か ならず読んでください

民族境界論

(エスニック・バウンダリー): Ethnic boundary theory

Frederic Barth, 1928-2016

[質問内容]エスニック・バウンダリー[論]について教えてください

[回答]池田光穂(文化人類学者)

エ スニック・バウンダリー[論]とは、世界のさまざまな地域の民族集団がもつ民族性や民族意識(=エスニシティ)は、隣接する民族との交渉や意識関係のなか で生まれるという[フレデリック・バースによる提唱にもとづいた]考え方です。この理論では、民族固有の意識などというものは、歴史的にみても、他の民族関係との関係の中でしか生まれないというもので す。単純にみれば、民族のアイデンティティ(=同一性)とは、各個人のアイデンティティ形成と同様に、隣接する民族との日常的関係性や、中央政府の民族政 策や公教育を通して、他者ないしは他者の集団との関係性のなかで育まれてきた帰結にすぎないというものです。これは、固有の意識があるという主張——民族 意識の本質論——を批判し、民族意識は、歴史的な文脈のなかで日々構成されていくものだとい見方——社会的構成主義と言います——の一つです。

文化人類学ではエスニシティの議論は、1960年代前半までは、それほど活発には議論されてこなかったテーマのひとつです。ところが60 年後半より、旧植民地の独立がすすみ、いわゆるポストコロニアル状況が生起するようになると、先進国における少数民族問題など、民族アイデンティティ、社 会紛争、国家建設や国民国家など、民族あるいは民族性が、現代国際政治における重要なテーマになると同時に、それと連動して地域社会に精通している文化人 類学者にとって重要な研究テーマになってきました。[民族・民族集 団

もともと文化人類学者は、民族を人間集団の所与の属性とみなしていましたので、当初はそれほど重要な問題と考えていませんでした。つまり 客観的に民族は存在すると考えていました。それが60年代の後半になってきて、近代化論の議論のなかで、民族は前近代の「遺物=残余」である主張がでてき ました。つまり、世界の少数民族は、より大きな社会集団に取り込まれるだろうという主張(同化理論あるいは「民族あるいは人種の”るつぼ”」理論と呼ばれ ます)が支配的になってきます[民族と人種の定義についてはここからリンク]。

しかし、民族が融合していって境界がなくなってしまうという主張が仮に正しいとしますと、なぜ民族問題がおこるのでしょうか? 

民族が単になくなるという議論はそれに対して答えてくれません。社会学的機能主義の立場からの回答は、少数民族のエリートたちが、自分た ちの集団の排外的な政治をおこなうさいに、民族の概念を操作的につくりあげているのだという主張でした。民族的差異は、やがて消えてしまう「遺物=残余」 以上に、そのような政治的運動を動員する資源であるという主張です——社会学では資源動員という呼び方で親しまれていますね。そこでは、民族性を内部の構 成員たちに想起させるさまざまな諸象徴の独自性が強調されます。

そうすると文化人類学者の最初の前提であるところの、民族は客観的に存在するという主張を繰り返し、民族集団の特徴とおもわれる文化の諸 項目を挙げ連ねるという、それまでのやり方に対して反省が生まれてきました。現場に近いところにいる文化人類学者は、民族性というものが、どうも内部から 構築されるものでもあるということについても、結構はやくから感じ取っており、それに対する学説上の主張というものも確かに存在しました(例:リーチ『高 地ビルマの政治体系』)。

したがって、アイヌ民族問題を論じる時にでてくる専門家の中に、古くは文化人類学者の河野本道(1939-2015)さん、新しくは憲法学者の常本照樹(b.1955) さんたちが指摘する「本物のあるいは真に伝統的なアイヌなどいない」という暴論がでてくるのも、民族境界論——アイヌ民族とは支配民族であるシャモ(あ るいはシサム)との関係性のなかで生 成するエスニシティのことであり、それはシャモとりわけ北海道の和人のエスニシティもアイヌとの関係性のなかで構築さ れている——というものについての無知からくるのです。こういう無知を弄するヘイトの連中には「だったら我々にも本物のあるいは真に伝統的な和人などいっ たいどこにいるのでしょうか?」とたずねてみればよいでしょう。

さて、ここからが本論です。フレデリック・バース(Frederic Barth)編の『民族諸集団と諸境界 Ethnic Groups and Boundaries』(1969)[→文献リストの青柳編に重要論文を収載]は、上のような、民族は所与のものであるという客観主義にも、外部から操作 されるものであるとも考えません。民族と は、周囲の社会状況のつよい影響のもとに、集団の内部から構成される境界つまりバウンダリーを基礎に構成されるものであると、考えます。

したがって、民族境界論とは、バースの上掲編著の緒言で主張されていることがら(邦訳、青柳まちこ編訳『「エスニック」とは何か 』新泉社、1996)をさします。もちろん、この理論は、それに先行する大きな二つの理論の批判を射程にいれていますので、客観主義(あるいは本質主義) により接近するかたちから、あるいは近代化における政治問題化や人種主義を批判する視点から民族をより操作的にみる見方まで、さまざまな修正モデルが提案 されてきたようです。

しかし残念ながら、私自身は、この分野についてそれほど明るくないので、より専門的には以下の文献をアクセスされることをお薦めします。

なお、バウンダリー・メインテナンス(境界管理,boundary maintenance)という用語は、構造機能主義の社会学者タルコット・パーソンズが1951年『社会体系論』にはやくも指摘しているとのことです。

★もうすこし突っ込んで勉強したいひとは「フレデリック・バース『民 族集団と境界』論ノート」におこしください。

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