かならず 読んでください

フレデリック・バース『民族集団と境界』論ノート

Frederik Barth's Introduction of "Ethnic Groups and Boundaries," 1969: A research note

池田光穂

Frederik Barth(フレデリック・バース)が1969年に編集した『民族諸集 団と諸境界:文化的差異の社会組織』"Ethnic Groups and Boundaries: The social organization of cultural differences." Bostton: Little Brown, 1969. の冒頭のイントロダクションは、民族集団というものの生成が、他の民族集団——つまり集合的な「他者」——との差異とそれにもとづく境界——もちろん認識 論的な境界だが——の構築をもとにできあがるという理論的枠組みを指摘した比較的長文の論文である。これは今日「民族境界論」ないしは「エスニック・バウンダリー論(ethnic boundary theory)」と 言われる。論文の構成をみるために、それぞれの章立てを記してみよう(典拠したのは、邦訳の内藤・行木訳である)

00. (表題のないイントロダクション)
民族集団とその存続の問題をとりあげる
・文化変化は不連続という、これまで人類学の前提について再考する
・不連続だから、民族集団は「離散的」だというビジョンができあがる
・離散的なものは、彼ら自身の認識なのか、それとも、人類学者の前提からやってくるものか?それとも、人類学者と彼らの共通項的認識なのか?(池田による 命題の改作)
・離散的だから、それぞれの民族集団の境界について着目して検討するのは、自明の論理探求の課題だ。
エスノセントリズムにもとづいて他集団を敵意あるものとして描くことはナイーブでもはや時代遅れだ。
・地理的隔離が、文化的多様性の担保になるというのも単純すぎる
民族境界に着目すると、次の経験的事実が明らかになる。
・1)境界をこえて人々は行き来するのに、境界の維持は強い。→境界の問題は、接触、非接触の問題ではない。境界維持は世代を超えて継承されている。
・2)境界があるにもかかわらず、両者は相互依存し、相互依存の体系をつくっている。あるいは、そのような相互依存こそが、逆説的に文化的差異を維持して いるとも言える。
01. 一般的アプローチ方法
・従来の説に対抗するためには、理論と実証の両面作戦が必要である。
・「第一に、民族集団は行為者自身による帰属と同一化のカテゴリーであり、それゆえ人々の間の相互作用を組織化するという特徴を持つ」(フレデリック・ バース)、
・「第二に、これらの論考はすべて生成論的な視点を分析に適用している」(フレデリック・バース)、
・「。民族集団や民族関係の形態を類型化するのではなく、民族集団の生成と維持に関与していると思われるさまざまなプロセスを探ろうと試みている。第三 に、こうしたプロセスを観察するために、調査の焦点を、別個の集団の内部構成と歴史から、民族の境界と境界の維持に移す」(フレデリック・バース)。
02. エスニック集団の定義
・1. 生物学的にほぼ自己増殖的である
・2. 基本的な文化的価値を共有し、文化的形態において明白な統一性を実現する。
・3. コミュニケーションと相互作用の場を構成する
・4.. 同じ秩序の他のカテゴリーとは区別されるカテゴリーを構成するものとして、自らを特定し、他者からも特定されるメンバーシップがある。
・これらの定義は、古典的な、人種=文化=言語であり、社会=他者を拒絶または差別する単位であるという伝統的な命題を踏襲する。
・問題は「このような定式化によって、民族集団という現象や、人間の社会や文化における民族集団の位置づけを理解することができなくなる」ことだ。
・その理由は「集団の発生、構造、機能における重要な要因とは何かについての先入観」を再生産していることにほかならないからだ。
・境界の維持を自然化し、人種的差異、文化的差異、社会的分離と言語の障壁、自然発生的・組織的敵対といった、項目化された特徴が意味する(個々の民族集 団は)孤立から生じるものだと仮定することができる。(→これは、国民が自国に抱く「国家観」 や「ナショナリズム」の形成と同じ)
03. 文化を担う単位としてのエスニック集団
・文化集団の単位を「島」のメタファーで描くことの問題点。その定義 は、明確ではなく、むしろ、論証を怠り、民族集団の暗示あるいは「帰結」としてみなしている点にある(→マリノフスキーの研究が島嶼間のクラ交易であるこ とは、なんとなく示唆的であり、マリノフスキーそのものは島嶼全体を[交易という社会的機能が維持されている]文化の実体としてみなしていた)。
・その弊害:(1)そのような単位の時間的連続性の性質と、(2)単位の形態を決定する要因の所在の両方について、偏った視点を伴うことだ。
・その弊害:文化の分析に関心がいき、民族組織の分析に目が向かない。
・文化的付加と変化を年代順に記録し、ある項目がなぜ借用されたのかを説明しようとする「民族史」の観点が新たに必要となる。ただし、民族と文化の相互関 係を「歴史」の中に込めても、民族と文化の峻別がないかぎり、混同や混乱は持ち越される。
