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バフチン(1929)におけるポリフォニー概念入門

『ドストエフスキーの創作の問題』1929年から

Yeroen (left) and Nikkie (right): from Japanese edtion, p.104 (source)

池田光穂

【-3】ここではバフチン、ミハイル『ドストエフス キーの創 作の問題』桑野隆訳、平凡社、2013年、 において使われているポリフォニー概念について考えているノートである。

【-2】先にアップロードした「ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』1929年, ノート」に重複する部分がある。

【-1】このノートから、私のコメンタリーも含め て、網羅的に吸い上げ、かつ加筆したために、これはバフチン(1929)のポリフォニーの概念であると同時に、引用者である私の声も、そのポリフォニーに 参画している。

【0】こういうノートをつくり、分析をする僕(=池 田)は、モノローグ的論理にもとづいて「バフチンのポリフォニー理 論」を抽出しようと試みている。

【1】この著作は、当初、ミハイル・バフチンの本名 で 1929年に公刊されたものである。その後、さまざまな検閲の問題などがあり、34年後に『ドストエフスキーの詩学の諸問題』として1963年に再版され たが、章立ても異なり、1929年版に使われていた現象学の関連用語が姿を消すなど、大幅な変更がおこなわれている。とりわけ、大きいのが、1963年に はカーニバル論が加筆されていることである。他方、バフチンのポリフォニー論や 言語論を知るには良好なテキストになっているという(桑野 2013:347)。[→対話主義]

【2】この本には、これまでの読者や解説者が触れら れるこ とが少なかったポイントが少なくとも私(池田)には、最低、2点あると思われる:(1)《ポリフォニー概念をモノロジックな思考でまとめあげることの困難 さ》について、他ならぬバフチンがうすうす気づいていたこと。そして、(2)ドストエフスキー小説における創造的なポリフォニー性の実現は、多声性概念に あるというよりも、作者性や著者のオリジナリティー賞賛という(モノロジックな)論評の範囲を超えて、作品の中の主人公が主体性をもって、読者である(バ フチンならびに)我々に直接《呼びかけ》ることができる機能や形態をもつようになるには、どのような条件をクリアするのかについて、バフチン自身が十分に 説明できていないことである。まさに「『ドストエフスキーの創作の問題』の問題」があるということだ(→「{{語る存在}を聴く存在}」の存在証明につい て)。

【3】「本書のテーゼの3つの契機」:(p.73)

モノローグ的な芸術様式を破壊しポリフォニー的世界を構成することに成功する。

【4】「ドストエフスキーとは、ポリフォニー小説の創造者なのである。ドストエフスキーは本質的に新しい小説 ジャンルをつくりだした。だからこそ、その創作は いかなる枠にも収まらないし、わたしたちがヨーロッパ小説の諸現象にあてがうのに慣れているような文学史的図式のどれにも従わない。ドストエフスキーの作 品に登場する主人公の声は、通常のタイプの小説ならば、主人公の声にたいしてではなく作者自身の声にたいしてほどこされているような構成がほどこされてい る。自分自身や世界についての主人公の言葉は、通常の作者の言葉とおなじように十全な重みをもっている。すなわち、主人公の言葉は、性格描写のひとつとし て、主人公の客体的な像に従属したりしてはいない」(p.19)

【5】「このようにして、ドストエフスキーにおける 小説の構造のすべての要素はきわめて独特なものとなっている。すべての要素が、ドストエフスキーだけが徹底 的に広く深く提起し解決することができた新たな芸術的課題——すなわちポリフォニー的 世界を構成し、ヨーロッパの基本的にはモノローグ的な(あるいはホモ フォニー的な)小説の既成の諸形式を破壊するという課題——に規定されているのである」(Pp.20-21)。【私の声】※このテーゼを信用すると、ドス トエフスキーの後に【のみ】ポリフォニー小説が登場することになる。このような「狭量なドストエフスキーの権威化」は許せ るか?

