Self
and Other in Anthropological
Sciences
オート・アンスロポロジー(自己=人類 学, auto-anthropology)とは、マリリン・ストラザーンによると、「社会的文脈をつくりだす状況のなかで行われる人類学」である (Strathern 1987:17)。言い方をかえると、「ホーム(故郷)における人類学(anthropology at home)」と言って良い。これは日本民俗学——民俗学一般ではない——の立場と似ているが、そうとは言えない。なぜなら、(文化)人類学への他者への異 化を通して自己の反省にいたる経路を、自己への異化を通して自己の反省どどころか、リフレクシブな実践行為(=社会的文脈をつくりだす)ということが含ま れているのからである。
しかし、人類学は21世紀に入ってもっと
大変な地殻変動をおこしている。アメリカ人類学連合(AAA)の「遺体の倫理的取り扱いに関する委員会(TCETHER
)」が2024年に公開したオンラインレポートの冒頭は、これまで、能天気に「人類学の研究は、異文化の他者への研究だ」とぬかしていた古臭い人類学者た
ちに、もっと恐ろしい、その出自の秘密を明かしている。つまり「人類学のルーツは、入植植民地主義、海外帝国主義、奴隷制、白人至上主義に
ある(Trouillot 1989; Harrison 1991; Baker 1998; Blakey 1987; Beliso de
Jesús and Pierre 2020; Pels 1997; Thomas and Clarke 2013; Lonetree
2012)。こうしたルーツは、知識生産に対するこの学問分野のアプローチを様々な形で構造化してきた。宣教師、植民地行政官、医師、商人などは、ヨー
ロッパによる植民地拡大の結果、世界中で遭遇した民族に関する大量のデータを作成した(Lutz and Collins 1993;
Trouillot
1989)。彼らはまた、これらの民族の祖先の遺骨や文化的産物の膨大なコレクションを作成し、展示や研究のために大都市に持ち帰り、世界の人口をランク
付けされたカテゴリーに分け、白人(キリスト教徒)男性性を文明の典型とする進化的スキーマを構築した。人と場所は、場所と人種のパターンに従ってグルー
プ化され、表現された」(→TCETHER_online_report;
「TCETHER_オンラインレポート私訳」)
これらの作業は、西洋(欧米と西欧)で生 まれ た人類学、ないしは、人類学ヘゲモニーの重心についての反省をうながす。たとえば、非西洋の我々が欧米 にでかけて人類学の学位をとって、自国に戻り「他者の学問」である人類学をどのように研究、教育するのか?あるいは、調査される対象であった人びと(民族 的少数者や先住民)が、非先住民の学問を勉強して、自分たちの出自/非出自を問わず、マジョリーティの人びとに人類学を教える時に、研究者は自己と他者の 間を往還する。
このようにオート・アンスロポロジーの成 り立ちについて、反省してゆくと、結局のところ、人類学の研究対象である「他者」とは誰かという問題に つきあたることになる。人類学で他者ないしは他者性についての英語の語彙は2種類ある。ひとつは、以前から使われてきた 他者性(otherness)であり、もうひとつは、最近(この20年ほど)登場した他者性(alterity)である。
歴史的には、集合的な他者認識とは、「民 族」概念をつくると言われてきた。Frederik Barth が1969年に編集した『民族諸集団と諸境界:文化的差異の社会組織』"Ethnic Groups and Boundaries: The social organization of cultural differences." Bostton: Little Brown, 1969. の冒頭のイントロダクションは、民族集団というものの生成が、他の民族集団——つまり集合的な「他者」——との差異とそれにもとづく境界——もちろん認識 論的な境界だが——の構築をもとにできあがるという理論的枠組みを指摘した比較的長文の論文である。これは今日「民族境界論」ないしは「エスニック・バウンダリー論(ethnic boundary theory)」と 言われる。
また、政治学的な概念であり、また人類学 の成立にも深く関わる、コロニアル状況における「他者」である、被植民者(=植民地の人びと)がある。 これについての人類学者や人文学者の貢献としては、タラル・アサド、エドワード・サイード、ニコラス・トーマス、ド・セルトー、ヨハンネス・ファビアンな どがあげられる。
ヨハンネス(ヨハネス)・ファビアンは、
Time and others, 1983.
