かならずよんで ね!

ジャック・ラカン理論のスコラ的解釈

Scholastic Lacanian, an introduction

池田光穂

jack lacan as anti-voluntarist non-theologic. Anyway what is Theological voluntarism? "Theological voluntarism also refers to theological commitments—that is, specific interpretations of doctrines of Christianity—arguably held by certain early modern natural philosophers such as Pierre Gassendi, Walter Charleton, Robert Boyle,[5] Isaac Barrow and Isaac Newton. It resulted in an empirical approach associated with early modern science. Voluntarism therefore allows that faith or belief in God can be achieved by will as opposed to requiring a prior divine gift of faith to the individual. This notion holds at least in so far as it has found favor among some historians and philosophers (e.g. the historian Francis Oakley and the philosopher Michael B. Foster).[6] A 20th-century theologian of voluntarism was James Luther Adams (theological voluntarism). 反ボランタリストの非神学者としてのジャック・ラカン。ところで、神学 的ボランタリズムとは何だろうか。「神学的ボランタリズムとは、ピエール・ガッセンディ、ウォルター・チャールトン、ロバート・ボイル、アイザック・バ ロー、アイザック・ニュートンといった近世の自然哲学者が抱いた神学的コミットメント、つまりキリスト教の教義に対する特定の解釈も指している[5]。そ の結果、近世の科学に関連する経験的なアプローチが生まれたのである。したがってボランタリズムは、神から個人への信仰の贈り物を事前に必要とするのとは 対照的に、神への信仰や信念が意志によって達成されうることを認めているのである。この概念は少なくとも一部の歴史家や哲学者(例えば歴史家のフランシ ス・オークリーや哲学者のマイケル・B・フォスター)の間で支持されている限りにおいて成立している[6]。 20世紀の神学者でボランタリズムを唱えたのはジェームズ・ルーサー・アダムス(神学的ボランタリズム)であった。
Duns Scotus' Voluntarism; "Scotus was an Augustinian-Franciscan theologian.[34] He is usually associated with theological voluntarism, the tendency to emphasize God's will and human freedom in all philosophical issues. The main difference between Aquinas's rational theology and that of Scotus is that Scotus believed certain predicates may be applied univocally – with exactly the same meaning – to God and creatures, whereas Aquinas insisted that this is impossible and that only analogical predication can be employed, in which a word as applied to God has a meaning different from, although related to, the meaning of that same word as applied to creatures. Duns struggled throughout his works in demonstrating his univocity(一義性) theory against Aquinas's analogy doctrine. Scotus gave the lecture, Lectura I 39, during 1297–1299 to refute the view that everything is necessary and immutable. He claims that the aim of this lecture has two points (Lectura I 39, §31): first, to consider the contingency in what is (de contingentia in entibus); second, to consider how God's certain knowledge is compatible with the contingency of things. Scotus tries to defend the validity of Christian theology against the attack of ancient philosophers. The main argument is unpacked in Lectura I 39, §§49–53. Scotus argues that a necessary being (God) is able to have contingent knowledge, and that although this knowledge is contingent, it is not necessarily mutable and temporal by that very fact. In Lectura I 39 §1, Scotus asks, "whether God has determinate knowledge of things according to every aspect of their existence, as according to being in the future." He presents a counterview which claims that God cannot have determinate