・文化の項目を、特質として項目化できるあからさまな文化形態は、エコロジーの影響のもとにある。より直接的な意味で、行為者が自らを適応させなければな らない外的状況をも反映しているという事情もある。
・「パタン人の地域社会システムの分布と多様性(117 ペー ジ以降)。基本的なパータンの価値観からすれば、同質的で系統的に組織 された山岳地帯の南部 パータンは、スワートのパータンの振る舞いが自分 たちの価値観とあまりに異なっており、そ の点で非難されるべきものであ ることに気づき、北部の兄弟を「もはやパータンではない」 と宣言するこ とができる。実際、「客観的な」基準からすれば、彼らのあからさまな組 織形態はパンジャビ人のそれにはるかに近いように思われる。しかし私は 、北部の事情を説明することで、南部のパタン人に、彼らも確かにパタン 人だ と認めさせ、そのような状況下では彼ら自身も同じように行動する可 能性があることを、 不承不承ながら認めさせることが可能であることを発 見した。このように、あからさまな制度的形態を、いつでも民族集団を区 別する文化的特 徴を構成するものと見なすのは不適切である。こうしたあ からさまな形態は、 伝承された文化と同様に、生態学によっても決定され る。また、このような集団内の多様化のすべてが、単位の細分化と増殖の 方向への第一歩であると主張することもできない。一つの民族集団が、比 較的単純な経済組織レベルでありながら、いくつかの異なる生態学的ニッ チを占め、しかも長期にわたって基本的な文化的・民族的統一性を保って いる例は、よく知られている(例えば、内陸と沿岸のチュクチ族( Bogoras 1904-9)、トナカイ族、河川族、沿岸のラップ族(Gjessing, 1954 )など)。」
04. 組織の型としてのエスニック集団
・社会的に有効なものに集中することで、民族集団は社会組織の一形態と みなされる。
・(アイデンティティの意義):行為者が民族的アイデンティティを利用して、自分自身や他人を分類している。
・エスニック・カテゴリーは文化的差異を考慮に入れているが、エスニック単位と文化的類似性・差異との間に単純な一対一の関係は想定できないことを認識す ることが重要である。
・民族的カテゴリーに属するということは、ある種の人間であ ること、その基本的アイデンティティを持つことを意味するので、そのア イデンティティに関連する基準によって判断されること、そして自分自身 を判断することを要求されることも意味する。
・民族的カテゴリ ーは、異なる社会文化システムにおいて、さまざまな量と形の内容を与え られる可能性のある組織的な器を提供する。それらは行動にとって大きな 意味を持つかもしれないが、そうである必要はない。社会生活すべてに浸 透しているかもしれないし、限られた活動分野でのみ意味を持つかもしれ ない。したがって、さまざまな形態のエスニック・エスプリを民族誌的・ 比較的に記述する余地があるのは明らかである。それは 組織の研究である。
05. エスニック集団の境界
・この観点から、調査の重要な焦点となるのは、集団を定義する民族的境 界 線であって、その境界線が囲む文化的なものではない。私たちが注意を払 わなければならない境界は、もちろん社会的な境界である。ある集団が、 その構成員が他者と相互作用することでアイデンティティを維持するので あれば、そのためには、メンバーシップを決定する基準や、メンバーシッ プへの加入と除外を示す方法が必要となる。民族集団は、単に、あるいは 必ずしも排他的な領土の占有に基づいているわけではなく、一度限りの勧 誘だけでなく、継続的な表現と検証によって維持されるさまざまな方法を 分析する必要がある。
・民族的な境界は社会生活を規定するものであり、行動や社会関係 の極めて複雑な構成を伴うことが多い。他者を同じ民族グループの一員と みなすことは、評価や判断の基準を共有することを意味する。そのため、 両者は基本的に「同じゲームをプレイしている」という前提に立ち、両者 の間には、最終的にはあらゆる異なる活動分野や領域をカバーするような 、社会的関係の多様化と拡大の可能性が存在することになる。一方、他者 をよそ者、他民族の一員と二分することは、共有する理解に限界があるこ と、価値や実績の判断基準に違いがあることを認識すること、そして相互 の交流を、共通の理解と相互の利害が想定される分野に限定することを意 味する。
・民族集団の持続的な接触は、識別のための基準や信号だけでなく、 文化的差異の持続を可能にする相互作用の構造化をも意味する。私が主張 したいのは、すべての民族間関係において一般的でなければならない組織 的特徴は、民族間の社会的出会いを支配する体系的なルールであるという ことである。すべての組織化された社会生活では、特定の社会的状況にお いて相互作用に関連させることができるものが規定されている(ゴフマン 1959)。もし人々がこれらの規定について合意するならば、規範や価値観 に関する彼らの合意は、彼らが相互作用する社会的状況に関連したもの以 上に拡大する必要はない。安定した民族間関係は、このような相互作用の 構造化を前提としている。すなわち、接触状況を支配し、ある分野や活動 領域での相互作用を可能にする一連の規定と、他の分野での民族間相互作 用を妨げ、その結果、文化の一部を対立や修正から隔離する、社会状況に 関する一連の規定である。