【6】ポリフォニーの暗示(p.12)——序文

【7】「自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全な価値をもった声た ちの真のポリフォニーは、実際、ドストエフスキーの長篇小説の基本的 特識と なっている。作品のなかでくりひろげられているのは、ただひとつの作者の意識に照らされたただひとつの客体的世界における複数の運命や生ではない。そうで はなく、ここでは、自分たちの世界をもった複数の対等な意識こそが、みずからの非融合状態を保ちながら組み合わさって、ある出来事という統一体をなしてい るのである。実際、ドストエフスキーの主人公たちは、ほかならぬ芸術家の創作構想のなかで、作者の言葉の客体であるだけでなく、直接に意味をおびた自分自 身の言葉の主体にもなっているのである」(p.18)

【8】モノローグ的な芸術様式を破壊しポリフォニー的世界を構成することに成功する。

【9】主人公の人物のみならず発語の自律性(=作家 が声を管理する以上に主人公がより強い発話の権利を行使する/できる)

【10】「ドストエフスキーとは、ポリフォニー小説の創造者なのである。ドストエフスキーは本質的に新しい小説 ジャンルをつくりだした。だからこそ、その創作は いかなる枠にも収まらないし、わたしたちがヨーロッパ小説の諸現象にあてがうのに慣れているような文学史的図式のどれにも従わない。ドストエフスキーの作 品に登場する主人公の声は、通常のタイプの小説ならば、主人公の声にたいしてではなく作者自身の声にたいしてほどこされているような構成がほどこされてい る。自分自身や世界についての主人公の言葉は、通常の作者の言葉とおなじように十全な重みをもっている。すなわち、主人公の言葉は、性格描写のひとつとし て、主人公の客体的な像に従属したりしてはいない」(p.19)

【11】※バフチンは、ドストエフスキーがポリフォニーという形式の中にも、きちんとした構成の厳密さを破壊していないと いう(「主人公がもつ相対的な自由は、構 成の厳密さを破壊しない」p.31)

【12】モノロジックの徹底的な意識化、相対化を経 なければ、ポリフォニーの発想と技法については到達できない(Pp.111-112)

【13】ドストエフスキーがポリフォニーを可能にし た条件とは何のことか?

時代そのものがポリフォニー小説を可能としたのである。ドストエフスキーは時代 のこの矛盾せる多次元性に主観的に参与していた。かれは陣営をつぎつぎと 変えていったが、この点は、客観的な社会的生活のなかで共存していた諸次元は、かれにとって、人生の道や精神的生成の諸段階であった。この個人的経験は意 味の大きなものであったが、ドストエフスキーはそれを創作において直接にモノローグ的に表現することはなかった。この経験は、人びとのあいだに共存してい る大規模で広範な矛盾、すなわちひとつの意識のなかの種々のイデー間ではなく人びと間にある矛盾を、かれがより深く理解するのを助けたにすぎない。このよ うにして、時代の客観的矛盾がドストエフスキーの創作を決定づけたのは、かれの精神史上において矛盾を個人的に解消するというレベルにおいてではなく、矛 居を同時共存する諸力として客観的に見る(ただし、個人的体験によって深められた見方ではあったが)というレベルにおいてであった」(p.61)。

【14】ドストエフスキーの作品がもつ独特のイデオ ロギーと独特の芸術的機能(→リアリスト:p.136)が、ポリフォニーを 可能にし たということになるが、これはあきらかにトートロジーではないか?(池田コメント)

【15】イデオロギーを主人公に受け渡す?=著者ド ストエフスキーのモノローグ的立場を担保しながらもなおポリフォニー形 式を保持できること

【16】これがドストエフスキーのポリフォニー小説 なのである(p.332)。/ドストエフスキー作品の独自性(p.19)=ポリフォニー小説の創造者

【17】ポリフォニーの論理を分かったり、創作することが出来たりすることと、ポリフォ ニックな世界を生きることとは、どのような共通点と相違点をもつのか?

【18】ポリフォニーとモノローグの対立項/モノ ローグ〈対〉ポリフォニー的(p.21)

【19】ポリフォニー小説という「統一性」

【20】矛盾の存在=ポリフォニー的現実

【21】※ドストエフスキーを経由したバフチンによ る、スカースの意義は、他者の言葉の中で、経験の遠い(experience distance)現実を生きていることを、他ならぬ語り手が語られることを通した《呼びかけ》のことである。ドストエフスキー作品のポリフォニーのポリ フォニー性たるところの本質は、その他者からの《呼びかけ》に読者あるいは聞き手が、その世界に取り込まれたり、応答したりして、まさに《対話》をはじめ ることになる。