[pdf_extract]において、未開
の他者は、西洋近代とは時間の中に閉じ込められて、未開すなわち時間的に「遅れた」(=進化主義人類学では過去の西洋世界を写す鏡)空間の
中に閉じ込めている議論をしている。言い換えると、未開の他者は、近代西洋社会と、
同じ時間の中に生きることを否定されている、これを同時間性の否定(denial of coevalness)と表現する。
植民地状況でも脱植民地状況においても、 人類学者の仕事は、他者を「客観的に」記述することとされた。「異文化」の他者の位置付けにおいての出 発点は、それを、対等の人間としてみなすかどうかが焦点化されている。16世紀のセプルベーダ〈対〉ラス・カサスの論争はとりわけ有名である(ルイス・ハ ンケ)。
西洋世界から見た非西洋世界の見方は、 1)自然化、2)劣等化、3)異種化の、3つぐらいの特徴に分類されるだろう。つまり:1)自然と文化の 二項対立概念をたてて、西洋を文化(文明)非西洋を自然(野蛮)とみる。もちろん、見下すばかりではく、高貴なる野蛮人のように、ロマン主義の対象として 持ち上げるという現象があるが、ロマン主義的に持ち上げが可能なのは、徹底的に非西洋だからである。2)劣等化の論理で、植民者にとって都合のよい口実は 植民や開拓の対象になるということである。ただし、それは「白人の責務」のように代償になり、また非西洋世界を文明に導くような屈折した道徳的責務が生ま れる。3)異種化は、羨望を促し、(前項のごとくそれを)所有したいという欲望をさらに掻き立てる。ただし、それらは、非対称的な関係において可能にな る。たとえば、ポカホンタスのように先住民の若い女性は、西洋人にとって魅力に映るのは、エキゾチックな他者だからである。もちろん、その姿はとりわけ西 洋的思考回路を通して美学化される。
◎サイード「被植民者を表象する:人類学 の対話者たち」
表題にある、4つのキーワード:1)表 象、2)被植民者、3)人類学、4)対話者
1)表象 | ・現実を表象することにたいする無能力感の蔓延(透明な言語から不透明
な言語へ、それをまとめ文献学) ・自己に属する表象に対する戦いの様相がうまれる(階級闘争、フェミニズム、人種抗争など) ・現在では、何かを表象するということに、ナイーブな決めつけが虚しい行為としてあらわれる(アイデンティティポリティクスの多元化) |
2)被植民者 | ・非ヨーロッパ人〈対〉ヨーロッパ人の、前者のこと ・今では、第三世界と同義語 ・従属民、サバルタン、被植民者の世界は、「終わらない」 ・植民者やその権力が撤退しても、被植民の経験は「終わらない」 ・被植民者はあるレベルでは解放され、別のレベルでは解放されないままである。 ・優越者と劣等者からなる世界性は終わっていない ・言い方を変えると、その枠組みは今でも残り、またある局面では強化されているのではないか? |
3)人類学 | ・帝国主義の手先としての人類学は、この論文が書かれた1980年代後
半では明らかである。 ・その状況に対する2つの応答 ・1)西洋世界は非西洋世界に対しておこなっていることを、人類学の観点から「表象」し、表現をとおして「告発」すること(275) ・2)ポストモダン人類学で、文学理論に影響をうけた応答(276) ・これらの問題→マルクス主義、反帝国主義、メタ人類学などの応答は、人類学全体への「純粋な不安」を示している(276) ・パラダイムの枯渇は、人類学以外の理論からから概念を借りていること:ヘゲモニー、再生産、イデオロギーなどなど(277) ・ひとむかしような、気軽さでポストコロニアル分野に参入していけない、気重さがあ る。 ・自著『オリエンタリズム』再考(280) ・民族誌的権威の下落(フェイビアン、アサド、ルクレール)に対して、それを避けるために、巧妙なテキスト戦略を人類学自身が発達させてきた ・歴史家のみならず、人類学者も、この「真理の厳しさ」をみずから引き受けようとしなかった(281) ・人類学は、歴史的に構成された学問にほかならない(281-282) ・観察者の問題、観察者の不在 ・誰が?なんのために、誰にむかって発せられるのか?——せいぜい問題化されても「戦略的選択」(クリフォード)にされてしまう。 |
4)対話者 | ・これらの、4つのキーワード:1)表象、2)被植民者、3)人類学、
4)対話者、は大きく影響を受けてしまった。 ・人類学が生産される現場 ・世界性 ・人類学が人類学として異なったものになることができるのか(302)(→ポ ストコロニアル人類学/ポストコロニアル) |
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Giving an Account of
Oneself (2005) In Giving an Account of Oneself, Butler develops an ethics based on the opacity of the subject to itself; in other words, the limits of self-knowledge. Primarily borrowing from Theodor Adorno, Michel Foucault, Friedrich Nietzsche, Jean Laplanche, Adriana Cavarero and Emmanuel Levinas, Butler develops a theory of the formation of the subject. Butler theorizes the subject in relation to the social – a community of others and their norms – which is beyond the control of the subject it forms, as precisely the very condition of that subject's formation, the resources by which the subject becomes recognizably human, a grammatical "I", in the first place. |
自分自身についての説明を与える (2005) バトラーは『Giving an Account of Oneself』において、主体自身の不透明性、言い換えれば自己認識の限界に基づく倫理学を展開している。主にテオドール・アドルノ、ミシェル・フー コー、フリードリヒ・ニーチェ、ジャン・ラプランシュ、アドリアナ・カヴァレロ、エマニュエル・レヴィナスから借用し、バトラーは主体の形成に関する理論 を展開している。バトラーは、主体を社会的なもの--他者の共同体やその規範--との関係において理論化する。社会的なものは、主体が形成する条件そのも のであり、主体が文法的な「私」として認識されるようになるための資源である。 |
Butler
accepts the claim that if the subject is opaque to itself the
limitations of its free ethical responsibility and obligations are due
to the limits of narrative, presuppositions of language and projection. |
バトラーは、もし主体が自分自身に対して不透明であるならば、その自由な倫理的責任と義務の限界は、物語の限界、言語の前提、投影によるものだという主張を受け入れている。 |
You
may think that I am in fact telling a story about the prehistory of the