06. マルチエスニック社会体系
・マルチエスニック社会体系は、ファーニバルあるいはファニーバル(1944)が多元社会の 分析で明確に描いた ものである。つまり、市場において統合された多民族社会は、いずれかの 集団が支配する国家体制の支配下にあるが、宗教的活動や家庭内活動の分 野では、文化的多様性の大きな領域を残している。
・おそらく親族関係と家庭生活だけが、規定された部門として、 また文化的多様性の源泉として残っている。こうしたさまざまなシステム を、ますます曖昧になる「多元的」社会というレッテルの下にひとくくり にしても、何も得ることはできない。一方、構造の多様性を調査すること で、社会的・文化的形態に多くの光を当てることができる。
・【民族アイデンティティ論の限界】→民族的アイデンティティに起因する人の行動に 対する制約は、絶対的で、複雑な多民族社会ではかなり包括的なものにな る傾向がある。また、構成要素である道徳的・社会的慣習は、ひとつの単 一アイデンティティの特徴としてステレオタイプ化されたクラスターに結 合されることによって、さらに変化しにくいものとなる。
07. アイデンティティと価値観の基準の連関
・このような混乱の原因は、が民族間の原型的な状況について誤解をまね くような推論を重ねてきたからだ。
・民族や集団のカテゴリーの境界を維持しようとする発想は、変動の極小化ということか→価値志向の違いが大きければ大きいほど、民族間の 相互作用に対する制約も大きくなる。その人の価値志向と食い違う行動を 伴う社会システム全体の地位や状況は避けなければならない。さらに、ア イデンティティは受容されるだけでなく示されるものであるため、新しい 行動形態は二分化される傾向がある。そのような行動が自分のアイデンテ ィティを持つ人間にとって不適切であるかもしれないという恐れから、人 は新しい方法で行動することに消極的になり、活動の形態を民族的特徴の 1つまたは別のクラスターに関連するものとして分類するように、役割の 制約がうまい具合に作用すると予想される。男性か女性かという二分法が 、ある種の社会で増殖しているように、基本的な民族区分の存在もまた、 文化的差異を増殖させる要因であるように思われる。
08. エスニック集団の相互依存
マルチエスニックな社会の要件→複雑な多民族のシステ ムでは、広範囲に関連する価値観の違いが存在し、地位の組み合わせや社 会参加に複数の制約があることは明らかである。このようなシステムでは 、次の理由から、境界維持メカニズムが非常に効果的でなければならない 。(i)複雑さは、重要で相補的な文化的差異の存在に基づいている。(iii)各 民族集団の文化的特性が安定していなければならない。そうすれば、民族 間の緊密な接触があっても、システムの基盤となっている補完的な差異が 持続しうるからである。このような条件が整えば、民族集団は互いに安定 的かつ共生的な適応を行うことができる。地域の他の民族集団は自然環境 の一部となり、連結した部門は利用可能な領域を提供するが、他の集団の 活動部門は、どの集団のメンバーから見てもほとんど無関係である。
09. 生態的観点
・バースは、ニッチの構築という観点から説明する
・(1) 彼らは自然環境の中で明らかに異なるニッチを占め、資源をめぐる競 争は最小限である。この場合、その地域に同居しているにもかかわらず、 相互依存関係は限定的で、主に交易や、おそらく儀式的・儀礼的な分野で の結びつきが強くなる。
・(2) その場合、両者は資源をめぐって競合関係にあり、両者の連携には国境沿いの政治や、場合によっては他の部門が関与することになる。
・(3) 相互に重要な財やサービスを提供し合う、つまり、相互依存的で、それゆえ異なるニッチを占めながらも、緊密な相互依存関係にある。
・このような一般化のモデルは可能だが、実際の民族誌状況はさらに複雑だ。
10. 人口的観点
・バースは生態学的なパラダイムの延長で説明する
・集団が占めるニッチの質的構造(理想的には量的構造)を示す一方で、集 団の適応における数とバランスの問題を無視することはできない。集団が 自然界のニッチを利用することに依存している場合、そのニッチの環境収 容力に相当する大きさの上限が存在することになる。一方、共生関係にあ る2つの民族集団のように、2つの集団が生態学的に相互依存している場合 、一方の集団の規模が変動すると、他方の集団にも重要な影響を及ぼすこ とになる。したがって、時間的な奥行きのある多民族システムの分析では 、相互依存関係にある民族集団の規模が均衡する過程を説明できなければならない。自然界のニッチに対する集団の適応はその絶対的な大きさに影 響されるが、他の民族集団が構成するニッチに対する集団の適応はその相 対的な大きさに影響されるからである。
11. アイデンティティ変更の要因

