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ガヤトリ・スピバァク(スピバック)の「サバルタンは語れるか」入門

Agency and Re-Imaginating of "Society"

池田光穂(oxlajuuj tijaax

「文明人は語り、野蛮人は沈黙する。語る者はつねに 文明人である。より正確に言えば、言語が文明の表現ある限りにいて、暴力は沈黙的である。言語と文明が世界を構成するとすれば、暴力が文明からのみなら ず、人間自身からも(なぜなら人間と言語は同じものだから)追放されるのは必至であろう」澁澤龍彦(1989:89)

遡上的読解による『サバルタンは語れるか』

サバルタンは語ることができない。グローバル・ランドリー・リスト〔世界各地の 国際空港のホテルなどに置いてある洗濯可能品目を長々と列記した表〕に恭しく「女性」という項目を記載したところで、こんなものにはなんの値打ちもない。表象 =代表(representation) の作用はいまだ衰えて はいない。女性知識人には知識人としてひとつの限定された任務が課せ られているのであって、それを彼女は自分のものではないと麗々しく言い募って否認するようなことはすべきではないのである」(スピバック 1998:116)。

冒頭に、ドゥールズとフーコーの対談のエピソードが ある。

「今日西洋から生じてきているもっともラディカルな 批評のいくつかは、西洋という主体あるいは 主体としての西洋を保持しようという、あるひとつの利害にもとづいた欲望の所産である。複数形 で表示された「主体効果(subkect-effects)」の理論はあたかも主体の主権性を掘り崩そうとするもの であるかのような幻想をあたえるが、実際には大概の場合、この知の主体を隠蔽するた めの覆いを 提供している。主体としてのヨーロッパの歴史は西洋の法、経済、イデオロギーによって物語化さ れたものであるにもかかわらず、この隠蔽された主体はそれが「地政学的規定をもたない」と言い つくろう。主権的主体についての広く喧伝されている批判は、このようなしかたでもって現実には ひとつの主体を立ち上げているのだ。わたしは、その批判の二人の偉大な実践家によって書かれた ひとつのテクストを考察することをとおして、この結論を論証しようとおもう。「知識人と権力 ——ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズとの対談」〔一九七二年三月四日。『アルク』誌第四九号に 掲載〕がそれである」(スピヴァク 1998:3 上村忠男訳)。

本論文の終焉の部分に、フーコー&ドゥールズの諸戦 術よりも「デリダの形態学」のほうがましだと、デリダの脱構築、自民族中心主義批判などの利点を 並べる。すなわち、この論文全体が、デリダへの教護論になっている。

「かれ(=デリダ)は起源におけるカタクレーシス 〔濫喩〕を読みとっている。かれはユートピア主義 的な構造的衝動を「わたしたちのなかの他者の声である内なる声にうわ言をいわせるこ と」という ように書き直すことを要求している。ここでわたしは『性の歴史』と『千のプラトー』の著者たち にはもはや見いだせないようにおもわれる長期にわたっての有用性をジャック・デリダのうちに認 めないわけにはいかない」(スピバック 1998:116)。

■論文中の「わたしたちのなかの他者の声である内なる声にうわ言をいわせること」は重要(そ れまでにも最低1回はこの表現がある)(スピバック 1998:116)

論文は、4部構成で、4部(pp.74- )の後半からは、サティ(=インドの亡夫への妻の殉死)——それ自体問題含みの表現であることが後で明かされるが——をめぐる議論である。

第1部は、第三世界の労働者の表象をめぐる権力問題 についての議論。

第2部(pp.30- )は、インドのサバルタンの表象をめぐる議論である。後半は、フーコー批判、ドゥールズ批判についての言及がある。

第3部(Pp.63- )は、デリダによる他者論である。論文末で再登場する「わたしたちのなかの他者の声 である内なる声にうわ言をいわせること」が、70ページに初出する。デリダによると「他者」たちに自分で語らせるようにすることは、ヨー ロッパ[知識]人による自民族中心主義であることが、仄めかされる。

