとするフランス政府を批判し、マルグリット・デュラスやディオニ ス・マスコロらとともに命令に対するフランス軍兵士の不服従を擁護する「121人宣言」に署名したりした。デュラスらとは、1968年の五月革命でも共に 「作家学生行動委員会」を組織し、街頭行動にも参加して、無署名文書を執筆したことでも知られる(ブランショはデュラスに対して作家としても高い評価を与 え、「彼女の書いたいくつかの本をもはやそれ以上に先はないほど完璧に」愛したことがあると語っており、デュラスも小説『ユダヤ人の家』をブランショに捧 げている)。五月革命はブランショにとって重要な意味を持った事件のひとつであり、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に触発されて書かれた論 考『明かしえぬ共同体』では彼自身の共同体についての思想やレヴィナスの他者論などが織り交ぜられながら“68年5月”が振り返られている。

晩年になるにつれ次第に著作の発表が間遠になったが、それでも執筆は続 けられた。1994年には、自らが銃殺されかかった体験を簡潔かつ慎重な文体によって記した小説『私の死の瞬間』を発表して反響を呼ぶ(ジャック・デリダ の『滞留』は、この小説に触発されたデリダ自身の講演をもとにしている)。これ以降のブランショの著作はどれも評論、論考であった。2003年、95歳で 死去。フランスでは新聞各紙が大きく取り上げ、デリダは墓地でのブランショの葬儀に際して参列者を前に弔辞を読んでいる。死去発表の4日後に「ル・モン ド」紙に掲載された、アメリカの対イラク戦争に反対する市民活動「Not in our name(我々の名において為すな)」のアピールにはブランショの署名も記されていた。

Work
Blanchot's work explores a philosophy of death, not in humanistic terms, but through concerns of paradox, impossibility, nonsense and the noumenal that stem from the conceptual impossibility of death. He constantly engaged with the "question of literature", a simultaneous enactment and interrogation of the idiosyncratic act of writing. For Blanchot, "literature begins at the moment when literature becomes a question".[10]

Blanchot drew on the poetics of Stéphane Mallarmé and Paul Celan, as well as the concept of negation in the Hegelian dialectic, for his theory of literary language as something that is always anti-realist and so distinct from everyday experience that realism does not simply stand for literature about reality, but for literature concerning paradoxes made by the qualities of the act of writing. Blanchot's literary theory parallels Hegel's philosophy, establishing that actual reality always succeeds conceptual reality. For instance, "I say flower," Mallarmé wrote in "Poetry in Crisis", "and outside the oblivion to which my voice relegates any shape, [...] there arises [...] the one absent from every bouquet."[11]

What the everyday use of language steps over or negates is the physical reality of the thing for the sake of the abstract concept. Literature - through its use of symbolism and metaphor - frees language from this utilitarianism, thereby drawing our attention to the fact that language refers not to the physical thing, but only to an idea of it. Literature, Blanchot writes, remains fascinated by this presence of absence, and our attention is drawn, through the sonority and rhythm of words, to the materiality of language.

Blanchot's best-known fictional works are Thomas l'Obscur (Thomas the Obscure), an unsettling récit (which "is not the narration of an event, but that event itself, the approach to that event, the place where that event is made to happen ...")[12] about the experience of reading and loss, Death Sentence, Aminadab, and The Most High. His central theoretical works are "Literature and the Right to Death" (in The Work of Fire and The Gaze of Orpheus), The Space of Literature, The Infinite Conversation, and The Writing of the Disaster.
++++
ブランショは、その文学的営為の根本において、マラルメとフランツ・カ フカから多大な影響を受けた。日常的な言葉(物事や情報を道具的に交換するための言葉)ではない本質的な言葉として文学的言語を考えたマラルメの視点、ま た本質的な言葉によって創られた純粋な作品においては語り手・書き手は消滅して「語に主導権を譲る」というマラルメの考えは、ブランショの創作においても 文学思想においても決定的な重要性を持っている。同様に、カフカが日記やノートに書き記した様々な記述、例えば死や非人称的なものと書くこととの密接な関 わりを記した箇所や、「私」から「彼」への移行によって文学の豊かさを経験したと記した箇所などからも、ブランショは絶大なインパクトを受けている。この 二人からの影響を継承し、また友人たちや他の文学者・思想家たちと交流し感応しながら、ブランショは小説においても批評においても独自の地歩を達成して いった。
作品
ブランショの作品は、人文主義的な観点ではなく、死の概念的不可能性に由来するパラドックス、不可能性、ナンセンス、能天気といった問題を通して、死の哲 学を探求している。彼は常に「文学の問題」に取り組んでおり、それは書くという特異な行為の実現と問いかけの同時進行であった。ブランショにとって「文学 は、文学が問いとなる瞬間から始まる」[10]。

ブランショはステファヌ・マラルメとポール・セランの詩学、そしてヘーゲルの弁証法における否定の概念を用いて、常に反現実主義的であり、現実主義が単に 現実についての文学を意味するのではなく、書くという行為の特質によって作られるパラドックスに関する文学を意味するように、日常的な経験とは一線を画す ものとしての文学言語を理論化した。ブランショの文学理論はヘーゲルの哲学と類似しており、実際の現実が常に概念的現実を継承することを立証している。例 えば、「私は花と言う」とマラルメは『危機の詩』の中で書いているが、「そして、私の声がどんな形をも追いやる忘却の外に、[...]あらゆる花束から欠 落したものが[...]生じる」[11]。

言語の日常的な使用が踏み越える、あるいは否定するのは、抽象的な概念のために事物の物理的な現実である。文学は--象徴と比喩の使用を通じて--言語を この功利主義から解放し、それによって言語が物理的な事物を指すのではなく、その観念を指すにすぎないという事実に注意を向けさせる。ブランショは、文学 はこの不在の存在に魅了され続け、私たちの注意は、言葉の響きとリズムを通して、言語の物質性に引き寄せられると書いている。

ブランショの最も有名なフィクション作品は、読書と喪失の経験について書かれた不穏なレシット(「ある出来事の語りではなく、その出来事そのもの、その出 来事へのアプローチ、その出来事が起こる場所」)である『Thomas l'Obscur(Tomas the Obscure)』[12]、『Death Sentence』、『Aminadab』、『The Most High』である。主な理論的著作に『文学と死の権利』(『炎の仕事』『オルフェウスのまなざし』所収)、『文学の空間』、『無限の会話』、『災厄の記 述』などがある。
++++
・作風と思想
Themes
Blanchot engages with Heidegger on the question of how literature and death are both experienced as an anonymous passivity, an experience that Blanchot variously refers to as "the Neutral" (le neutre). Unlike Heidegger, Blanchot instead rejects the possibility of an authentic relation to death, because he rejects the conceptual possibility of death. In a manner similar to Levinas, who Blanchot later became influenced by with regards to the question of responsibility to the Other, he reverses Heidegger's position on death as the "possibility of the absolute impossibility" of Dasein, instead viewing death as the "impossibility of every possibility".[13]
++++
小説について、『謎の男トマ』や『アミナダブ』、『至高者』などの初期 の作品では、ジャン・ジロドゥーやカフカの影響が見られ、一応は小説的でありつつも既に従来のリアリズムからの逸脱・転倒が起きている。また、これらの作 品での主人公の体験する彷徨や紆余曲折が、ブランショの文学批評における「書き手の彷徨」や「死を潜ること」と対応していると見る評者もいる。『死の宣 告』以降はさらに伝統的リアリズムからの離脱が進み、作品の簡約化・簡潔化が進むと共に、次第に登場人物の固有名が明かされない傾向が強くなっていく (1950年に刊行された『謎の男トマ』改訂版で大幅な削除・短縮が行われたことに、このような作風の変遷が典型的に表れているとされる)。名前のわから ない1人称の語り手による回想という形式の作品がいくつか続くなかで、作品の突き詰めはいっそう進み、『期待 忘却』では物語そのものが断片化・断章化され、そのなかでの名前の無い男女の対話がおこなわれるという形をとる。晩年の最後の作『私の死の瞬間』では語り 手自身の問いかけを孕んだ簡潔な筆致によって一人の男の銃殺されかかる体験(ブランショ自身の実体験である)が記された。
テーマ
ブランショは、文学と死がともに匿名的な受動性としてどのように経験されるかという問題についてハイデガーと関わっている。ハイデガーとは異なり、ブラン ショは死との真正な関係の可能性を否定する。他者への責任という問題に関して後にブランショが影響を受けることになるレヴィナスと似たようなやり方で、彼 は死に対するハイデガーの立場を、ダーザインの「絶対的不可能性の可能性」として逆転させ、その代わりに死を「あらゆる可能性の不可能性」と見なしている [13]。
文学思想においては、前述のマラルメやカフカをはじめ、ライナー・マリ ア・リルケ、フリードリヒ・ヘルダーリン、アルベール・カミュ、ハーマン・メルヴィルなどさまざまな作家・詩人の批評を通して、自らの思想を提示した。日 常の活動的な「営み」から逸脱した「無為」として文学活動を捉え、その無為のさなかで作家は自らの死に臨み、死を前にして自らを支配し続け、顕現する非人 称的なもののさなかを潜り、まさに「文学空間」を彷徨うのだ、それが書くということなのだと語るブランショは、その行為をオルペウスの冥界下りになぞらえ ている(このオルペウスというモチーフもマラルメを経由している)。神秘神学やユダヤ思想とも共鳴しながら提示されたブランショの文学思想は、それまでの 「創作とは何か」ということについての考えに大きな変化をもたらすとともに、ロラン・バルトの『エクリチュールの零度』と並んで、現代思想におけるエクリ チュールの問題の前景化に多大な役割を果たした。

また、ブランショは、文学理論家とだけ見られることも多いが、その思想 の射程はずっと広範囲にわたっている。たとえば、ブランショは、死について「死においては、〈私〉が死ぬのではなく、〈私〉は死ぬ能力を失っている」と考 え、バタイユらとともに死を「経験できないものの経験」「不可能な経験」として論じた最初の世代である。[要出典]また『文学空間』以降、ナチスに加担し たハイデッガーの哲学への内在的批判を継続的に続けた。『友愛』などでの友愛についての論考、『明かしえぬ共同体』での共同体及び共同性についての思索も 重要であるほか、現代思想における主体批判とそれ以降の思想の向かう先をそれぞれの思想家が論じた評論集『主体の後に誰が来るのか?』にも参加している。 マルクス主義・共産主義に対する論考でも重要な論点を示しており(ブランショは共産主義に対し、批判しつつも避けがたい重要な課題だと考える両義的な態度 をとっていた)。ダニエル・ベンサイードは、『友愛』のなかでブランショがカール・マルクスについて述べた箇所を「過去の多くの注釈やテーゼよりも、はる かに多くを語っている」と讃えた。また、デリダは、『マルクスの亡霊たち』の中で、ブランショが提起した問題を論じている。晩年には、エマニュエル・レヴィナスの哲学やユダヤ思想への傾倒を強め、ミシェル・フーコーが 『自己への配慮』などの著作や講義などで古代ギリシャを取り上げたことに対して、それはヘブライでもよかったのではないかと書き記した。

フーコーが青春時代を回顧して「僕はブランショになろうと熱望してい た」と述懐し、また『外の思考』などの著作においてブランショに言及していることや、ジル・ドゥルーズが「ブランショこそが死の新しい概念を作り上げた」 と称賛していることは注目すべきである。ジャック・デリダも、その文体からしてブランショの圧倒的影響下にあり、『滞留』や『境域』などの著作で、ブラン ショに言及している。また、日本の哲学者田邊元も、晩年に「マラルメ論」を執筆する際、前年に出版されていたブランショの『文学空間』を取り寄せ精読して いた。また、ブランショの友人であったエマニュエル・レヴィナスは、ブランショに関する論考(『モーリス・ブランショ』として出版)を発表している。

