はじめにかならずよ んでね

ミハイル・ミハイロビッチ・バフチン

Михаил Михайлович Бахти́н, Mikhail Mikhailovich Bakhtin, 1895-1975

弁士:池田光穂

※年譜作成は、桑野隆「バフチン略年譜」『バフチン』Pp.243-247、平凡社、2011年。ホルクイス ト『ダイアローグの思想』などを参考に した。

関 連ページ:︎バフチン・ポリフォニー概念入門▶︎『ドストエフスキーの創作の問題』1929年ノート対話主義︎︎▶︎スカースとバフチン▶︎︎ミハイル・バフチンから刺激を受けて▶︎ポリフォニー小説としての『白い巨塔』▶︎︎逐電の記︎フィールドワークの時空間▶︎︎クロノトポスとしてのラテンアメリカクラインマン『病いの語り』︎▶︎︎Mikhail Bakhtin's Shadow in Our Illness Narrative▶︎Digital barracks, Mikhail Bakhtin’s Concept of Polyphony and Studies of Illness Narrative: An anthropologist’s Note▶対話論理︎︎ナラティブ・ターン︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

クラークとホルクイスト『ミハイル・バフチー ンの世界』では、彼の伝記と思想を、(I)1895-1917、(II)1918-1924、(III)1924-1929、(IV)1930-1945、(V)1945-1975、の五つの時期にわけてい る。このページでも、その時期にわけて紹介する。

(I)1895-1917:コルシカの双生 児:クラークとホルクイスト『ミハイル・バフチーンの世界』より

1895 11月16日(旧暦11月4日)この世に生を受ける(Oryol, Russian Empire)。初等教育は家庭で受ける。家庭教師はドイツ人で、そのため幼年よりドイツ語、ロシア語のバイリンガルに育つ。

1905 (銀行員の父の転勤で)家族でヴィリノ(現リトアニアのヴィリニュス)に移住。ヴィリノ第一ギムナ ジウムに入学。住民はリトアニア語のほかにポーランドを話していた。東のエルサレムといい、イディッシュ語やヘブライ語も話される。

1911 (銀行員の父の転勤で)家族で(兄ニコライ以外)オデッサに移住。オデッサのギムナジウムに転校。オデッサも東ヨーロッパのユダヤ人 住民の飛び地でユダヤ人文化が豊富。ブーバー、キルケゴール、ドイツの体系哲学に親しむ。

1913-1916 ノヴォロシア(現オデッサ)大学の文学部の講義に出席。

1914 兄ニコライの入学に関連して、ペトログラード大学の授業にも出席。(ニコライとは1918年まで一緒だったが、その後離れ離れになり、後に バーミンガム大学の言語学教授になったが生涯再会することはなかった)

1916 ペトログラードに移住。一八年までペトログラード(現サンクト・ベテルブルグ)大学古典文献学・哲 学部の授業に(おそらく聴講生として)入学。ペテルブルグ宗教・哲学教会を訪れ、メイエルと知り合う。指導教授はファジェーイ・ゼリンスキイ。

(II)1918-1924:ネーヴェリとヴィテプス ク:クラークとホルクイスト『ミハイル・バフチーンの世界』より

1918 ペトログラード卒業。初夏にネーヴェリに移住。ネーヴェリ統一労働者学校で歴史、社会学、ロシア語を教える。サークル 「カント・セミナー」を結成。サークルは1919年夏にかけてもっとも活発に活動。

1919 9月13日、ネーヴェリの日刊紙『芸術の日』に「芸術と責任」を寄稿

1920  秋頃にヴィテプスクに移住。当時の友人は、マートヴェイ・イサーエヴィチ・カガーン(1889-1937)。カガーンは、マーブルグでヘルマン・コーエ ンから学んだユダヤ人であった。カガーンは1914年に授業をはじめるが第一次大戦で、ドイツの敵国人とされ、ロシアに送還された経験をもつ。

ca. 1920-1924 「行為の哲学によせて」(1918年に執筆開始との説もあり)と「美的活動における作者と主人公」、さらには「道徳の主体と法の主 体」やドストエフスキー論にも取り組む。関連する作家としては、ヴァレンチン・ヴォローシノフ、パーヴェル・メドヴェージェフ。当時の支配的哲学は(ヘル マン・コーエンが切り開いた)新カント派の哲学。