・【ヤオ族の事例】→Kandre(19676)が記述したヤオ族は、 中国大陸の南端に位置する多くの山岳 民族のひとつである。ヤオ族は生産的な目的のために、拡大された家族世 帯で組織され、氏族や村落で整列している。世帯のリーダーシップは非常 に明確で、コミュニティと地域は自民族的で、多民族の政治的領域とさま ざまに結びついている。アイデンティティと区別は、複雑な儀礼の慣用句 で表現され、特に祖先崇拝を伴う。しかしこのグループは、各世代で10% の非ヤオ族がヤオ族になるという急激な取り込みを見せる(Kandre 1967a: 594)。ヤオ族への変更は個人的に行われ、その多くは子供で、ヤオ族の 家長による買い取り、親族への養子縁組、完全な儀礼的同化が行われる。 時には、男性も母方居住(?)婚によって民族の変更を行うことがある
・【ダルフールの事例】→Haaland(58頁以降)が提供したダルフールで の事例であろう。この事例では、スーダンの鍬農耕民族であるファー族の 人々が、遊牧民である家畜アラブ人へとアイデンティティを変化させてい る。このプロセスは、非常に特殊な経済的状況、すなわち、遊牧民の可能 性とは対照的に、ファー族の村落経済には資本投資の機会がないことを条 件としている。蓄積された資本とその管理・増加の機会は、ファー族の家 計が畑や村を放棄し、近隣のバガラ族の生活に移る動機となり、経済的に 完全に成功した場合には、緩やかではあるが名目上は中央集権的なバガラ 族の政治単位のひとつに加わることもある。
・アイデンティティの変化を引き起こすプロセスは、民族間の相互依存のほとんどのケースを理解する上で重要ではあるが、それが人口の安定につながる必要は ない。
12. 文化的境界の持続性 ・完全同化の現象を見出すのはなかなか難しい
・むしろパフォーマンスを通して、境界状況のなかで、自らの民族的アイデンティティを維持しようとする→パータンの国境地帯の場合、この地域の分節的で無 秩序な社会における影 響力と安全 は、その人のこれまでの行動から、いや、むしろその行動によ って得られる尊敬から、 受け入れられた評価基準によって判断される。パ ータンの美徳を示す主な場は、部族会議と、もてなしの舞台だ。しかしコ ヒスタンの村人の生活水準は、彼が提供できるもてなしが、隣 のパタン人 の征服された農奴のもてなしとほとんど太刀打ちできないようなものだ。 このような状況でパタン人としてのアイデンティティを維持し、パタン人 の価値基準で競争相手となることを宣言することは、自分自身のパフォー マンスの完全な失敗をあらかじめ宣告することなのだ。しかし、コヒスタ ニ族やバルーチ族のアイデンティティを持つことで、その人 は、同じパフ ォーマンスによって、そのとき関係する尺度においてかなり高い得点を 得 ることができる。このように、アイデンティティを変更するインセンティ ブは、状況の変化に内在している。
13. エスニック・アイデンティティと有形財産
・省略
14. エスニック集団と成層化
・階層化と民族集団化の関係は一定の傾向はみとめられない。それ以外の 「資産の差配を維持する特別なプロセスの存在」など、別の社会組織化が関与。
15. 変異の問題
・民族境界課題は、人々の認識のクラスタリングと関係している:民族の レッテルは、統計的には 間違いなく集まっているが、絶対的に相互依存し、つながっているわけで はない、同時多発的な特徴を包含している。そのため、ある人は多くの特 徴を示し、ある人はほとんど特徴を示さないというように、メンバー間に ばらつきが生じる。特に、人々がアイデンティティを変更する場合、民族 的なメンバーシップは、出自の問題であると同時に、現在のアイデンティ ティの問題でもあるため、曖昧さが生じる。実際、ハーランドは「遊牧民 キャンプに住む毛皮族」に会うために連れ出されたし、バルーチ族部族の メンバーが「本当はパータン人だ」と説明するのを聞いたこともある。こ のように実際の区別が曖昧になったとき、境界の維持とカテゴリー分けに 何が残るのだろうか。類型論的な図式化の失敗に絶望するのではなく、人 々が民族的なラベルを使用していること、そして世界の多くの地域で、客 観的な行動という点で、行為者全体がそのようなカテゴリーに分類される 傾向があるように、行動の形態がまとまっている最も壮大な違いが存在す ることに、正当に注目することができる。驚くべきは、これらのカテゴリ ーの中間に位置する行為者が存在することでも、また、このように人物全 体が分類される傾向がない地域が世界各地に存在することでもなく、バリ エーションがまったく分類されないという事実である。そして私たちは、 類型を完成させることではなく、そのようなクラスタリングをもたらすプ ロセスを発見することに関心を持つことができる。
16. 少数集団、パリア(賎民)、および周縁者の組織的特徴
・排除された集団は、内的に強固なむすびつきを発揮する→マイノリティ の特徴は、偏狭な集団である。これらの集団は、積極的に非難 されるような行動や特性のために、受け入れ側の住民から積極的に拒絶され る集団である。最近の数世紀におけるヨーロッパのパリア集団(処刑人、馬 肉や皮革の商人、ナイトソイルの収集家、ジプシーなど)は、ほとんどの特 徴を例示している。彼らのアイデンティティは、多数派の人々との交流の余地 をほとんど与えない社会的状況の定義を課し、同時に、必須の身分として、 他の交流状況の定義に含まれる通常の身分を引き受けることを妨げる、避け がたい障害を表していた。文化的に異質なジプシーだけが明らかにそのよう な集団である。偏狭な集団の境界は、排除された受入集団によって最も強く維持され、彼ら はしばしば、自分たちのアイデンティティを宣伝するために、目立ちやすい 発音記号を使わざるを得ない(しかし、このアイデンティティは、非常に不 安定な生活の基盤であることが多いため、このような過剰なコミュニケーシ ョンは、偏狭な個人の競争上の利益にもなることがある)。パリアがより大 きな社会に溶け込もうとする場合、受け入れ側の人々の文化は一般によく知 られている。したがって、この問題は、パリア・コミュニティと縁を切り、 別の出自を偽ることで、障害の汚名から逃れるという問題に還元される。