「ポストコロニアルの批評家や知識人は、そのテクストに書きこまれた(text-inscribed)空白を前提として はじめて、自分たち自身の生産活動を転位させることを試みることができるのである。これとは対 照的に、思考ないし思考主体を透明または自に見えない存在にしてしまうことは、同化による他者の のお構いなしの認知がなされていることを隠蔽してしまうもののようにおもわれる。デリダが「他 者(たち)に自分で語らせる」ことをもとめず、むしろ、「まったき他者」(自己をうち固めるため の他者とは対立する関係にあるものとしてのtout-autre)への「呼びかけ」をおこなって、「わたし たちのなかの他者の声である内なる声にうわ言をいわせる」ことをもとめているのは、こういった ことを用心してのことにほかならない。/ デリダは、17世紀末期から18世紀初期にかけてのヨーロッパのエクリチュールの学における 自民族中心主義をヨーロッパ的意識の一般的な危機の徴候であると呼んでいる」(スピバック 1998:70)。

承前であるが、4部(pp.72- )は、いよいよ「女性」の声というものについての考察から始まる(下記)。そして、その後半からは、サティ(=インドの亡夫への妻の殉死)——それ自体問 題 含みの表現であることが後で明かされるが——をめぐる議論となる。

「サバルタンは語ることができるのか。サバルタンの 連続的な構築がおこなわれることにたいして 警戒を怠らないためにエリートはなにをしなければならないのか。このコンテクストにおける問題 点がもっともよくあらわれているのは「女性」についての問いではないかとおもわれる。いかにも、 もしあなたが貧乏人で、黒人で、そして女性であれば、あなたはサバルタンであるとの規定を三様 のしかたで手に入れることになる。しかしながら、この定式が第一世界のコンテクストからポスト コロニアルのコンテクスト(これは第三世界のコンテクストとは同一ではない)に移されたならば、 その途端に「黒人」または「有色」という要素は説得力を失ってしまう。資本主義的帝国主義の第 一段階において横民地的主体構成がなされたとき、そこでは必然的に階層化もまた同時に起きてい たのであって、「有色」という要素はすでにその段階で解放のためのシニフイアンとしては役にた たないものになってしまっていたのである」(スピバック 1998:72)。

■アイデンティティからエージェンシーへ(スピバッ クの場合)

・スピバック「サバルタンは語れない」

"identity claims are political manipulations of people who seem to share one characteristic and therefor it is a sort of roll-call concept. / Now it seems to me that agency relates to accountable reason. The idea of agency comes from the principle of accountable reason, that one acts with responsibility, that one has to assume the possibility of intention, one has to assume even the freedom of subjectivity in order to de responsible. That's where agency located. "(Spivak 1996:p.294)

【アイデンティティが要求するものは、一つの性格をシェアすると思われる人々による政治的操作であり、それはすなわち役割を召喚する概念*(roll- call concept)のひとつである。他方エージェンシーは説明責任のある理性に関係しているように私には思える。エージェンシーの理念は、説明責任ある理性 という原理から出たものであり、各人は説明責任を持って行動するということ、意図の可能性を引き受けなければならないこと、応答責任を持つためには主体性 の自由さえ想定されなければならないということである。それがエイジェンシーが位置してきた場所なのである】(Spivak 1996, p.294.)。

 ※スピバックは、それがロマン主義的行為者であるという批判には、さほど耳を貸す必要を感じていないようだ。

 ※アイデンティティが役割を召喚する概念であるという指摘は、高木(1999)におけるLPPのAA(断酒会)のメンバーが、固有名性を失って(マスク されて?)不断にAAのメンバーとしてアイデンティティを注入されているという批判を想起する。そしてウェンガーのいう<非参加のアイデンティティ>とそ れを共有するメンバーによる隙間共同体は、かりに抵抗の実践と呼ぼうと呼ぶまいと、(古典的な)権力関係の布置においては、ウェンガーのいうとおり疎外の 一形態に他ならない。

"When one posits an agency from the miraculating ground of identity, the question that should come up is, "What kind of agency?" Agency is a blank word. So the shift from "identity" to "agency" in itself does not assure that the agency is good or bad, it simply entails seeing that the idea that calling everything a social construction is anti-essentialist entails a notion of the social as an essense".(Spivak 1996, p.294.)