knowledge of the future. To support this counterview, he uses Aristotle's De Interpretatione IX. In the following arguments, Scotus does not attempt to contradict Aristotle. He does not affirm or reject the ideas of Aristotle. The only issue he argues against is the proposition that God cannot have determinate knowledge of the future. Scotus appears to try to fully demonstrate that Aristotle's text is not contradictory to the Christian doctrine of God. Scotus argues that God wills with one single volition (unica volitione) whatever he wills. God has one volition ad intra, but this one volition can be related to many opposite things ad extra. God can simultaneously will one thing at time 1 and the opposite thing at time 2. There are various possible interpretations of Aristotle's De Interpretatione IX. For example, John Buridan (ca. 1300–1362) thought the Scotistic contingency theory was an Aristotelian view. Buridan's judgment is all the more possible because of at least four reasons: (1) Aristotle's De Interpretatione IX, 19a23-25 can be interpreted like the Scotistic contingency theory; (2) Scotus himself does not refute Aristotle's De Interpretatione IX in Lectura I 39 §§49–53; (3) Scotus, rather, tries to formulate his contingency theory with the help of other works of Aristotle in Lectura I 39 §§51, 54; (4) Scotus introduces the diachronic feature of God's volition to his contingency theory as well as the synchronic feature.[35]" Voluntarism of Duns Scotus. スコトゥスはアウグスティヌス派・フランシスコ派の神学者であり [34]、あらゆる哲学的問題において神の意志と人間の自由を強調する傾向である神学的ボランタリズムと通常関連付けられている。アクィナスの理神論とス コトゥスの理神論の主な違いは、スコトゥスがある述語は神と被造物に一義的に(全く同じ意味で)適用できると考えたのに対し、アクィナスはそれは不可能 で、神に適用される言葉は被造物に適用される言葉の意味と関連しながらも異なる意味を持つ、類推的述語のみが採用できると主張した点である。ドゥンスはア クィナスのアナロジーの教義に対して、自分の一義性説を実証するために、その著作を通じて苦心した。スコトゥスは1297年から1299年にかけて、すべ てが必要であり不変であるという見解に反論するために、『レクチュアI 39』という講義を行った。彼はこの講義の目的は、第一に、存在するものにおける偶然性を考察すること(de contingentia in entibus)、第二に、神の確実な知識が事物の偶然性といかに両立するかを考察することの二点であると主張している(Lectura I 39, §31)。スコトゥスは、古代の哲学者たちの攻撃からキリスト教神学の正当性を擁護しようとする。本論は『レクチュアI 39』§49-53に解き明かされている。スコトゥスは、必要な存在(神)は偶発的な知識を持つことができ、この知識は偶発的ではあるが、その事実そのも のによって必ずしも変幻自在で時間的なものではないことを主張する。レクチュア I 39 §1 でスコトゥスは、"神は物事の存在のあらゆる側面に応じて、未来における存在に応じた決定的知識を持つか "と問うている。彼は、神は未来についての確定的知識を持ち得ないと主張する対抗見解を提示する。この反論を支持するために、彼はアリストテレスのDe Interpretatione IXを用いる。以下の議論において、スコトゥスはアリストテレスと矛盾することを試みていない。アリストテレスの思想を肯定も否定もしない。彼が唯一反論 しているのは、神は未来について確定的な知識を持ち得ないという命題である。スコトゥスは、アリストテレスの文章がキリスト教の神の教義と矛盾しないこと を完全に証明しようとしているように見える。スコトゥスは、神が意志するものは何でも一つの意志(unica volitione)で意志する、と主張する。神は一つの意志ad intraを持つが、この一つの意志は多くの反対のものad extraに関係することができる。神は、時間1において一つのことを、時間2においてその反対のことを同時に意志することができる。アリストテレスの 『解釈学』IXの解釈には様々な可能性がある。例えば、ジョン・ビュリダン(John Buridan, ca. 1300-1362)は、スコティッシュ偶発説をアリストテレス的な見解と考えた。ビュリダンの判断は、少なくとも次の4つの理由から、より可能性が高 い。(1) Aristotle's De Interpretatione IX, 19a23-25 は Scotistic contingency theory のように解釈できる (2) Scotus 自身は Lectura I 39 §49-53 で Aristotle's De Interpretatione IX に反駁していない (3)。(3)スコトゥスは、むしろ、レクチュアI 39 §51、54において、アリストテレスの他の著作の助けを借りて、自分の有事論を定式化しようとしている。(4)スコトゥスは、神の意志という通時的特徴 を、共時的特徴と同様に自分の有事論に導入しているのである。 [35]" ドゥンス・スコトゥスのヴォランティア論。

