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カント流帝国主義について

Kantian Colonialism

Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

以下は、ガヤトリ・スピバック(引用ではスピヴァク と本橋は表記)の『ポストコロニアル理性批判』を講釈する、スティーヴン・モートン(2005:191-194)の主張である。イマヌエル・カント本人 は、生前、自分自身がコロニアリストのクソ野郎とは決して自覚しなかったが、コロニアリズム=絶対悪とみなされるポストコロニアルの現在(2021年2月 1日現在)では、スピバックが、最初から論点先取の「カント=イコール=コロニアリストのクソ野郎」の論陣をはることに、カント本人も死んでいる現在、ま た、カントの読解の愛好者の誰も、擁護する必要も道徳的義務もない現在、ヴァーチャル・リアリティよろしく、哲学的コロニアリストの被疑者を審問にかける エンターテイメントも、許されることだろう。モートン先生は、最初から有罪裁判の検察官として、スピバック(スピヴァック)の主張を見事に要約している。 本橋哲也さんの訳文も冴えている。

「スピヴァクによる植民地言説への脱構築的アプローチをよりよく理解す るためには、まずスピヴァク がカントのテクストにどのように取り組んでいるかをたどるのが有用だろう。彼女は自らのカント 読解を、カントの三つの『批判』における哲学的議論をまとめることから始める。

「カントの『純粋理性批判』は自然を理論的に認知する理性の働きを素描 する。『実践理性批判』 は合理的な意志の働きを図式化する。「『判断力批判』における]美的判断の働きは、自然に関わる 諸概念が自由の諸概念とどのように交わるかを考察するものだ。 (Spivak 1999:10 〔『ポストコロニアル理性批判』二八〕)」
・『純粋理性批判』は自然を理論的に認知する理性の働きを素描 する。
・『実践理性批判』 は合理的な意志の働きを図式化する。
・『判断力批判』はは、自然に関わる 諸概念が自由の諸概念とどのように交わるかを考察する。
スピヴァクの示唆によれば、『純粋理性批判』と『実践理性批判』とのあ いだには和解しがたい矛 盾が存在し、そこでは道徳的な主体が理性の力に縛られている——「人間は自分自身を認知できない/ かぎりにおいて道徳的でありうる」(Spivak 1999:22 〔同46〕)。カントはこうした矛盾を崇高なるものと いう美学的範疇によって解決しようとした。カントの哲学的枠組みのなかでは、崇高なるものは、個 人である人間の想像力が自然の表象されない巨大さに出会って自らに向き合うときに感じる痛みに由 来し、しかしその痛みを人間の合理的な判断力によっては解決できないときに出現する。言い換えれ ば崇高なるものとは、無限とか死といった表象できない概念に対する恐怖を克服するために、理性的 で啓蒙された人間主体に与えられた美学的構造をもたらすものなのだ。
・崇高さの概念の由来=主体の痛み
・崇高さの機能「は、無限とか死といった表象できない概念に対する恐怖を克服するために理性的 で啓蒙された人間主体に与えられた美学的構造をもたらす
・僕(=池田)はそれは(啓蒙の精髄に触れるようで)話が出来すぎているように思える。
カントが崇高なるものの議論を引きあいに出すさいの基礎となる人間の合 理的能力のひとつが、文 化的能力である。『判断力批判』のなかでカントは、趣味とか崇高さについて判断しうるのはおもに 教養ある教育程度の高い人間だと言う。スピヴァクにとって、カントの議論におけるこうした契機こ そが多くを語るもので、つまりそこではカントが記述している文化に接近するすべを持たない集団や 社会が問題となっているのだ。もし道徳的な主体が崇高なるものという無限の構造に直面して(男性 主体である)自らの認知の限界を定義するために文化を必要とするのならば、カントによる道徳や文 化の理解への接近方法を持たない主体はいったいどうなるのだろうか?

スピヴァクによれば、カントの崇高なるものに関する議論は彼のヨーロッ パ的哲学システムのなか で道徳的主体として表象されない人びとにとって、異なる形で提示されている——「文化によって養 われたわれわれが崇高なるものと呼ぶ道徳的理念の発達がなければ、人とはまさに自然のままの人間 [dem rohen Menschen]でしかない」(Spivak 199:12-13に引用〔同32〕)。スピヴァクはカントのテクストにあ/ るドイツ語の形容詞rohに注目し、それが通常「教育のない」と翻訳されるが、カントの著作での 「教育のない」という用語が「子供や貧民」をとくに指し、「ほんらい教育になじまない」が女性を、 そして「自然のままの人間」が「野蛮で原始的な人びと」の意味を含むと指摘する(Spivak 199:13[同32])。
獣人(dem rohen Menschen
さらにスピヴァクは論を進めて、カントの普遍的主体、あるいは「男」の 理論があらゆる人類を指 しているのではなく、ヨーロッパ啓蒙主義の教育を受けたブルジョアの男性的主体だけにあてはまる と言う。『判断力批判』におけるカントの崇高なるものの議論から引用しながら、スピヴァクはカン トが「オーストラリアのアボリジニやティエラ・デル・フエゴの人間」を崇高なるものの分析にふさ わしい人間主体の範曙からは除外していることを指摘する。そうすることでスピヴァクは、カントに よる崇高なるものの解釈における「自然のままの人間」を論じる哲学的議論を「帝国主義の公理」と 結びつけるのだ——「ここに私たちは、(教養なる文化的な)人間の認知の限界を示唆するために、 当然の議論として帝国主義の公理が持ち出されるさまを見出す」(Spivak 1999:26:同51)。

スピヴァクにとって「帝国主義の公理」とは、西洋帝国主義が自己正当化の基礎として主張する自 明の真実のことである。こうしてスピヴァクは、カントの三冊の『批判』の世界におけるヨーロッパ 中心的で狭隘な主体の定義が、帝国主義的拡張の合理的原理となっていることを示唆する。教養ある 教育程度の高いヨーロッパ人だけが崇高なるものにアクセスできる一方で、非ヨーロッパ的主体は文 化や人間性を剥奪され、表象できない非合理な他者の位置に貶められるというカントの議論が興味深/ いのは、カントの哲学的議論におけるこうした狭いヨーロッパ中心的な道徳的主体の定義こそが西 洋帝国主義を文明化の使命として正当化する理念を支えたと考えられからである」(モートン 2005:191-194)。
・このようなヨーロッパ中心的な道徳的主体は、やがてどうやって、文化多元主義に道を拓くのだろうか?


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