Thomas l'obscur (1941年) (邦題『謎のトマ』 ※初版)
Aminadab (1942年) (邦題『アミナダブ』)
Le Très-Haut (1948年) (邦題『至高者』)
L'Arrêt de mort (1948年) (邦題『死の宣告』)
Thomas l'obscur (1950年) (邦題『謎の男トマ』 ※新版、初版を大幅に改定)
Au moment voulu (1951年) (邦題『望みのときに』)
Le ressassement éternel (1951年) (『永遠の繰り言』)
Celui qui ne m'accompagnait pas (1953年) (邦題『私についてこなかった男』)
Le Dernier Homme (1957年) (邦題『最後の人』)
L'Attente, l'oubli (1962年) (邦題『期待 忘却』『待つこと 忘れること』)
La folie du jour (1973年) (邦題『白日の狂気』)
Après Coup, précédé par Le ressassement éternel (1983年) (『事後的に 永遠の繰り言』)
L’instant de ma mort(1994年) (邦題『私の死の瞬間』)
・小説
Comment la littérature est-elle possible ? (1942年)(『文学はいかにして可能か』)
Faux pas (1943年) (邦題『踏みはずし』)
La part du feu (1949年) (『火の部分』、邦題『完訳 焔の文学』)
Lautréamont et Sade (1949年) (邦題『ロートレアモンとサド』)
L'espace littéraire (1955年) (邦題『文学空間』)
La Bête de Lascaux (1958年) (『ラスコーの野獣』)
Le livre à venir (1959年) (邦題『来るべき書物』)
L'entretien infini (1969年) (邦題『終わりなき対話』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)
L'amitié (1971年) (『友愛』)
Le pas au-delà (1973年) (『彼方への一歩』)
L'écriture du désastre (1980年) (『災厄のエクリチュール』)
De Kafka à Kafka (1981年) (『カフカからカフカへ』)
La communauté inavouable (1983年) (邦題『明かしえぬ共同体』)
Le dernier à parler (1984年) (『最後に語る人』)
Michel Foucault tel que je l'imagine (1986年) (邦題『ミシェル・フーコー 想いに映るまま』)
Joë Bousquet (1987年)
Une voix venue d'ailleurs - Sur les poèmes de LR des Forêts (1992年) (『他処から来た声――ルイ=ルネ・デ・フォレの詩について』)
Pour l'amitié (1996年) (邦題『友愛のために』)
Les intellectuels en question (1996年)(邦題『問われる知識人―ある省察の覚書』)
Henri Michaux ou le refus de l'enfermement (1999年) (『アンリ・ミショー あるいは閉塞の拒否』)
Une voix venue d’ailleurs (2002年) (『他処から来た声』)
Ecrits politiques (1958-1993) (2003年) (邦題『政治論集 1958~1993』)
Chroniques littéraires du "Journal des Débats" (2007年)
Lettres à Vadim Kozovoï (1976-1998)" (2009年)
La Condition critique. Articles, 1945-1998" (2010年)
ジャン・ポーランと『言語と文学』
・批評
エマニュエル・レヴィナス『モーリス・ブランショ』内田樹訳、国文社、 1992年、新装版2015年
クリストフ・ビダン『モーリス・ブランショ 不可視のパートナー』上田和彦ほか訳、水声社、2014年
ジャン=リュック・ナンシー『モーリス・ブランショ 政治的パッション』安原伸一朗訳、水声社、2020年
・作家論
死にゆく者に立会い「君は死んでは『いけない』」という禁止の言葉を言 うこと。この感覚が人をして共同体(=社会)を作ろう共同体を維持しようとする気にさせる。そしてそれを実践する。
社 会存立のための弁証法、より
https://fr.wikipedia.org/wiki/Maurice_Blanchot
Biographie
De 1907 à 1939
Maurice Blanchot naît le 22 septembre 1907 au hameau de Quain à Devrouze (Saône-et-Loire), dans un milieu aisé. Il suit ses études à Strasbourg (philosophie, option allemand) de 1926 à 1929. Il fréquente l'Action française et déambule muni d'une canne au pommeau d'argent[réf. nécessaire]. C'est à Strasbourg qu'il rencontre Emmanuel Levinas : « très éloigné de moi politiquement à cette époque-là, il était monarchiste. » Blanchot dira : « [...] Emmanuel Levinas, le seul ami — ah, ami lointain — que je tutoie et qui me tutoie ; cela est arrivé, non pas parce que nous étions jeunes, mais par une décision délibérée, un pacte auquel j'espère ne jamais manquer. » (Pour l'Amitié). Jacques Derrida qualifiera cette amitié de « bénédiction de ce temps »2. En 1928, il achève la lecture de Être et Temps de Martin Heidegger : « Grâce à Emmanuel Levinas, sans qui, dès 1927 ou 1928, je n'aurais pu commencer à entendre Sein und Zeit, c'est un véritable choc intellectuel que ce livre provoqua en moi. Un événement de première grandeur venait de se produire : impossible de l'atténuer, même aujourd'hui, même dans mon souvenir »3. Il passe son certificat d'études supérieures à Paris en 1929, puis obtient son diplôme à la Sorbonne en 1930 en réalisant un travail sur la conception du dogmatisme chez les Sceptiques. Il suit alors des études de médecine à l'hôpital Sainte-Anne, avec une spécialisation en neurologie et psychiatrie[réf. souhaitée].

À partir de 1931, Blanchot collabore aux revues et journaux de la Jeune Droite4 : il publie son premier texte en février 1931 à la Revue universelle de Jacques Bainville et Henri Massis : « Deux hommes en moi, par Daniel Rops ». Il publie également à la Revue française d'Antoine Redier, aux Cahiers mensuels de Jean-Pierre Maxence, et au Journal des Débats dont il sera critique littéraire, chroniqueur et rédacteur en chef jusqu'à sa dissolution en 1944 (« c'est là qu'il passera, pendant près de dix ans, le plus clair de son temps »5). Il collabore à la revue Réaction pour l'ordre de Jean de Fabrègues. En 1932[réf. souhaitée], il commence la rédaction de Thomas l'Obscur. En 1933, il entre au Rempart (de Paul Lévy) tout en poursuivant son travail au Journal des Débats. « Avec Blanchot, Maxence et Maulnier à des postes-clés, la Jeune Droite occupe cependant une place importante »6. Après la fin du Rempart, Blanchot retrouve Levy à Aux écoutes, où il est également rédacteur en chef. En 1935-1936[réf. souhaitée], il écrit Le Dernier Mot et L'Idylle, qui seront d'abord republiés dans Le Ressassement éternel en 1951, puis dans Après coup en 1983. En 1936, il entre à la revue Combat de Thierry Maulnier, où il vitupère Léon Blum, puis à L'Insurgé en 1937, hebdomadaire d'extrême droite fondé par Thierry Maulnier et Jean-Pierre Maxence le 13 janvier 19377,8, où il écrit en moyenne deux articles par semaine, dont certains consacrés à Charles Maurras qui lui reprochait son manque d'orthodoxie8. Outre « La Dentelle du Rempart, par Charles Maurras » (L'Insurgé, 24 février 1937), Blanchot continue à faire référence à Maurras dans le but de rallier une partie de la droite conservatrice à la cause d'une révolution nationale qu'il appelle de ses vœux depuis 19339. Blanchot va jusqu'à écrire : « Maurras est le seul dont on puisse dire qu'il a vraiment pensé »10.
バイオグラフィー
1907年から1939年まで
モーリス・ブランショは1907年9月22日、裕福な家庭に生まれた。1926年から1929年までストラスブールでドイツ語を専攻し、哲学を学ぶ。アク ション・フランセーズに足繁く通い、銀のつまみのついた杖をついて歩いた[要参照]。エマニュエル・レヴィナスと出会ったのはストラスブールだった。エマ ニュエル・レヴィナスは、私がファースト・ネームで呼び合い、また私ともファースト・ネームで呼び合う唯一の友人である。(それは、私たちが若かったから ではなく、意図的な決定によるものであり、私が決して破ることのないことを望む約束なのだ」(『Pour l'Amitié』)。ジャック・デリダはこの友情を「現代の祝福」と表現した2。1928年、彼はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を読み終え た。「エマニュエル・レヴィナスのおかげで、彼がいなければ、1927年か1928年の時点で、私は『存在と時間』(Sein und Zeit)を聴き始めることができなかっただろう。1929年にパリで高等教育修了証書に合格し、1930年に懐疑論者の教条主義概念に関する論文でソル ボンヌ大学の学位を取得した。その後、サント・アンヌ病院で医学を学び、神経学と精神医学を専門とした。

1931年以降、ブランショは『ジュン・ドロワット』4 の雑誌や新聞に寄稿し、1931年2月、ジャック・バンヴィルとアンリ・マッシの『Revue universelle』に最初の文章「Deux hommes en moi, par Daniel Rops」を発表した。また、アントワーヌ・ルディエの『Revue française』、ジャン=ピエール・マクサンスの『Cahiers mensuels』、『Journal des Débats』にも寄稿し、1944年の解散まで文芸評論家、コラムニスト、編集長を務めた(「10年近く、ほとんどの時間をそこで過ごした」5)。ジャ ン・ド・ファブレーグの雑誌『秩序のための反応』にも寄稿した。1932年、Thomas l'Obscurの執筆を始める。1933年、ポール・レヴィの『Rempart』に参加する一方、『Journal des Débats』誌での仕事を続ける。ブランショ、マクサンス、モルニエの3人が重要なポストに就いていたにもかかわらず、『ジュン・ドロワ』は重要な位置 を占めていた」6。Rempartの終了後、ブランショはAux écoutesでレヴィと再会し、そこで編集長も務めた。1935年から1936年にかけて、『Le Dernier Mot』と『L'Idylle』を執筆し、1951年に『Le Ressassement éternel』、1983年に『Après coup』で再刊された。1936年には、ティエリ・モーニエの雑誌『コンバット』に参加し、レオン・ブルムを酷評し、1937年には、ティエリ・モーニ エとジャン=ピエール・マクサンスによって193年1月13日に創刊された極右週刊誌『インシュルジェ』(L'Insurgé)に参加した8。La Dentelle du Rempart, par Charles Maurras" (L'Insurgé, 24 February 1937)に加えて、ブランショは、1933年から呼びかけていた国民革命の大義に保守右派の一部を結集させる目的で、モーラスに言及し続けた9。ブラン ショは「モーラスは 「10 」を本当に考えたと言える唯一の人物である」とまで書いている。
De 1939 à 1945
En mai 1940, Thomas l'Obscur est terminé : Jean Paulhan le reçoit chez Gallimard. Après l'invasion allemande, Blanchot soutient la prise de pouvoir du maréchal Pétain, critiquant les hommes politiques de l'entre-deux-guerres11. Il obtient du régime de Vichy l'autorisation officielle de faire paraître Aux écoutes à Clermont-Ferrand et y assure les fonctions de directeur pour trois numéros (n° des 13, 20 et 27 juillet)12. Il entre à l'association Jeune France fondée le 20 novembre 1940 et y devient, dans Paris occupé, le responsable de l'édition littéraire. « À partir d'avril 1941, et jusqu'aux derniers jours, Blanchot assurera le Journal des Débats, toujours plus vichyste, ultra-maréchaliste, d'une chronique littéraire régulière »13.

Dans le même temps, en novembre 1940, Blanchot sauve Paul Lévy des persécutions, puis met en sécurité la femme et la fille de Levinas. Il participe à un réseau d'aide aux clandestins dans sa région natale[réf. souhaitée].

À la fin de 1940, il rencontre Georges Bataille ainsi que sa compagne Denise Rollin (qui a peut-être eu une aventure avec Blanchot). Bataille lit à Blanchot L'Expérience intérieure, qui sera fort redevable à Thomas l'Obscur. Celui-ci fut publié en 1941 : Paulhan le conseille à la NRF ; en 1942 suit son second roman, Aminadab. Il rencontre Dionys Mascolo en 1943, alors qu'il publie son premier recueil de textes critiques, Faux Pas. Il devient membre du jury du prix de la Pléiade fondé par la NRF.