・【ゴフマン的観点】このような多民族システムでは、構成集団 の対照的な文化的特徴は、生活の非明瞭な部門に位置づけられる。マイノ リティにとって、これらの部門は、支配的なマジョリティ文化から見て汚 点となる特徴を密かに取引の対象とすることができる「舞台裏」を構成す る。
17. 文化の接触と変化
・【民族集団の戦略という観点から】→彼らにはどのような戦略が開かれ ていて、どのような魅力があるのか、ま た、彼ら側のさまざまな選択が組織的にどのような意味を持つのか。この 場合の主体とは、通常、やや民族中心的に新しいエリートと呼ばれる人々 であり、工業化社会の財や組織との接触が多く、依存度が高い低工業化グ ループの人々である。より広い社会システムへの参加を追求し、新しい形 の価値を手に入れようとするとき、彼らは次のような基本戦略のどちらか を選ぶことができる:(i)あらかじめ確立された産業社会と文化集団のなか に入り込み、そのなかを通り抜けようとする。(ü)「マイノリティ」として の地位を受け入れ、文化的差異をすべて非表現の部門に封じ込めることに よってマイノリティの障害を軽減し、その一方で、他の活動部門では産業 化された集団の大きなシステムに参加する。(iii)民族的アイデンティティ を強調し、それを利用して、以前は自分たちの社会にはなかった、あるい は新しい目的のためには十分に発達していなかった部門における活動を組 織するための新しい地位とパターンを開発する。文化革新者が第一の戦略 で成功した場合、その民族集団は内部多様化の源泉を奪われ、おそらく文 化的に保守的で、より大きな社会システムの中で地位の低い、表現力の低 い民族集団にとどまるだろう。第二の戦略を一般的に受け入れれば、明確 に二分化された多民族組織の出現を防ぐことができ、産業社会の多様性と 、その結果として生じる多様性と多様な表現領域を考慮すれば、おそらく 少数民族の最終的な同化につながるだろう。
・【団体を構築する】→第二に、民族集団の組織形態は様々であり、民族間の協調も様々である。 現代の形態が政治的な色彩を帯びているからといって、それが民族的な性 格を弱めているわけではない。このような政治運動は、文化的差異を組織 的に関連させる新たな方法(Kleivan 1967)であり、二分化された民族集 団を明確にする新たな方法である。民族を基盤とする圧力団体、政党、独 立国家構想の急増や、多数のサブ政治的な前進団体(Sommerfelt 1967)は 、こうした新しい形態の重要性を示している。他の分野では、カルト運動 や宣教師が導入した宗派が、新しい方法で集団を二分化し、明確化するた めに用いられている。これらの新しいパターンが、一部の新しい国々が採 用している国家社会主義の形態を除けば、文化接触の状況において非常に 大きな要因である経済的な活動部門に関わることがほとんどないのは驚く べきことである。これとは対照的に、伝統的な複雑な多民族システムは、 アジアや中米の多くの地域では、職業分化や市場での連携、あるいは南ア ジアでは最も精巧な農耕生産を通じて、この分野での連携に基づいている。
・【政治的変革者】→、政治的革新者の活動の多くはイディオムの成文化に 関係している。つまり、アイデンティティを示すシグナルの選択と、これ らの文化的発音記号に対する価値の主張、そしてその他の差異に対する関 連性の抑制や否定である。どの新しい文化形態が土着の民族的アイデンテ ィティに適合するかという問題は、しばしば激しく争われるが、上述の理 由から、一般的にはシンクレティズムに軍配が上がる。しかし、厳選され た伝統文化の特徴の復活や、慣用句やアイデンティティを正当化し美化す るための歴史的伝統の確立には、多くの注意が払われることがある。
18. エスニック集団の背景における変異
・【コロニアリズムの特殊性】→植民地体制は、行政やその規則が地域に 根ざした社会生活から切り離され ているという点で、極めて極端である。このような体制のもとでは、個人 は、自分たちの社会関係や制度が及ばないところで、大規模な人口集団や 地域を通じて一律に保護される一定の権利を保持する。このため、異なる 民族間の共通理解がなくても、物理的に近接し、接触する機会が与えられ る。 その結果、民族間の関係に通常働く制約のひとつが明らかに取り除かれる 。そのような状況では、相互作用は発展し、増殖することができる。実際 、他の要因によって直接的に阻害されている相互作用の形態だけが存在せ ず、非文化的な部門として残ることになる。したがって、このような状況 における民族の境界は、差別化された補完的な価値を軸とする社会関係の 積極的な組織化を意味し、文化的差異は時間とともに減少し、必要最小限 に近づく傾向がある。
・【カチンの民族集団の内的ダイナミズムとは対比的に、地域の安全保障の観点からも説明できる】→このように、民族単位が自らを維持するプロセスは、地域の安全保障とい う変数によって明らかに影響を受けるが、根本的に変わるわけではない。 このことは、本稿で分析した事例を検証することによっても明らかである 。しかし、この背景変数が時間とともに急速に変化する可能性があること を認識することは重要であり、長期的なプロセスを予測する上で、これは 深刻な困難である。このように、ファーの場合、外部から平和が維持され 、非常に小規模な地元の政治活動が行われている状況を観察し、このよう な状況における民族間のプロセスやその割合のイメージを描くことができ る。しかし、過去数世代にわたって、拡大したファー・スルタンのもとで のバッガーラとファーの対立から、トルコ時代とマフディー時代のほぼ完 全な無政府状態まで、状況はさまざまであったことが分かっており、この ような変化が遊牧民化と同化の過程に及ぼした影響を推定し、その割合と 傾向を長期的に予測することは非常に困難である。
19. エスニック集団と文化の進化
・省略
20. 参照文献