ここで言う、スコラ的とはラカンが好きなカッコ表 示、「法」「父の名」あるいは〈法〉〈父の名〉などという表現を使わずに、目の不自由な人でも、音声認識でわかるように表現するものである。さらに、 ジャック・ラカンが生前濫用した、特殊なジャーゴンや衒学趣味はラカンを理解するためには、それほど役に立たないものとして、意図的に無視して、日常言語 でも理解可能なラカンを常識的に理解する試みをここでは「スコラ的」と解するものである。

赤ちゃんの欲望よりも、欲望の対象になったデカパイ女性の主体形成の物語の寓意だろう——垂水源之介

ラカンの用語の解説︎▶ジジェク大全︎▶フィールドワーカーたちの精神分析︎︎▶︎超自我の道徳性について▶︎︎ジェンダー・とらぶってる!!!▶︎〈愛の操作術〉「血に混濁した潮が解き放たれ」スラヴォイ・ジジェクの暴力論:03︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

赤ちゃんの欲望よりも、欲望の対象になったデカパイ女性の主体形成の物語の寓意だろう——垂水源之介

遡上的読解(そ じょうてき・どっかい;running-up reading)とは、通常の 論文を、まず文頭から文末に展開する読解をおこなった後に、論文の中で主張されている、ある特殊な語彙ないしはキーワードの意味を探るときに、文末から文 頭にかけて、単語が含まれる文章(=コンテクスト)を抽出し、後ろ向き――つまり、自分の最初の読解を遡及して自分とその文脈の出会いを未来から過去に 遡って読む事である。このような読解を通して、論文の作者が、論理的展開を時間軸の流れの助けを借りて「強引ないしは不自然に」に主張した可能性について 考え、論文読解を因果論的展開で読み取ろうとする読者の「あざとい精神」を相対化する方法である。

他者がなにをいおうと関係ねぇ 192 ※数字は片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』の初版ページ数である。

理想とは別の場所で幸福を見出すこと 191

では、君に問う、理想とはなにか? 

他者の幸せに依存しない幸せとはなにか? それは特異的なのか 190

迷宮は至福である。だが至福のものには終わりがある

他者に承認されることが、幸せか?

幸せがないことをそのまま肯定するような生き方?——『サウルの息子(Saul fia)』の親父のような生き方がいいのか?

だから、師はいう、他者のなかの幸福に依存しないような、独自の幸福を見出せ。だが弟子はいう「別に幸福なくてもいいじゃん?!」

自分の至福に関して他者はまったくの無力である 189

多くの人が、他者に裏切られる気持ちを抱く。だが人は、他者から裏切られることの定義をせずに、安易に、裏切られた、裏切られたと文句をいう。これを、裏切られカルトと言わずしてなんであろうか?

他者との関係のなかで、至福を求めることをするからである

精神的な苦しみの多くは、他者の世界の構造に起因する 188

人間の多くの苦しみは、人間が他者のなかで生きなければならないということに起因します。

特異なもの、このことを考えよ。自分も特異なものか、自分の特異性とはなにか?——なぜこのような審問を私がするのか、考えよ。

なぜ特異性が重要なのか、考えよ。

自分が特異なものであることを発見すれば、それでよいではないか。いや、むしろ、そこからが、本当の大人の人生ではないか?——年齢的夭折者は排除されるかという審問を私にするな。それは君がまだ、幼児で、大人の私との対話ができないからだ。以上。

旅の終着点はなにか、それについて考えよ

自分が本当に望むものがなにかわからない人は、私のところに来てはいけません。

自分は本当に満足できる生き方をしていないと感じる人は、私のところに来てはいけません。返ってわからなくなります。
私ができるのは、みなさんの生き方を変えることです。でも、それは、最終的に自分が選ばないとなりません。

一般化した倒錯(コレット・ソレール)が存在する 184

構造的にはかなり本気の倒錯者でなくても倒錯的享楽をもとめる気持ちは誰にでもある。つまり、倒錯のデモクラシーが必要

構造的な倒錯と、享楽的つまり機能的な倒錯を区別しなさい 184

父的存在がないと、子供は倒錯的になる

法を保証する存在は、象徴的父であるが、倒錯者はそれを理解できない。

法を保証する存在は、象徴的父であるが、倒錯者はそれを理解できない(ここまで再掲)。それゆえ倒錯者はファルスによる性のノーマライゼーションを受け入れず、倒錯したセクシュアリティのもとで、法をそのものを笑いとばしながら生活する。183-184
法を保証する存在は、象徴的父であるが、倒錯者はそれを理解できない (ここまで再掲)。それゆえ倒錯者はファルスによる性のノーマライゼーションを受け入れず、倒錯したセクシュアリティのもとで、法をそのものを笑いとばし ながら生活する(ここまで承前)。ヘタレなラカン派は、ここで「既存のLGBTQ+の価値概念を毀損するものではない」と釈明する。ヘタレなラカン派は、ここでの「既存のLGBTQ+」が象徴父として受け入れることができず、それ自体が倒錯者になってしまうのです。
妄想の構築を援助しよう——はベテルの専売特許だけではない

精神病者は、スキゾフレニー的な絶対的無秩序への転落をさけるために、パラノイア妄想により、自分自身の法をつくりだそうとしてる 182

法をつかさどる存在がない以上、法をつくりだし、世界を無秩序から自分自身を救済するのはあなた自身です!!! 182

精神病者はみずからの手により法をつくりだす——これがパラノイア。よいではないか、よいではないか?!

