ジェンダー・バトル、あるいは〈愛の操作術〉
On Gender Battle, or our Modus Operandi for ture love
■ グループ討論の課題
下記の学部学生の語りは1942-43年当時、アメリカ合州国の女子大学(おそらく東部の優秀校バーナード大学)において社会学者ミラ・コマロ フスキーによって採集されたものである。
洗練さの程度は別にして、彼女の属している社会(文化)の同級生たちが概ね類似の所感を述べているのであれば、(1)この社会の男女のジェン ダー役割(=性別らしさを表す行動や価値観)は、どのようなものでしょうか、なるべく多くあげてください。もし時間に余裕があれば(2)それぞれの議論の 参加者は、彼女の意見に首肯できるでしょうか、できる場合もできない場合も、その理由をあげて説明してください。
"I sometimes "play dumb" on dates, but it leaves a bad taste. The emotions are complicated. Part of me enjoys "putting something over" on the unsuspecting male. But this sense of superiority over him is mixed with feeling of guilt for my hypocrisy. Toward the "date" I feel some contempt because he is "taken in" by my technique, or if I like the boy, a kind of a maternal condescension. At times I resent him! Why isn't he my superior in all ways in which a man should excel so that I could be my natural self? What am I doing here with him, anyhow? Slumming?
And the funny part of it is that the man, I think, is not always so unsuspecting. He may sense the truth and become uneasy in the relation. "Where do I stand? Is she laughing up her sleeve or did she mean this praise? Was she really impressed with that little speech of mine or did she only pretend to know nothing about politics?" And once or twice I felt that the joke was on me: the boy saw through my wiles and felt contempt for me for stooping to such tricks"(Komarovsky 1946:188).
「私はデートのときにときどき〈少し足りないふりをするの〉、でも後味がよくないわ。複雑な気持ね。私のなかには、疑うことを知らない男を 〈だましおおすことに〉喜びを感ずる部分があるのよ。でも彼に対するこの優越感は、私の偽善に対する罪悪感と混り合ってるんです。〈デートの相手〉に対し ては、彼が私の手管に〈欺かれている〉ということで軽べつを感じたり、もしその人が好きなら一種の母性的ないたわりを感じたりするんです。ときには彼を恨 めしく思うこともあるわ! なぜ男性が優れていて当然とされていることで、彼は私よりも優れてはいないのか、彼が私より優れていれば私は自然のままの私で いられるのに? なんで彼とこんなところにいるのかしら、一体? 安売り?
おかしなことには、相手の男性が、いつでもむじゃきではないらしいってことなの。本当のことに感づいて、間柄がぎくしゃくしてくるんです。 「ぼくはどうなってんだろう? この人、腹のなかで笑ってるんじゃないのかな、それともほんとに賞めたんだろうか? ほんとにぼくのあの話に感心したのか な、それとも政治のことは何も知らないふりをしているだけなんだろうか?」 そして一度か二度、からかわれているのは私のほうじゃないのかしら、つまり彼 は、私の手管を見抜いて、私が卑劣にもそんな手管を弄してるのを軽ベつしてるんじゃないかしらと思ったぐらいです」(翻訳は石黒毅訳、出典は彼による翻訳 であるゴッフマン 1974:278)。
【授業では触れられなかったその他の資料】
■ 別の女子学生の語り
以下の語りの中では、男性の優位に対する女性の従属というパターンが、繰り返し吹聴されているが、それは観念(イデオロギー)のみならず、 訓育(ディシプリン)や慣習(ハビトゥス)レベルに貫徹されていることを知ることができる。
"My mother thinks that it is very nice to be smart in college but only if it doesn't take too much effort. She always tells me not to be too intellectual on dates, to be clever in a light sort of way. My father, on the other hand, wants me to study law. He thinks that if I applied myself I could make an excellent lawyer and keeps telling me that I am better fitted for this profession than my brother"(Komarovsky 1946:185).
"I could match my older brother in skating sledding, riflery, ball, and many of the other games we played. He enjoyed teaching me and took great pridei n my accomplishments. Then one day it all changed. He must have suddenly become conscious of the fact that girlso ught to be feminine. I was walking with him, proud to be able to make long strides and keep up with his long-legged steps when he turned to me in annoyance, "Can't you walk like a lady?" I still rememberf eeling hurt and bewildered by his scorn, when I had been led to expect approval"(Komarovsky 1946:186).
"I was glad to transfer to a women's college. The two years at the co-ed university produced a constant strain. I am a good student; my family expects me to get good marks. At the same time I am normal enough to want to be invited to the Saturday night dance. Well, everyone knew that on that campus a reputation of a "brain" killed a girl socially. I was always fearful lest I say too much in class or answer a question which the boys I dated couldn't answer"(Komarovsky 1946:187).
