逐電の記
(ちくでんのき)
弁士:池田光穂
「ラブレーを理解するには、民衆の笑いによる創造……、というほとんど研究されていない、しかも表面的にしか研究されていない領域に深く入って
いかなければ成らない」——バフチン「リアリズム史上におけるフランソア・ラブレー」(桑野 2011:9)
「あんさん(=あなた)のページは、時々わからへん(=わかりにくい)」というご指摘をいただきました。たとえば、このページですが、以前は、 逐電の記(ちくでんのき)と書いてあるだけで、赤と黒の2つの年表が並記してありました。この二人はフランソア・ラブレー(Fancois Rabelais 1483--1553)とミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin,1895−1975)の年表です。2人が生きた時代と、場所は全く異なるものですので、解説は不用とは思いましたが、やはり後から考える と不親切の極みです。反省しております。
では、どうしてラブレーとバフチンなのかというと、前者は、後者がカーニバル論(ないしはカーニバル文学)として取り上げた著名な研究に由来し ます。バフチンにとって重要な作家は、セルバンテスやドストエフスキーなどがあげられますが、カーニバルのバフチンというと、ラブレーの存在は無視するこ とができません。また、クラークとホルクイストによるバフチンの伝記によりと、隠棲的な生き方あるいは著作における複数の著者性に帰してみたいと思いま す。すなわちバフチンはヴォロシノフ やメドヴェージェフという実在するあるいはペンネームで書くことでスターリズム下の政治状況を生き延びたといわれています。他方、ルネサンス期の医師で あったラブレーの評判は毀誉褒貶であ り、また偽作やペンネームあるいは正体すら不明の点が多いというのです。私(池田)はバフチンとラブレーとのそれぞれの人生の年代記の比較をおこない、年 表における対話論理を実践してみたい 気に駆られます。
バフチンの有名な真理観は、特定の唯一の視点(単声的論理)から絶対的なものをみるというものではなく、(i)複数の視点から複数の可能性のあ る声が交錯するポリフォニー(多声)なものであり、また(ii)それらの複数の声は互いに対話して別のものに展開する(対話的論理→「対話論理」)というものです。
また、これも有名なバフチンのテキスト論があります。それは、小説(とりわけドストエフスキーの作品)を、批評家が登場人物と対等な視点にたつ 内在的な理解も、また、歴史的所産やイデオロギー作用の結果(=表象)として読むことにも彼は限界を感じます。ではどうすればよいのか?——バフチンによ れば、小説の登場人物は、それぞれ個性をもった人格であり、読者からは解釈されることを待つ主体であると同時に、 自らが何者であるのかについて行為や発 話を通して主張するというものです。【バフチンのテキスト論】Mikhail Bakhtin, 1895-1975
ここには、どの人物のどの主張のなかに「真理」があるわけではなく、対話をおこない、複雑な動きをしている多元的な状況そのものが、「ありのま ま」の真実であるということです。この「ありのまま」という表現は、日本人には「自然に」とならんでありきたりの用語ですが、肯定も否定もされない点で価 値中立的であり、また安易な道徳的判断を拒絶します。そしてありのままが基調となるのは、事物の複数性、視点の多様性ということに集約されます。どこか文化相対主義と似ていますね。【バフチンの 真理観】Mikhail Bakhtin, 1895-1975
テレームの僧院(theleme):たぶん描画はかの徳目の士・渡邉一夫画伯によるものかと?(余計な脱線はこちら)
■ リンク
■ 文献
1431-1432
フランソワ・ヴィヨン「巴里に生まれる.本名フランソア・ド・モンコルビエ,別名デ・ロオジュ.ヴィヨンといふ姓は,聖ブノア・ル・ペ トゥールネ教会礼拝堂司祭ギョオム・ド・ヴィヨンという,詩人を育て上げ生涯面倒を見た大恩人の姓を名乗ったもの」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
1449
フランソワ・ヴィヨン、本名「フランソア・ド・モンコルビエは,巴里大学文学部で,バシュリェとなる」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
1451-1453
フランソワ・ヴィヨン、「巴里奉行所と巴里大学との確執である悪魔の屁(ペ・ト・デイヤブル)事件に積極的に活動し,それを材料として『悪 魔の屁物語』を書いたらしいが,散佚」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
1452
5月4日より8月26日フランソワ・ヴィヨン「この間,巴里大学に於いて,文学士(リサンシエ)及びメエトル・エス・アールの学位を得 た.」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』 解説より)
1455 6月5日
フランソワ・ヴィヨン「聖ブノア教会の境内で喧嘩をして,司祭フィリップ・シェルモアFilippe Chermoye(又はセルモアズSermoise)を殺し,巴里より逐電」 岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解 説より)