世界没体験——セカツボツ体型ではない

精神病者の世界はあらゆる法が崩壊し無秩序に陥る危険性あり 182

スキゾフレニーとパラノイアの二分法という考え方をうけいれよ

父の名は法を司るシニフィアンであり、この世の秩序を保証する

人が心をやむのは、父の名前の排除である、なんちゃって!!! 181

精神病の苦しみは欲望の対象を手に入れられないことである

神経症者は父がいることに苦しみ、精神病者は父がわからないことに苦しみ、倒錯者は父がバカにしか思えないことに苦しむ。180

人生の構造を決定しているファクターとは何なのか?

人生には構造があるぐらい、知っているよね?

鑑別寝台じゃない、鑑別診断だっ!!! 180

精神疾患によって苦しみの質は異なる(らしい)

不可能なものがあると認めること、それを性急にもとめない。うまい付き合い方を見出しなさい。ただし、これは友人のことではなく、自分の精神との付き合い方である。

自我の理想は、君のファンタスムすなわち自我の幻影とは異なるものである。

ファンタスムすなわち自我の幻影は強烈、強固である。
理想と対象αの間の癒着を切り離す 176

対象αとは、「対象α、対象( a) 、小文字のa (ρetit a) 、対象a (objet a) 、小文字の対象α(petit objet a) などと書く。1950年代初期には、自分自身に似た想像的他者。1960年代および、その後には、それには少なくとも二つの側面がある。(1) 〈他者〉の欲望。これは、主体の欲望の原因としての役割を担い、享楽およびその喪失の経験と密接に関係づけられる(たとえば乳房、まなざし、声、糞使、音 素、文字、何でもないようなものなど)。(2) 現実的なものの領域に位置づけられる、象徴化のプロセスの残余。たとえば、論理的な例外やパラドックス、文字や言語のシニフイアン性」→ラカンの用語の解説.
ファンタスムを横断するとは、自分の生き方を根底的に変えることだ。

ファンタスムを横断するとは、各人が自らのファンタスムと向き合って新たなファンタスムを再構築すること。このことを、横断という。
だが、ファンタスムを横断するのは難しい。ファンタスムを捨てることは、これまでの大切な享楽の対象を捨てることなんだから…… 174