 【アイデンティティの驚くべき(miraculating)地点からひとつのエージェンシーを措定した時に、すぐに浮かぶことは『エージェンシーとはい かなる類のものか?』という問いであろう。エージェンシーは、白紙の(空の)用語である。つまり、アイデンティティからエージェンシーへの移行それ自体 は、エージェンシーの善し悪しを保証するものではなく、全てを社会構築であると呼ぶためには、社会をひとつの本質とすることが必然として伴う、というアイ ディアを単純にも必要としていることなのである】(Spivak 1996, p.294.)。

 ※スピバックは、エージェンシーを動員する理由は、アイデンティティの社会構築という立場を批判する(社会という本質=係留点を不可欠にする)以上の、 強い動機がないことを示している。

■忘却の問題

・想起と忘却、あるいは占有化について

 <組織化された忘却>(Milan Kundera, 『笑いと忘却の書』1992)が一方にある。それに対抗するのが<専有化する実践 appropriate practice>と考えられている。

・「権力にたいする人間の闘いとは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない」(クンデラ、p.7)

・発話できないことがら、をめぐって

「ピエール・マシュレーは、イデオロギーを解釈するための次のような定式を提供している。「ある作品において重要なのは、それが言っていないことがらであ る。これはしばしば不用意にそう表示されているような『それが言うことを拒絶していることがら』とは同じものではない。『それが言うことを拒絶しているこ とがら』というのもこれはこれで興味深い問題であるにしてもである。それについてはひとつの方法がうち建てられてもよいだろう。それと認められているもの であれ認められていないものであれ沈黙を測定するという仕事を遂行することによってである。だが、これよりもむしろ、作品が言うことができないでいること がらのほうが重要である。なぜなら、そこでは発話の練り上げが遂行されるのは、沈黙への旅とでもいうべきもののなかにあってであるからである」。」(スピ バック1998:47-8)。

 スピバックは、マシュレーとは反対に「それが言うことを拒絶していることがら」への関心を喚起する。「それは、植民地での慣習を法典化しようとする帝国 主義の法律的実践のためには、なにか集合的なイデオロギー的拒絶のたぐいを診断することを可能にしてくれるのだ。このことは、政治経済的およびマルチ学問 的な見地から地勢のイデオロギー的な書きこみ直し(reinscription)をおこなうための地平を開くであろう。これは抽象の第二次的なレヴェルに おいての「世界の世界化(worlding of the world)」である。したがって、拒絶という概念は、ここでは十分採用されるに足るだけの蓋然性のあるものになる。ここにかかわってくる資料収集、歴史 叙述、学問的批判といった仕事、不可避的に介入主義的(interventionist)なものであらざるをえないそのような仕事は、まさしく「沈黙を測 定する」ことを任務としたものにほかならない」(スピバック1998:47-8)(→「サバルタンは語ることができるか」)。

■スピバックからの出発

【文献】Spivak, Gayatri Chakravory. 1988. Can Subaltern Speak ? in "Colonial Discourses and Post-colonial Theory: A reader",  William, P and L. Chrisman eds.. pp.66-111, New York: Columbia University Press.[ガヤトリ・C・スピバァク『サバルタンは語ることができるか』上村忠男訳、みずす書房、1998年]

透明な主体

 「今日西洋から生じてきているもっともラディカルな批評のいくつかは、西洋という主体あるいは主体としての西洋を保持しようという、あるひとつの利害に もとづいた欲望の所産である」(スピバック1998:3)。

 その究極の形態が<透明化された主体>である。「主体としてのヨーロッパの歴史は西洋の法、経済、イデオロギーによって物語化されたものであるにもかか わらず、この隠蔽された主体はそれが「地政学的規定をもたない」と言いつくろう」(スピバック1998:3)。→マルクス主義的な隠蔽あるいは錯認を暗示 する。彼女はその俎上にフーコーとドゥルーズの対談をあげる。

 告発されるのは彼らの権力意識と権力観の密接な関係だ。「権力を破壊したいという欲望はそれがどんな権力についてのどんな破壊欲望であっても単純に価値 のあるものとして認めようとすることに根拠を置いているようにみえる」(スピバック1998:6)。スピバックはベンヤミンによるボードレール批判の上 に、彼女の批判の論理をなぞる。

