ポリフォニー小説としての『白い巨塔』
On Yamasaki
Toyoko's SHIROI-KYOTO ("White Ibory Tower," 1963-1965) as polyphonic
novel in the Bakhtinian sence
ミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin,1895-1975)の3つの鍵概念をもとに『白い巨塔』(山崎豊子原作)を読みなおす。 その概念とは以下の3つ。
(1)クロノトポス
(2)ポリフォニー
(3)ダイアロジック
この3つの概念の説明の前に、バフチンの小説(物語)論についての基本的な考え方と、その真理観について解説しておこう。
まずバフチンのテキスト論をおさえておきましょう。それは、小説(とりわけドストエフスキーの作品)を、批評家が登場人物と対等な視点にたつ内 在的な理解も、また、歴史的所産やイデオロギー作用の結果(=表象)として読むことにも彼は限界を覚えます。
なぜなら、批評家が物語の中に入ったり、そこで認識論あるいは道徳的判断をすることの妥当性などはないからです。テキストはテキストとして我々 の生活とは切り離されたジャンルとして独立して存在しています。テキストに内在する論理を講釈するのは自由ですが、その妥当性をだれが正しく証明すること ができるでしょうか。できません。そのためテキストに内在する論理に対して、外部から素朴にああだ、こうだと講釈することには限界があります。
他方、テキストが歴史や社会のイデオロギーの産物であるという見方も問題です。物語の展開は、それぞれの著者性において極めて多様な姿をとり、 イデオロギーの産物という審級(裁判過程のように判断の水準を進展させる制度)を持ち込んでみても、どうして物語の展開がそうでなければならないのかとい うことの論理を明確に求めることはできません。(ただしテキストを理解したり、消費する人々が共有するイデオロギーとその小説の関係について、論じること はできそうですが、それはテキストを純粋に論じることとは直接は関係ないからです)。
ではどうすればよいのか?——バフチンによれば、小説の登場人物は、それぞれ個性をもった人格であり読者から「解釈されることを待つ主体」であ ると同時に、「自らが何者であるのかについて行為や発話を通して主張」するというものです。 【バフチンのテキスト論】
バフチンの有名な真理観は、特定の唯一の視点(単声的論理)から絶対的なものをみるというものではなく、(i)複数の視点か ら複数の可能性のある声が交錯するポリフォニー(多声)なものであり、また(ii)それらの複数の声は互いに対話して別のもの に展開する(対話的論理)というものです。
ここには、どの人物のどの主張のなかに「真理」があるわけではなく、対話をおこない、複雑な動きをしている多元的な状況そ のものが、「ありのまま」の真実であるということです。この「ありのまま」という表現は、日本人には「自然に」とならんで ありきたりの用語ですが、肯定も否定もされない点で価値中立的であり、また安易な道徳的判断を拒絶します。そしてありのま まが基調となるのは、事物の複数性、視点の多様性ということに集約されます。どこか文化相対主義と似ていますね。【バフチンの真理観】
以上のことをふまえて、冒頭の3つの概念を説明し、その観点から『白い巨塔』を講釈してゆきます。
(1)クロノトポス(時空間)
時間と空間が複合されたもの(我々の経験世界はクロノトピックな性格をもちます)。小説(物語)は時間と空間に関する描写が含まれますが、 それら(すなわち時間と空間)の関係は、お互いが相互に特性づけられ、性格づけられます。空間の拡がりはないにもかかわらず、長い時間概念や循環的時間の なかで物語が表現される(例:地方の歴史や民話のように物語の空間的範囲は狭く凡庸だが、時間的経過や変化は人間の一生よりも長い)こともあれば、空間の 変化と時間の経過に深い展開の意味が込められているもの(例:英雄が遍歴し困難に立ち向かいながら成長したり、挫折したりすること)がある。
物語の登場人物は、そのような時空間のなかで生きると同時に、それらの個々の要素はさまざまな時空間を移動する。『白い巨塔』の前半は、財 前五郎の助教授から教授への昇進をめぐるエピソードのなかに医学界の腐敗を描いていると言われる。しかし、登場人物たちは、家庭、愛人宅、バー(あるいは 料理屋)、大学(研究室、手術場、診察室、臨床と基礎という職域など)、病院、医師会など、さまざまな空間の中で時間経過に伴いダイナミックな動きをして いる。このように見ると、はたして、医療の権力のめぐる動きのほか、さまざまな社会空間のなかで、さまざまな時間経過と成長(変化)のを登場人物たちは生 きていることになる。
医療界や産業界(すなわち上流社会)に関係のない読者にも、小説の登場人物が特定のクロノトポスのなかでの感情や状況について解説してくれ る(→(3)ダイアロジックの項目参照)ために、