En 1944, Blanchot séjourne à Quain, où il dit avoir vécu l'un des événements les plus dramatiques de sa vie, relaté cinquante ans plus tard dans L'Instant de ma mort : il raconte avoir failli être fusillé par des soldats allemands. Depuis ce jour, la mort, comme déjà passée et devant revenir à nouveau, ne le quitta plus.
1939年から1945年まで
1940年5月、トマは『オブスキュール』を完成させ、ジャン・ポーランがガリマールで彼を迎えた。ドイツ侵攻後、ブランショはペタン元帥の政権奪取を支 持し、戦間期の政治家たちを批判した11。クレルモン=フェランで『Aux écoutes』を発行する許可をヴィシー政権から正式に得て、3号(7月13日、20日、27日号)の編集長を務めた12。1940年11月20日に設 立されたジュヌ・フランス協会に参加し、占領下のパリで文芸出版の責任者となった。1941年4月から晩年まで、ブランショは『ジュルナル・デ・バット』 紙に定期的に文学コラムを寄稿していたが、このコラムはヴィシー派と超マルシャリストの傾向を強めていた13。

同時に1940年11月、ブランショは迫害からポール・レヴィを救い出し、レヴィナスの妻と娘を安全な場所に連れて行った。彼は生まれ故郷で不法移民のための援助ネットワークに参加した[réf. souhaitée]。

1940年末、ジョルジュ・バタイユとその伴侶ドゥニーズ・ロラン(ブランショと不倫関係にあったかもしれない)に出会う。バタイユはブランショの『内的 エクスペリエンス』を読み、『トマ・ル・オブスキュール』に大きな恩義を感じることになる。この作品は1941年に出版され、ポーランがNRFに推薦し た。1942年には2作目の『アミナダブ』が出版された。1943年にディオニス・マスコロと出会い、最初の批評文集『Faux Pas』を出版する。NRFが創設したプレヤード賞の審査員となる。

1944年、ブランショはカンに滞在し、そこで人生で最も劇的な出来事のひとつを経験したと語っている。50年後の『わが死の瞬間』(L'Instant de ma mort)で、彼はドイツ兵に撃たれそうになったと語っている。その日以来、死は彼のもとを離れず、まるで死はすでに過ぎ去り、また戻ってくるかのよう だった。
De 1945 à 2003
Après la guerre, Blanchot nie son engagement maréchaliste[réf. souhaitée]. Reconnu comme un grand critique, il devient un membre éminent de la scène littéraire française. En 1945, il fait partie du jury du prix des Critiques aux côtés de Marcel Arland, Jean Blanzat, André Billy, Jean Grenier, Émile Henriot, Armand Hoog, Robert Kemp, Frédéric Lefèvre, Gabriel Marcel et Jean Paulhan14, ainsi que du jury du prix de la Pléiade aux côtés de Marcel Arland, Joe Bousquet, Paul Éluard, Jean Grenier, Albert Camus, André Malraux, Jean Paulhan, Raymond Queneau, Jean-Paul Sartre, Roland Tual15. Il collabore dans le même temps à diverses revues importantes : à L'Arche, qu’il rejoint dans son édition parisienne d’août 1945 en y publiant un texte sur le surréalisme (L'Arche, n° 8), signalé dans Combat (14 septembre 1945), dans Les Lettres françaises (20 octobre 1945) et encore dans Fontaine (1er décembre 1945)16, aux premiers numéros des Temps modernes, à la nouvelle revue Critique ou il rencontre Jean Piel. Il donne un texte sur L'Espoir de Malraux à un numéro de la collection « Actualité » de Georges Bataille consacré à L'Espagne libre17, en même temps que Bataille, Albert Camus, Jean Camp, Jean Cassou, Roger Grenier, Max-Pol Fouchet.

À la fin de l'année 1946, il décide de quitter Paris et s'installe à Èze-sur-Mer dans les Alpes-Maritimes. Il poursuit une œuvre toujours plus exigeante et de laquelle il extirpe toute donnée biographique18. Il publie son dernier roman, Le Très-haut en 1948, et dès 1947, avec Le Dernier Mot jusqu'à la fin de sa vie, il n'écrit plus désormais que des récits. Une étude, Lautréamont et Sade, est publiée en 1949, ainsi qu'un second recueil de textes critiques, La Part du feu, dans lequel se trouve peut-être le programme de son « livre » à venir, La Littérature et le Droit à la mort. Il publie dans la revue Empédocle « Un récit ? » (qui ne sera publiée en livre qu'en 1973 sous le titre La Folie du jour). À la suite du choix du genre du récit, il retravaille Thomas l'obscur, l'abrège de deux cents pages, le termine en 1948 (il sera republié en 1950). En 1953, il commence sa collaboration à la NRF, régulièrement, jusqu'au moins 1969. Il regroupe les premiers de ces essais (les Recherches) dans L'Espace littéraire, puis Le Livre à venir. Un autre récit suit, Le Dernier Homme, en 1957. Il revient alors à Paris, où il rencontre Robert Antelme, dont il devient l'ami.

Toujours plus en retrait, dans le silence de ce qu'il nomme la « solitude essentielle »19, il côtoie pourtant Antelme, Marguerite Duras, Dionys Mascolo, Ginetta et Elio Vittorini, et sa pensée tend à se radicaliser. Il participe activement au Manifeste des 121 défendant le droit à l'insoumission en Algérie20. À partir de 1960-1961, l'idée germe de création d'une Revue internationale. Le projet, porté par Blanchot jusqu'en 1964 au moins, recoupera l'histoire de la plupart des écrivains importants des années 1950 et 1960 en Europe, ainsi qu'aux États-Unis et en Amérique du Sud. Louis-René des Forêts sera l'un des piliers, avec Vittorini, Hans Magnus Enzensberger, et dans une moindre mesure, Italo Calvino, Roland Barthes, Michel Butor, Günter Grass, etc.

En 1962, paraît L'Attente l'oubli, point d'orgue de son œuvre, première tentative d'écriture du fragment.

Blanchot rencontre pour la première fois Jacques Derrida en février 1968, puis Gilles Deleuze, Roland Barthes, Roger Laporte. Il prend part aux défilés de Mai-Juin 68 avec Mascolo et Duras notamment, et participe aux Comités Écrivains-Étudiants21. Blanchot se retire alors de plus en plus dans le silence, ne réservant son accueil qu'à de rares amis. Après la publication de la somme qu'est L'Entretien infini en 1969 (année de la mort de Jean Paulhan), il ne pratique plus que le fragment ; il publie Le Pas au-delà (1973), puis L'Écriture du désastre (1980). Son dernier livre de narration, L'Instant de ma mort, paraît en 1994. Ce livre marque la transition entre le personnel et le collectif, le biographique et le récit.

La Communauté inavouable (1983), sur Bataille, Duras et le communisme, marque le début de plusieurs textes à la fois politiques et d'hommages, comme Pour l'amitié ou Les Intellectuels en question en 1996, ou d'autres d'abord publiés chez Fata Morgana.

À la suite de la publication d'un ouvrage d'Alain de Benoist chez Fata Morgana, Maurice Blanchot dénonce l'antisémitisme de ce dernier22, et écrit une lettre au directeur de la maison d'édition, Bruno Roy, en lui annonçant sa rupture avec les éditions Fata Morgana, si on n'enlève pas l'ouvrage d'Alain de Benoist. Bruno Roy lui répond23 toutefois par une lettre de menace de ressortir les anciens livres politiques de Maurice Blanchot, c'est-à-dire de son passé d'extrême droite, pourtant déjà connu de tous. La Quinzaine littéraire du 1er novembre 1996 (relayée par Le Monde et d'autres quotidiens) fait état des échanges entre Fata Morgana et Maurice Blanchot. En substance, Bruno Roy lui fait savoir que, notamment, des auteurs issus de la gauche, ont accepté (1993), de publier des textes dans la revue Krisis, dirigée par Alain de Benoist ; et que ce dernier et son œuvre ne sont pas, à proprement parler, antisémites.

Il quitte Fata Morgana, les autres textes sont ainsi regroupés dans Une voix venue d'ailleurs en 2001 (essais sur Louis-René des Forêts, Michel Foucault et Paul Celan). Il prend encore position en faveur du peuple juif, pour la reconnaissance légale du couple homosexuel, contre les lois Pasqua-Debré.

Ne côtoyant plus que Jacques Derrida et deux ou trois amis proches, resté célibataire, Blanchot meurt en 2003, à l'âge de 95 ans. Il est inhumé au cimetière du Mesnil-Saint-Denis (Yvelines), dans la même tombe que son frère, l'architecte René Blanchot.

1945年から2003年まで
戦後、ブランショはマレシャリストへのコミットメントを否定した。偉大な批評家として認められ、フランス文学界の著名なメンバーとなる。1945年には、 マルセル・アーランド、ジャン・ブランザット、アンドレ・ビリー、ジャン・グルニエ、エミール・アンリオ、アルマン・ホーグ、ロベール・ケンプ、フレデ リック・ルフェーヴル、ガブリエル・マルセル、ジャン・ポーラン14らとともに批評家賞の審査員を務め、マルセル・アーランド、ジョー・ブスケ、ポール・ エルアール、ジャン・グルニエ、アルベール・カミュ、アンドレ・マルロー、ジャン・ポーラン、レイモン・ケノー、ジャン=ポール・サルトル、ロラン・トゥ アル15らとともにプレヤード賞の審査員を務めた。同時に、多くの重要な雑誌に寄稿している。1945年8月のパリ版『L'Arche』にシュルレアリス ムに関する論文(『L'Arche』8号)で参加し、『Combat』(1945年9月14日号)、『Les Lettres françaises』(1945年10月20日号)、『Fontaine』(1945年12月1日号)16、『Temps modernes』の創刊号、そしてジャン・ピエルと出会った新雑誌『Critique』である。バタイユ、アルベール・カミュ、ジャン・カンプ、ジャ ン・カッスー、ロジェ・グルニエ、マックス=ポール・フーシェらとともに、ジョルジュ・バタイユの『アクトゥアリテ』誌の「自由なスペイン」17特集号 に、マルローの『エスポワール』に関する論文を寄稿した。

1946年末、パリを離れ、アルプ=マリティーム県のエズ・シュル・メールに居を構える。彼の仕事はますます厳しくなり、すべての伝記的データを削除した 18。1948年に最後の小説『Le Très-haut』を発表し、1947年の『Le Dernier Mot』以降、生涯、小説だけを書き続けた。1949年には研究書『ロートレアモンとサド』(Lautréamont et Sade)が出版され、2冊目の批評文集『La Part du feu』(La Part du feu)も出版された。批評誌『Empédocle』では、『Un récit ?』を発表した(『La Folie du jour』というタイトルで単行本として出版されたのは1973年のこと)。物語というジャンルを選んだ後、『トマ・ローブシュール』を手直しし、200 ページ短縮して1948年に完成させた(1950年に再出版)。1953年からNRFに寄稿を始め、少なくとも1969年まで定期的に執筆を続けた。これ らのエッセイの最初のもの(Recherches)を『L'Espace littéraire』にまとめ、続いて『Le Livre à venir』を出版した。1957年には、『Le Dernier Homme』(邦題『紳士』)が出版された。その後、パリに戻り、ロベール・アンテルムと出会い、友人となる。

彼が「本質的な孤独19」と呼ぶ静寂の中で、彼はますます内向的になっていったが、それでもアンテルム、マルグリット・デュラス、ディオニス・マスコロ、 ジネッタ、エリオ・ヴィットリーニらと肩を並べ、彼の思考はより先鋭化する傾向にあった。彼は121年のマニフェストに積極的に参加し、アルジェリアにお ける反抗の権利を擁護した20。1960年から1961年にかけて、インターナショナル・レビューの創設という構想が生まれた。少なくとも1964年まで ブランショが主導したこのプロジェクトは、1950年代から60年代にかけてのヨーロッパ、そしてアメリカや南米の主要な作家たちの歴史と交差することに なる。ルイ=ルネ・デ・フォーレは、ヴィットリーニ、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー、そして少ないながらもイタロ・カルヴィーノ、ロラン・バル ト、ミシェル・ビュトール、ギュンター・グラスなどとともに、主力の一人であった。

1962年、ブランショの最高傑作であり、初めて断片的な文章を試みた『L'Attente l'oubli』が出版された。

ブランショは1968年2月にジャック・デリダと出会い、その後ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルト、ロジェ・ラポルトらと出会う。68年5月から6月にか けてのパレードに、特にマスコロやデュラスとともに参加し、作家・学生委員会21にも参加した。その後、ブランショはますます沈黙の中に引きこもり、ほん の一握りの友人を迎えるだけになった。1969年(ジャン・ポーランが亡くなった年)に豪華な『L'Entretien infini』を出版した後は、断片的な作品しか書かなくなった。1994年に最後の物語本『L'Instant de ma mort』が出版された。この本は、個人的なものと集団的なもの、伝記的なものと物語的なものとの間の移行を示すものである。