だが、ファンタスムを捨てることは、人生の中では不可避だ。

本当は再構築というのだから、解体という作業は不可欠だぜ。 174

もちろん、ファンタスムは万能でもない 173

ファンタスムが心的な依存をうむ

享楽ことを人生の意味の支えになる

したがつて、ファンタスムは、私たちがどういきるのかに深く関係する
ファンタスムは、未来への希望という欲望の探求のほかに、現在の対象αもうみだす

対象αは、欲望の原因であり、対象でもある。170
ファンタスムは、象徴界と現実界をむすびつける形である 169

 ファンタスムの機能は、1)欲望に関するものと、2)享楽=欲動に関するものにわけられる。その区別は?——はてさて、俺にもわからねぇ

欲望→対象α、の役割は、象徴界→現実界のそれと似ている 169

象徴界にも、現実界にも法がある。象徴界の法にしたがい、欲望の法をあきらめると、後悔が襲い、それを罪悪感と呼ぶ。

つまり、象徴界に法があり、欲望にも法がある。

象徴界の法は、ものを遠ざける障壁であり、欲望の法は享楽をめざすための法。これはまるで、ベンヤミンの神的暴力と神話的暴力の区分とよく似ている。

欲望に譲歩するなとラカン先生はいう。象徴界の法に従うことで、欲望の法をないがしろにしてはいけない。167

欲望に譲歩するな、ラカン先生は繰り返しいう。

欲望に譲歩するな、とラカン先生は繰り返しいうのは、欲望そのものは享楽をもとめるつつも、しばしば、それを避けてしまうからである 165

欲望の目標は、欲動の満足である、つまり、欲望は欲動の中で動かされている

欲望の根にあるのは、モノの享楽を取り戻したいということだ。取り戻したいということは、欲望とモノの享楽のあいだは不可分だった原初状態を想定するものだ。

対象αの享楽は失ったモノの享楽を取り戻す指針として働く 164

さて、ようやく対象αの説明に到達する(=遡上的着岸)ことになる。それは、モノの残滓が対象αである。対象αとは、死の欲動である 163-164

享楽の多くは、モノの一度きりの満足。享楽は取り戻せるのか?は重要な審問。そして、享楽は永続するのかは、より多くの人が知りたいところである。

精神分析は、無理なことは無理である、というところから出発する。よろしい!! 161

エディプス・コンプレックスを経てもなお、モノは消えない。モノは再来し、主体(君?)を死に誘う 161

ノスタルジーは、死への欲望(=不満足の永続状況)

私たちは合理的存在ではない。そんなものは誰でも知っている。問題は、精神分析がどのようにして合理性を担保できるのか。そして、後半の疑問という偏執的思考からどれだけ自由になることができるのか?それではないのか?

エディプスコンプレックスは、子供を享楽から遠ざける役割を果たしている——父親は享楽をもたらすモノを象徴界から排除する 159


Decadence means "moral or cultural decline as characterized by excessive indulgence in pleasure or luxury"- Pornocrates by Félicien Rops (1878)

モノの享楽は一度きりで、その場かぎりで失われてしまう 157

反復行為は原初満足体験を100%繰り返されない。つまり限界効用?

モノの経験は、原初的な満足体験(らしい)156

生まれてすぐに、モノの経験をする(おっぱいを吸う、母親の胸に抱かれる?)その原初経験を経ると、今度は死の欲動にうごかされ、享楽を追求するようになる 154

死の欲動が、ようやく見えてきたでしょうか? 154

死の欲動はつよいために(主体の生存を促すために)死の欲動から主体を防衛しなければならない 154

死の欲動から主体を防衛してくれるのが、象徴界の法である。つまり、禁止する存在。
象徴界の法は、不快を避け、主体が享楽を得ることを防いでいる。
象徴界の法に抗する抵抗勢力?欲動の法か?
享楽は緊張を高めるための気持ちのよさ。ただし、享楽はたんなる快楽ではない。

快楽原理とは、快楽の法である。快楽をえるために緊張をたかめないことを目指す。

快楽←→享楽。快楽は緊張を高めない一方、享楽は緊張を高める。享楽は、快楽よりも、きもちいい。

享楽は、快楽にない緊張を高める作用をもつので、両義的である 153

死のリスクのあるものほど、魅力的——危険な行為を進んでやることがある。

欲動の目的は死ぬことである。

欲動はフロイト理論の中心。ただし、ラカンは死の欲動を、欲動じたいの代表にしてる 151

ようやく、ここで欲動(英語 drive)の説明がきましたね!!! 150

欲動(英語 drive, 仏語pulsion)は欲望(désir)と違う
★欲望(désir)は、シニフィアン的=意味を発生させるように構造化されており、象徴界の法に従う
★欲動(英語 drive, 仏語pulsion)は、言語の法をはみだすような過剰なものである。欲動は、人間をその満足にむかって駆り立てるような根源的力
★享楽とは、欲動の充足である。151

ラカンの1960年代では、見せかけと現実界の対立が議論の課題になる

見せかけ(サンブラン)とは、想像界と象徴界をひとつのもとにまとめるもの(=クッションの縫い合わせのことか?)150 サンブラン(=象徴界プラス想像界)〈対〉現実界

ラカンの1950年代では、想像界と象徴界は対立する。
象徴的無意識と現実的無意識

象徴的無意識=言語的構造をもつ
ラカンの1960年代、無意識は言語的なものだけでなく、享楽などの非言語的なものにも関わる。後者の無意識は現実的無意識

現実的無意識は、言語構造をもたないので、精神分析は不可能 148

現実界そのものにアプローチすることが困難でも、言語を媒介にして、現実界に対して変えることが可能(とラカンは信じた)

★現実界(=不可能なもの)の問題、ラカンの問題関心は象徴界にあった。象徴界の分析に向いていた。象徴界だけでは限界があるのは、上掲(先に述べた)とおり。だから現実界を扱う必要があった。その手がかりは言語であり、現実界は象徴界の穴と考えられた 146-147

