はじめによんでください
EBMとコミュニケーション
Evidence-Based Communication, or Human Rational Communication
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出典は後藤徹「抄録の作り方
のHow to」『医学界新聞』3440:4, 2021
私の大学院時代の指導教官であった中川米造(1926-1997)先 生は亡くなる前年の1996年9月に『医学の不確実性』日本評論社という本を出版されている。版元で品切の状況なので、その内容をここで紹介するが、自宅 で終末を迎えつつあった最晩年の彼の関心がここにあったことを示している。
中川は、医療における不確実性は避けられないことを自覚した上で、医療を自然科学の実践から人間同士のコミュニケーションという相互行為へと医 療を捉え直そうとしている。つまり、医療者はきちんと合理性にもとづいて医学が不確実であることを包み隠さず患者に伝えることが重要であり、医療者と患者 の信頼関係を保障するものが、それらの間の良好なコミュニケーション——中川の表記は「コムニケイション」——であるということが主張されている。
その著作における各章のタイトルは以下のとおりである。
* 誤謬の条件/* 原因神話/* カオス理論/* 原因帰属/* プラシーボ効果/* 最悪原理/* パラダイム/* 医学教育における不確実性/* 「無益な」医療/* 不確実性への対処/* 医療行動の原則/* 問題解決/* 統計的推論/* コムニケイションとしての医学/////
すべての医療は不確実で、おしなべて継続中の個々の人体実験であるという性質(運命)から逃れられないために、医療には不確実性が避けられな い。中川は『医の倫理』(1977)において人間を治療対象にする行為実践はすべて人体実験になりうる資格をもつものであることをすでに喝破していた。
にもかかわらず、近代医療はさまざまな「治療の神話」を人々に提示することを通して、医療が不確実であることを外部の人たちに長い間伝えること を怠ってきた。その点では歴代の近代医療の従事者はまことに不誠実であったと言える。あるいは、近代医療における「救済事業」に忙しく、レアな不幸な事態 に関しての説明責任を怠る側面があった。
そして患者の側も、そのことについて「声を上げない」という点で実質的に容認してきたという点では(大変厳しい判断であるが)共犯といっても過 言ではあるまい。共犯という意味は、実際の臨床の現場では、医療の不確実性について誰もが薄々感じており、そのこと自体、医療者も患者も「素直に理解して いた」可能性があるからだ。そして現実とはかけ離れた「確実性を標榜する医療者像」を実質的に患者が容認してきたからである。
しかしながら近代医療や制度に対する患者側の不審は、なにも1960年代のベストセラー『白い巨塔』を例に挙げるまでもなく、ずっと社会に埋め 込まれた近代医療の底流にあったのではないだろうか。現代では、多数の医療訴訟裁判に象徴されるように、他ならぬ患者自身や患者の家族に起こった問題に対 して「真実を究明する権利」が認められたこと、これがかつての状況と今日のそれを根本的に分ける点なのではないか。
さて話を戻すと1980年代以降、医療(とくに治療検査に関する)情報のネットワーク化と、利益得失の経済的思想が医療実践にも反映されること で、一種の情報論革命がおこりつつあった。1992年には「根拠にもとづいた医療 」(Evidence-Based Medicine, EBM)という用語がマックマスター大学のゴードン・ガイヤーとディビッド・サケットよって提唱されるにいたった。EBMの専門家たちは、その歴史的起源 を第二次大戦中の経験にもとづきアーチボルト・コクランが後に発展させる統計的手法である「ランダム化対照試験」にまで遡るものと見ている。
そこで明らかになったのは、医療には確実な効果が期待できるものと、そうではないものが明確に区分されるものがあることが明らかになった。素人 の眼にも医療には不確実なものがあったようで、この経験知と証拠(エビデンス)は矛盾しない。一方で、治療の確実(期待)性に対して「治るか治らないか」 という二者択一の世界を生きている患者およびその家族がいる。他方で治療の効果は確率的な問題であり、またその判断には時間経過とも深く関わるという客観 的「現場感覚」が医療者の側にある。
「医療の不確実性」という命題は、両者の間の齟齬の根元的対立を表すものとして、重要な課題として浮上してきたのである。そして、この違いは双 方のデータのとらえ方や固有の知識の違いではなく、医療技術と病気(病人)の運命に関する関わりの違いつまり、当事者性の性格の違いに由来するのだ。
中川の『医学の不確実性』は、人間を対象にする医学的実践すなわち医療というものがいかに不確実であるかについて重要なテーマ群について解説し た、彼のそれまでの研鑽と経験の精髄がつまったエッセー集であった。ここから派生する問題を解消するために彼が考えた処方せんは次のようなものであった。