La Communauté inavouable』(1983年)は、バタイユ、デュラス、共産主義について書かれたもので、1996年の『Pour l'amitié(Pour l'amitié)』や『Les Intellectuels en question(Lesインテレクチュエル・アン・クエスチョン)』など、ファタ・モルガナから初めて出版された、政治的でありオマージュでもあるいく つかのテキストの始まりとなった。

アラン・ド・ブノワの作品がファタ・モルガナから出版された後、モーリス・ブランショはブノワの反ユダヤ主義を糾弾し22、出版社のディレクターであるブ ルーノ・ロワに書簡を送り、アラン・ド・ブノワの作品が削除されない限り、ファタ・モルガナと決別すると宣言した。ブルーノ・ロワは、モーリス・ブラン ショの古い政治的著書、つまりすでによく知られていた彼の極右的過去を持ち出すと脅迫する手紙を返信した23。1996年11月1日付の『カンゼーヌ・リ テレール』紙(『ル・モンド』紙などが伝えた)は、ファタ・モルガナとモーリス・ブランショのやりとりを報じた。要するに、ブルーノ・ロワはブランショ に、1993年に左派の作家たちがアラン・ド・ブノワの主宰する批評誌『クリシス』に文章を掲載することに同意したこと、ド・ブノワとその作品は厳密に言 えば反ユダヤ主義的なものではないことを伝えたのである。

彼はファタ・モルガナを去り、他のテキストは2001年の『Une voix venue d'ailurs』(ルイ=ルネ・デ・フォレ、ミシェル・フーコー、ポール・セランに関するエッセイ)にまとめられた。彼はまた、ユダヤ人を支持し、同性 愛カップルを法的に認め、パスクア・デブレ法に反対する立場をとった。

ブランショは2003年、ジャック・デリダと2、3人の親しい友人だけを残して95歳で亡くなった。イヴリーヌのメニル=サン=ドニ墓地に、兄で建築家のルネ・ブランショと同じ墓に埋葬されている。

L'œuvre de Maurice Blanchot
La portée, l'influence, l'importance des textes de Maurice Blanchot sur la littérature et la philosophie françaises d'après-guerre est un fait incontestable. Son œuvre balance à première vue entre hermétisme (revenant à l'un des auteurs les plus lus de Blanchot, Stéphane Mallarmé) et terrorisme (imputable à une autre des figures de formation du jeune Blanchot, celle de Jean Paulhan)24. L'œuvre de Blanchot serait ainsi l'héritière d'une tradition littéraire française : née de l'audience d'écrivains tels Maurice Scève, cette tradition se répercuterait chez Mallarmé, Paul Valéry, Paulhan, et se poursuivrait, dans une certaine mesure, chez Samuel Beckett, Marguerite Duras, Edmond Jabès ou Jacques Derrida, qui a proposé plusieurs lectures — notamment politiques — de l’oeuvre de Blanchot25.

Son œuvre et le silence dont il a cerné sa vie d'homme, mais aussi ses engagements politiques et sa poétique exigeante, ont fait de Blanchot une figure mythique, guide ou nocher, ou, pour d'autres, ennemi public ou gourou. La passion qui se cristallise sur son nom n'a d'égal que l'absence de renommée auprès du grand public.

Son cheminement politique (de l'extrême droite à la gauche), ses prises de positions, notamment contre Charles de Gaulle, son opposition, moins virulente, à Jean-Paul Sartre, les écrivains qui se réclament de lui ou que lui-même a soutenus contre tous, son irrésistible parenté avec La Nouvelle Revue française, son engagement aux côtés du peuple juif et le questionnement impossible de la Shoah (Auschwitz) ; enfin ses amitiés indéfectibles, en particulier avec Emmanuel Levinas et Georges Bataille font de lui, bien qu'absent de la scène médiatique et sujet à une maladie obscure qui semble éternelle, une personnalité complexe.
モーリス・ブランショの仕事
モーリス・ブランショの著作が戦後のフランス文学と哲学に与えた範囲、影響力、重要性は議論の余地がない。一見したところ、ブランショの作品は、密閉主義 (ブランショの最も広く読まれた作家の一人、ステファン・マラルメに起因する)とテロリズム(若きブランショの形成者の一人、ジャン・ポーランに起因す る)の間でバランスをとっているように見える24。モーリス・シェーヴのような作家の読者から生まれたこの伝統は、マラルメ、ポール・ヴァレリー、ポーラ ンに受け継がれ、サミュエル・ベケット、マルグリット・デュラス、エドモン・ジャベス、ジャック・デリダにもある程度受け継がれることになる。

ブランショの作品と、彼の人生を包んでいた沈黙、そして政治的コミットメントとその厳しい詩学は、ブランショを神話的な人物、指導者、批評家、あるいは他の人々にとっては公の敵、教祖のような存在にしてきた。ブランショの名前に集まる情熱は、彼の知名度の低さに匹敵する。

彼の政治的キャリア(極右から左翼へ)、特にシャルル・ド・ゴールに反対する立場、ジャン=ポール・サルトルへのそれほど激烈でない反対、彼の信奉者を名 乗る作家たち、あるいは彼自身があらゆる困難を乗り越えて支持した作家たち、『ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』との抗いがたい親近感、ユダヤ人へのコ ミットメント、そしてショア(アウシュヴィッツ)への不可能な問いかけ......; 最後に、特にエマニュエル・レヴィナスやジョルジュ・バタイユとの揺るぎない友情は、メディアの表舞台から姿を消し、永遠の病のように見えるにもかかわら ず、彼を複雑な人格にしている。
La parole de Blanchot
Pour le lecteur qui découvre Blanchot, soit par le récit ou le roman, soit par l'essai26, l'expérience est nouvelle. Pour lire Blanchot, le lecteur doit consentir à entrer dans un langage qui, bien que jamais réellement difficile, surprend, et demande, essentiellement, face à la syntaxe ardue et la méthode rigoureuse, de pousser jusqu'au bout, à la fois la pensée et le langage, ainsi que la tension entre l'un et l'autre.

Influencé par le versant linguistique de la réflexion de Jean Paulhan, notamment les textes sur le triptyque pensée-langage-signe (d'une facture différente des préceptes du structuralisme linguistique de Saussure à Jakobson) : Jacob Cow le pirate (1921), Clef de la Poésie (1944), et bien sûr Les Fleurs de Tarbes (1941). Le premier texte critique publié par Blanchot : Comment la littérature est-elle possible ?, en 1942 chez José Corti, précisément entre les Fleurs et Clef de Paulhan, marque à la fois l'empreinte de celui-ci et le souci majeur de la « poétique » blanchotienne.

En effet, tous les premiers écrits de Blanchot, qui méditent sur un énorme réservoir de publications françaises et étrangères, notamment allemandes et américaines, semblent être moins des essais au sens classique du terme que le fruit d'une expérience littéraire propre, un avant-propos, une initiation « à la Montaigne », dont la suite de l'œuvre sera désormais un approfondissement continu.

Remarquons enfin que cette époque correspond au début de l'écriture du grand roman de Blanchot, Thomas l'obscur. Ce que l'on peut dire de cette époque de formation (longue toutefois), le texte blanchotien se construit, et pour en saisir le sel, nous pouvons poser comme citation liminaire cet extrait de Thomas l'obscur.

« Thomas demeura à lire dans sa chambre. Il était assis, les mains jointes au-dessus de son front, les pouces appuyés contre la racine de ses cheveux, si absorbé qu'il ne faisait pas un mouvement lorsqu'on ouvrait la porte. Ceux qui entraient, voyant son livre toujours ouvert aux mêmes pages, pensaient qu'il feignait de lire. Il lisait. Il lisait avec une attention et une minutie insurpassables. Il était, auprès de chaque signe, dans la situation où se trouve le mâle quand la mante religieuse va le dévorer. L'un et l'autre se regardaient. Les mots, issus d'un livre qui prenait une puissance mortelle, exerçaient sur le regard qui les touchait un attrait doux et paisible. Chacun d'eux, comme un œil à demi fermé, laissait entrer le regard trop vif qu'en d'autres circonstances il n'eût pas souffert [...] Il se voyait avec plaisir dans cet œil qui le voyait. Son plaisir même devint très grand. Il devint si grand, si impitoyable qu'il le subit avec une sorte d'effroi et que, s'étant dressé, moment insupportable, sans recevoir de son interlocuteur un signe complice, il aperçut toute l'étrangeté qu'il y avait à être observé par un mot comme par un être vivant, et non seulement un mot, mais tous les mots qui se trouvaient dans ce mot, par tous ceux qui l'accompagnaient et qui à leur tour contenaient eux-mêmes d'autres mots, comme une suite d'anges s'ouvrant à l'infini jusqu'à l'œil absolu. D'un texte aussi bien défendu, loin de s'écarter, il mit toute sa force à vouloir se saisir, refusant obstinément de retirer son regard, croyant être encore un lecteur profond, quand déjà les mots s'emparaient de lui et commençaient de le lire. »

— (pp. 27-28)

Cette longue citation, malgré sa décontextualisation et l'impossibilité chez Blanchot d'élever des phrases à des exempla, nous permet de poser, en premier lieu, l'une des principales thématiques chez Blanchot : la lecture.


ブランショの言葉
物語や小説を通して、あるいはエッセイ26 を通してブランショを発見した読者にとって、その体験は新しいものである。ブランショを読むためには、読者は、決して難しくはないものの、驚きを与え、本 質的には、困難な構文と厳格な方法を前にして、思考と言語の両方を限界まで押し上げ、一方と他方の間の緊張を高めることを要求する、この言語の世界に足を 踏み入れることに同意しなければならない。

ジャン・ポーランの言語学的思考の側面、特に思考-言語-記号の三段論法(ソシュールからヤコブソンに至る言語構造主義の戒律とは異なる)に関する彼のテ キストに影響を受けている: Jacob Cow le pirate』(1921年)、『Clef de la Poésie』(1944年)、そしてもちろん『Les Fleurs de Tarbes』(1941年)である。ブランショの最初の批評書『Comment la littérature est-elle possible』は、1942年にジョゼ・コルティ社から出版され、まさにポーランの『Fleurs』と『Clef』の間に位置する。

実際、ブランショの初期の著作はすべて、フランスと外国、特にドイツとアメリカの膨大な出版物の蓄積を反映したものであり、古典的な意味でのエッセイというよりは、彼自身の文学的経験の結晶、序文、「モンテーニュ的」イニシエーションであるように思われる。

最後に、この時期がブランショの偉大な小説『トマ・ローブシュール』の始まりと重なることを指摘しておきたい。この形成期について(長い期間ではあった が)言えることは、ブランショ的テクストが構築されつつあったということであり、その本質を把握するために、『Thomas l'obscur』からの抜粋を導入的引用として用いることができる。

「トマスは部屋で本を読んでいた。両手を額の上で組み、親指を髪の根元に当てて座り、ドアが開いても動かないほど没頭していた。いつも同じページを開いて いる彼の本を見て、入ってきた人は彼が本を読んでいるふりをしているのだと思った。彼は読んでいた。彼は細部まで注意を払いながら読んでいた。それぞれの サインで、彼はカマキリが自分を食べようとしているときのオスのような体勢だった。二人は顔を見合わせた。死すべき力を帯びた書物から取り出された言葉 は、それに触れる視線に優しく穏やかな魅力を及ぼしていた。半分閉じられた目のように、その一つひとつが、他の状況では受けることのないような、あまりに も鮮やかなまなざしを放った[......]。彼の快楽は非常に大きくなった。それはとても大きく、とても無慈悲なものとなり、彼はある種の恐怖を感じな がらそれに耐え、耐え難い瞬間、相手から共犯のサインを受け取ることなく立ち上がり、彼は、言葉によって生き物のように観察されることがいかに奇妙なこと であるかを悟った、 一つの言葉だけでなく、その言葉に含まれるすべての言葉、その言葉に付随するすべての言葉、そして他の言葉を含むすべての言葉によって、まるで絶対的な眼 差しに無限に開かれた天使の連なりのように。彼は、そのような十分に防御されたテキストから目をそらすどころか、そのテキストをつかみたいと思うことに全 力を注ぎ、視線をそらすことをかたくなに拒み、自分がまだ深遠な読者であると信じていた。

- 27-28ページ)。

この長い引用文は、脱文脈的であり、ブランショが文章を模範解答に昇格させることができないにもかかわらず、ブランショの主要なテーマのひとつである「読書」を提起することから始めることを可能にしている。

Le rapport : lecture/écriture

Car Maurice Blanchot est avant tout un lecteur, qui assaille d'une lecture serrée le remous littéraire. Si Thomas l'obscur était le premier roman de l'auteur, celui-ci écrit depuis les années 1930 des articles qui s'autorisent de plus en plus des incursions en terrain littéraire, pour devenir réellement lectures.