 スピバックの批判の対象は、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーらのポスト構造主義にあり、これは竹村のいう<社会構成論>(社会構築論)的な枠組の中の(強 いてラベルを貼ればアナーキスティクな——「もはやルプレザンタシオンといったものは存在しません。行動……以外のなにものも存在しないのです(ドゥルー ズ)」)主体形成の論理につらなるものだろう。

(アルチュセールの託宣)

「労働力の再生産は、それの資格条件の再生産だけでなく、同時に、……労働者たちにたいしては支配するイデオロギーに労働力を従属させることの再生産と、 そして搾取の担い手たちにたいしては支配するイデオロギーに労働力を従属させることの再生産と、そして搾取と抑圧の担い手たちに対しては支配するイデオロ ギーを正しく操作し、支配階級の支配を『言葉によってpar la parole』も保証することができるようにする能力の再生産を要求する」アルチュセール(スピバック1998:9)。

——(スピバックのフーコー批判)「フーコーは、イデオロギーについて発達した理論がみずから物質的生産の場を「知の形成と蓄積のための効果的な諸道具」 (PK,102)のうちにと同様、制度性のうちにも見いだすことができない。これらの哲学者たち(フーコー他、ドゥルーズ、ガタリ——池田)は、どうやら イデオロギーという概念を口にするあらゆる議論をテクスト論的というよりはむしろたんに図式的にすぎないものとして拒絶することを余儀なくされているよう である。そのため、利害と欲望とのあいだに機械的に図式的な対立を措定することも余儀なくされるのである。こうしてかれらはイデオロギーの占めるべき場所 を実体的内容を付与された「無意識」や準主体的な資格を与えられた「文化」でもって埋め合わせようとするブルジョア社会学者たちと連携する羽目におちい る」(スピバック1998:9-10)。

欲望と主体

「欲望の名において、かれらは権力についての言説のなかにふたたび未分割の主体を導入する。フーコーはしばしば「個体[分割できないもの]」と「主体」と を混同的に使用している」(スピバック1998:11)。

「問わなければならないのは、自民族中心主義的な<主体>があるひとつの<他者>を選択的に定義することで自己を確立してしまうのを避けるにはどうすれば よいか、ということである。これは<主体>そのもののための企てではない。むしろ善意にみちた西洋知識人のための企てである」(スピバック1998: 65)

表象の2つの意味

「もはやルプレザンタシオンといったものは存在しません。行動……以外のなにものも存在しないのです(ドゥルーズ)」に対するスピバックの批判を池田がパ ラフレーズすると以下のようになる。

 表象には、政治における代弁/代表と、芸術・哲学における表象の2つの意味がある。ドゥルーズによれば理論は「行動」だから、理論が被抑圧者たちを代弁 することはできない。また主体は意識を表象するものでもない。2つの表象は、権利主体と権利表現という主語−述語関係のもとにあるゆえに、一方が他方へ包 摂されるということはありえない。多様なものからなりたっているものを表象化することは不能である。その「非連続性」を覆い隠すために考え出された/機能 しているのがヨーロッパ的<透明な主体>なのだ。

 しかし、国民経済システムにあるイデオロギー的主体への批判や意識の変革への企図が断念すべきでないとすれば[——それを問う根拠についてスピバックは 言わない]、「一方における国家と国民経済の内部にあってのrepresentationと他方における<主体>[原文ゴチ]に関する理論の内部にあって のrepresentationとのあいだを移動しつつ存在している区別は抹消されてはならない」(スピバック1998:15)。

「ラディカルな実践は権力と欲望の概念を全体化することをつうじて個人的な主体を再導入するのではなくて、むしろ、このような reperesentationのダブル・セッションこそ留意すべきであろうというのが、わたくしの意見である。また、階級的実践の領域を第二次的な抽象 のレヴェルに保ちつづけることによって、マルクスは実際上、行為の<作因者>[強調は池田]としての個人的な主体についての(カント的かつ)ヘーゲル的な 批判を展開しつづけていたのだというのが、わたしの意見である」(スピバック1998:25)。