1921 2月骨髄炎が悪化し入院。7月16日Elena Aleksandrovna Okolovichと結婚

(III)1924-1929:レニングラード・サーク ル:クラークとホルクイスト『ミハイル・バフチーンの世界』より

1924 夫妻でレニングラード(現サンクト・ベテルブルグ)に移住。

1924-1925 宗教哲学や人文科学の問題を審議する小規模な哲学サークルで活動。「芸術作品における主 人公と作者」という連続講義もおこなっている。

1924-1928 哲学や文学をテーマとした報告や講義をいくつかの個人宅でおこなう(これが1928年の逮捕の原因となる)。

1924 「言語作品の美学の方法論の問題によせて1:言語芸術作品における形式・内容・素材の問題」を執筆 するが、掲載予定の雑誌が廃刊になる。

1925-1931 ヴォローシノフ名で『フロイト主義』を出版。メドヴェージェフ名で『文学研究における形 式的方法』を出版。ヴォ ローシノフ名で『マ ルクス主義と言語哲 学』、カナーエフ名で「現代の生気論」といった著書やいくつかの論文が公刊。

1927 ボロシノフ名義で『フロイト主義』を公刊

1928 メドベジェフ名義で『文学研究における形式的方法』を公刊。ロシア・フォルマリストへの批判。

1928 12月24日反ソヴィエト的活動のかどで逮捕。

1929年 1月5日病気を理由に釈放、自宅軟禁となる。

1929 6月初頭、本名で『ド ストエフスキーの創作の諸問題』公刊(平凡社ライブラリー)。ボロシノフ名義で『マルク ス主義と言語哲学』公刊(→「スカースとバフチン」)。序文を書いた『トルストイ全集』11巻および13巻が出版。

1929  Bakhtin, M.M. (1929) Problems of Dostoevsky's Art, (Russian) Leningrad: Priboj.

1929 7月17日〜12月23日治療のためレニングラード市内の病院に入院。7月22日ソロフキ強制収容 所への5年間流刑判決(→猶予され入院が許可されてクスタナイ市への流刑に変更)

(IV)1930-1945:クスタナイ、サランス ク、サヴェロヴォ:クラークとホルクイスト『ミハイル・バフチーンの世界』より

1930 2月23日カザフスタン共和国のクスタナイ市への流刑に変更。3月29日クスタナイ市へ出発。

1930-1936年 『小説のなかの言葉』に取り組む

1931 4月23日クスタナイ市地域消費者組合に会計・経理係として就職。

1934 3月「コルホーズ員たちの需要の研究の試み」(論文)が『ソヴィエト商業』誌(1934年12号) に掲載。7月流刑期間終了。

1936 9月9日モルドヴィア教育大学(サランスク)の文学講座の教員

1936-1938 『教養小説とそれがリアリズム史上に持つ意義』を執筆(ただし「ソヴィエト作家」出版所 に提出されていたタイプ原稿は戦争中に消滅したと言われる)。

1937 6月3日「ブルジョア的客観主義」との理由で大学を解雇。ただし7月1日解雇理由が「当人の自由意 志」に変更。秋、一時的にモスクワに移り、妹ナターリヤ夫妻の家で暮らす。

1937-1938-1945年 1937-1938年にかけての冬、サヴョロヴォに腰をすえる。モスクワにひんぱんに通いながら、1945年9月ま で暮らす。サヴョロヴォ期:「叙事詩の歴史における『イーゴリ遠征譚』」、「小説の理論の問題によせ て」、「笑いの理論の問題によせて」、「修辞学は虚偽の度合いに応じて」「意識と自己評価の問題によせて」、「フローベールについて」、「中学校でのロシ ア語の授業における「文体論の問題」

1938 大粛正の時代

1938 2月右足を手術で切断。「リアリズム史上におけるフランソワ・ラブレー」に取り組み、1940年末 に完成。

1940 4月モスクワの中央文学者会館で関かれたシェークスピア作品会議に参加。10月14日モスクワの世 界文学研究所文学理論部門で「小説のなかの言葉」という題で報告。10月から11月にかけて『文学百科』第10巻のなかの「風刺」の項を執筆するが、この 巻自体が刊行されず。

1940-1943年 「人文科学の哲学的基礎によせて」に取り組んでいたと推定(桑野)。

1941 3月24日 世界文学研究所で「文学のジャンルとしての小説」という題で報告。秋、カリーニン(現 トヴェリ)州キムルイ区イリインスコエ村の中学校教師となる。12月15日キムルイ市ヤロスラヴリ鉄道第三九中学校に、ロシア語、ロシア文学、ドイツ語の 教師として採用。