Tout le répertoire classique y passe, ainsi que nombre de parutions contemporaines de l'époque. Les deux premiers recueils critiques de Blanchot, Faux pas et La Part du feu, regorgent de textes qui cherchent à cerner « quelque chose » de la littérature.

Ce « quelque chose » arrive à la fin de La Part du feu. On le retrouve dans le texte fondateur « La Littérature et le droit à la mort », qui transcende l'œuvre de Hegel par celle de Mallarmé ainsi que dans le petit essai Comment la littérature est-elle possible ?. Pour Blanchot, le travail de l'écrivain commence lorsque la littérature devient une question. C'est le sens de l'essai publié chez Corti. Dès lors ce questionnement inlassable va décrire un « espace littéraire », où il ne sera plus question que de cette question.

Blanchot visite et travaille pour cela les œuvres importantes du fonds mondial, avec une préférence marquée pour les écrits portant sur cette source littéraire insondable : il ouvre des chemins qui seront ceux explorés plus tard par des écrivains comme Roland Barthes, Jacques Derrida, Michel Foucault. Son dialogue avec le texte littéraire est fructueux : Hegel puis Heidegger, Sade, Nietzsche, Georges Bataille, Marguerite Duras, Samuel Beckett, Antonin Artaud, Henri Michaux, Henry James, Virginia Woolf, Marcel Proust, Simone Weil, Robert Antelme, Pierre Klossowski, René Char, Edmond Jabès, Yves Bonnefoy, Louis-René des Forêts, Paul Celan, Philippe Jaccottet, et surtout Hölderlin, Rilke, Kafka et Mallarmé, puis Emmanuel Levinas (leurs relations ont fait l'objet d'un colloque27), ainsi qu'un très grand nombre d'autres écrivains, forme la sève des textes écrits, notamment durant l'après-guerre, dans des revues comme L'Arche, L'Arc, Le Nouveau Commerce, Critique, Les Temps modernes et surtout, grâce à Jean Paulhan, à partir du premier numéro de La Nouvelle Nouvelle Revue française [sic] en 1953 jusqu'à la mort de celui-ci à peu près en 1969.

Chaque mois, dix pages de Blanchot ont façonné des générations d'écrivains, et même d'autres artistes : peintres et plasticiens, architectes, photographes, etc. Ces textes sont réunis encore dans les chefs-d'œuvre : L'Espace littéraire et Le Livre à venir.

Mais ces textes ne seraient rien si le travail de lecture de Maurice Blanchot ne s'accompagnait d'une écriture propre, les deux méthodes, les deux occupations, étant le revers et l'avers, indissociables, d'une même entité, appelée littérature[non neutre].

Les romans du jeune Blanchot étaient plutôt conventionnels. Influencés par ceux de Jean Giraudoux, Kafka, empreints d'un peu de romantisme, de fantastique (Aminadab, Le Très-Haut), ils deviennent de leurs côtés des trames de plus en plus ténues : le langage se resserre, l'intrigue se raréfie et le mot prend toute sa place. Thomas l'obscur reparaît en 1950, émondé, radical28. L'Arrêt de mort ouvre une recherche dont le triptyque — Au moment voulu, Celui qui ne m'accompagnait pas, Le Dernier Homme — forme une suite de plus en plus exigeante et dont il importe moins de connaître la finalité que d'en sentir l'essence, et notamment la poésie propre à cette limite de la littérature.

Cet « unisson » se fait plus sensible dès les années 1960, notamment par le texte singulier L'Attente l'Oubli, livre étrange, fragmentaire, le premier d'une série successive. Un texte paru en revue, « L'Entretien infini », marque peut-être la limite de cette recherche littéraire où le récit se réduit de plus en plus à l'intervalle onirique, fantastique, éthique et érotique propre à l'entretien.

Ce texte sera repris en tête du livre homonyme peut-être le plus important de Blanchot, dont la force n'a sans doute pas encore été aujourd'hui complètement éprouvée. Des fragments seront repris de livres en livres, dans des contextes différents, sans atténuer leur portée littéraire. Il semble que la recherche de Blanchot (du nom de la chronique qu'il a tenue dans la NRF pendant plus de quinze années), ainsi que l'épreuve de cette recherche dans le champ narratif, ne servent en réalité qu'une immense déférence envers la chose littéraire que Blanchot, paraphrasant Mallarmé, décrit comme « ce jeu insensé d'écrire ».

« Le secret, cette réserve qui, si elle parlait, la faisait différer de parler, lui donnant parole en cette différence. »

« Vous ai-je jamais promis de parler ? » — « Non, mais c'est vous-même qui étiez, ne disant rien et refusant de rien dire et restant liée à ce qui ne se dit pas, promesse de parole. »

« Ils ne parlaient pas, ils étaient les répondants de toute parole encore à dire entre eux. »

— L'Attente l'Oubli, p. 86


読むことと書くことの関係

モーリス・ブランショは何よりもまず読書家であり、文学の激動をつぶさに読んできた。Thomas l'obscur』はブランショの処女作であるが、1930年代以降、ブランショは文学の領域に踏み込むような形で記事を書くようになり、実際に読書となった。

古典はすべて批評され、当時の多くの現代作品も批評された。ブランショの最初の2つの批評集『Faux pas』と『La Part du feu』は、文学に関する「何か」を特定しようとする文章で溢れている。

この「何か」は『La Part du feu』の最後に登場する。それは、ヘーゲルの作品とマラルメの作品を超越した代表的なテクスト『文学と死の権利』や、短編エッセイ『文学はいかにして可 能か』に見られる。ブランショにとって、作家の仕事は、文学が問いとなるときから始まる。これが、コルティが発表したエッセイのポイントである。それ以 来、このたゆまぬ問いかけは、問いだけが残された「文学的空間」を描写することになる。

この目的のために、ブランショは世界の主要な作品を訪ね歩き、この底知れぬ文学的源泉に関する著述を好みながら取り組んだ。彼は、後にロラン・バルト、 ジャック・デリダ、ミシェル・フーコーといった作家たちが探求する道を切り開いたのである。文学テクストとの対話は実り多いものだった: ヘーゲル、ハイデガー、サド、ニーチェ、ジョルジュ・バタイユ、マルグリット・デュラス、サミュエル・ベケット、アントナン・アルトー、アンリ・ミ ショー、アンリ・ジェイムズ、ヴァージニア・ウルフ、マルセル・プルースト、シモーヌ・ヴァイル、ロベール・アンテルム、ピエール・クロソウスキー、 ルネ・シャル、エドモン・ジャベス、イヴ・ボンヌフォワ、ルイ=ルネ・デ・フォーレ、ポール・セラン、フィリップ・ジャコッテ、そしてとりわけ、ヘルダー リン、リルケ、カフカ、マラルメ、それからエマニュエル・レヴィナス(彼らの関係はコロキウムの主題となった27)、 特に戦後、L'Arche、L'Arc、Le Nouveau Commerce、Critique、Les Temps modernes、そしてとりわけジャン・ポーランのおかげで、1953年のLa Nouvelle Revue française [sic]の創刊号から1969年に彼が亡くなるまで、雑誌に書かれたテクストの活力を形成している。

毎月10ページのブランショの文章は、何世代にもわたる作家たち、さらには画家や視覚芸術家、建築家、写真家といった他の芸術家たちをも形作った。これら のテキストは、現在も名著の数々に収められている: L'Espace littéraire』と『Le Livre à venir』である。

しかし、モーリス・ブランショの読書という仕事が、彼自身の執筆という仕事を伴わなければ、これらのテキストは何の意味もなさないだろう。2つの方法、2つの職業は、[非中立的な]文学と呼ばれる同じ存在の裏と表であり、不可分なものである。

若きブランショの小説は、どちらかといえばありきたりなものだった。ジャン・ジロドゥやカフカの小説に影響を受け、ロマン主義や幻想的なタッチ(『アミナ ダブ』、『ル・トレーズ=オー』)を取り入れたが、次第に横糸が細くなり、言葉はきつくなり、筋書きは稀薄になり、言葉が正当な位置を占めるようになっ た。1950年、トマ・ローブサーは刈り込まれ、過激になり、再び登場する。Au moment voulu』、『Celui qui ne m'accompagnait pas』、『Le Dernier Homme』など、ますます要求の厳しくなるシークエンスを形成しているが、その目的は、本質を感じること、特にこの文学の限界に特有の詩を感じることよ りも重要ではない。

この 「ユニゾン 」は、1960年代、特に、連続するシリーズの最初の作品であり、奇妙で断片的な本である『L'Attente l'Oubli』という特異なテキストで、より明白になった。雑誌に掲載された 「L'Entretien infini 」は、おそらくこの文学的研究の限界を示すものであり、そこでは、物語はますますインタビューという夢のような、幻想的な、倫理的な、そしてエロティック な間隔に還元されていく。

このテキストは、ブランショのおそらく最も重要な同名の本の冒頭に再掲される。断片は、その文学的意義を減じることなく、本から本へ、さまざまな文脈で取 り上げられる。ブランショの研究(彼が15年以上にわたってNRFに書いたコラムにちなんで命名された)と、物語の分野におけるこの研究の検証は、現実に は、ブランショがマラルメの言葉を借りて「書くという無意味なゲーム」と表現する文学的なものに対する絶大な敬意にしか役立っていないように思われる。

「その秘密、その遠慮は、もし話すとしても、話すことを先延ばしにして、この違いの中で言葉を与える。」

「君に話すと約束したことがあっただろうか?- いや、何も言わず、何も言うことを拒否し、言われないことに縛られたままでいるのは、あなた自身だった。

「二人は話さなかった、二人の間にまだ語られていないすべての言葉の回答者だった」

- L'Attente l'Oubli、86ページ

La mort
Dans L'Espace littéraire puis Le Livre à venir, Maurice Blanchot questionne le centre même de l'expérience littéraire, notamment dans sa faculté à « remettre tout en cause, y compris elle-même ». Blanchot voit dans l'écrivain celui qui, n'étant pas autrement qu'au service de l'œuvre, perd toute individualité et toute énergie en elle. Il est alors en proie au désœuvrement alors même qu'il fait l'épreuve de l'autre nuit, nuit de la solitude où s'égarent les pensées.

Réalité dispersée, temps arrêté ou absent, l'écrire renvoie face à elle-même l'écriture et face à lui-même, anéanti, l'écrivain. Cet espace est l'espace du neutre, où se neutralisent toute velléité, toute individualité et, bien sûr, tout engagement.

La mort est alors la présence chaude et lénifiante qui rassérène l'écrire et lui confère toute sa force.

« Écrire, c'est entrer dans la solitude où menace la fascination. C'est se livrer au risque de l'absence de temps, où règne le recommencement éternel. C'est passer du Je au Il, de sorte que ce qui m'arrive n'arrive à personne, est anonyme par le fait que cela me concerne, se répète dans un éparpillement éternel. »

— L'Espace littéraire, p. 31

Cette expérience est alors présentée par Blanchot sous la forme du mythe d'Orphée et Eurydice, pages célèbres de son œuvre. La recherche de l'œuvre par le poète, Orphée, qui devra se résoudre par la disparition d'Eurydice marque le début de l'expérience littéraire.