スピバックはサイードのフーコー批判の尻馬に乗る

「エドワード・T・サイードはフーコーにおける権力 概念を批判して、それはフーコーにあっては魅力的でいっさいを神秘化してしまうようなカテゴリーと化し ており、「階級の役割、経済の役割、蜂起と反乱の役割を隠蔽する」結果を招いていると指摘しているが、この批判はいまの場合にはきわめて適切である (24)。わたしはサイードの分析に付け加えてさらにひとつ、そこでは権力と欲望の密やかな主体の存在が知識人の透明性によってマークされているという点 を指摘しておきたい」(スピバック1998:27-8)。

「この奇妙なことにも否認の言葉によって[知識人 の]透明性のなかにいっしょに縫いこまれてしまっている<主体>/主体は、労働の国際的分業の搾取者の側 に属している」(スピバック1998:28)。この種の西洋的主体に関するラカン的解説で第1節がしめくくられ、第2節は次のような言葉ではじめる。

第2部の冒頭は次のような文章からはじまる

そ のような認識の暴力(epistemic violence)についての利用可能なもっとも明確な実例は、植民地的主体(colonial subject)を他者として構成しようとする、遠く隔たったところで編成された、広範囲におよぶ、そして異種混交的な企図である。この企図はまた、当の 他者が危うくも主体−性を獲得するかにみえるときには、これとは非対称的に、その痕跡を抹消しようともする」(スピバック1998: 30)。

スピバックのフーコー批判はかなり言いがかり的なと ころもあるが、スピバックが、引用するペリー・アンダーソンが次のように質問する時、ヨーロッパ以外 の<人間>の視点は確かにフーコーすっぽり抜けているように思える。

「フーコーは1966年に例の預言者ぶった口調で 『言語という存在がわれわれの地平の上でますます明るく輝きつづけている一方で、人間は死滅しつつあ る』と宣言した。しかし、そのような地平を認知ないし所有する『われわれ』とはだれなのか」(P・アンダーソン、引用はスピバック1998:63)

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・英文批評系の基本的語り口(竹村和子・本橋哲也)

 スピバックのサバルタンと、それに対するベニタ・パリーの批判(=語れないことをもって終わるのではなく、身振りなどを通して声を聞けるはずだ、という スピバックの発話中心主義に対する批判)、ベニタ・バリーに対するレイ・チョウのスピバック擁護(=スピバックによる批判の要衝は発話のヘゲモニー構造な のだ)。そして、ホミ・バーバの二項対立を超えるエージェントの模倣行為の評価、などなど(e.g. 本橋1999「応答するエイジェンシー」論文)。

**************竹村エージェンシー(はじめ)******************

【文献】竹村和子、責任あるエイジェンシー——ポストモダニズム、ポストコロニアリズム、フェミニズム、『差異化と同一化:ポストコロニアル文学論』山形 和美編、pp.65-81、研究社出版、1997年

●フェミニズムとポストコロニアリズム

(1)西洋フェミニズムの功罪

 チャンドラ・モハンティの"Colonial Discourses and Post-colonial Theory: A reader"中の論文「西洋の眼差しのもとで——フェミニズム研究とコロニアル言説」(1984):欧米の白人中産階級のフェミニズムが、第三世界の女 性を植民地化するという批判であり、問題は第三世界という差異のもとに、女性の闘争を同質化、組織化した(Mohanty, Chandra Talpade. 1984. p.198)。

(2)フランツ・ファノン:植民地主義における人種の他者性

 西洋は、<自分たちのもつ過剰性>をネイティヴの属性として押しつけることを通して近代主体を保とうとする(Black Skin, White Masks)とファノンは主張。そのために——他者の排除と抑圧の代償として——「黒人の価値の賃貸対照票を作成」しているという。例えば、白人音楽に拮 抗するものとして、黒人音楽を擁護するようなメンタリティである(竹村は英語訳p.226-9から引用)。竹村はこれを「他者排除」のメカニズムであると 解説して、他者=女性に対する男性社会(「男根主義」者たち—イリガライの用語?)の排除メカニズムと[次のような留保をしながらも]同等のものであると している。

 セクシズムとコロニアリズムは、その作用の様式が似ているだけではなく、作働の仕方がより重層的であるとバーバを引きながらする(「コロニアル体制を盤 石のものとする抑圧構造」)。バーバ曰く「人種や文化の差異にかかわる問題は、セクシュアリティやジェンダーの問題に重なりあっている」(Bhabha, p.175)。また竹村も「コロニアル言説そのもののなかに構造化されているジェンダーやセクシュアリティの概念を検討する必要がある」(竹村1997: 66)。