★Frederik Barth(フレデリック・バース

2006年ごろ(78歳ぐらい?)の撮影

Thomas Fredrik Weybye Barth (22 December 1928 – 24 January 2016) was a Norwegian social anthropologist who published several ethnographic books with a clear formalist view. He was a professor in the Department of Anthropology at Boston University, and previously held professorships at the University of Oslo, the University of Bergen (where he founded the Department of Social Anthropology), Emory University and Harvard University. He was appointed a government scholar in 1985.[1][2][3]
トーマス・フレドリック・ウェイバイ・バース(1928年12月22日 -2016年1月24日)はノルウェーの社会人類学者で、明確な形式主義的見解を持つ民族誌的著作を数冊出版した。ボストン大学人類学科教授を経て、オス ロ大学、ベルゲン大学(社会人類学科を創設)、エモリー大学、ハーバード大学で教授職を歴任。1985年に政府奨励研究者として任命される。
Biography and major works

Barth was born in Leipzig, Germany to Thomas Barth, a professor of geology, and his wife Randi Thomassen. They also had a daughter. Barth and his sister grew up in Norway in an academic family. Their uncle was Edvard Kaurin Barth, a professor of zoology.[1] Fredrik Barth developed an interest in evolution and human origins. When his father was invited to give a lecture at the University of Chicago, the younger man accompanied him and decided to attend the university, enrolling in 1946.[4] He earned an MA in paleoanthropology and archaeology in 1949.[5]

After receiving his MA, Barth returned to Norway, keeping a connection to Chicago faculty. In 1951 he joined an archaeological expedition to Iraq led by Robert Braidwood. Barth stayed on after the expedition was over, and conducted ethnographic population studies with the Kurdish population. He spent a year at the London School of Economics (LSE) writing up this data, and in 1953 published his first book, Principles of Social Organization in Southern Kurdistan.[4]: 2–3 

Barth had originally planned to submit the manuscript of his Principles of Social Organization as his Ph.D. dissertation, but was unsuccessful in doing so. He continued graduate study, moving to Cambridge, England to study with Edmund Leach, whom he had previously worked with at the LSE. For his PhD, Barth conducted fieldwork in Swat, Pakistan; his completed dissertation was published in 1959 as Political Leadership among Swat Pathan. Shortly afterwards he was part of a UNESCO study of pastoral nomadism, which focused on the Basseri in what is now Iran. From this work, he published the 1961 monograph Nomads of South Persia.[4] : 3–6 

In 1961, Barth was invited to the University of Bergen to create an anthropology department and serve as the chair. This important and prestigious position gave him the opportunity to introduce British-style social anthropology to Norway. The only other existing anthropology program, at the University of Oslo, was older and connected to the university's ethnographic museum (now the Museum of Cultural History). It was based in Victorian folklore and museum approaches. By founding the department at Bergen, Barth hoped to create a modern, world-class department with an approach similar to those found in England and the United States.[4]: 7 

Barth remained at Bergen from 1961 to 1972. During this time his own work developed in two key ways. First, he developed research projects inside Norway (and published a study entitled The Role of the Entrepreneur in Social Change in Northern Norway in 1963). Second, he began writing more purely theoretical works that secured his international reputation within anthropology. These included Models of Social Organization (1966) and especially the small, edited volume, Ethnic Groups and Boundaries: The Social Organization of Cultural Difference (1969). Barth's introduction to Ethnic Groups and Boundaries became his most well-known essay and "ended up among the top 100 on the social science citation index for a number of years.".[4]: 10 

In 1974 Barth moved to Oslo, where he became professor of social anthropology and the head of the city's Museum of Cultural History. During this period, anthropology was changing. Marxism and interpretive approaches were becoming more central, while Barth's focus on strategy and choice was being taken up by economics and related disciplines.[4]: 9  Barth shifted to studying meaning and ritual as developed in ethnic groups, and conducted research in Papua New Guinea, where he conducted fieldwork with the Baktaman. He published several works from these studies, namely the Ritual and Knowledge among the Baktaman of New Guinea (1975). He also continued studies in the Middle East, conducting fieldwork in Oman with his wife Unni Wikan. This resulted in his 1983 volume Sohar: Culture and Society in an Omani Town.

Barth received a state scholarship from the Norwegian government in 1985. He left the country to accept two positions in the United States—at Emory University from 1989 to 1996, and Boston University from 1997 to 2008.[6]: 7  By this time, Barth and his wife "felt we had both done our share of physically strenuous fieldwork" and decided to begin an ethnographic project in Bali.[4]: 14  He developed an interest in the anthropology of knowledge at around this time, an interest which he explored in his book Balinese Worlds (1993). More recently, he has also conducted research in Bhutan.

Barth was a member of the Norwegian Academy of Science and Letters.[7] In 1997 he was elected a Foreign Honorary Member of the American Academy of Arts and Sciences.[8]
略歴と主な作品

バースはドイツのライプチヒで、地質学の教授トーマス・バースと妻ランディ・トマッセンの間に生まれた。ふたりには娘もいた。バースと妹はノルウェーのア カデミックな家庭で育った。叔父は動物学教授のエドヴァルド・カウリン・バースであった[1]。フレドリック・バースは進化と人類の起源に興味を持つよう になる。1949年に古人類学と考古学の修士号を取得した[5]。

修士号取得後、バースはシカゴの教員とのつながりを保ちながらノルウェーに戻った。1951年、ロバート・ブレイドウッドの率いるイラクへの考古学探検隊 に参加。探検隊が終わった後もバースは残り、クルド人の民族誌的な人口調査を行った。彼はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で1年間をこ のデータの執筆に費やし、1953年に最初の著書『Principles of Social Organization in Southern Kurdistan』[4]: 2-3 を出版した。 

バースは当初、『社会組織の原理』の原稿を博士論文として提出する予定だったが、それはかなわなかった。彼は大学院での研究を続け、イギリスのケンブリッ ジに移り、以前LSEで一緒に研究していたエドモンド・リーチに師事した。博士号取得のため、バースはパキスタンのスワートでフィールドワークを行い、完 成した学位論文は1959年に『Political Leadership among Swat Pathan』として出版された。完成した学位論文は1959年に『Political Leadership among Swat Pathan』として出版された。その直後、彼はユネスコの牧畜遊牧民の研究に参加し、現在のイランに住むバセリ族に焦点を当てた。この研究から、 1961年に単行本『Nomads of South Persia(南ペルシアの遊牧民)』を出版した[4]:3-6。 

