「負荷なき自己」と「位置ある自己」
unencumbered self v.s. situated self
「負荷なき自己 (unencumbered self)」と「位置ある自己(situated self)」は、リベラリズムとコミュニタリアニズムの論争を表現するために、マイケル・サンデルが導出した概念である。どういうことだろうか?そのため には、リベラリズムとコミュニタリアニズムが、お互いに、自分たちの主張のどこに力点をおいているのかを考える必要がある。
リ ベラリズムの要衝(=キモ)とは——とりわけコミュニタリアニズムとの対比においては——、なるべく、共同体(コミュニティ)からの干渉をす くなく、個人が自由に、思い存分振る舞えることであり、他人に迷惑をかけないかぎりなんでも許そうという発想や主張である。その場合の、自己感、自分感と いうものはどういうものであろうか?リベラリズムの自分感は、他人になにものもまた干渉を受けていない存在であり、それを理想とする。そのような自分が 「まとも」に思われることは、皮肉なことに——我々がリベラリズムにもつ偏見である——勝手気儘なものというわけではなく、個人は独立して、自分自身を管 理しており、つねに、良いことをおこなうには、自分の良心に尋ねて、自分で責任をとれると自覚している状態である。そのようなリベラリズムの自己感、自分 感とは、何ものにも拘束されておらず、他者に配慮どころか負い目すらもっていない高潔な自分である。サンデルは、そのような自己感、自分感の状態を、「負 荷なき自己(unencumbered self)」と呼んだ。カント主義は、自己を主体的にかつ自由に選択できる存在として位置づけている。そして、それは権利にもとづく倫理を構成する。この ような負荷なき自己がもつ道徳観を探求したのが、(サンデルに言わせると)ジョン・ ロールズである。自 己を主体的にかつ自由に選択できる存在として位置づける私は、何ものにも拘束されていない自由な存在であり、自分の目的や意図の前に、自己が独立して存在 しなければならない。そのため、自由に選ぶことができることが目的ではなく、目的を選ぶ能力を私が予め持っていることが重要になる。ロールズはこういう: 「我々の本姓を第一に表すのは自らの目的ではなく、そうした目的が形成される背景条件を支配するものとしてわれわれが認める原理だ……それゆえに、われわ れは※目的論的学説で提示された正と善の関係を逆転させ、正を優先してみるべきなのである」(Rawls 1971:560 ただし引用はサンデル 2011:243-244)。
※目的論的学説とは、アリストテレスのような徳の倫理学に よる要請=我々は正しいことをなすように生きる存在である。そのようなことをなすことをその人に徳があると判断される、ことをさす。
さ て、では、コミュニタリアニズムの要衝(=キモ)とは——とりわけリベラリズムとの対比においては——、自分の存在は、共同体(コミュニティ)から、恩恵 をうけた存在であり、また、恩恵を受けているがゆえに、その恩恵をしばしばコミュニティに返還するような義務負債感をもった存在である(=この状態を互酬意識 (cousciouness of social reciprocity)があるといえるだろう)。自分という存在は、自分が属する共同体と抜きにして考えることができない。そのような、コミュニタリア ニズムを信奉する個人すなわちコミュニタリアン(注意!!:コミュニスト=共産主義者ではない)の、自己感、自分感というものはどういうものであろうか? コミュニタリアンの 自分感は、個人でいながらも、味方でも敵でも他者の存在を抜きにしては存在できないし、自分の生活や価値観を守り育てていくためには、コミュニティのメン バーとの交渉や対話を避けることはできない。あるいは、そのような相互交渉のなかに自分というものを初めて見出すことができる。このようなコミュニタリア ンの自己感、自分感を評して、サンデルは「位置ある自己(situated self)」と呼ぶ。自分というのは、どこかで、自分の属する組織すなわちコミュニティと関連づけずに定義することなどできないと考える(サンデル 2011:230)。
◎負い目 が在る・負い目を在るSchuldigsein
「「負い目が在る」も「負い目を在る」もともに、Schuldigsein を訳したもの。どこからともなく聞こ
えてくる「良心の呼び声」は、現存在に、自分には何かしら負い目が在ることを告げている。し
かし、それは誰かに一定の借りがあるとか借金があるということではない。私たちは、自分が
作り出したわけでも意識的に選択したわけでもない一定の在りようの中にあらかじめ放り込ま
れ、それに依拠して生を営んでいる。自分の存在の根底にあるこの欠落を、良心の呼び声は呼
び起こすとともに、その負い目をあえて引き受ける、いわば負い目を在ることを求めていると
言える。負い目に連関して「在る」という語が強調される場合、このようにそれをあえて背負い
込む、といったニュアンスが込められることが多いが、常にそうだというわけでもない。いず
れにせよ、原語は同じ表現であり、翻訳の結果のように二つを必ずしも明確に線引きできるわ
けではない。」高田珠樹『存在と時間』解説、P.714.
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