 [論文のねらい]植民地主義と性差別主義が二重に作用する場にいる、植民地の「他者」=植民地の女性の発話の可能性、その条件について考察する。

●サバルタンは語れない

 スピバックの1988年論文「サバルタンは語れるか」。サバルタンとは、「ネグリチュード的な民族解放を訴える被植民者」ではなく「むしろ、そういった 『大きな物語』の対立図式に隠れて、反乱の契機さえ巧妙に剥奪された、根源的な意味での被抑圧者」である(竹村1997:67)。

・ポストモダン(PM)における他者問題

 主体を脱中心化するPMの理論は「権力と欲望の働きだけを分析し(本当は分析していない)、誰をも、何をも代表/表象しない(non- represented)主体というものに頼ってしまう」=これを主体を「透明化」するという(Spivak, p.74、引用は竹村1997:67)。この透明化により、「歴史的現実として、いま、ここにいる主体」について議論することが困難になる。それだけでな く、主体形成に関わる「複雑なイデオロギー操作を論じる議論」を遮るという積極的な弊害もあるという。
 では他者はどこにいるのか? スピバックによると、それは「作品が語ることができないもの」にある。しかし、以下のことを区分しなければならない。

 (α)語られない沈黙と(β)語ることを拒否すること、である。前者は、それがもつシステムへの抵抗が、外部からそれを統合するテクストに翻訳されない ものであり、「『世界の世界化』という手続きから完全に追放されているもの」である。つまり反乱の主体にもならず「歴史も、語る声も、奪われて、なお深い 陰のなかに沈み込む植民地の女」である(Spivak, pp.82-3引用は竹村1997:68)。後者は、集合的でありイデオロギー的であり、「帝国主義の法の実践」を支える巧妙なシステムの手先にとなる (竹村1997:67-8)。[※これはスピバック翻訳pp.47-8を見れば一目瞭然P・マシュレーの文学作品におけるイデオロギー解釈についての解説 に由来するのである]。
 ベニタ・パーリィのスピバック批判[これは省略](竹村1997:68)——蛇足だが、この引用は次節で引かれるレイ・チョウからの孫引用であることが レイ・チョウ『ディアスポラの知識人(Writing Diaspora)』の本文(本橋訳、pp.62-3)からわかる。

サバルタンは聞き取られない

 スピバックの狙いは第三世界の女性を一括してカテゴライズすることではない。1933年のインタビューで次のように語る。

「『サバルタンが語れない』という意味は、たとえどんなに必死になってサバルタンが語ろうとしても、聞き取ってもらえないということです。というのも、語 る行為は、語ることと、聞くことの二つから成り立つものだからです。これが、私の言おうとしたことであり、苦悩こそ、その地点の明確な特徴なのです」 (Spivak, p.292. 竹村1997:67)。

 ここでは<語ることができない状況>を特定化することをやめなければならない。というのは、そのような位置を同一化(=本質化する)からである。

 ※語ることができない状況を特定することは、語ることを保証することで解消済みの問題になるからだ。言葉遊びのようではあるが「もしサバルタンが語るこ とができるなら、ありがたいことに、その人はもう被抑圧者ではないのです」(Spivak , The New Historicism...,p.1990:158)。レイ・チョウは次のようにつづける。「サバルタンは語ることができないという事実を認めることで はじめて、私たちはネイティブの同一化のプロセスについて、これまでとは異なった考え方をするようになるだろう」(『ディアスポラの知識人』p.64)。 「イメージにより同一化する」(レイ・チョウの用語、p.63)という表現もある。

・同一化(アイデンティティ)が批判の対象になる——「耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ」(ジジェク 1996:13)『快楽の転位』青土社。

 スピバックの戦略的本質主義の発想は、イリガライの本質論の批判からはじまる。イリガライたちは、男性をおなじ地平で女性の解放を説いたのではない。し かし、「男性言語」(※ここでも<言語>なんですわ、ルート・メタファーは!)の外側へ女性性を打ち立てることが、男性言語の外側という本質主義を生んで しまったと批判する。これに対するスピバックの作戦は竹村によると次のようなことである。「スピバックは、一方で、システムから決定的に放逐されたサバル タンの存在を強力に主張しながらも、もう一方では、そのような他者を自己同一的な属性に還元せず、システムの所産とみなした」。これは竹村によると社会構 築主義のひとつである。

