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民族医療の領有について

An anthropological consideration for appropriating ethnomedical knowledge for modern medicine


池田光穂

民族医療の領有について

先住民社会に存在している薬草や治療技術の総体とし ての民族医療を、グローバルな資本主義の流通形態から解放する。これが本論文の目的である。人類が享 受している医薬品の多くが先住民における利用にもとづくものであったことは自明の事実であるが、今日では歴史上の逸話にとどまり、人類全体が受けてきた便 益に対する償還が検討されることは稀である。この理由を、筆者は近代医療の確立とともに生起した民族医療的知識の独自性と見なされている「非近代医療的性 格」の主張であると考え、この主張が近代医療に付与されている知的財産権の概念を民族医療に付与しなかった根拠になったと考える。民族医療は、土地固有の 知識と実践の体系であるという説明は、薬草が薬局方として成立したり、その有効性が近代医療によって証明されるという近代医療との相互交渉という歴史的証 拠から、立論の限界が生じる。また近代医療は、民族医療の要素を取捨選択しながら領有することで、医療概念を確立してきた経緯ゆえに、近代医療そのものが 民族医療に対して排他的な知的独立性を主張することにも限界が生じる。それゆえに民族医療の知識形態を知的財産として捉える立論の可能性を検討する必要が 生じる。近代医療は民族医療を領有することを通して人類に便益をもたらしてきたという事実を認め、これまでの知的所有権に関する報酬の概念を拡張しつつ、 その償還に関する方法が提案されてきた。人類学諸理論が、これらの実践的問題に対する法的および社会的整備に寄与する可能性は大きい。

キーワード:民族医療、近代医療、医療の領有、知的 所有権、先住民

【クレジット】池田光穂、民族医療の領有について, 『民族学研究』,第67巻3号,Pp.309-325, 2002年12月

目次:

 I はじめに

 II 民族医療とはなにか

 III 近代医療の歴史的構築

 IV 民族医療と近代医療の相互交渉

 V ラテンアメリカにおける事例

 VI 民族医療の再領有化にむけて

 VII 結論

「先住民は、そ の文化的および知的財産権の完全な所有権、管理の権利および保護を承認 される権利を有する。先住民は、ヒトおよび他の遺伝子資源、種子、医 薬品、動植物相の特性に関する知識、口承の伝統、文学、デザインおよびヴィジュアルならびに実演芸術を含めた、その科学、技術および文化表現を管理し、発 展させ、保護するための特別な措置に対する権利を有する」。——『先住民の権利宣言(案)』第29条(国際連合)1)

I はじめに

アメリカ医師会(American Medical Association)は世界で最も早く近代的な医療倫理の要綱をもったことで知られている。1846年、全米医学会議が開催され、その翌年5月の同会 議において、医師会の創設が決まり、同時に倫理要綱が定められた[HAMSTRA 1987]。興味深いことに、この両会議の議事録には、今日の我々には想像がつかないような医療者の倫理上の徳目が記されていた。それは薬物の特許に関す るものであり、アメリカ医師会々員が、効果のある特効薬2)を特許をとって独り占めすることは、一般大衆の利益に反し、他の医師たちが自由に使えることを 妨げると考えたことである。現在、巨大製薬産業は独占するさまざまな特許薬品から莫大な収益を得ており、同時に、ベンチャー企業はその一攫千金を夢見て研 究開発に勤しんでいる。したがってかつて医師会が掲げたような徳目は完全に廃れてしまったように思える。しかしながら、ここで徳目と書いたとおり、幾多の 工業医薬品の特許使用料を尊重することを潔しとした上でも、多くの病める人びとに福音をもらたす医薬品は、なるべく原価に近く、また薬物に対する人びとの アクセスが不平等なものにならないことを希求する人は多いはずだ。実際、HIVの増殖を防ぐ医薬品(AZT)製造に関わるパテント料の支払いをめぐって、 国民の公益性への保護を謳うブラジル政府と、利益を主張する特許保有の製薬会社との間で紛争があったことは記憶に新しい[PAASARELLY and TERTO 2002]。ここで問題となっているのは医療という福利の配分の平等性についてである。