1456 1月
1月、フランソワ・ヴィヨン「シェルモアを殺した殺人罪に対し,国王の赦免状二通を得る.」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
クリスマスの頃、フランソワ・ヴィヨン「ナヴァール神学校を荒らした金貨五百エキュ窃盗事件に参加する.このとき『形見の歌』を創作し,そ の中に,アンジェーに旅立つことを述べている」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
12月 フランソワ・ヴィヨン「12月末に巴里を出立したヴィヨンは,その後四箇年,フランスの一部を放浪している.ヴィヨン自らが詩の中 に表示している地名の外,ブロアにいたことは外部からも証明される.すなわち,当時ブロアの城に居住したシャルル・ドルレアン太公及びその周囲の詩人達の 詩歌の間に,ヴィヨンの詩が転写されている太公蔵の筆写本が残っているからである.少なくとも一時,この文藝の栄えた宮廷の遊楽に,ヴィヨンが参加したこ とは,この『ブロア御歌合のバラッド』によって認められる.なほヴィヨンは太公の幼少の姫君『マリー・ドルレアン姫に献詠の賦』及び後に『遺言詩集』に嵌 入された孤立した短詩の大部分を,この時代に創作している」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
1461
フランソワ・ヴィヨン「ヴィヨンは一夏をマン・シェル・ロアールのオルレアン司教チボー・ドオシニイの牢獄で過し,獄中でその友達仲間に宛 てて『手紙の詩』を創作する.10月2日新国王ルイ十一世がマンを通過した際,恩赦に浴し,新しい保護者を求めて,ブウルボン太公ジャン二世に才気横溢し た『懇願の賦』を奉って,その居城ムウランに赴く.間もなく,ヴィヨンは巴里の近郊に移り住んで,1461年〔旧暦〕(この年は〔新暦〕1462年4月 17日に終る)の後半年――彼の最重要作品である『遺言詩集』を創作した.その後なほ,巴里近郊に隠れたまま『心と肉體の諍論の歌』を書いた.『運命のバ ラッド』と題された詩も,恐らくこれと同時期或は稍後の作であらう.」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
1462
フランソワ・ヴィヨン「巴里に戻ったヴィヨンは,11月3日窃盗の嫌疑で奉行所に拘留された.その時,旧悪のナヴァール神学校窃盗事件で干 渉してきた巴里大学神学部が,ヴィヨンに損害賠償金として金貨百二十エキュの支払の誓約に署名させた.11月7日に出獄」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
1463
フランソワ・ヴィヨン「或夜,サン・ジャック街の有名な弁護士フランソア・フェルブウルの事務所の前で突発した喧嘩に関係して起訴され, ヴィヨンは巴里奉行所の判決によって「絞首刑に処すべし」と宣告される.この時ヴィヨンは『四行詩』及び所謂『絞首罪人の歌』を創作する.そして巴里奉行 所の判決に対して控訴を提起し,1463年1月5日〔新暦〕の判決によって,前の宣告が無効とされた.しかし「前記のヴィヨンの悪行に対して」,嚮後十年 巴里の市街,奉行領及び子爵領から追放すると宣告された.この時,ヴィヨンは,刑執行の猶予を嘆願して『最高裁判所に嘆願の賦』を,『上訴のバラッド』と 殆ど同時に,創作す」岩波文庫『ヴィヨ ン全詩集』解説より)
フランソワ・ヴィヨン「1月以降に,ヴィヨンに対する公正な言及は見出されない.ラブレエが噂を伝へた二つの逸話※は,殆ど事実とは信じられ ていない.一般には,この以降あまり長くは生きていなかったと信じら れている.若し幾年も長く生きたとするなら,彼ほどの詩人に詩が残っ てをらぬとは想像 し得ないからである(ではランボーはどうなんだ?![引用者])」岩波文庫『ヴィヨン全詩集』解説より)
※「パンタグリュエル物語」(Gargantua
and Pantagruel by Francois Rabelais)
***
1483? この世に生を受ける(1553年に70歳で死亡説「ラブレー遺産相続書」の記録による)
1494? この世に生を受ける(この時11歳という説もある)——フラ
ンソワ・ラブレーは二度生まれる!
1895 11月16日(旧暦4日)Oryol, Russian Empireにてこの世に生を受ける
1520 フォントネー・ル・コント・フランシスコ会修道院の修道士となる
危険な古代ギリシャ語を学び、ヘロドトスのラテン語訳を試み、ビュデと文通する。
1525? リギュージェ修道院長の秘書役(ベネディクト修道会)
1927 ボロシノフ名義で『フロイト主義』を公刊
1528 無許可で修道着を脱ぎ在俗の司祭になりすます。
1928 メドベジェフ名義で『文学研究における形式的方法』を公刊
1929 本名で『ドストエフスキーの創作の諸問題』公刊。ボロシノフ名義で『マルク ス主義と言語哲学』公刊(→「スカースとバフチン」)
1929 Bakhtin, M.M. (1929) Problems of
Dostoevsky's Art, (Russian) Leningrad: Priboj.