女性のエディプスコンプレックス 141

女性はファルスをもたない存在 141——ファルス願望

ファルス願望をもつ女児は、母親からそれをもらえない。それゆえ、母を軽蔑し、父親に愛着をいだくようになり、父親からファルスをもらいたいと欲望するようになる。それも不可能。それゆえに、ファルスをもつ男性から欲望されることを欲望する(→「愛の操作術」)

女性はファルスをもつ男性から欲望されることを欲望する。それを、ラカ ンは、女性がファルスであることを「選択」する。その理由は、男性は去勢(願望の末)を経ており、自分がファルスであることを「選択」できません。男性 は、ファルスは他の場所にファルスを持つことを欲望するようになります。これが★「ファルスは欲望のシニフィアンそのもの」という表現の謂いである。142
ゆえに、女性が自らファルスに同一化して、私こそがあなたの大切な欲望の対象である、と言わんとする。女性はファルスになることを通して男性に欲望され、彼のファルスを自分のものにしようと欲望する。

★女性自身がファルスであることを表明したり、自覚することはない。欲望の究極的な形態として隠され神秘化される必要がある。142

そのため(=神秘化するために)女性の艤装化をおこなう。仮装(マスカレード)としての女性とは、家事ができるとか、丁寧である(=女性らしさの表象)であるが、それは男性の気を引くための艤装=仮装である。

男性の気を引くための艤装=仮装のキーポイントは、男性に「彼女こそは、私が求めているモノ(=自分にふさわしいファルス)ではないか?」と思わせる、疑似餌である。
では、なぜ、ファルスを所有した女性は、それに満足せず、子供を持ちた がるのか?(→女性をみてうっとり夢見ている男性は、自分にふさわしいファルスがまさに目の前にあると思っているのだからこれは奇妙な両性における「ファ ルス願望」の衝突だ)。男性からファルスを受け取りたい欲望の説明は、子どもがファルスの代理物であるから、自分自身ファルスの欠乏を埋め合わせるために あると理解するのである。

ファルスの欠乏は、男性にもさらにあり、うまた子供は、ファルスのない、自分の母親への贈与願望をみたす代替物になる。自分が父親になることはファルスをもった理想の父の実現であり、代替物である子供をファルスとして、母親に捧げようとする。143

「女 子力(jyoshi-ryoku)」などという言葉でも、男性の気を引くための艤装=仮装であることは、十分に解釈可能である。男性であること、女性であ ること。これらが基本形になり、恋愛ゲームの果てに、子供をもつことは、この両者にとって欠けたファルスをめぐって取り合いをするゲームなのである。→Psychoanalytic Feminism.
★このあたりから、ラカン理論はフェミニズムから再検証をうける必要があると思われます(→Psychoanalytic Feminism.)

父の名は、法を統御するシニフィアンであり、ファルスは欲望やセクシュアリティを標準化するシニフィアンである 140

父の名とファルスは、エディプスコンプレックスを構成する二本柱である 139

去勢とは、他者の欠如や不可能性を受け入れることなり。エディプス第三の時に去勢をおこなうのは現実父(げんじつふ)と呼ばれる

母にファルスを与えるプロセス(=結婚後の男性に関する上述を参照)が、迂回され、間接的になり子供が文化的に構成される。昇華つまり性的エネルギーを非性的な対象に向け直すことをいう

ファルスをもつことの欲望:エディプス第一から第二では、子どもはファルスに同一化して、母の欠如を埋めようとする。(自分が?=)ファルスであることの欲望

第三段階では、ファルスであることの欲望が不可能であることがわかり、母親が欲望してるのは自分ではなく父親であることがわかる。そのために、ファルスであることの欲望を挫折した子どもは、ファルスをもつ父親と同化(同一化)しようとする
子どもは、父親のようにファルスをもちたいという理想を抱くからこそ、父に同意し、かつ法を受け入れる。

法を受け入れることで、自分の欲望が母親そのものから解放され、より広い対象に向かってゆく——これは子どもの社会化にとって重要。

去勢はとは、なんども繰り返されるように、ファルスの欠如を受け入れること。その過程には、完璧な母親という幻想を捨てることがあるが、これは辛い。また、引きずるものである。そのため、精神分析では、なんども去勢をやり直す必要がある。

エディプスの第二では、想像夫への敵意を抱く(=母親が求めるファルスと子どもは同一化するので)。他方で、母親にファルスがないことを事実として受け入れる必要がある。これはより、普遍的には、他者の世界にはかならず欠けたところがあると理解することでもある。