« […] certes, en se retournant vers Eurydice, Orphée ruine l'œuvre, l'œuvre immédiatement se défait, et Eurydice se retourne en l'ombre ; l'essence de la nuit, sous son regard, se révèle comme l'inessentiel. Ainsi trahit-il l'œuvre et Eurydice et la nuit. Mais ne pas se tourner vers Eurydice, ce ne serait pas moins trahir, être infidèle à la force sans mesure et sans prudence de son mouvement, qui ne veut pas Eurydice dans sa vérité diurne et dans son agrément quotidien, qui la veut dans son obscurité nocturne, dans son éloignement, avec son corps fermé et son visage scellé, qui veut la voir, non quand elle est visible, mais quand elle est invisible, et non comme l'intimité d'une vie familière, mais comme l'étrangeté de ce qui exclut toute intimité, non pas la faire vivre, mais avoir vivante en elle la plénitude de la mort. »

— L'Espace littéraire, p. 226

La mort est singulièrement familière pour Blanchot, homme toujours malade gravement, et pourtant toujours vivant, toujours ainsi dans l'intimité de la mort, toujours dans la connivence, la proximité de la mort.

Mais la mort n'est jamais proche, elle est toujours le plus lointain, l'expérience impossible, le défaut de témoignage. De fait, la mort procure une espèce d'infinie légèreté pour celui qui la côtoie comme sa voisine : l'écrivain.

La mort, pour Blanchot, est au cœur même du processus poétique et s'il étudie tout particulièrement les auteurs dans la naissance de leur œuvre (lettres d'Artaud à Jacques Rivière, Journal de Kafka et celui de Virginia Woolf), il saura peu à peu montrer combien la littérature, si proche de la philosophie mais au contraire, dévastatrice, donne corps à la pensée de la mort si bien que, à terme, mort et pensée même ne sont qu'une seule et même chose (ainsi débute Le Pas au-delà)

Le raccourci peut être abrupt, mais il est le fruit d'une écriture patiente, éternelle, et le Pas en est une étape supplémentaire. Il se trouve par ailleurs que Blanchot vivra vieux, et verra disparaître ses amis, fidèlement, l'un après l'autre, et la parole de Blanchot, sur le tard, aura pour une part cette forme d'hommage. L'Amitié, le dernier livre critique au sens premier du terme (qui n'est pas sous la forme de fragment) en marquera la pierre de touche.

Devant le vide alors donné par la vie même, Blanchot donnera peut-être l'une des clefs capitales à la compréhension de son œuvre, un court récit, L'Instant de ma mort, décrivant la manière dont le narrateur évite, in extremis, la mort devant un peloton d'exécution durant la dernière guerre. Ce texte, paru en 1994, dessine peut-être la fin d'une œuvre, il marque en tout cas un cran décisif dans l'ensemble des thèmes que Blanchot a travaillé au fil de ses livres.

« Mourir serait, chaque fois, là où nous parlons, ce qui retient d'affirmer, de s'affirmer, comme de nier. »

— Le Pas au-delà, p. 94

Cela, qui est aussi le neutre, et qui est assez proche de ce que Levinas nomme l'il y a, ressort de l'écriture même, et associe dans le même mouvement la mort, le désastre, le désœuvrement :

« Écrire, c'est ne plus mettre au futur la mort toujours déjà passée, mais accepter de la subir sans la rendre présente et sans se rendre présent à elle, savoir qu'elle a eu lieu, bien qu'elle n'ait pas été éprouvée, et la reconnaître dans l'oubli qu'elle laisse et dont les traces qui s'effacent appellent à s'excepter de l'ordre cosmique, là où le désastre rend le réel impossible et le désir indésirable. »

— L'Écriture du désastre, p. 108-109

L'Espace littéraire』と『Le Livre à venir』において、モーリス・ブランショは、文学的経験の中心、特に「自分自身を含め、あらゆるものに疑問を投げかける」能力に疑問を投げかけてい る。ブランショは、作家は作品に奉仕する存在であるため、作品の中で個性もエネルギーも失ってしまう存在だと考えている。そして、もうひとつの夜、思考が さまよう孤独の夜を経験するように、彼は怠惰の餌食になる。

現実は分散され、時間は止まり、あるいは不在となり、書くことは書くこと自体と向き合うことになり、書き手は消滅した自分自身と向き合うことになる。この空間はニュートラルな空間であり、あらゆる欲望、あらゆる個性、そしてもちろんあらゆるコミットメントが中和される。

死は、作家を安心させ、彼にすべての力を与えてくれる、温かくなだめるような存在である。

「書くことは、魅惑が脅かす孤独の中に身を置くことである。それは、永遠の再開が支配する時間の不在というリスクに身を委ねることを意味する。私に起こることは誰にも起こらず、私に関係することであるがゆえに匿名であり、永遠の散乱の中で繰り返される。」

- 文学の空間』31ページ

ブランショはこの経験を、オルフェウスとエウリディケの神話という形で表現している。詩人オルフェウスの作品探しは、エウリディーチェの失踪によって解決されなければならないが、これは文学的経験の始まりを示すものである。

「確かに、オルフェウスはエウリディーチェのもとに引き返すことで、作品を台無しにし、作品はたちまち解け、エウリディーチェは影に戻る。こうして彼は作 品とエウリディーチェと夜を裏切る。しかし、エウリディーチェの方を向かないことは、それにも劣らない裏切りであり、エウリディーチェを昼間の真実や日常 の快楽の中にではなく、夜間の暗闇の中に、その遠隔性の中に欲している彼の動きの、測定不能で無遠慮な力に対して不誠実であることになる、 エウリディーチェが見えるときではなく、見えないとき、親しい生活の親密さとしてではなく、あらゆる親密さを排除するものの奇妙さとして、エウリディー チェを生かすためではなく、エウリディーチェの中に死の充満を生かすために、エウリディーチェを見たいのである。」

- L'Espace littéraire, p. 226

死はブランショにとって特別に身近なものであり、男は常に重病でありながら常に生きており、このように常に死と親密であり、死と共謀し、死と接近している。

しかし、死は決して身近なものではなく、常に最も遠いものであり、不可能な経験であり、証人になることの失敗なのだ。実際、死は、その隣人である作家として死の近くにいる人々に、ある種の無限の明るさを与えてくれる。

ブランショにとって死は、詩的プロセスのまさに中心に位置するものであり、彼は特に作家の作品誕生時(アルトーのジャック・リヴィエールへの手紙、カフカ の日記、ヴァージニア・ウルフの日記)を研究する一方で、哲学に非常に近く、逆に破滅的である文学が、いかに死の思考に実体を与えるかを徐々に示すことが できた。

この近道は唐突かもしれないが、忍耐強く、永遠に続く執筆の成果であり、『Le Pas』はそのプロセスのもう一つのステップなのだ。偶然にもブランショは老人まで生き、友人たちが次々と死んでいくのを忠実に見届けた。晩年のブラン ショの言葉は、部分的にはオマージュの形をとることになる。その試金石となったのが、本来の意味での(断片的な形ではない)最後の批評集 『L'Amitié』である。

人生そのものの虚しさに直面したブランショは、彼の作品を理解する上でおそらく最も重要な鍵のひとつとなる短い物語『L'Instant de ma mort』を残した。1994年に出版されたこの文章は、一つの作品群の終わりを意味するかもしれないが、ブランショが著書の中で探求してきた一連のテー マにおいて、決定的な一歩を踏み出したことは間違いない。

「死ぬということは、その都度、われわれが語るところ、われわれを肯定することから、われわれ自身を肯定することから、また否定することから、われわれを引き止めるものであろう」。

- Le Pas au-delà, p. 94

これは中立的なものでもあり、レヴィナスの言うl'il y aに近いものでもあるが、書くことそのものから生まれ、死、災難、無為を同じ動きの中で結びつける:

「書くということは、常に過去である死を、もはや未来に追いやることではなく、死を現在化することなく、また自分自身を現在化することなく、それに苦しむ ことを受け入れることであり、たとえそれが経験されなかったとしても、それが起こったことを知ることであり、また、災害が現実を不可能にし、欲望を望まし くないものにしている宇宙的秩序から、私たち自身を除外するよう呼びかけ、その痕跡が消えゆく忘却の中でそれを認識することである。

- 災害の叙述』108-109ページ
Le graffiti et le fragment
Le Livre à venir énumérait les étapes de la littérature depuis Proust jusqu'à Robbe-Grillet ou Barthes, et le constant rapport au désœuvrement qui étreignait chaque jour plus fort la pratique littéraire. Il pouvait être considéré comme le pendant pratique de L'Espace littéraire. La fin du livre, explicitant ce titre énigmatique de « livre à venir », en suivant de près le projet de Livre de Stéphane Mallarmé, montre ce vers quoi peut tendre la littérature : la pluralité, la dissémination, la dialogie, l'éparpillement.

Cette dernière partie, appelée justement « Où va la littérature ? », sera justement reprise comme hypothèse dans L'Entretien infini.

Mais ce nouvel opus, fort de plus de 600 pages, a une ambition supplémentaire : il convoque à lui les plus grands noms de la littérature, certes, mais il s'attache également à démonter, cerner, instruire, répéter, lire et relire, et comprendre le fonds philosophique du passé comme du présent.

Le lien entre littérature et philosophie est fait. Le lien entre création narrative et création critique se fortifie. On ne peut ici résumer en quelques phrases l'ensemble de cette œuvre. On peut toutefois insister sur le fait que ce livre prend pour base de travail le Livre, comme support politique, signe de la complétion et d'une certaine autorité, et, sans doute, signe de pouvoir.

A contrario, Blanchot encense la « parole dispersée », la parole en archipel de René Char, le « Livre » de Mallarmé, la parole anonyme. Vient alors le fragment. Après une longue réflexion sur Héraclite, sur Nietzsche, Blanchot en vient à concevoir la parole même de l'entretien, la parole de l'altérité, la parole d'autrui assimilée ou la déprise de la parole personnelle. L'influence de Levinas est ici la plus sensible.

Le fragment, ainsi dégagé au fil d'un raisonnement infaillible, patient et souvent irrévocable, rejoint ainsi l'exigence du neutre. La parole, anonyme, peut enfin se libérer d'elle-même et toucher à la liberté même. Le fragment porte le neutre.

« Mais l'un des traits du neutre […], c'est, se dérobant à l'affirmation comme à la négation, de recéler, encore, sans la présenter, la pointe d'une question ou d'un questionnement, sous la forme, non d'une réponse, mais d'un retrait à l'égard de tout ce qui viendrait, en cette réponse, répondre. »

— L'Entretien infini, p. 450

Deux livres complètement fragmentaires, par la suite, Le Pas au-delà et L'Écriture du désastre, sont comme les achèvements de cette pensée qui se dénie comme pensée et qui, en butte à la loi qu'indique le livre, cherche à modérer son pouvoir par le recours au neutre, qui est l'anonyme du fragment.

Cette parole, concomitamment, Blanchot la conçoit dans le champ politique. Rentré à Paris après dix ans d'absence d'une retraite solitaire, Maurice Blanchot se liera dès 1958 au groupe informel des « amis de la rue Saint-Benoît », chez Marguerite Duras, avec Robert Antelme, Dionys Mascolo, les Vittorini.