まず、医療者は、
(1)医療が患者を一義的に救済しているのだという社会に流布しているイメージを払拭すること、そして
(2)患者はそのことについて良く知ること、さらには、
(3)この事実を受け入れて両者の間に良好なコミュニケーションを確立すること。
この3点である。
曲がりなりにもインフォームド・コンセントが普及し、医療者はEBMにもとづいて、患者にどのようなアウトカムがくることを、不確実な自らの心 証ではなく、無慈悲なデータで語らしめることが可能になった現在、問題の解決は両者のコミュニケーションに収斂するというのが中川の主張であった。これは しごく真っ当なように思える。
しかしこの数年間コミュニケーションデザインという仰々しい名前のついた組織に属し「ある結果を引き出すための対人コミュニケーションである」 と定義された臨床コミュニケーションに関する対話型の授業を、無能やナイーブとは決して言えないレベルの大学院生向けに日々実践している私からみると、中 川の「良好なコミュニケーションへの期待」はあまりにも楽観的過ぎる主張であり、かつ具体性に欠けるように思える。
というのはアウトカム研究やEBMが着々と成果をあげつつある同時期に、心理学・ 人類学・神経科学などのかつて「行動科学」と呼ばれていた学問領域もまた進化をとげつつあったからだ。それらの科学は、今日ではコンピュータサイエンスや 情報科学はては経済学や金融工学などとも連携ないしは一部融合化をとげて「認知科学」というおしゃれな名前で流布していることは周知のとおりである。この 科学の一連の成果はもちろん大衆に膾炙しており、私のクライアントである大学院生たちもそのことに十分に知悉している。
もっとも最先端と呼ばれる学者の一般啓蒙向け書物を紐解いてみると、いまや忘却のかなたにある脳トレでも聞いたような「常識の再確認」デジャヴ (既視体験)であることがほとんどだ。例えば、臨床コミュニケーション関連では「幾ら少なくてもその治療トライアルの死亡率よりも5年生存率で説明するほ うが患者は同意しやすい」という統計データの提示など、敢えて指摘するほど価値があるのか疑問なものが多い。
にもかかわらずこの手の類の教養本の刊行が後を絶たないのはなぜだろう。臨床の現場で常識的に伝わっていた医療スタッフの世代間の継承が急速に 衰退していることと無関係ではない。新人は面倒くさい先輩の経験知の蘊蓄を聞く時間などなく、マニュアル本でてっとり早くコミュニケーションのスキルを学 んでしまう。また医療知識の普及で、患者も非正統的な経路を通して臨床理論と情報で武装してやってくる。EBMで臨床の現場が変わったというよりも、それ が臨床に影響を与えた後に、医療者と患者のリスク観が変化したといったほうが正確なのであろう。
EBMの教科書をみると、コミュケーションのやり方にも、統計的根拠が必要である ことがまことしやかく書いてある。患者はジェンダー、経済的地位や帰属集団などの社会的属性、年齢などで、病気の予後に対する異なった情報を知ろうとする データがあるから、インフォームド・コンセントの取り方にもそれを反映させる必要があるというわけだ。
しかし、版を重ね名声のある教科書の末尾にある次のような言葉は、ごく普通の人間観察を日々おこなっている私(医療人類学者)——のみならず読 者諸氏——の観点からみると、誠に失望すべき見解のように思える。
「エビデンスに基づく意思決定が重要視するのは、蓋然性と不確実性である。……エビデンスに基づくアプローチをとろうとする医師やヘルスサービ スの管理者がおそらく出会うのは、不確実な姿勢を歓迎して疫学や経済学上の問題に果敢に立ち向かっていく患者や国民ではなく、魔術のほうに向かってしまう 患者や国民であろう」(マイヤー 2005:381)。
マイヤーの魔術にむかう患者像は、我が国では暴力カルトに心酔するモンスター・ペイシャント像に完全に二重写しとなる。狭量な医師のネットコ ミュニティでは患者やメディア・バッシングで溜飲を下げている。ここには患者の主張や欲望さらには、医療者の側からみえる「非合理的な思考」をいかに相対 化しつつ、双方向のコミュニケーションが可能になる場を構築し、そして医療者のメッセージを患者に確実に伝えようとする姿勢や意欲が希薄である。
EBMは、この双方向のコミュニケーションの出発点にいまだ到着していないと言わざるをえない。中川米造が夢見た「良好なコミュニケーションへ の期待」を実現させるためには、患者と医療者のコミュニケーションとはそもそもなんであり、なにをどこまで可能にすることができるのかという理論と研究の 確立が不可欠だが、現時点ではその実現には未だ遠いと言える。
このことと、書店の医学や心理学のコーナーにある対人コミュニケーションスキル——ジャンクとは言えないが「常識の確認」以上では決してない ——に関する関連書籍の山積みの状況との対比は、見事なほどアンバランスだと感じるのは「魔術研究」者の穿った見方だろうか?