1961年、バースはベルゲン大学に招かれ、人類学部を創設し、学部長を務めた。この重要かつ名誉ある地位は、イギリス式の社会人類学をノルウェーに導入 する機会を彼に与えた。オスロ大学に唯一存在した人類学プログラムは、より古く、大学の民族誌博物館(現在の文化史博物館)とつながっていた。それはヴィ クトリア朝時代の民俗学と博物館のアプローチに基づいていた。ベルゲンに学部を創設することで、バースはイギリスやアメリカに見られるようなアプローチを 持つ、近代的で世界トップクラスの学部を創設することを望んだ[4]: 7。 

バースは1961年から1972年までベルゲンに留まった。この間、彼自身の仕事は2つの重要な点で発展した。第一に、彼はノルウェー国内で研究プロジェ クトを展開した(1963年には『The Role of the Entrepreneur in Social Change in Northern Norway』と題する研究を発表した)。第二に、人類学での国際的な名声を確保するため、より純粋に理論的な著作を書き始めた。これには『社会組織のモ デル』(1966年)や、特に小さな編著書『民族集団と境界』(The Social Organization of Cultural Difference)などがある: The Social Organization of Cultural Difference』(1969年)である。バースの『民族集団と境界』の序論は彼の最もよく知られたエッセイとなり、「何年もの間、社会科学の引用索 引で上位100位以内に入った」[4]: 10 

1974年、バースはオスロに移り住み、社会人類学の教授となり、オスロの文化歴史博物館の責任者となった。この時期、人類学は変化していた。マルクス主 義と解釈的アプローチがより中心的なものとなり、バースの戦略や選択への焦点は経済学や関連する学問分野によって取り上げられるようになっていた[4]: 9。バースは民族集団で展開される意味と儀式の研究にシフトし、パプアニューギニアでバクタマン族とのフィールドワークを行いながら研究を進めた。彼はこ れらの研究からいくつかの著作、すなわち『ニューギニアのバクタマン族における儀礼と知識』(1975年)を出版した。また、中東でも研究を続け、妻のウ ニ・ウィカンとともにオマーンでフィールドワークを行った。その結果、1983年に『Sohar: Culture and Society in an Omani Town)を出版した。

1985年、ノルウェー政府から奨学金を受ける。1989年から1996年まではエモリー大学で、1997年から2008年まではボストン大学で、アメリ カで2つの職を得るために国を離れた[6]: 14 彼はこの頃、知識の人類学に興味を持ち始め、その興味は著書『Baliese Worlds』(1993年)で探求された。最近では、ブータンでも調査を行っている。

1997年にはアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選出された[8]。
Personal life
Barth was married 1949–1972 to Mary ("Molly") Allee (27 April 1926 – December 1998),[9] and he was married again 30 January 1974 to Unni Wikan, professor of social anthropology at the University of Oslo, Norway.[6]: 7  His sister Tone Barth (25 January 1924 – 10 October 1980) was married 1945–1963 to Terkel Rosenqvist (1921–2011), also an academic,[10] and she was married again in 1963 to the Norwegian politician for the Conservative Party Vidkunn Hveding (1921–2001). Barth died in Norway on 24 January 2016 at the age of 87.[11]
私生活
バースは1949年から1972年にかけてメアリー(「モリー」)・アレー(1926年4月27日 - 1998年12月)と結婚し[9]、1974年1月30日にノルウェーのオスロ大学社会人類学教授のウニ・ウィカンと再婚した。 [6]: 7 姉のトーン・バース(1924年1月25日 - 1980年10月10日)は、1945年から1963年にかけて、同じく学者であったテルケル・ローゼンクヴィスト(1921年 - 2011年)と結婚し[10]、1963年にノルウェーの保守党の政治家ヴィドクン・フヴェディング(1921年 - 2001年)と再婚した。バースは2016年1月24日にノルウェーで87歳で死去した[11]。
Main ideas and contributions

He was well known among anthropologists for his Transactionalism analysis of political processes in the Swat Valley of northern Pakistan, and his study of micro-economic processes and entrepreneurship in the area of Darfur in Sudan. The latter has been regarded as a classical example of formalist analysis in economic anthropology. During his long career, Barth has also published acclaimed studies based on field works in Bali, New Guinea, and several countries in the Middle East, thematically covering a wide array of subjects.[2]

Ethnicity

Barth has been an influential scholar on the subject of ethnicity. Andreas Wimmer wrote in 2008, "The comparative study of ethnicity rests firmly on the ground established by Fredrik Barth in his well-known [1969] introduction to a collection of ethnographic case studies."[12] As the editor of Ethnic Groups and Boundaries (1969), Barth outlined an approach to the study of ethnicity that focused on the ongoing negotiations of boundaries between groups of people. Barth's view was that such groups were not discontinuous cultural isolates, or logical a prioris to which people naturally belong.

Barth parted with anthropological notions of cultures as bounded entities, and ethnicity as primordial bonds. He focused on the interface and interaction between groups that gave rise to identities.[2]

Ethnic Groups and Boundaries, which he edited, concentrates on the interconnections of ethnic identities. Barth writes in his introduction (p. 9):

... categorical ethnic distinctions do not depend on an absence of mobility, contact and information, but do entail social processes of exclusion and incorporation whereby discrete categories are maintained despite changing participation and membership in the course of individual life histories.