アメリカ医師会創設と同時期の1846年2月28 日、英国の医学雑誌『ランセット』にT.R.H.トムソン医師による「アフリカの間欠熱」(マラリア) の治療に対するキニーネの意義についての論文が掲載された[CURTIN 1961:108]。キニーネはアカネ科キナノキ属(Cinchona)の樹木から採集抽出されるアルカロイドである。キニーネが化学的に抽出されたの は、論文公刊の四半世紀前であり、この間、熱帯地域に赴く白人の探検隊々員にさまざまな形での投与実験が繰り返されていた。キナノキは1850年代以降、 その需要が増大し、ボリビアやペルーから秘密裏に持ち出された種子や苗木がジャワやインド高地のプランテーションで栽培されるようになった。特にジャワで 栽培されたキナノキから抽出されたキニーネは、日本軍によるインドネシア占領まで、アムステルダムで1913年に設立されたキナ庁(Kina- Bureau)による販売カルテルによって市場の大半が独占されていた3)。評価の多寡は別にしても、キニーネが帝国統治のための重要な医薬品であったこ とは歴史家のあいだではひろく認知されている[ヘッドリク 1989:78-86; テイラー 1972:129-145]。

幾多の歴史書にはヨーロッパの化学者や医師の名前が 連なっているが、キナノキの生薬をはるか以前より経験的に使っていたインカの人びとの名前や、ヨー ロッパに持ち込んだイエズス会士の名前は見当たらない。わずかに、植民地の侍医からこの生薬の治療を受けたという偽話における主人公チンチョン (Chincho'n)総督夫人の名がリンネのつけた学名の属名(Cinchona)の中に留めているのみである。この種の著名な天然薬物とそれらの処方 を独自に開発した先住民について知りたいと我々が思うのは当然である。その動機の中には次のようなことが含まれる。さまざまな「民族」が天然薬物に対して 固有の知識体系4)を育んできたと同時に、それらが近代科学との出会いを通して人類全体に対して大いなる福利をもたらした。その貢献に対する我々の敬意 は、もたらした者が誰なのかということを明らかにすることに向かう。ここでの我々の関心は、発見に対する名誉の付与や、技術の発明特許にもとづく優先的独 占権を尊重することにある。

ところで、医療とは患う者と患う者の本復を企図する 個人ないしは集団が関わる技術と信念の総体のことである。患者が不在では医療が成り立たないように、 医療は社会おける奉仕義務のシステム(system of total service)である[MAUSS 1990:5-6]。冒頭にあげた医療倫理とキナノキの発見という2つのエピソードは、このような認識に立つ我々に対して次の2つの実践的課題を派生させ る。まず(1)医薬品や治療技術に対するアクセスが、限られたエージェントを通して管理制限されることなく、なるべく多くの人たちに平等に提供されること を保証できる社会的条件とはいったい何かということである。そして(2)先住民が保有してきたさまざまな医療的知識と実践が、西洋近代社会ひいては人間社 会全体に対して恩恵を与えてきたことを確認し、これまでの人類への貢献(service)に対してその報償(counter-service)を、その継 承者を含む当該の人びと・集団・社会に対して具体的に還元する方策とは何かということだ。

まず、これら2つの課題は一見矛盾するように思われ る。一方ではあらゆるエージェントによる固有の医療の独占を拒絶し、万人に開放されるべきであると主 張し[HOAREAU and DASILVA 1999]、他方では医療全体の発展に貢献してきた先住民への便益の還元を実現させるため、特定の人びとによる民族医療の独占権を保証せよと要求するから である。この相矛盾する2つの事柄を同時に実現させるためには、どのようにすればよいのであろうか。

私は人類の医療的知識と実践がつねに流用可能な形で 保証されているべきだと考える。また、ある医療資源へのアクセスを通して何らかの恩恵を受けた者は、 別の機会には自分たちが持ちうる医療資源を提供し、自分たちが受けた便益を医療のコミュニティに還元されなければならないと考える。私はこれらの問題を医 療の領有(appropriation)という観点から考えてみたい。領有とは、キリスト教会が団体として聖職禄を専有できることを定めた教会法に由来す る。つまりこの語は、奉仕義務(=聖職の実践)行為によって受け取ることができる便益(=財産の可処分権の取得)を保証するという意味から出発している。