【22】したがって、ポリフォニー状況における《対 話》とは、物語る主体を制御することではなく、またその意味内容を整理することでもなく、いわんや、その発語 をコントロールすることでも、また理解しようと《飼いならす》ことでもない。他者からの《呼びかけ》は、読者=聞き手の自己に訴えかけ、自己の未来になに かの行動や思念を投企するための行為遂行的な読解/聴取行為なのである。

【23】登場人物のモノローグ性と(内的な対話を含 めた)物語におけるポリフォニー性

【24】「ポリフォニーの芸術意志とは、多数の意志 の組み合わせへと向かう意志、出来事への意志である」(p.49)。

【25】「留意すべきは、ドストエフスキーの小説を わたしたちがポリフォニーと譬えているのも、た/んなる比喰的な類比という意味でしかないということである。ポリフォニーや対位法という比喩が指し示して いるのは、音楽において新しい問題が単一の声を越えでたときに生じたのと似て、小説の構造が通常のモノローグ的統一性を超えでるときに浮かびあがる新たな 問題でしかない。けれども、音楽と小説では素材があまりにも異なっており、比喩的的類比やたんなる隠喩にしかなりえないであろう。にもかかわらず、この隠 喩を〈ポリフォニー小説〉という術語としてもちいることにする。というのも、よりふさわしい表現が見つからないのである。ただし、この術語がもともと隠喩 であることを忘れないでいただきたい」(バフチン 2013:49-50)。

【26】「芸術意志は、明確に理論的に認識されない ままにある。ポリフォニー小説の迷宮にはいろうとする誰しもが、道を見いだすことができず、個々の声の背後に全体の声を聞きとれずにいるようだ。往々にし て、全体の漠たる輪郭さえとらえられていない。ましてや、声たちを組み合わせている芸術的原理となると、まったく開きとられていない。各自が自分なりにド ストエフスキーの最終的な言葉を解釈しているものの、全員がおなじくそれをひとつの言葉、ひとつの声、ひとつのアクセントとして解釈しており、まさにこの 点に根本的な誤りはある。言葉を超え、声を超え、アクセントをところにある、ポリフォニ「小説の統一性は、解明されていない」(バフチン 2013:72)。

【27】「ポリフォニーという課題は、通常のタイプ の単一イデー主義とは相容れない」(バフチン 2013:99)。

【28】「ドストエフスキーにおける言葉、作品のな かでのその生、ポリフォニー的課題の実現におけるその機能を、わたしたちは言葉が機能しているコンポジション面での統一体——主人公のモノローグ的な自己 向け発話、語り手による語りや作者による語り、さらには主人公たちのあいだの対話——と関連づけて検討するであろう」(バフチン 2013:178)。

【29】「けれどもドストエフスキーの長篇小説のレ ベルでくりひろげられているのは、和解した声たちのこうしたポリフォニーではなく、 闘争し内部で分裂している声たちのポリフォニーである。後者が存在して いるのは、もはや狭いイデオロギー的な期待のレベルではなく、当時の社会的現実のなかにおいてである。ドストエフスキーのイデオロギー的見解に特有の、社 会的ユートピアや宗教的ユートピアは、かれの客観的に芸術的な見方を、みずからのうちに呑みこんだり溶解させたりはしていない」(バフチン 2013:287)。

【30】「ドストエフスキーの唯一の伝記小説の構想 『大罪人の生涯』は、意識の生成史を描くべきものであったが、実現されないままに終わった。より正確に言えば、それは実現の過程で一連のポリフォニー小説 に分解した。コマロヴィチ「ドストエフスキーの書かれざる叙事詩」(ドリーニン編『ドストエフスキー論文と資料』第1巻)を参照」(バフチ ン 2013:352)。『大罪人の生涯』(バフチンの訳注:第1章*37)

【31】バフチンにおける声の隠喩の肯定性:ポリ フォニ、対話、発話。それに対して、デリダにおいては、声はアイデンティティを保持するものと批判の対象(=音声中心主義批判と言われる)になり、それに 対してテクストやエクリチュールが 対抗的に示される。(→クリステバにおける、バフチン=インターテクスチュアリティの議論は、ここでは忘れてみよう!)

【32】ポリフォニーのなかでは、フランスのように「作者の死」が生じるのではなく、作者はひときわ能動的になる(桑野 2020:23)

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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