1942 1月18日キムルイ市第一四中学の教師。

1944 「ラブレー論の増補。改訂」を執筆。

(V)1945-1975:サランスクからモスクワ へ:クラークとホルクイスト『ミハイル・バフチーンの世界』より

1945 8月18日モルドヴィア教育大学(サランスク)の世界文学准教授に任命。9月サランスクに移住。10月1日世界文学講座の主任。

1946 4月10日〜11日モルドヴィア教育大学教員研修会の総会で「中世・ルネサンスの民衆文化」という 題で報告。11月15日「リアリズム史上におけるフランソワ・ラブレー」の博士論文審査(最終的に博士号付与は1951年6月9日拒絶され、博士候補のま まとなる)。

1947 1月15日〜16日モルドヴィア教育大学教員研修会で「リアリズム史上におけるフランソワ・ラブ レー」という題で報告。

1948 2月11日モルドヴィア教育大学教員研修会で「小説の文体論の基本的問題」という題で報告。9月15日講座会議で「西洋 諸国の文学にロシア文学が及ぼした影響の問題を世界文学講義で解明することについて」という題で報告。10月6日講座会議で自己の研究テーマ「ルネサンス 期のブルジョア的概念」の進行状況を報告。

1949 3月1日反愛国主義的な劇評家グループに関する、新聞『プラヴダ』と『文化と生活』の記事を審議す る諸講座合同会議に参加。10月11日講座会議で、年報『文学モルドヴィア』にプーシキンの散文をめぐる論考を執筆する役目を引き受ける。

1950 3月31日講座の近代中国文学研究サークルにおいて、「中国文学の特徴と、古代から現在までの概 観」という題で報告。9月28日共和国青年作家会議において、「文学の類と種」という題で講義。10月18日「言語学に関するスターリンの天才的著作」の 審議にあてられたロシア文学講座・外国文学講座合同会議で、「言語をめぐるスターリンの学説を文学研究の問題に応用する」という題で報告。

1951 「リアリズム史上におけるフランソワ・ラブレー」の博士論文審査につき最終的に博士号付与は1951年6月9 日審査委員会に拒絶される。9月26日ロシア文学講座・外国文学講座合同会議で、「ソヴィエトの文学研究の発達の基本的方途」という題で報告。

1952 2月6日同志スターリンの誕生日を記念した理論会議の演説で「数多くの観念論的語句」を使い、「芸 術に誤った定義づけを与え」、「社会的発展を伝統の力でもって説明しようとした」として、モルドヴィア教育大学教授会で非難を受ける。6月2日上級審議委 員会が準博士号を授与。同日、モスクワのグネーシン研究所でユージナの生徒たちのために「バラードとその特性」という題で講義。

1953 「ことばのジャンルの問題」に取り組む。

1953 2月25日諸講座合同会議で、「ソヴィエト文学における典型的なるものの問題とモルドヴィア教育大 学における文学教育の課題」という題で報告。11月18日別の諸講座合同会議で、「ソ連邦共産党中央委員会七月総会の決議とソ連邦共産党中央委員会テーゼ 「ソヴィエト連邦共産党50周年」にてらしての社会科学教育の課題」で報告。

1954 12月12日モルドヴィアドラマ劇場の「マリー・チュードル」の劇評を執筆。

1956 4月11日講座の公開会議で、「典型的なるものの問題とその意義」という題で報告。

1957 「美的カテゴリーの問題」に取り組む。

1958 3月モルドヴィア大学(モルドヴィア教育大学が1957年に改称)文学部ロシア文学。外国文学講座 の主任となる。

1959 5月17日モルドヴィアドラマ劇場で上演されたメルクシキン作「夜明けにて」の劇評を執筆。

1960 11月コージノフら4名の文 学研究者たちから手紙を受け取る(→バフチンの作品と思想の社会的再発見の契機)。

1961 6月20日コージノフらがサランスクを訪問。8月1日大学を退職し、年金生活に入る。

1961-1962 ドストエフスキー論の改訂に取り組む

1963 9月に、1929年公刊の改訂版『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(ちくま学芸文庫)を公刊

1963 Bakhtin, M.M. (1963) Problems of Dostoevsky's Poetics, (Russian) Moscow: Khudozhestvennaja literatura.

1965 『フランソワ・ラブレーの作品と中世。ルネサンスの民衆文化』が公刊(英訳は3年後)