子どもが、他者にも欠けたところがあるという認識をもつことは発達において重要である。想像夫への敵意の消失が必要になるだろう。135

お母さんにはファルスがないが、それはお父さんが奪ったからだ。このような認識をもつことは、父親に対するフラストレーションをもつことである(=想像夫への敵意)。そこには、母親がもともとファルスがあったという想定自体は疑いをもたない。

エディプスコンプレックス第一:子どもは母親の欲望の対象になろうとする。つまり、ファルスになろうとする。ファルスとは母親の欠如をあらわす言葉である。

このことは幼児には耐え難い経験である。なぜなら、母親は完璧な存在であってほしいからである。それゆえ、幼児は自分自身の手により(母親の)ファルスの欠如を埋めようと考える。130

幼児の願望は、他者の欠如を埋めようとすること。

そ のために、幼児は、母親のいうことを聞こうとする。子どもは、母親の要求に応えているようにみえるが、幼児のなかでは、母親のなかにある欠如を埋めようと 努力している。自分は母親の言うことを聞くと同時に、母親の欲望を満たしていると感じ、母親にないファルスの欠如を埋めようとする。

いままで、漫然とつかっていたファルス概念に、ようやく意味が与えられる。ファルスはペニスのことだが、ラカンは生物的な器官としてのペニスに対して、社会的ないしは文化的意味をもたせた男性器をファルスと呼ぶ

ファルスの概念を通して、フロイトも使った去勢の概念が、エディプスの第一、第二、第三で検証されたのが、上の説明である。

去勢は、フロイトが去勢不安といわれているように、この不安は、幼児がエディプスコンプレックスから脱する契機として考えている。
幼児が母親を愛するようになるのは、ファルス期で、男の子はペニスをもつことを発見し、女の子はペニスがないことを知る。

ただし、男の子は、なぜ女の子のがペニスがないことを理解できない。女の子はペニスがないのは、それが奪われたと理解することで、自分のペニスも奪われる不安を抱く。

フロイト理論では、性器を奪うのは父親のような強大な存在である。

エディプスコンプレックスは、母子関係に父親が介入するすることにより子どもが抱く、愛や憎悪などの観念の複合体=コンプレックス、のことである。

ラ カンは、このエディプスコンプレックスを、第二段階と述べる。第一段階の説明抜きに第二段階である。第二段階では、母親の現前と不在の原因を司る父親の存 在が見出される。父は想像的段階。では、ラカンにおける第一段階はなにか、フロイトにおける前エディプス期に相当。そして、第三段階は、(法をもたらす) 象徴的父の発見があり、これにより、エディプスコンプレックスからの出口を見出すことが可能になるという 126


整理すると、想像的父は略奪者のままでありつづけるが、法をもたらす象徴的父である。実際に、母親は父の存在を見出さねばならない 122

ここでいう法は法律のことではなく、秩序一般のことである。123

父が機能しなければならないのは、父が生きているのではなく死んでおり、法を保証する存在でなければならない。121

ラカンは、父の名とは、他者の他者。他者の他者は、母親という他者に法を与えるもうひとつの他者 119

父の法が重要になるのは、それに先立ち、母の法があるかである。118

母の法に従属した主体。それは、父が登場する前に、母の法に支配される。母を引き止めるために、自分は母の欲望の対象にならなければならない 116-117

ラカンは、このことを、母の法に従属した主体、となづける。しかし、母に従属しつづけることは、生殺与奪の権限を母に与えることなので、母の法から従属した状態から抜け出すことである。