(2)ポリフォニー
登場人物たちは、それぞれの発話をおこない、さまざまな行為を誘発させている。行為の説明をめぐって、行為者たちは、それを正当化したり、 はぐらかしたり、あるいは捏造することをとおして、自分の行為を正当化する。ここにみられるのは、さまざまな発話の束である。そのなかには対立したり、同 調したり、あるいはほとんど文脈には無関係な発話すらある。しかし、一見無関係で何気ないものも、クロノトポスの中では、ダイナミックな変化をとげて、後 では重要なものに化けることもある。
財前助教授が東教授の画策により教授に昇進することを阻まれたことを克服することと、東教授が挫折することは物語においては、相補的な関係 にあり、それぞれの会話は単に勝者と敗者の会話以上の情報を小説の中にもたらしている。また、権力もっているはずの教授が、従属していた助教授から反撃を 食らうことも、長い時間的尺度からみれば、地位の逆転ないしは王位の簒奪の物語として理解できるはずある。それらの登場人物の会話は、物語の構成にとって は多声的であり、大きな流れをつくりつつも、それぞれの発話には独特の個性が保全されている。
(3)ダイアロジック
ポリフォニーを保証する条件とは、その小説の中の登場人物が、他の人(エージェント)とは交換不能なほどの個性を もち、それらが、それぞ れ限界づけられながら、(それぞれの人たちにとって)最善の行為選択を重ねてゆくことである。これらの流れは、登場人物同士の相互行為、それも言語行動に 深くかかわる実践をおこなっていることに集約できる。
発話と相互行為は、活動に参画する登場人物の個性のあり方に微妙に影響を与えて、複雑な動きを発生させる。小説のなかに登場する「社会的事 実」とは、それらの登場人物の対話に代表される、相互交渉と、それが生み出す未来の行動という論理構築のゲームの記録である。
『白い巨塔』が読みやすいのは、もともと週刊誌の連載であり、物語のユニットがエピソードの集積であること。さらに連続して読んだり、過去 のエピソードを容易に思い起こすことができない読者のために、状況的説明が加わったり、登場人物そのものが発話の中でその文脈について自己言及的に解説す ることを通して、読者へ理解を促すような修辞上の特徴を有しているからであろうと思われる。発話者の内省的部分は、著者による補足説明が入るので、登場人 物がどのような感情をもっているのかということが容易にわかるように構成されている。[→対 話論理]
バフチンのポリフォニー小説論の観点から『白い巨塔』を読む際には以下の点について留意することが必要です。
(1)架空の浪速大学を現実に存在する(過去の)大阪大学として読まないこと
小説の連載時から浪速大学は大阪大学であるという風評がたって作者(山崎豊子)たち——彼女の小説につかう取材方法はジャーナリズムに近い プロダクション態勢であった——は阪大で取材することができず、東京でおこなったことが彼女の「『白い巨塔』を書き終えて」の冒頭に記されている。「小説 の中の浪速大学医学部は、どこまでも小説というフィクションの世界で設定された大学で、強いていえば、日本全国のどの大学にも大なり、小なり残っている封 建的な機構と人間関係を小説の中の浪速大学という一つの大学の中に集約して描いているのである」(1965)[全集第7巻『白い巨塔(2)』p.421]
(2)反道徳的ロマンとして読まない
これも作者が苦言を呈しているが、連載当初から、財前五郎の成功物語には抵抗があり、後半に焦点化される医事訴訟のことに関しても財前五郎 を有罪にしてほしいという読者の熱望というものがあったらしい。彼女は、当時の医事法学の枠組みでは財前五郎のようなケースで訴訟がおこしても有罪にはな らないということはだったが、医療不審を抱く一般の読者には強い反感があったという。小説の反発は、一般の読者だけではなく、医師会や大学の医療関係者か らも違和感があるものとして拒絶され、専門家からも苦言を呈する投書もあったという。
同じ時代を生きた当事者から、そのような小説(ロマン)と現実の道徳的混同があったことは事実だ。しかし、人間が生きる際には、どのような かたちですら、他者あるいは自分の生活のどこかの部分を犠牲にしなければならない。『白い巨塔』で描かれている世界は、現実社会の現象の投影ではあるが、 現実そのものではない。物語を物語としてまず、読まなければ議論をはじめることはできない。
「その素朴で現実主義的な解釈では、「理解」という語はつねに道を誤らせる。問題なのは、他者の経験を自己の内部に受動的に正確に 反映することでも、自己の内部で倍加することでもまったくない(そもそも、このような倍加は不可能である)。そうではなく、この経 験を全面的に異なった価値論的パースペクティヴにもとづいて、新しい価値と知識のカテゴリーに翻訳することである」——バフチン「美的活動における作者と 登場人物」[トドロフの仏訳を大谷尚文が邦訳、2001年]