He emphasizes the use by groups of categories - i.e. ethnic labels - that usually endure even when individual members move across boundaries or share an identity with people in more than one group.

The inter-dependency of ethnic groups is a pivotal argument throughout both the introduction and the following chapters. As interdependent, ethnic identities are the product of continuous so-called ascription (Cf. Ascriptive inequality) and self-ascription, Barth stresses the interactional perspective of social anthropology on the level of the persons involved instead of on a socio-structural level. Ethnic identity becomes and is maintained through relational processes of inclusion and exclusion.[2]
主な思想と貢献

パキスタン北部のスワート渓谷における政治過程の取引主義的分析と、スーダンのダルフール地域におけるミクロ経済過程と起業家精神の研究で、人類学者の間 ではよく知られている。後者は、経済人類学における形式主義分析の古典的な例とみなされている。長いキャリアの中で、バースはバリ、ニューギニア、中東の 数カ国でのフィールドワークに基づく研究でも高い評価を得ており、幅広いテーマを扱っている[2]。

エスニシティ

バースはエスニシティというテーマにおいて影響力のある学者である。アンドレアス・ヴィマーは2008年に、「エスニシティの比較研究は、フレデリック・ バース(Fredrik Barth)がよく知られた[1969年]民族誌的事例研究集の序論で確立した基盤の上にしっかりと成り立っている」と書いている[12]。バースは『民 族集団と境界』(Ethnic Groups and Boundaries、1969年)の編集者として、民族集団間の境界の継続的な交渉に焦点を当てたエスニシティ研究のアプローチを概説した。バースの見 解は、そのような集団は非連続的な文化的孤立でもなければ、人々が自然に所属する論理的先験的なものでもないというものであった。

バースは、文化は境界のある実体であり、民族性は根源的な絆であるという人類学的な概念とは決別した。彼は、アイデンティティを生み出す集団間の接点と相互作用に焦点を当てた[2]。

彼が編集した『Ethnic Groups and Boundaries(民族集団と境界)』は、民族的アイデンティティの相互関係に焦点を当てている。バースは序文でこう書いている(p.9):

......カテゴライズされた民族の区別は、移動、接触、情報の不在に依存するのではなく、個人の生活史の過程で参加やメンバーシップが変化するにもかかわらず、個別のカテゴリーが維持される排除と取り込みの社会的プロセスを伴う。

彼は、個々のメンバーが境界を越えて移動したり、複数のグループの人々とアイデンティティを共有したりする場合でも、グループによるカテゴリー、すなわち民族的ラベルの使用が通常存続することを強調している。

エスニック・グループの相互依存性は、序章とそれに続く章を通じて極めて重要な論点である。相互依存的な民族的アイデンティティは、継続的ないわゆる帰属 (Cf. Ascriptive inequality)と自己帰属の産物であるとして、バースは社会人類学の相互作用的な視点を、社会構造的なレベルではなく、関係者のレベルで強調して いる。民族的アイデンティティは、包摂と排除の関係過程を通じて形成され、維持されるのである[2]。
Literature
Biographies
Lewis, Herbert S. (2017). « L’anthropologue nomade : Biographie intellectuelle de Frederik Barth », in BEROSE - International Encyclopaedia of the Histories of Anthropology, Paris.
Thomas Hylland Eriksen Fredrik Barth: An intellectual biography University of Chicago Press 2015 ISBN 9780745335360
Selected bibliography
Balinese worlds. Chicago: University of Chicago Press, 1993. ISBN 0-226-03833-5
Cosmologies in the making : a generative approach to cultural variation in inner New Guinea. Cambridge: Cambridge University Press, 1987. ISBN 0-521-34279-1
Sohar, culture and society in an Omani town. Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1983. ISBN 0-8018-2840-6
Ritual and knowledge among the Baktaman of New Guinea. Oslo: Universitetsforlaget, 1975. ISBN 0-300-01816-9
Ethnic groups and boundaries. The social organization of culture difference. Oslo: Universitetsforlaget, 1969. ISBN 978-0-04-572019-4 (Reissued Long Grove, IL: Waveland Press, 1998)
Models of social organization. London, Royal Anthropological Institute, 1966.
Nomads of South-Persia; the Basseri tribe of the Khamseh Confederacy. Oslo: Universitetsforlaget, 1962.
Political leadership among Swat Pathans. London : The Athlone Press, 1959.


https://en.wikipedia.org/wiki/Fredrik_Barth


各章の解説

00. (表題のないイントロダクション)

01. 一般的アプローチ方法

02. エスニック集団の定義

03. 文化を担う単位としてのエスニック集団

04. 組織の型としてのエスニック集団

05. エスニック集団の境界

06. マルチエスニック社会体系

07. アイデンティティと価値観の基準の連関

08. エスニック集団の相互依存

09. 生態的観点

10. 人口的観点

11. アイデンティティ変更の要因

12. 文化的境界の持続性

13. エスニック・アイデンティティと有形財産

14. エスニック集団と成層化

15. 変異の問題

16. 少数集団、パリア(賎民)、および周縁者の 組織的特徴

17. 文化の接触と変化

18. エスニック集団の背景における変異

19. エスニック集団と文化の進化

20. 参照文献


リンク

文献


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Do not copy and paste, but you might [re]think this message for all undergraduate students!!!

tecolote