1967 レニングラード市裁判所最高会議はバフチンの名誉回復を決議。

1968 Bakhtin, M.M. (1968) Rabelais and His World. Trans. Hélène Iswolsky. Cambridge, MA: MIT Press.

1969 モユクワ市クンツェヴォのクレムリン病院で治療を受けるため、妻とともにサランスクをあとにする。

1970 ソ連邦作家同盟に加入

1971 妻Elena Aleksandrovna Okolovichが死去

1972 7月31日 モスクワで居住証明書を受けとる。

1973-1974 『文学と美学の問題』の出版を準備。この本に入れるために、教養小説をめぐる著書 (1936-1938、ただし保存されていない)の準備稿からなる大部の断片を「小説における時間とクロノトポスの形式」に改稿

1975 3月7日 死亡、『文学と美学の諸問題』公刊

1975 Bakhtin, M.M. (1975) Questions of Literature and Aesthetics, (Russian) Moscow: Progress.

1979 『文学と美学の諸問題』

1979 Bakhtin, M.M. (1979) [The] Aesthetics of Verbal Art, (Russian) Moscow: Iskusstvo.

1981 Bakhtin, M.M. (1981) The Dialogic Imagination: Four Essays. Ed. Michael Holquist. Trans. Caryl Emerson and Michael Holquist. Austin and London: University of Texas Press.

1984 Bakhtin, M.M. (1984) Problems of Dostoevsky’s Poetics. Ed. and trans. Caryl Emerson. Minneapolis: University of Minnesota Press.

1986 Bakhtin, M.M. (1986) Speech Genres and Other Late Essays. Trans. Vern W. McGee. Austin, Tx: University of Texas Press.

1990 Bakhtin, M.M. (1990) Art and Answerability. Ed. Michael Holquist and Vadim Liapunov. Trans. Vadim Liapunov and Kenneth Brostrom. Austin: University of Texas Press [written 1919–1924, published 1974-1979]

1993 Bakhtin, M.M. (1993) Toward a Philosophy of the Act. Ed. Vadim Liapunov and Michael Holquist. Trans. Vadim Liapunov. Austin: University of Texas Press.

1996-2012 Bakhtin, M.M. (1996–2012) Collected Writings, 6 vols., (Russian) Moscow: Russkie slovari.

2002 Bakhtin, M.M., V.D. Duvakin, S.G. Bocharov (2002), M.M. Bakhtin: Conversations with V.D. Duvakin (Russian), Soglasie.

2004 Bakhtin, M.M. (2004) “Dialogic Origin and Dialogic Pedagogy of Grammar: Stylistics in Teaching Russian Language in Secondary School”. Trans. Lydia Razran Stone. Journal of Russian and East European Psychology 42(6): 12–49

2014 Bakhtin, M.M. (2014) “Bakhtin on Shakespeare: Excerpt from ‘Additions and Changes to Rabelais’”. Trans. Sergeiy Sandler. PMLA 129(3): 522–537.

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■ミハイル・バフチーンの世界 Holquist, Michael, ダイアローグの思想 : ミハイル・バフチンの可能性.

序論

1.コルシカの双生児 1895-1917

2.ネーヴェリとヴィテプスク 1918-1924

3.責任の構築学

4.レニングラード・サークル 1924-1929

5.宗教活動と逮捕

6.テクストをめぐる論争

7.フロイト主義

8.フォルマリスト

9.生活の言説と芸術の言説

10.マルクス主義と言語哲学

11.ドストエフスキーの詩学

12.クスタナイ、サランスク、サヴェロヴォ 1930-1945

13.小説の理論

14.ラブレーと民衆文化

15.サランスクからモスクワへ 1945-1975

結び

ミハイール・バフチーンの世界 / カテリーナ・クラーク, マイケル・ホルクイスト共著 ; 川端香男里, 鈴木晶共訳,東京 : せりか書房 , 1990.1
言語・存在・小説の本質をダイアローグとみなすバフチンの思想をダイアローグをめぐる思想史の流れの中で鮮明にとらえなおすとともに、「歴史と詩学のダイアローグ」としてのバフチンの文学理論の隠された可能性を英・米・露の諸作品の解読作業を通して探究する。

第1章 バフチンの生涯

第2章 ダイアローグとしての存在

第3章 ダイアローグとしての言語

第4章 ダイアローグとしての小説性—教育の小説と小説の教育

第5章 歴史と詩学のダイアローグ

第6章 ダイアローグとしての創作者行為—応答性の構築学

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ど うしてラブレーとバフチンなのかというと、前者は、後者がカーニバル論(ないしはカーニバル文学)として取り上げた著名な研究に由来し ます。バフチンにとって重要な作家は、セルバンテスやドストエフスキーなどがあげられますが、カーニバルのバフチンというと、ラブレーの存在は無視するこ とができません。また、クラークとホルクイストによるバフチンの伝記によりと、隠棲的な生き方あるいは著作における複数の著者性に帰してみたいと思いま す。すなわちバフチンはヴォロシノフ やメドヴェージェフという実在するあるいはペンネームで書くことでスターリズム下の政治状況を生き延びたといわれています。他方、ルネサンス期の医師で あったラブレーの評判は毀誉褒貶であ り、また偽作やペンネームあるいは正体すら不明の点が多いというのです。私(池田)はバフチンとラブレーとのそれぞれの人生の年代記の比較をおこない、年 表における対話論理を実践してみたい 気に駆られます。

