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人類学における自己と他者

Self and Other in Anthropological Sciences


池田光穂

オート・アンスロポロジー(自己=人類学, auto-anthropology)とは、マリリン・ストラザーンによると、「社会的文脈をつくりだす状況のなかで行われる人類学」である (Strathern 1987:17)。言い方をかえると、「ホーム(故郷)における人類学(anthropology at home)」と言って良い。これは日本民俗学——民俗学一般ではない——の立場と似ているが、そうとは言えない。なぜなら、(文化)人類学への他者への異 化を通して自己の反省にいたる経路を、自己への異化を通して自己の反省どどころか、リフレクシブな実践行為(=社会的文脈をつくりだす)ということが含ま れているのからである。

この作業は、西洋(欧米と西欧)で生まれた人類学、ないしは、人類学ヘゲモニーの重心についての反省をうながす。たとえば、非西洋の我々が欧米 にでかけて人類学の学位をとって、自国に戻り「他者の学問」である人類学をどのように研究、教育するのか?あるいは、調査される対象であった人びと(民族 的少数者や先住民)が、非先住民の学問を勉強して、自分たちの出自/非出自を問わず、マジョリーティの人びとに人類学を教える時に、研究者は自己と他者の 間を往還する。

このようにオート・アンスロポロジーの成り立ちについて、反省してゆくと、結局のところ、人類学の研究対象である「他者」とは誰かという問題に つきあたることになる。人類学で他者ないしは他者性についての英語の語彙は2種類ある。ひとつは、以前から使われてきた 他者性(otherness)であり、もうひとつは、最近(この20年ほど)登場した他者性(alterity)である。

歴史的には、集合的な他者認識とは、「民族」概念をつくると言われてきた。Frederik Barth が1969年に編集した『民族諸集団と諸境界:文化的差異の社会組織』"Ethnic Groups and Boundaries: The social organization of cultural differences." Bostton: Little Brown, 1969. の冒頭のイントロダクションは、民族集団というものの生成が、他の民族集団——つまり集合的な「他者」——との差異とそれにもとづく境界——もちろん認識 論的な境界だが——の構築をもとにできあがるという理論的枠組みを指摘した比較的長文の論文である。これは今日「民族境界論」ないしは「エスニック・バウンダリー論(ethnic boundary theory)」と 言われる。

また、政治学的な概念であり、また人類学の成立にも深く関わる、コロニアル状況における「他者」である、被植民者(=植民地の人びと)がある。 これについての人類学者や人文学者の貢献としては、タラル・アサド、エドワード・サイード、ニコラス・トーマス、ド・セルトー、ヨハンネス・ファビアンな どがあげられる。

ヨハンネス(ヨハネス)・ファビアンは、Time and others, 1983. において、未開の他者は、西洋近代とは時間の中に閉じ込められて、未開すなわち時間的に「遅れた」(=進化主義人類学では過去の西洋世界を写す鏡)空間の 中に閉じ込めている議論をしている。言い換えると、未開の他者は、近代西洋社会と、 同じ時間の中に生きることを否定されている、これを同時間性の否定(denial of coevalness)と表現する

植民地状況でも脱植民地状況においても、人類学者の仕事は、他者を「客観的に」記述することとされた。「異文化」の他者の位置付けにおいての出 発点は、それを、対等の人間としてみなすかどうかが焦点化されている。16世紀のセプルベーダ〈対〉ラス・カサスの論争はとりわけ有名である(ルイス・ハ ンケ)。

西洋世界から見た非西洋世界の見方は、1)自然化、2)劣等化、3)異種化の、3つぐらいの特徴に分類されるだろう。つまり:1)自然と文化の 二項対立概念をたてて、西洋を文化(文明)非西洋を自然(野蛮)とみる。もちろん、見下すばかりではく、高貴なる野蛮人のように、ロマン主義の対象として 持ち上げるという現象があるが、ロマン主義的に持ち上げが可能なのは、徹底的に非西洋だからである。2)劣等化の論理で、植民者にとって都合のよい口実は 植民や開拓の対象になるということである。ただし、それは「白人の責務」のように代償になり、また非西洋世界を文明に導くような屈折した道徳的責務が生ま れる。3)異種化は、羨望を促し、(前項のごとくそれを)所有したいという欲望をさらに掻き立てる。ただし、それらは、非対称的な関係において可能にな る。たとえば、ポカホンタスのように先住民の若い女性は、西洋人にとって魅力に映るのは、エキゾチックな他者だからである。もちろん、その姿はとりわけ西 洋的思考回路を通して美学化される。

◎サイード「被植民者を表象する:人類学の対話者たち」

表題にある、4つのキーワード:1)表象、2)被植民者、3)人類学、4)対話者

1)表象 ・現実を表象することにたいする無能力感の蔓延(透明な言語から不透明な言語へ、それをまとめ文献学)
・自己に属する表象に対する戦いの様相がうまれる(階級闘争、フェミニズム、人種抗争など)
・現在では、何かを表象するということに、ナイーブな決めつけが虚しい行為としてあらわれる(アイデンティティポリティクスの多元化)
2)被植民者 ・非ヨーロッパ人〈対〉ヨーロッパ人の、前者のこと
・今では、第三世界と同義語
・従属民、サバルタン、被植民者の世界は、「終わらない」
・植民者やその権力が撤退しても、被植民の経験は「終わらない」
・被植民者はあるレベルでは解放され、別のレベルでは解放されないままである。
・優越者と劣等者からなる世界性は終わっていない
・言い方を変えると、その枠組みは今でも残り、またある局面では強化されているのではないか?
3)人類学 ・帝国主義の手先としての人類学は、この論文が書かれた1980年代後半では明らかである。
・その状況に対する2つの応答
・1)西洋世界は非西洋世界に対しておこなっていることを、人類学の観点から「表象」し、表現をとおして「告発」すること(275)
・2)ポストモダン人類学で、文学理論に影響をうけた応答(276)
・これらの問題→マルクス主義、反帝国主義、メタ人類学などの応答は、人類学全体への「純粋な不安」を示している(276)
・パラダイムの枯渇は、人類学以外の理論からから概念を借りていること:ヘゲモニー、再生産、イデオロギーなどなど(277)
・ひとむかしような、気軽さでポストコロニアル分野に参入していけない、気重さがある。
・自著『オリエンタリズム』再考(280)
・民族誌的権威の下落(フェイビアン、アサド、ルクレール)に対して、それを避けるために、巧妙なテキスト戦略を人類学自身が発達させてきた
・歴史家のみならず、人類学者も、この「真理の厳しさ」をみずから引き受けようとしなかった(281)
・人類学は、歴史的に構成された学問にほかならない(281-282)
・観察者の問題、観察者の不在
・誰が?なんのために、誰にむかって発せられるのか?——せいぜい問題化されても「戦略的選択」(クリフォード)にされてしまう。

4)対話者 ・これらの、4つのキーワード:1)表象、2)被植民者、3)人類学、4)対話者、は大きく影響を受けてしまった。
・人類学が生産される現場
・世界性
・人類学が人類学として異なったものになることができるのか(302)(→ポストコロニアル人類学ポストコロニアル




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