À l'amitié de Mascolo s'ajoute la revendication : il se pose ouvertement contre le « coup d'État » gaulliste en 1958, contre la guerre d'Algérie en 1960 (ils rédigent le fameux Manifeste des 121). Il est dans la rue en 1968, comme en témoigne Michel Foucault. Il observe les graffiti, il se gorge de l'écriture anonyme des rues, il profite de son anonymat (on ne connaît guère qu'une quinzaine de photographies de lui). Il se consacrera au début des années 1960 au projet de Revue internationale où la rubrique Le Cours des choses associe les auteurs de manière anonyme ; l'échec de ce projet collectif le peine grandement. Prenant position çà et là pour différentes causes humanitaires, la fin de l'œuvre de Blanchot est marquée par la plus grande humilité devant les blessures de l'Histoire, dont la plus grande est la Shoah. La Folie du jour, texte publié dans la revue Empédocle en 1949 (sous le titre Un récit ?) puis chez Fata Morgana en 1973, essaie d'évaluer la possibilité d'écrire après Auschwitz. Dès 1949 la sentence était claire :

« Un récit ? Non, pas de récit, plus jamais. »

— La Folie du jour

La fin de l'œuvre est encore marquée par une série de petits livres, à partir de La Communauté inavouable, dédiés aux amis (Bataille, Duras, Celan, Mascolo, Foucault, des Forêts, Laporte, Levinas…), faisant foi, par là, d'un idéal de la communauté qui dépasse même le communisme. Le personnage rejoint alors la note biographique des éditions de poche de ses essais :

« Maurice Blanchot, romancier et critique, est né en 1907. Sa vie est entièrement vouée à la littérature et au silence qui lui est propre. »
グラフィティと断片
Le Livre à venir』は、プルーストからロブ=グリエ、バルトに至る文学の段階を列挙し、日を追うごとに文学的実践を受け入れる怠惰との絶え間ない関係を示した。 L'Espace littéraire(文学の空間)』と対をなす実践的な内容ともいえる。来るべき書物」という謎めいたタイトルを説明し、ステファン・マラルメの『リー ヴル』(Livre)プロジェクトに忠実に従った本書の終わりは、文学が目指すことができるもの、すなわち複数性、普及、対話、分散を示している。

文学はどこへ行くのか」と題されたこの最後の部分は、『L'Entretien infini』で再び仮説として取り上げられる。

しかし、600ページを超えるこの新たな作品には、さらなる野望がある。それは、確かに文学界の偉大な名前に呼びかけるだけでなく、解体し、特定し、指導し、繰り返し、読み直し、現在だけでなく過去の哲学的基金を理解することでもある。

文学と哲学のつながりはできている。物語的創造と批評的創造の結びつきが強まった。この著作の全体をわずかな文章で要約することは不可能である。しかし、 本書が、政治的な媒体として、完成のしるしとして、ある権威のしるしとして、そして疑いなく権力のしるしとして、書物をその作業基盤としていることは主張 できる。

これとは対照的に、ブランショは「分散した言葉」、ルネ・シャールの群島的な言葉、マラルメの「書」、匿名の言葉を賞賛する。そして断片がやってくる。ヘ ラクレイトスとニーチェについての長い考察の後、ブランショは会話の言葉そのもの、他者性の言葉、他者の同化した言葉、あるいは個人的な発話からの離脱を 構想するようになる。レヴィナスの影響はここで最も顕著である。

無謬で忍耐強く、しばしば取り返しのつかない推論によってこのように解放された断片は、こうして中立性の要求と一致するようになる。匿名の言葉は、ついに自らを解放し、自由そのものに触れることができる。断片は中立を運ぶ。

「しかし、中立の特徴のひとつは、肯定からも否定からも逃れながら、質問や問いかけの要点を、それを提示することなく、回答という形ではなく、この回答において回答することになるすべてのものに対する撤退という形で、依然として隠蔽していることである。」

- L'Entretien infini』450ページ

その後、完全に断片化された2冊の本、『Le Pas au-delà』と『L'Écriture du désastre』は、思考としての自らを否定し、本が示す法則に直面して、断片の匿名性という中立的なものに頼ることによって、その力を和らげようとす る、この思考の集大成のようなものである。

同時に、ブランショはこの言葉を政治的な分野でも考えている。孤独な隠遁生活から10年ぶりにパリに戻ったモーリス・ブランショは、1958年、マルグ リット・デュラスの家で開かれた「サン=ブノワ通りの友人たち」の非公式グループに、ロベール・アンテルメ、ディオニス・マスコロ、ヴィットリーニ夫妻と ともに加わった。

マスコロの友情に加えて、彼は1958年のゴーリストの「クーデター」と1960年のアルジェリア戦争に率直な反対者だった(彼らは有名な「121年のマ ニフェスト」を作成した)。ミシェル・フーコーが証言するように、彼は1968年に街頭にいた。落書きを観察し、ストリートの匿名の文章を吸収し、匿名で あることを利用した(彼の写真は15枚ほどしか知られていない)。1960年代の初め、彼は国際的な批評誌『Le Cours des choses』のプロジェクトに専念した。さまざまな人道的大義のためにあちこちに立ち向かいながら、ブランショの仕事の終わりは、歴史の傷(その最大の ものがショアである)を前にした最大の謙虚さによって示される。1949年にEmpédocle誌(Un récit?)に発表され、1973年にFata Morgana誌に発表された『La Folie du jour』は、アウシュヴィッツ以後の執筆の可能性を評価しようと試みている。1949年の時点で、この文章は明確だった:

「物語?いや、物語など二度とない」。

- あの日の狂気

彼の仕事の終わりは、友人たち(バタイユ、デュラス、セラン、マスコロ、フーコー、デ・フォーレ、ラポルト、レヴィナスなど)に捧げられた『La Communauté inavouable』から始まる一連の小著によって示され、共産主義を超えた共同体の理想を証言している。ブランショのエッセイのポケット版には、次の ような経歴が記されている:

「モーリス・ブランショ、小説家、批評家、1907年生まれ。モーリス・ブランショは1907年に生まれた。彼の生涯はすべて文学と、その特徴である沈黙に捧げられた。
Critiques
L'écrivain et philosophe Cioran a adressé à Maurice Blanchot des critiques sur l'obscurité de son œuvre et sa vacuité. Il écrivait, dans les années 1960 : « J'ai appris à taper en me servant du Dernier Homme de Maurice Blanchot. La raison en est simple. Le livre est admirablement écrit, chaque phrase est splendide en elle-même, mais ne signifie rien. Il n'y a pas de sens qui vous accroche, qui vous arrête. Il n'y a que des mots. Texte idéal pour tâtonner sur le clavier de la machine29. ». Cioran lui reprochait aussi, à propos de la partie critique de son œuvre, un goût excessif du paradoxe : « M. Blanchot parle de l'“obscénité malhonnête (?) de Chateaubriand, qu'il oppose à je ne sais quelle “pureté” de Sade... Manquer de justesse et de bon sens à ce point, c'est confondant30. »

Les professeurs de philosophie Henri de Monvallier et Nicolas Rousseau, dans leur ouvrage de 2015 : Blanchot l'obscur (Préface de Michel Onfray), ne sont pas tendres non plus avec Maurice Blanchot : « Si [...] l'œuvre de Blanchot peut "déranger" c'est moins du fait de son exemplaire profondeur incomprise que de ses lourdeurs rhétoriques, de ses enflures stylistiques et de sa vacuité incroyable ! Blanchot dérange parce qu'il nous ennuie ! » Ou encore : « Par ses outrances et ses contradictions, Blanchot aura révélé tout ce qu'il y avait d'illusoire dans l'avant-gardisme français. C'était une révolution en chambre qui préparait un conformisme de la transgression qui nous étouffe aujourd'hui. »


批評
作家であり哲学者でもあるシオランは、モーリス・ブランショの作品の不明瞭さと空虚さを批判した。1960年代、彼は「私はモーリス・ブランショの 『Dernier Homme』から活字を学んだ。理由は簡単だ。この本は美しく書かれており、一文一文はそれ自体素晴らしいが、何の意味もない。心をつかみ、立ち止まらせ るような意味はない。あるのは言葉だけだ。マシンのキーボードの上で手探りするための理想的なテキストだ29」。ブランショは、シャトーブリアンの 「不誠実な猥雑さ(?) 」について語り、サドの 「純粋さ 」と対比している。これほどまでに正確さと常識を欠いていることに困惑する30。

哲学教授のアンリ・ド・モンヴァリエとニコラ・ルソーは、2015年の著書でこう述べている: もしブランショの作品が 「攪乱 」されるとすれば、それはその模範的な誤解された深遠さのためというよりも、その修辞的な思慮深さ、文体の肥大さ、信じられないほどの空虚さのためであ る!ブランショが不穏なのは、彼が我々を退屈させるからである!あるいは、「ブランショはその行き過ぎと矛盾を通して、フランス・アヴァンギャルドの幻想 のすべてを明らかにした。それは寝室における革命であり、今日のわれわれを窒息させるような違反の順応主義への道を開いたのである。

Romans et récits
1931-1937 : Thomas le solitaire, Paris, Éditions Kimé, 2022
1941 : Thomas l'Obscur, Paris, Gallimard
1942 : Aminadab, Paris, Gallimard, coll. « L'imaginaire » (ISBN 2-07-077029-X)
1948 : Le Très-Haut, Paris, Gallimard, coll. « L'imaginaire » (ISBN 2-07-071447-0)
1948 : L'Arrêt de mort, réédition (légèrement modifiée) 1971, Paris, Gallimard, coll. « L'imaginaire » (ISBN 2-07-029699-7)
1950 : Thomas l'Obscur, (Nouvelle version), Paris, Gallimard, coll. « L'imaginaire » (ISBN 2-07-072548-0)
1951 : Au moment voulu, Gallimard, coll. Blanche (ISBN 2-07-020735-8)
1951 : Le Ressassement éternel, Paris, Éditions de Minuit
1953 : Celui qui ne m'accompagnait pas, Paris, Gallimard, coll. « L'imaginaire » (ISBN 2-07-073438-2)
1957 : Le Dernier Homme, Paris, Gallimard, coll. Blanche (ISBN 2-07-020738-2)
1962 : L'Attente l'oubli, Paris, Gallimard, coll. « L'imaginaire » (ISBN 2-07-075838-9)
1983 : Après Coup, précédé par Le Ressassement éternel, Paris, Éditions de Minuit
1994 : L'Instant de ma mort, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana
2005 : Thomas l'obscur, première version (posthume, non souhaitée par l'auteur), Paris, Gallimard
2023 : Premiers récits : le mythe d'Ulysse (inédit), suivi de L'Idylle (1936), et du Dernier mot (1935), Paris, Éditions Kimé
Essais et recueils
1942 : Comment la littérature est-elle possible ?, Paris, José Corti
1943 : Faux pas, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-020731-5)
1949 : La Part du feu, Paris, Gallimard
1949 : Lautréamont et Sade, Paris, Éditions de Minuit
1955 : L'Espace littéraire, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-032475-3)
1958 : La Bête de Lascaux, Paris, GLM (repris dans Une voix venue d'ailleurs, 2002)
1959 : Le Livre à venir, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-032397-8)
1969 : L'Entretien infini, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-026826-8)
1971 : L'Amitié, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-028044-6)
1973 : Le Pas au-delà, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-028786-6)
1973 : La Folie du jour, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana
1980 : L'Écriture du désastre, Paris, Gallimard
1981 : De Kafka à Kafka, Paris, Gallimard (recueil de textes écrits entre 1943 et 1968, comprenant entre autres « La littérature et le droit à la mort ») (ISBN 2-07-032843-0)
1983 : La Communauté inavouable, Paris, Éditions de Minuit
1984 : Le Dernier à parler, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana, repris dans Une voix venue d'ailleurs, 2002
1986 : Michel Foucault tel que je l'imagine, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana, repris dans Une voix venue d'ailleurs
1986 : Sade et Restif de la Bretonne, Bruxelles, Complexe
1987 : Joë Bousquet, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana
1992 : Une voix venue d'ailleurs - Sur les poèmes de LR des Forêts (Ulysse Fin de Siècle, Éditions Virgile, repris dans Une voix venue d'ailleurs, 2002)
1996 : Pour l'amitié, Tours, Fourbis ; réédition Tours, Farrago, 2000
1996 : Les Intellectuels en question : ébauche d'une réflexion, Tours, Fourbis ; réédition Tours, Farrago, 2000 (reprise de l'article publié dans Le Débat, n° 29, mars 1984)
1999 : Henri Michaux ou le refus de l'enfermement, Tours, Farrago
2002 : Une voix venue d’ailleurs, Paris, Gallimard
Notes sur Heidegger, édition d'Étienne Pinat, Paris, Éditions Kimé
Articles et chroniques
Avant-guerre
Une édition critique complète des premiers textes signés de Blanchot est en cours de publication : un premier volume a paru sous le titre Chroniques politiques des années trente, 1931-1940, édition préfacée, établie et annotée par David Uhrig (Gallimard, coll. « Les Cahiers de la N.R.F. », 2017) ; les chroniques littéraires doivent faire l’objet d’un second volume (à paraître).