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マイヤー(J.A. Muir Gary)2005 『エビデンスに基づくヘルスケアヘルスポリシーとマネージメントの意思決定をどう行うか』津谷喜一郎・高原亮二 監訳、東京:エルゼビア・ジャパン
"This is a guide to evidence-based decision making for healthcare,
medical and nurse managers. Table of Contents, Prologue: The
globalisation of healthcare problems and their solutions.
Evidence-Based healthcare. Doing the right things right. Making
decisions about health services. Searching for evidence. Appraising the
quality of research. Assessing the outcomes found. The evidence-based
organisation. Evidence-based public health. Developing the evidence
management skills of individuals. The evidence-based consultation.
Epilogue: Evidence-based healthcare in the post-modern era. from Nielsen BookData.
Table of Contents エビデンスに基づくヘルスケア 「正しいことを正しく行う」 ヘルスサービスの意思決定 エビデンスの検索 研究の質を吟味する 観察されたアウトカムの評価 エビデンスに基づく組織 エビデンスに基づく公衆衛生 個人のエビデンス管理スキルの向上 エビデンスに基づく診療 ポストモダン時代におけるエビデンスに基づくヘルスケア |
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■医学的推論はEBMの誕生後に変化したのか?
以下の図式は「医学の本質」とされているEBM登場後にした植田真一郎による「治療に活かせる解釈キホン」を図式化したものだという(座談会 「臨床研究の本質を知るのはけっこう楽しい」医学界新聞3279, 2018年7月2日)。
植田真一郎.論文を正しく読むのは けっこう難しい——診療に活かせる解釈のキホンとピットフォール.医学書院;2018.(下線で紹介ページにリンクする/作図でネット上の出典に リンクする)
1985年横浜市大医学部卒。同大病院,市中病院で研修後,91年より5年間日本臨床薬理学会海外派遣研究員として英グラスゴー大内科薬物療法
学講座留学,96年横浜市大第二内科助手,2001年より琉球大学大学院医学研究科臨床薬理学講座教授。
文献
執筆者情報:
池田光穂(いけだ・みつほ)
大阪市生まれ。大阪大学大学院医学研究科単位取得済退学。冷戦と高度経済成長の中で人工甘味料・保存料による食生活を送り、ベトナム反戦と大阪 万博の中で厭戦と科学技術信仰の思想を浴びる。
真鍋博のイラストレーションによるEXPO70の お祭広場のイメージ図
大阪、鹿児島、中央アメリカ、北海道、熊本、万博跡地と遍歴を続け、大阪大学豊中キャンパスのコミュニケー ションデザイン・センター(CSCD)に漂着。専門は中央アメリカ民族誌学と医療人類学。著書『実践の医療人類学』など。 【出典】※本ページは、オリジナルを再現するものではありません。引用の際には、オリジナル雑誌にアクセスください。
初出クレジット:池田光穂「医療の不確実性時代におけるコミュニケーション:EBMの人間観批判」『大阪保険医雑誌』第37巻通巻510号
(2009年6月
号)、Pp.24-26、大阪府保険医協会、2009年。
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099