subject, one that I have been arguing cannot be told. There are two
responses to this objection. (1) That there is no final or adequate
narrative reconstruction of the prehistory of the speaking "I" does not
mean we cannot narrate it; it only means that at the moment when we
narrate we become speculative philosophers or fiction writers. (2) This
prehistory has never stopped happening and, as such, is not a
prehistory in any chronological sense. It is not done with, over,
relegated to a past, which then becomes part of a causal or narrative
reconstruction of the self. On the contrary, that prehistory interrupts
the story I have to give of myself, makes every account of myself
partial and failed, and constitutes, in a way, my failure to be fully
accountable for my actions, my final "irresponsibility," one for which
I may be forgiven only because I could not do otherwise. This not being
able to do otherwise is our common predicament (page 78). |
あ
なたは、私がこれまで語ってはならないと主張してきた、このテーマの前史に関する物語を、私が実際に語っていると思うかもしれない。この反論には2つの答
えがある。(1)
語る「私」の前史について、最終的な、あるいは適切な物語の再構成が存在しないということは、私たちがそれを語ることができないということを意味するので
はない。(2)この前史は、決して止まることなく起こっているのであり、それゆえ、いかなる年代的意味においても前史ではない。この前史は、過去に追いや
られたわけでも、終わったわけでもなく、自己の因果関係や物語上の再構築の一部となるわけでもない。それどころか、その前史は、私が私自身について語らな
ければならない物語を中断させ、私自身についてのあらゆる説明を部分的で失敗したものにし、ある意味で、私の行動に対して完全に責任を負うことのできない
私、私の最終的な「無責任」を構成する。そうでなければできないということが、私たちの共通の苦境なのである(78ページ)。 |
Instead
Butler argues for an ethics based precisely on the limits of
self-knowledge as the limits of responsibility itself. Any concept of
responsibility which demands the full transparency of the self to
itself, an entirely accountable self, necessarily does violence to the
opacity which marks the constitution of the self it addresses. The
scene of address by which responsibility is enabled is always already a
relation between subjects who are variably opaque to themselves and to
each other. The ethics that Butler envisions is therefore one in which
the responsible self knows the limits of its knowing, recognizes the
limits of its capacity to give an account of itself to others, and
respects those limits as symptomatically human. To take seriously one's
opacity to oneself in ethical deliberation means then to critically
interrogate the social world in which one comes to be human in the
first place and which remains precisely that which one cannot know
about oneself. In this way, Butler locates social and political
critique at the core of ethical practice.[61][62] [61]Butler, Judith (2001). "Giving an Account of Oneself". Diacritics. 31 (4): 22–40. doi:10.1353/dia.2004.0002. JSTOR 1566427. S2CID 143558617 [62]Butler, Judith (2005). Giving an account of oneself (1st ed.). New York: Fordham University Press. ISBN 978-0-8232-3523-0. LCCN 2005017141.[pdf] |
そ
の代わりにバトラーは、責任そのものの限界としての自己認識の限界に正確に基づいた倫理を主張している。自己に対する自己の完全な透明性、つまり、完全に
説明可能な自己を要求する責任概念は、必然的に、それが対処する自己の構成を示す不透明性に暴力を振るうことになる。責任が可能となるアドレスの場面は、
常に、自分自身に対しても互いに対してもさまざまに不透明な主体間の関係である。したがって、バトラーが構想する倫理とは、責任ある自己が自己の認識の限
界を知り、他者に自己の説明をする能力の限界を認識し、それらの限界を症状的に人間的なものとして尊重するものである。倫理的熟慮において自己の不透明性
を真剣に受け止めるということは、そもそも自分が人間であるようになった社会的世界を批判的に問い直すということであり、社会的世界はまさに、自分自身に
ついて知ることのできない存在であり続けるのである。このようにして、バトラーは倫理的実践の中核に社会的・政治的批判を位置づけている[61]
[62]。 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Judith_Butler |
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