 他方、社会構築主義をつきつめると、「動く主体」を前提とするので、それじたいもまた「表象しない(non-represented)主体」つまり透明 なものになる。一般には社会構築は本質主義から自由になっていると思われがちだが、スピバックは、社会構築主義の議論の前提になる社会を本質化していると 批判する。

「あらゆるものが社会構築されたものだとみなすことは、本質主義ではないと思われがちですが、それは社会そのものを本質と見ていることです」。「もし社会 を本質と見てしまった場合、資本主義をある種の本質として、すなわち社会一般とみなして、何の検討も加えないことになります」(Spivak 1993, p.294. 竹村1997:70-1)。

 ※これをパラフレーズすると、構築主義は、非本質主義(=理論的にはあらゆるものが構築可能)ではなく、主体の構築する場=係留点として確固としたコテ コテの本質として<社会>を想定しなければその議論が不能になる。さらに悪いことに、社会構築主義では、その本質化された社会に対する批判のメスを入れる ことができないという(=構築主義の議論では、社会が批判の対象から免疫されているということなのだろうか、たぶん)。竹村の次の言葉に耳を傾けよう。


[**]「社会構成論の弱点は、パフォーマティヴィティによって主体が構築されるというとき、目の前の抑圧/被抑圧の二項対立はずらすことができても、そ れはつねに抑圧/非[ママ]抑圧というパラダイムの中でしかずれないことだ。たしかに社会構成論で議論を進める者(たとえばジュディス・バトラー)はパ フォーマティヴにシステムを反復する儀式が、一方でシステムを固定化すると同時に、他方で、そのシステムがいかに虚構であるかをあらわにすると述べてはい る。だが長年のパフォーマティヴな反復の成果として、かりに現在のシステムが解体したとしても、そのシステムを成り立たせていた抑圧/被抑圧の対立図式が 消滅するという保証はない。差別の場所が移動しただけで、差異を差別とするメカニズムは不問に付されたままだ。というのも、社会構成論そのものが、そのよ うなヒエラルキーが消滅するユートピア的地点——つまり理念的、牧歌的な本質——を拒否しているからだ」( 竹村1997:71-2)。


・アイデンティティからエージェンシーへ

 スピバックの社会構築主義批判は、社会構築の概念の中にある主体形成概念、つまり透明で移動する主体が、身につける(置き換え可能な)ことのできるメタ ファーとして確立されたアイデンティティ=同一化への批判へと展開する。彼女はそのような透明な主体に対して、「歴史的現実として、いま、ここにいる主 体」を中心に据えようとするのだ。その主体形成概念として考え出されたのがエージェンシーである。彼女は次のように言う。

「エイジェンシーという概念は、責任ある理性という原則[幻想?—池田]から出たものです。つまり責任を持って行動するということ——意図を持つ可能性を 引き受けなければならないということ——責任を持つためには主体性の自由さえ想定されなければならないということ——なのです。そこにエイジェンシーの位 置があるのです」(Spivak 1993, p.294. 竹村1997:71)。

(竹村はこの引用につづけて、スピバックの主張が「矛盾に満ちた、きわめて危なっかしい論理に見えるが、現在のコロニアリズムの文脈では、不可欠の批判主 体の位置である」と弁護しつつ、返す刀で社会構築論を批判する——上掲の[**]の部分)。社会構築論は、ポストコロニアリズム(PC)の文脈の中では、 コロニアリズム批判たり得ても、ネオコロニアリズムに対しては「御用理論」になり、「ボーダーレスの後期資本主義社会では、境界を生きる<主体/他者>の イメージは、国境を越えて労働力やマネーた情報を動かす多国籍企業の理論的補完物となるからだ」( 竹村1997:72)と主張。だから、責任あるエージェンシーのという概念が必要になるという。

 ※しかし、これは無茶な議論だ。彼女の主張は社会構築論の限界の指摘はそれなりの意味をもつ。しかし社会構築論の無能がスピバックによって救済されると いう論拠が何も示されていないのだ。彼女に従えば、本質論的議論はすでに限界が露呈している。社会構築論はその外見とは異なり実際その深層では社会本質論 と変わらない(=本質論である)。他方スピバックは本質論ではない。だからスピバックの議論は有効だ、というふうになってしまう。まったく論証になってい ない。
 ——だから、スピバックを擁護するためには、社会構築主義の限界を「責任あるエージェンシー」の概念が、どのように有効に乗り越えているのかを、論証し なければならない。

■スピバックのエージェンシーのマルクス主義的アイディア?