Nina Leen (1909 - 1995) was a Russian-born American
photographer, a constant contributor to Life. St. Louis, 1940, LIFE
■ 関連画像とその解説
寺沢武一『コブラ:サイコガン』2009年より
宇宙海賊のコブラは〈武器〉の扱いにも慣れ、悪を倒す——どうして悪事を働く海賊が〈悪〉を倒すという矛盾はさておき——ことにかけては最 強だが、〈美人〉には弱い——自我を〈忘れる〉つまり[後述するように]ヘーゲル的には自己意識が失われて他者(美女)と自己との区別がつかなくなる—— つまり、他者(美女)からの誘惑——本当は自己意識の中に刻印される蠱惑する美女の像——という〈他者〉を克服することができない。
■ マドンナにおける「応用ヘーゲル主義*」
マドンナが歌う「私の愛を正当化する」の中の歌詞の下記の一節は、男女の恋愛における主従関係——ヘーゲル的には主人と奴隷——の関係が倒 立(=逆転)することを、見事に現している。支配と被支配の関係性の探求行為は、他者のなかに自己のロマンを投影し自らを解法しようとし、他方、他者を自 分にとって理解可能な存在として[少なくとも意識の上では]手なづけようとする。引用の最後(五行目)の意味は「私はお前の愛人になりたい」であるが、そ の前の四行目では男に命令語法(「我を愛せ」)で呼びかけており、一種の条件節となり、「私はお前の愛人になりたい」という発話は、男を前にすると、試訳 のように甘美な呼びかけ表現としての「お前の愛人になってやろう」というように取れる。
*スーザン・ソンタグの用語(「英雄としての文化人類学者」『反解釈』):太田好信・九州大学大学院教授の示唆による。[→植民地的想像力]
[試訳]
男子(おのこ)は哀れなものよ
きゃつの悦びは……
女子(おなご)の承認を必要とす
男子(おのこ)よ我を愛せ、それでよい、我を愛せ
お前の愛人になってやろう[原義:愛人になりたい]
[オリジナル]
Poor is the man
Whose pleasures depend
On the permission of another
Love me, that's right, love me
I wanna be your baby
(Lenny Kravitz, Ingrid Chavez and Madonna, Justify My Love,1990)
■ ヘーゲル『精神現象学』からの引用(翻訳は長谷川宏による)
「自己意識にもう一つの自己意識が対峠するとき、自己意識は自分の外に出ている。というと き、そこには二重の意味がある。一つは、自己意識が自分を失って、他者こそ本当の自分だと考える、という意味であり、いま一つは、他者を本当の自分と見る のではなく、他者のうちに自分自身を見るというかたちで、他者を克服している、という意味である」(p.129)。
「二つの自己意識が統一されてあるというのが承認の純粋な骨格だが、その過程が自己意識にた いしてどのようにあらわれるのかを以下で考察しなければならない。はじめにあらわれるのは二つの自己意識が同等でない位置に立つ場合であって、中間項が両 極にわかれて対立するのだが、その一方は承認されるだけ、他方は承認するだけ、という関係がそれである」(p.131)。
「したがって、二つの自己意識の関係は、生死をめぐる闘争によって自の、と定義される。双方 がこうしたたたかいに踏みこまねばならないのは、自分が自自他のもとで真理にまで高めなければならないからである。そして、生命を賭けるこされないし、自 己意識にとって、ただ生きていること、生きてその日その日を暮らすことが浮かんでは消えていくような日々の暮らしのその核心をなす一貫したもの——純粋な 自立性(自主性)——こそが大切だということも、生命を賭けることなしには確証されないのである」(p.132)。
※コメント:ここにはミハイル・バフチン的な異種混交のままでの共存という発想がない[→対話論理]。
「これまで見てきたのは、支配との関係のなかでの隷属のありかたである。が、隷属するのも自 己意識であって、いまや、その全体としてのありかたが考察されねばならない。/さしあたり隷属する意識にとっては主人が絶対であり、したがって、独立自存 の意識が隷属する意識にとって客観的真理をなすが、とはいえ、この真理は隷属する意識のもとで実現されているわけではない。ところが純粋な否定力をもつ自 主・自立の存在である、という客観的真理が、実は、隷属する意識のもとに生じているともいえるので、奴隷は主人の存在をわが身に経験しているのだ」 (p.136)。
■ 欲求する主人とリアリスト奴の 対話
主人の末裔:「うぇ〜ん。奴隷制がなくなって、働き手が調達できないよ、どうしたらいいの〜
泣)」
奴隷の末裔:「あんたね、だったらどうするの? 自分の身体の中に奴隷を飼って、それを使役するしかないじゃない。アホちゃう?」
Anti-slavery medal, 1787, UK 33mm
"Am
I not a man and a brother? " - "What so ever Ye would that
men should do to you, do Ye even so to them"
■ 欲求と欲望