1530 モンペリエ大学医学校に登録、11月医学得業士
1531 ギリシャ語原典により古代医書を講じる(大学史上初めてという)
1532
リヨンに出没、『ヒポクラテスならびにガレノス文集』翻刻注解、マナルディ『医学書簡第二巻』などを公刊す。
リヨン施療院の医師として活躍。同時に変名で『第二之書』を公刊、類似の戯作小品を本名で公刊、しかし、医学博士ならびに占星学教授という 怪しげな肩書きを僭称。パリ大学神学部より異端の名誉を戴き、発禁処分を受ける。
怪しげな図書が収載されている「サン・ヴィクトール図書館蔵書目録」。
Horribles et épouvantables Faits et Prouesses du très renommé
Pantagruel, 『パンタグリュエル物語』(第二之書)
1534
弟のパリ司教・駐ローマ大使ジャンJean du Bellayの侍医兼秘書となる(1534年、35〜36年、47〜49年ローマその他に外遊し、フランスより逃れる)。この時『第一之書』公刊
La vie très horrifique du grand Gargantua, père de Pantagruel, 『ガルガンチュワ物語』(第一之書)
マルリヤーニ『古代ローマ地誌』を翻訳す
1537 モンペリエ大学より医学士ならびに博士号を取得、死体を用いた解剖学を講じる。
1938 大粛正の時代
1546
『第三之書(Le Tiers Livre)』公刊
1551 司祭食禄を得る(39〜40年、41年、42年:イタリア・トリノ滞在)
1552 『第四之書(Le Quart Livre)』公刊、この年の秋、投獄の噂がリヨンに流れる。
1553 1月、2年間に渡って得た食禄を辞して、その後行方知らず。
1963 1929年公刊の改訂版『ドストエフスキーの詩学の諸問題』を公刊
1564 『第五之書』公刊されるが、それまでの売れ行きから偽書との噂が絶えず。
1963 Bakhtin, M.M. (1963) Problems of
Dostoevsky's Poetics, (Russian) Moscow: Khudozhestvennaja literatura.
1965 『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』公刊
1968 Bakhtin, M.M. (1968) Rabelais and His
World. Trans. Hélène Iswolsky. Cambridge, MA: MIT Press.
1975 死亡、『文学と美学の諸問題』公刊
1975 Bakhtin, M.M. (1975) Questions of
Literature and Aesthetics, (Russian) Moscow: Progress.
1979 『文学と美学の諸問題』
1979 Bakhtin, M.M. (1979) [The] Aesthetics of Verbal Art, (Russian) Moscow: Iskusstvo.
1981 Bakhtin, M.M. (1981) The Dialogic Imagination: Four Essays. Ed. Michael Holquist. Trans. Caryl Emerson and Michael Holquist. Austin and London: University of Texas Press.
1984 Bakhtin, M.M. (1984) Problems of Dostoevsky’s Poetics. Ed. and trans. Caryl Emerson. Minneapolis: University of Minnesota Press.
1986 Bakhtin, M.M. (1986) Speech Genres and Other Late Essays. Trans. Vern W. McGee. Austin, Tx: University of Texas Press.
1990 Bakhtin, M.M. (1990) Art and Answerability. Ed. Michael Holquist and Vadim Liapunov. Trans. Vadim Liapunov and Kenneth Brostrom. Austin: University of Texas Press [written 1919–1924, published 1974-1979]
1993 Bakhtin, M.M. (1993) Toward a Philosophy of the Act. Ed. Vadim Liapunov and Michael Holquist. Trans. Vadim Liapunov. Austin: University of Texas Press.
1996-2012 Bakhtin, M.M. (1996–2012) Collected Writings, 6 vols., (Russian) Moscow: Russkie slovari.
2002 Bakhtin, M.M., V.D. Duvakin, S.G. Bocharov (2002), M.M. Bakhtin: Conversations with V.D. Duvakin (Russian), Soglasie.
2004 Bakhtin, M.M. (2004) “Dialogic Origin and Dialogic Pedagogy of Grammar: Stylistics in Teaching Russian Language in Secondary School”. Trans. Lydia Razran Stone. Journal of Russian and East European Psychology 42(6): 12–49.
2014 Bakhtin, M.M. (2014) “Bakhtin on
Shakespeare: Excerpt from ‘Additions and Changes to Rabelais’”. Trans.
Sergeiy Sandler. PMLA 129(3): 522–537.
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ミハイル・バフチン
Mikhail Bakhtin/1895−1975
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099