バ フチンの有名な真理観は、特定の唯一の視点(単声的論理)から絶対的なものをみるというものではなく、(i)複数の視点から複数の可能性のあ る声が交錯するポリフォニー(多声)なものであり、また(ii)それらの複数の声は互いに対話して別のものに展開する(対話的論理→「対話論理」)というものです。

ま た、これも有名なバフチンのテキスト論があります。それは、小説(とりわけドストエフスキーの作品)を、批評家が登場人物と対等な視点にたつ 内在的な理解も、また、歴史的所産やイデオロギー作用の結果(=表象)として読むことにも彼は限界を感じます。ではどうすればよいのか?——バフチンによ れば、小説の登場人物は、それぞれ個性をもった人格であり、読者からは解釈されることを待つ主体であると同時に、 自らが何者であるのかについて行為や発 話を通して主張するというものです。【バフチンのテキスト論】Mikhail Bakhtin, 1895-1975

こ こには、どの人物のどの主張のなかに「真理」があるわけではなく、対話をおこない、複雑な動きをしている多元的な状況そのものが、「ありのま ま」の真実であるということです。この「ありのまま」という表現は、日本人には「自然に」とならんでありきたりの用語ですが、肯定も否定もされない点で価 値中立的であり、また安易な道徳的判断を拒絶します。そしてありのままが基調となるのは、事物の複数性、視点の多様性ということに集約されます。どこか文化相対主義と似ていますね。【バフチンの 真理観】Mikhail Bakhtin, 1895-1975

さ て、最近(2017年2月25日)の私の関心は、バフチン『』(1929)で指摘された、ドストエフスキー文学のポリフォニー論であるが、そこで指摘され ている、登場人物=主人公たちが、それぞれに固有の主体性をもち、著者であるドストエフスキーから自由になること、である。つまり、発話主体が、語りを通 してどのようにして自己を自由な存在にするのかというポイントである。私の予感なのではあるが、それは、まず、物語は、「出来事」についての「語り」とい う二重性をもつことにある。それゆえ、語りは、何らかの形で、出来事を作り上げる能力(conatus)をもつ。そして、それらの語る主体のみで時速的な ものなのではなくて、他者の存在を媒介にして可能になると考えられる。発話や語り(Narrative, N)は、行為遂行的発話(例:「僕は宿題をこれから行う」)を通して実践(Practice, Praxis, P)を生み出す。しかし、それは、学校や塾の先生あるいは保護者に対してのまさにパフォーマンス(=これからやります)ということなのだ。実際に出来た宿 題を見せて、僕は事実確認的発語(constative uttrance)つまり「ここに宿題があるよ」(=ようやく、宿題ができたよ!)ということができる。これは、重要な他者の存在により、ようやく可能に なる。私たちは、他者の存在を抜きにして、「私は〜します」と言うことができない(もちろん自分で自分に約束することはできるが、その際は「発語する主 体」と「それを聞く主体」は分離しているわけだ)。このことを、オースティンが、2つの発語概念の区別の後に打ち立てた、発話行為/発語行為 (locutionary act)・発話内行為/発語内行為(illocutionary act)・発語媒介行為(perlocutionary act)という区分をからみてみると、発語/発話の社会性というものがより明確になる。それが下図の3番目の図である。そこでは発話の流れは、A氏がB氏 に対して「塩はあるかい?」と発語し、2人の間で《塩を取ってほしい》という合意ができあがり、そしてB氏が、黙ってあるいは、ハイと言いながら塩をA氏 に渡すという手順がみられる。発語には行為を誘発する作用があるのだ。これは、指摘されると自明なことだと分かるが、私たちは暗黙の前提でこれらのこと を、夥しい発語を通して、そうして、さまざまな意味のやり取りの失敗と成功を重ねながら行っている。

リ ンク

文 献

そ の他の情報

ミハイル・バフチン

Михаил Михайлович Бахти Mikhail Bakhtin/1895−1975

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

ポリフォニー小説としての『白い巨塔』(1963-1965)山崎豊子原作