「動物化とは何か。コジェーヴの『へーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定 義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。「欲求」とは、特定の対象 の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏ー満足のこの回路が 欲求の特徴であり、人間の生活もこの多くはこの欲求で駆動されている。/しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異 なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。その種の渇望の例として、コジェーヴを始め、彼に影響を受けた多くのフランスの思想家た ちが好んで挙げてきたのは、男性の女性に対する性的な欲望である。男性の女性への欲望は、相手の身体を手に入れても終わることがなく、むしろますます膨ら んでいく(と彼らは記している)。というのも性的な欲望は、生理的な絶項感で満たされるような単純なものではなく他者の欲望を欲望するという複雑な構造を 内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性は女に入れたあとも、その事実を他者に欲望されたい(嫉妬されたい)と思うし、また同時に、他者が欲望するも のをこそ手に入れたいとも思う(嫉妬する)ので、その欲望は尽きることがないのである。人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができる のは、まさにこのような間主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする……した がってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」(東 2001:126-127)。
主体とは絶えず主体にとって代わる欲望の作用そのものだ(ジュディス・バトラー)
欲望はなんらかの否定を内蔵するものなので欲望が主体をハックする時、主体にとっては最終的
にその否定と対話するあるいは狡知を交えた交渉というものが不可欠になる(垂水源之介)
■ 精神分析的解釈
女性はファルスをもたない存在 である。ファルス願望をもつ女児は、母親からそれをもらえない。それゆえ、母を軽蔑し、父親に愛着をいだくようになり、父親からファルスをもらいたいと欲 望するようになる。それも不可能。それゆえに、ファルスをもつ男性から欲望されることを欲望する(→「ジャック・ラカン理論のスコラ的解釈」)
女性はファルスをもつ男性から欲望されることを欲望する。それを、ラカ ンは、女性がファルスであることを「選択」する。その理由は、男性は去勢(願望の末)を経ており、自分がファルスであることを「選択」できません。男性 は、ファルスは他の場所にファルスを持つことを欲望するようになります。これが★「ファルスは欲望のシニフィアンそのもの」という表現の謂いである。ゆえ に、女性が自らファルスに同一化して、私こそがあなたの大切な欲望の対象である、と言わんとする。女性はファルスになることを通して男性に欲望され、彼の ファルスを自分のものにしようと欲望する。
女性自身がファルスであることを表明したり、自覚することはない。欲望の究極的な形態として隠され神秘化される必要がある。女性自身がファ ルスであることを表明したり、自覚することはない。欲望の究極的な形態として隠され神秘化される必要がある。男性の気を引くための艤装=仮装のキーポイン トは、男性に「彼女こそは、私が求めているモノ(=自分にふさわしいファルス)ではないか?」と思わせる、疑似餌である。
では、なぜ、ファルスを所有した女性は、それに満足せず、子供を持ちた がるのか?(→女性をみてうっとり夢見ている男性は、自分にふさわしいファルスがまさに目の前にあると思っているのだからこれは奇妙な両性における「ファ ルス願望」の衝突だ)。男性からファルスを受け取りたい欲望の説明は、子どもがファルスの代理物であるから、自分自身ファルスの欠乏を埋め合わせるために あると理解するのである。
ファルスの欠乏は、男性にもさらにあり、うまた子供は、ファルスのない、自分の母親への贈与願望をみたす代替物になる。自分が父親になるこ
とはファルスをもった理想の父の実現であり、代替物である子供をファルスとして、母親に捧げようとする。女子力などという言葉でも、男性の気を引くための
艤装=仮装であることは、十分に解釈可能である。男性であること、女性であること。これらが基本形になり、恋愛ゲームの果てに、子供をもつことは、この両
者にとって欠けたファルスをめぐって取り合いをするゲームなのである。
■ グループワークをおこない、さらにここまで読んでみて、理解できないと感じて いる学生のために:講義担当者の意図と理念
このページの作成者が、読者の皆さんに伝えたいメッセージとは次のようなものです。
恋愛の当事者は、相手を籠絡するためにさまざまな策略をめぐらして、相手をコントロールしているかのように感じるが、この多くは全くの幻想 であることが多い。したがって恋愛の不調や失恋は、このコントロール幻想が現実によって打ち壊された時に起こる。このことを客観的に学べない恋愛のプレイ ヤーは、自分の過ちを二度三度と繰り返すことになる(郵便配達夫は二度ベルを鳴らす、のパロディ)。恋愛のゲームが、しばしば当事者たちを夢中にするの は、自分の心のなかに作った恋愛の相手によりいつのまにか籠絡されていることです。つまり盲目的な恋愛のプレイヤーはいつのまにかシャドウボクシングをお こない、やがて自ら疲れ果てて倒れるのです。恋愛の幻影は、常に現実の相手により齟齬をきたすので、恋愛という臨床コミュニケーションはやがて終焉することが約束されているということです。
■ 文献
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ここで述べられている引用の内容は大阪大学コミュニケーションデザインセンター・で実施されている臨床コミュニケーション関連の授業教材の も のであり、引用・指摘されている著者・アーチストの主張内容を表象代弁するものではありません。文章の内容ならびに、その引用に関する社会的責任の所在は すべてこのページの作者にあります。