1931-1932 : Revue universelle (3 articles) ; Les Cahiers mensuels (1 article)
1931-1933 : La Revue française (5 articles)
1931-... : Journal des débats (22 articles durant cette période)
1932 : Réaction pour l'ordre (2 articles)
1933 : Le Rempart, plus d'une centaine d'article parus entre avril et décembre 1933 ont été retrouvés à ce jour31 ; La Revue du Siècle (2 articles)
1934-1940 : Aux écoutes (18 articles)
1935 : Revue du xxe siècle (2 articles)
1936 : Combat, 7 articles de février 1936 à décembre 1937, « La fin du 6 février » (n. 2, février 1936), « La guerre pour rien » (n.3, mars 1936), « Après le coup de force germanique » (n.4, avril 1936), « Le terrorisme, méthode de salut public » (n.7, juillet 1936), « La grande passion des modérés » (n. 9, novembre 1936), « Le caravansérail » (n. 10, décembre 1936), « La France, nation à venir » (n.19, novembre 1937), « On demande des dissidents » (n. 20, décembre 1937)
1937 : L'Insurgé, 66 articles dans cet hebdomadaire qui paraît de janvier à octobre 1937
1940 : Revue française des idées et des oeuvres (1 article)
Occupation
Les articles et extraits d’articles du Journal des Débats qui n’avaient pas été repris en recueil par Blanchot lui-même ont été rassemblés dans Chroniques littéraires du « Journal des Débats », avril 1941-août 1944, édition de Christophe Bident (Gallimard, coll. « Les Cahiers de la N.R.F. », 2008).

avril 1941 - juillet 1944 : Journal des débats (74 articles durant cette période)
Après-guerre
Les critiques littéraires d’après-guerre non reprises en recueil par Blanchot lui-même ont été rassemblées dans La Condition critique, 1945-1998, édition de Christophe Bident, Paris, Gallimard, coll. « Les Cahiers de la N.R.F. », 2010. Les recueils d’articles politiques d’après-guerre ont été diversement rassemblés : Écrits politiques (1958-1993), édition de Michel Surya, Paris, Léo Scheer, 2003 ; Écrits politiques (1953-1993), édition d’Éric Hoppenot, Paris, Gallimard, 2008 ; Political Writings, 1953-1993, édition de Zakir Paul, New York, Fordham University Press, 201032. Différents écrits autour des événements de mai 68 ont fait l’objet d’une publication séparée : Mai 68, Révolution par l'idée, édition de Jean-François Hamel et Éric Hoppenot, Paris, Gallimard, coll. « Folio », 2018.

1945 : Cahiers de la Table ronde (1 article) ; Paysage dimanche (7 articles)
1945-1948 : L’Arche (16 articles)
1946 : L’Espagne libre (1 article), Carrefour (1 article), Saisons (1 article) ; Combat (1 article) ;
1946-1951 : Cahiers de la Pléiade (4 articles)
1946-1952 : Les Temps modernes (4 articles)
1946-1953 : Critique (15 articles)
1948 : Fontaine (1 article)
1948-1953 : Cahiers d’art (2 articles)
1950 : L’Observateur (7 articles)
1951-1956 : Botteghe Oscure (3 articles)
1953-1989 : La (Nouvelle) Nouvelle Revue Française (118 articles)
Correspondances
1984 : Lettres à Vadim Kozovoï (1976-1998), présentées et annotées par Denis Aucouturier ; suivies de « La Parole ascendante », réédition : Paris, Manucius, 2009
2012 : Maurice Blanchot - Pierre Madaule, Correspondance 1953-2002, édition établie, présentée et annotée par Pierre Madaule, Paris, Gallimard, coll. Blanche
2014 : Maurice Blanchot - Johannes Hübner, Correspondance, édition établie, présentée et annotée par Éric Hoppenot et Philippe Mesnard, Paris, Kimé, coll. « Archives Maurice Blanchot »
Archives personnelles
2019 : Une édition de textes de Kafka traduits par Blanchot a été publiée sous le titre : Traduire Kafka, édition d’Éric Hoppenot, Arthur Cools et Vivian Liska, Paris, Kimé, coll. « Archives Maurice Blanchot »

小説と物語
1931-1937年:トマ・ル・ソリティア、パリ、エディシオン・キメ、2022年
1941: Thomas l'Obscur, Paris, Gallimard.
1942: Aminadab, Paris, Gallimard, 「L'imaginaire」 シリーズ (ISBN 2-07-077029-X)
1948: Le Très-Haut, Paris, Gallimard, 「L'imaginaire」 シリーズ (ISBN 2-07-071447-0)
1948: L'Arrêt de mort, 1971年再版、パリ、ガリマール、「L'imaginaire 」シリーズ (ISBN 2-07-029699-7)
1950: Thomas l'Obscur, (New version), Paris, Gallimard, 「L'imaginaire」 series (ISBN 2-07-072548-0)
1951: Au moment voulu, Gallimard, coll. Blanche (ISBN 2-07-020735-8)
1951: Le Ressassement éternel, Paris, Éditions de Minuit.
1953: Celui qui ne m'accompagnait pas, Paris, Gallimard, 「L'imaginaire」 シリーズ (ISBN 2-07-073438-2)
1957: Le Dernier Homme, Paris, Gallimard, coll. Blanche (ISBN 2-07-020738-2)
1962: L'Attente l'oubli, Paris, Gallimard, 「L'imaginaire」 シリーズ (ISBN 2-07-075838-9)
1983: Après Coup, Le Ressment éternel に先立つ, Paris, Éditions de Minuit.
1994: L'Instant de ma mort, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana.
2005: Thomas l'obscur、初版(遺作、著者によるものではない)、パリ、ガリマール社
2023: Premiers récits: le mythe d'Ulysse (未発表)、L'Idylle (1936)、Le Dernier mot (1935), Paris, Éditions Kimé.
エッセイと作品集
1942: Comment la littérature est-elle possible, Paris, José Corti.
1943: Faux pas, パリ、ガリマール (ISBN 2-07-020731-5)
1949: La Part du feu, パリ、ガリマール
1949: Lautréamont et Sade, Paris, Éditions de Minuit.
1955: L'Espace littéraire, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-032475-3)
1958: La Bête de Lascaux, Paris, GLM (Une voix venue d'ailleurs, 2002で再版)
1959:Le Livre à venir, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-032397-8)
1969: L'Entretien infini, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-026826-8)
1971: L'Amitié, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-028044-6)
1973: Le Pas au-delà, Paris, Gallimard (ISBN 2-07-028786-6)
1973: La Folie du jour, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana.
1980: L'Écriture du désastre, Paris, Gallimard.
1981: De Kafka à Kafka, Paris, Gallimard (1943年から1968年の間に書かれたテクスト集。「La littérature et le droit à la mort」を含む) (ISBN 2-07-032843-0)
1983: La Communauté inavouable, Paris, Éditions de Minuit.
1984: Le Dernier à parler, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana, 再版: Une voix venue d'ailleurs, 2002.
1986: Michel Foucault tel que je l'imagine, Saint-Clément-de-Rivière, Fata Morgana, Une voix venue d'ailursに再録。
1986: サドとレスティフ・ド・ラ・ブルトンヌ、ブリュッセル、コンプレックス
1987: ジョエ・ブスケ、サンクレマン・ド・リヴィエール、ファタ・モルガナ
1992: Une voix venue d'ailleurs - Sur les poèmes de LR des Forêts (Ulysse Fin de Siècle, Éditions Virgile, reprinted in Une voix venue d'ailleurs, 2002).
1996: Pour l'amitié, Tours, Fourbis; Tours, Farrago, 2000に再版される。
1996: Les Intellectuels en question : ébauche d'une réflexion, Tours, Fourbis; republished in Tours, Farrago, 2000 (Le Débat, No. 29, March 1984に掲載された記事の再版)
1999: Henri Michaux ou le refus de l'enfermement, Tours, Farrago.
2002: Une voix venue d'ailleurs, Paris, Gallimard.
ハイデガーについてのノート』(エティエンヌ・ピナ編、パリ、エディシオン・キメ刊
論文および評論
アヴァンギャール
ブランショの最初の署名入りテキストの完全な批評版が現在出版されている:第1巻は、ダヴィッド・ウーリグが序文、編集、注釈をつけた 『Chroniques politiques des années trente, 1931-1940』(ガリマール、「Les Cahiers de la N.R.F.」シリーズ、2017年)というタイトルで出版され、文学年代記は第2巻の主題となる予定である(近日出版予定)。

1931-1932:Revue universelle(3本の記事)、Les Cahiers mensuels(1本の記事)
1931-1933年:La Revue française (5本の記事)
1931-... Journal des débats(この間に22本の記事を執筆)
1932: Réaction pour l'ordre(秩序のための反応)(2記事
1933年:Le Rempart、1933年4月から12月の間に発表された100以上の記事が現在までに発見されている31 ; La Revue du Siècle(2記事)
1934-1940: Aux écoutes (18 記事)
1935: Revue du xxe siècle(二十世紀レヴュー)(2 記事
1936: Combat, 7 articles from February 1936 to December 1937, 「La fin du 6 février」 (n.2, February 1936), 「La guerre pour rien」 (n.3, March 1936), 「Après le coup de force germanique」 (n.4, April 1936), 「Le terrorisme, méthode de salut public」 (n.7、 La grande passion des modérés「 (n.9, November 1936), 」Le caravansérail「 (n.10, December 1936), 」La France, nation à venir「 (n.19, November 1937), 」On demande des dissidents" (n.20, December 1937).
1937: L'Insurgé, この週刊誌に1937年1月から10月まで66本の記事が掲載された。
1940年:Revue française des idées et des oeuvres(フランス思想と作品誌)(1記事
職業
ブランショ自身によって収集されなかった『ジュルナル・デバ』の記事および記事の抜粋は、クリストフ・ビダン編『Chroniques littéraires du 「Journal des Débats」, April 1941-August 1944』にまとめられている(ガリマール、「Les Cahiers de la N.R.F. 」シリーズ、2008年)。

1941年4月~1944年7月:Journal des Débats(この間に74本の記事が掲載された)
戦後
ブランショ自身によって収集されなかった戦後の文芸批評は、クリストフ・ビダン編『La Condition critique, 1945-1998』(パリ、ガリマール、「Les Cahiers de la N.R.F.」シリーズ、2010年)にまとめられている。戦後の政治論文集はさまざまな形で収集されている。ミシェル・スーリヤ編『政治的著作集 (1958-1993)』(パリ、レオ・シェール、2003年)、エリック・ホプノ編『政治的著作集(1953-1993)』(パリ、ガリマール、 2008年)、ザキール・ポール編『政治的著作集(1953-1993)』(ニューヨーク、フォーダム大学出版局、2010年)32。68年5月の出来事 に関するさまざまな著作は、ジャン=フランソワ・ハメルとエリック・ホッペノ編『68年5月の革命』(パリ、ガリマール、「フォリオ」シリーズ、2018 年)とは別に出版されている。

1945:Cahiers de la Table ronde(1記事);Paysage dimanche(7記事)
1945-1948: ラルシュ (16記事)
1946: L'Espagne libre (1記事), Carrefour (1記事), Saisons (1記事); Combat (1記事);
1946-1951年:カイエ・ド・ラ・プレヤード(4記事)
1946-1952: レ・タン・モダン (4 記事)
1946-1953: 批評 (15 記事)
1948: フォンテーヌ (1 記事)
1948-1953年:カイエ・ダール(2記事)
1950: オブザーヴァトゥール (7記事)
1951-1956: オスキュール美術館 (3記事)
1953-1989: ヌーベル・ルヴュ・フランセーズ (118 記事)
通信
1984: Lettres à Vadim Kozovoï (1976-1998), presented and annotated by Denis Aucouturier; 続いて 「La Parole ascendante」, republished: Paris, Manucius, 2009.
2012: Maurice Blanchot - Pierre Madaule, Correspondance 1953-2002, edited, presented and annotated by Pierre Madaule, Paris, Gallimard, coll. Blanche.
2014: Maurice Blanchot - Johannes Hübner, Correspondence, edited, presented and annotated by Éric Hoppenot and Philippe Mesnard, Paris, Kimé, 「Archives Maurice Blanchot」 series.
個人アーカイブ
2019 : カフカのテクストをブランショが翻訳した版が「Traduire Kafka」(エリック・ホプノ、アーサー・クールズ、ヴィヴィアン・リスカ編、パリ、キメ、「Archives Maurice Blanchot 」シリーズ)として出版された。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Maurice_Blanchot


+++

Links

リンク

文献

その他の情報


The ROA troops in Belgium or France, 1944
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099