父親はなぜ死んでいなければならないか? 108-

無意識の法は、人間の感情などとは関係なく、自らの目的をとげようとする。105

シニフィアンの法は、みずからの規則を闇雲に適用しようとする。つまり手紙はつねに宛先に届く。象徴界の一貫性。反復強迫 106-107

抑圧されたシニフィアンが認められることによって、無意識の法が更新される。

夢解釈 99

言語のシニフィアン 97

想像界——イメージの領域 61

象徴界——言語の領域 63

シニフィアンは、それ自体で意味をもたず、意味作用を生じるためには、他のシニフィアンと連接されることが必要。

現実界——説明がないが、現実のこの世界のことか?「現実界は私たち普段触れている現実とは異なる領域を指す」74

不可能性としての現実界 75 不可能それ自体

私とはひとりの他者である 78

鏡像段階——自分を対象化する6ヶ月から18ヶ月ぐらいのあいだ。

鏡に映る像は真実ではない

鏡像とはひとりの他者である 81

自我が他者であってこそ成立するものである。81

鏡像段階は、自我のイメージをあたえてくれる他者一般

自分と他者のあいだの鏡像の奪いあい

鏡像段階の愛憎 84——自分と他者の間に、愛憎が分かち難く入り乱れた関係が

鏡像段階においては自我の敵意が他者にむかう、反転して他者が自我にむける敵意になる。

法、言語、他者。87

大文字の他者は象徴的なものである 87

言語の世界に入るとは根源的な他者の経験 87

他者こそが法をもたらす存在 86

人間は最初から言語の世界に産み落とされる 88

他者なくして鏡像なし 88-

母親という大文字の他者、だが母親が保証してくれるために、鏡像という小文字の他者が機能する 89

母親は最初に出会う他者、その理由は母親が最初に言語を話す存在であるからだ

異質存在=他者に生殺与奪の権利を握られる=根源的不安

他者なくしては無意識というものを考えることができない

人間は本能が「壊れた」動物

そのために、無意識は言語的に考えよ 91

言語の世界に参入することにより、無意識の主体が誕生する。92
聞きたくもないシニフィアンは忘却されるが、同時に無意識のなかにストックされる。それがわからないのは、抑圧メカニズムが働いているからである。つまり、無意識は、他者から受け取ったシニフィアンの集積。93

無意識は、シニフィアンの法により動いている 93

イメージの背後で作用する無意識の法を明らかにすること。これが患者への介入 93

シニフィアンの戯れ 94-96

分析とは、言語のシニフィアン的性質を表すこと 97

抑圧されたシニフィアンは再び意識の領域に浮上しようとする 98

夢の解釈は、抑圧されたシニフィアンを再び意識の領域に浮上させようとする作業 99
夢は結果であり、それを作り出すプロセスである 100

夢解釈では、イメージはシニフィアン的に解釈される必要がある 100

抑圧されたシニフィアンが認められることで、無意識の法が更新される 101 (これは承前か?)→法の更新について
大 文字のSからa'(小文字の他者)を経由してa で顕された自我(moi)に到達する経路が、鏡像段階。鏡像段階では点線でしか示されていない。大文字のS(エス=超自我)から、自我(a)へは実践も点 線もない。自我(moi)はA(大文字の他者)と、鏡に映った他者(a')すなわち、小文字の他者からの承認があって存在する。A(大文字の他者)は、超 自我(Es)にも部分的に投射している=この経路が無意識であり、大文字のS(エス=超自我)に完全に投射されていない。鏡に映った他者(a')から自我 (moi)に投射する経路が想像的関係(relation imaginaire)という。


●スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶 訳、河出書房新社、2015年

第1部 症候(いかにしてマルクスは症候を発明したか;症候からサントムへ)

第2部 他者の欠如(汝何を欲するか;汝は二度死ぬ)

第3部 主体(“現実界”のどの主体か?;「実体としてだけでなく主体しとしても」)

"Žižek thematizes the Kantian notion of the sublime in order to liken ideology to the experience of something that is absolutely vast and powerful beyond all perception and objective intelligibility. Žižek provides an analysis of "How did Marx Invent the Symptom?", in which he compares the ways in which the notion of symptom runs through the work of the philosopher Karl Marx and Sigmund Freud, the founder of psychoanalysis. Žižek opposes any simplistic reading of the two thinkers, who are shown to have discovered the "kernel" of meaning concealed within the apparently unconnected "forms" of commodities (Marx) and dreams (Freud). The kernel of a commodity's content is labour and its latent meaning is the dream. Žižek thinks it is more important to ask why latent content takes a particular form. Žižek therefore argues that according to both Freud and Marx the dream-work and commodity-form itself require analysis."-The Sublime Object of Ideology.

+++

第1部 症候

1. いかにしてマルクスは症候を発明したか

2. 症候からサントムへ

第2部 他者の欠如

3. 汝何を欲するか

4. 汝は二度死ぬ

第3部 主体

5. “現実界”のどの主体か?

6. 「実体としてだけでなく主体としても」

++

リンク

文献

その他の情報

Maya_Abeja

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

池田蛙  授業蛙 電脳蛙 医人蛙 子供蛙