(3)複数の人が関わる〈生き方〉のロジックとして読む
バフチンな理解に到達するためには、小説に内在することを外部の評論者が、物語の登場人物の同じ水準に入ってさまざまな道徳的判断をおこな うことを禁じる。また、山崎豊子が指摘するような「封建的な機構と人間関係」という価値判断で読むという〈作者の意図〉からも自由にならなければならな い。
『白い巨塔』の中に登場する人たちは、さまざま〈生き方〉を実践することを、それぞれの発話を通しておこなっている。——このことを間接的 に証明するのが、山本薩夫監督による映画作品(脚本)であり、登場人物の発話の多くは原作からそのまま使われている。言い換えると、これは〈発話が活きて いる小説〉なのである。
そのため、ポリフォニー的構造がよく出ている作品であり、バフチン的な読解には適した作品なのである。そして、その文脈を読者が十全に読み とることができるために、作者は微妙なニュアンスの説明を抑制が利いたトーンで記していることも、この作品の大いなる魅力である。
■術語関連リンク
※以下は「『白い巨塔』を人類学する!」からの引用です。今後の改訂は当該ペー ジの内容とは関係なくおこなっていますのでご了承ください。
【登場人物】
財前 五郎 国立浪速大学第一外科助教授
財前 又一 五郎の義父
財前の妻と子供
東 教授 外科教授 財前の上司
東佐枝子
今津教授 第二外科教授[連衡することによって利益誘導]
第一外科医長 佃[→五郎の教授就任後、講師]
第一外科講師 金井[五郎の教授就任後、助教授]
助手 安西[五郎の教授就任後、医局長]
第一内科・鵜飼教授
里見助教授
野坂教授(整形外科)(学内民主派)キャスティングボードを握る[両派より利得]
基礎・病理・大河内教授(厳正中立)基礎での法皇的存在
財前の愛人・ケイ子
東都大学・船尾教授
菊川教授 金沢大学の外科教授(教授選の当て馬)
【梗概】
某国立大学(=浪速大学)外科助教授財前五郎は気鋭の医師であるが、その権力欲による上昇志向から上司の東教授に嫌われている(1)。五郎は東の定年退官後 の教授のポストを狙っているが、東はそれが気に入らない。五郎は義父又一[ひいては大阪の医師会]の全面的なバックアップのもとで、教授選に向けての水面 下のキャンペーンを開始する。
弱点をもった五郎が参加する教授選は、大学病院内部の思惑がからみ混乱の相を呈する。義父又夫の工作は、曲折を経ながらも効を奏してゆく (2)。
二回にわたる選挙の末、財前五郎は、東教授の後がまに座ることができた。しかしながら、定年またず退官した東も市中の病院長のポストを得るこ とができた。[以上が、文庫版の上巻]
その矢先、五郎は初期癌の患者を誤診し、医療過誤訴訟にまで発展してしまう(3)。
医療過誤訴訟では、敗訴の形勢にあった五郎であったが、医療界の秩序と信用を守るという[隠された]政治的な意図をもつ東都大学教授—原作で は洛北大学の唐木名誉教授—の証言によって、五郎の命脈は辛うじて繋がる。
理想主義者の里見は、鵜飼から勧められた[実質的な追い出しである]山陰大学教授への赴任を断わり、傷心をかかえて浪速大学を去る。このよう にして「腐敗した」(4)大学病院の権力構造は維持されてゆくのである。
[註]
(1)五郎の権力上昇コンプレックスは、年老いた田舎の実母の存在によって増幅される。
(2)大河内・病理学教授の態度が際だっており、そこには臨床/基礎のエートスの違い、理想的な医学者/金欲・権力欲に溺れる臨床医という対比 が表現される。
(3)里見助教授のヒューマンな態度によって財前の強欲性がより強調される。
(4)「腐敗した」というのは読者が読みとることができる作者のメッセージである。
【分析の視角】
●山崎豊子のこの作品はどのような評価を受けてきたか?
・大学内部の権力闘争(内情暴露ものとして‥‥)
・勧善懲悪の反神話として‥‥
[その傍証]続編では、財前じしんが癌に倒れて人間性に目覚める
●人類学者の視角[※教授選までを範囲に入れる]
(1)権力論:権力の行使(実際の政治権力/象徴権力/金銭物品の権力)
権力構造が脅かされるとき
権力の移譲のとき(構造的脆弱性)
権力が別の権力によって脅かされる
[内部者からみた権力構図]
教授(大名)−助教授(足軽頭)−平医局員(足軽)
婦長(大奥の老女)−看護婦(腰元)
(2)交換論:登場人物が交換するもの
鵜飼教授に対する義父の絵画の贈り物 互酬性[互酬/再配分/市場交換]
(3)親族論:系譜を描くこと
財前又一→杏子 東貞雄→佐枝子
(成就) ‖ 成功 (画策) | 失敗
五郎 菊川
成長株への投資 リモコン化による退官後の政治的支配
※親族として取り込むことによる権力誘導
クレジット:ポリフォニー小説としての山崎豊子原作『白い巨塔』(1963- 1965)
【編集:資料/シーン】
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