 マルクスの新社会創造のアイディアを<欲求>の観点から捉え直すAgnes Hellerは次のようにいう。

「マルクスは『反プルードン』の中で、資本主義の「悪い面」を棄て「良い面」を守らなければならないとするプルードンの考えを、皮肉をこめて撥ねつけてい る。「組織体」の諸構造は相互に措定しあっていて、一方を棄て他方を保持するということは不可能である【だが今日日そのようなことを信じるものがいるだろ うか?—池田】。すなわち、必然にたいして二律背反的関係にあるあの必然は、偶然にたいして二律背反的関係にない必然と同じではない。因果律にたいして二 律背反的関係にあるあの目的論は、因果律の二律背反をもたない目的論と同じではない。そして最後に、自分の客体にたいして二律背反的関係に立ちながら発展 するあの主体もまた、自分の客体を自己のうちに「取り返す」主体、主体—客体の同一性を生みだす主体と同じではない」(ヘラー『欲求理論』p.106)

●サバルタンはどこから語るのか

 竹村は、この節でチカーナ作家のグロリア・アンサルドゥア(Gloria Anzaldu'a)を引く——これはスピバックからの孫引きと思われる。そこで評価されるのは、様々な主体を担うメスティサヘ的主体の多重・多層性であ る(Spivak 1985:13)。バーバ(Bhaba p.185)によりながら竹村は、そこに見られるのは超越的で透明なエージェンシーではなく、ひとつの単位をなす、有機体の、自律的なエイジェンシーであ る。

(バーバーの長い引用)「発話の不連続な現在を強調することによって、歴史家は、サバルタンの意識を二項対立的に捉えたり、肯定的または否定的に 捉えたりすることから免れる。むしろそれによって、サバルタンというエイジェンシーの声は、再定位とか再記述として登場できることになる。……社会の象徴 秩序を保 持する同時性の概念には異議申し立てがおこなわれるのは、その約定[何じゃこれ——池田]の内部においてである。しかし約定の基盤をずらしてきたものは、 約定を超えてゆく代補の運動であった。これこそカムフラージュとしての、記号/象徴の時差の内部で働く、抵抗するエイジェンシーとして、ハイブリッドの歴 史的運動なのである。時差とは、すなわち約定のルールの間隙に存在するスペースである」(Bhaba, Location of Culure. p.193:引用は竹村p.74)


——バーバのこの見解は、歴史家の方法や認識論的視点が、その作品の中でサバルタンを表象することについて言及しているのではないか。ズラすことで、見え ないものを見えるようにするというのは伝統的な人類学の手法ではないはないのか?。引用文そのものが不明瞭で、解説がわかりにくい。前節のスピバックの議 論であるところの「サバルタンは語れない」という結論を受けると、「サバルタンが語る」という命題がいかにして可能になるのか不明瞭である。竹村は「サバ ルタンは語れる」と信じている、あるいはそのように定義できると主張する根拠は次の一文である。「サバルタンとは、多くの環境によって決定された位置から 語る者である」(竹村 1997:74)

 またエイジェンシーが発話する存在であることも、次の引用からも明らかだ。

「その複数の声[メスティサヘのように重層的な主体がさまざまな声を発話していると想像すべきだろう——竹村のアンサルドゥアの引用から推察すれば(池 田)]が、歴史的現実の網の目を形成する「撚り糸」それぞれに係留されているがゆえに、被植民者の「抵抗」の「責任あるエイジェンシー」として機能するこ とになるのだ。責任あるエイジェンシーという概念は、何かひとつの立場を代弁することではない。数多くの環境が歴史的現実として交差する地点 (positionality)から語るということなのだ」(竹村 1997:74-5)。

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