今日、ポストコロニアル理論やフェミニズム研究にお いて「領有」には新しい意味が割当られつつある[岡 2000; 林 2001]。私の理解するところでは、この領有とは、文化の複数性を自明の出発点とし、支配的/ヘゲモニックな「文化」と従属的な「文化」が接触する時に 起こる、文化の要素間の利用(=流用)のことを指している。この際、ヘゲモニーの有無によって分断された2つの「文化」の間には、2つの異なった価値観が 付与された「領有」が生じる。一方では、支配的な文化が従属的文化の要素を吸収、活用するが、そこではある種の権力過程を経て文化要素が「専有/領有」さ れる。他方、その逆の場合は公的権力によって承認されない非合法の「我有/盗用」という事態が生起する。つまり領有は文化の政治における「権力への従属」 ないしは「権力の奪還」の諸表象として分析できるのである。

本論文は、近代医療概念の検討ならびに知的所有権の グローバルな流通現象から、これまで民族医療に付与されてきた「土地固有の知識と実践の体系」という 従来の概念を批判する。また他方で(これとは逆に)、個々の民族医療における固有の知的所有権の存在を認め、かつ先進諸国の企業が主張する工業的特許権と 法的に同等なものとして認めることを主張する。民族医療は近代医療によって領有されたが、民族医療の提供者(=先住民)は多国籍医療産業から、その固有の 知的所有権を根拠として、その領有に対して経済的な補償を求める権利を有する。このような拮抗する2つの価値基準を討議し、調停する場としての互酬性のグ ローバルなネットワークの可能性と、それへの参入を可能にする社会的条件を考察する。

II 民族医療とはなにか

医療人類学において先住民による病気の把握と治癒の ための実践は、これまで主に民族医療(ethnomedicine)という下位領域において研究され てきた。そこで、民族医療というものが、何であり、どのようなものとして定義されてきたのかについて検討しておく必要がある。

はじめに民族医療の学問的位置づけが1960年代後 半から70年代にかけての北米における医療人類学の確立の以前と以降では異なることに留意しなければ ならない。つまりそれ以前の研究では、民族医療とは現地の病気や治療についての実践の複合形態の名称として「医療」が使われていたのであり、この「医療」 は西洋医療における具体的な対応物を持たなくても医療概念構築上の危機はもたらされなかった。しかし医療人類学の登場以降、人類学者は民族医療を、西洋医 療とある種の対応関係をもちつつ、かつ固有で自律的な体系として取り扱うようになった。そのため、民族医療は効く/効かない(=近代医療的に意味がある/ ない)、さらには、民族医療は西洋医療の改善に与する/与さない等の多くの議論が、医療人類学の確立以降におこなわれるようになった[FOSTER and ANDERSON 1978:123-125; FOSTER 1994]。2つの医療体系は、それぞれ自律性をもちながら、構成要素において対比できるという信念が、医療人類学研究の発展の背景にある。

だが現実は理想を裏切る。民族医療を知識と技術の体 系であると理解し、いくつかの要素に分解してみると、民族医療はかならずしも土地固有のものではな く、時間的空間的広がりをもったものであることがわかる。民族医療という知識形態は、近代医療に劣らず論理的であり、さまざまな角度から分析が期待され る。逆にそのスタイルが普遍的であるはずの近代医療は、現地の人びとによって多義的解釈が与えられたり、諸要素の取捨選択がおこなわれる。ローカルなコン テキストにおける近代医療の受容の問題を考えるには、現地の人びとの固有の価値観ひいてはコスモロジーを抜きに議論することが不可欠であるという主張が登 場する[池田 2001:260-278]。この種の心証と現実の齟齬の原因は、医療を近代医療とそうでない民族医療——後者はしばしば非西洋医療(non- Western medicine)[池田 1995]とも呼ばれる——を対照的に描いてきたことにある。

非西洋医療を定義する研究の多くは、その医療の特性 として、近代医療(=西洋医療)に欠けている要素を過度に強調してきた。民族医療における病気観の理 論的考察の嚆矢は、リヴァーズの「未開医療」に関する1914年と15年の講義やクレメンツの病因論体系の列挙などに遡れる[CLEMENTS 1932; RIVERS 1924]。この理論的系譜はクレメンツ以降、フォスターによる「ナチュラリスティック/パーソナリスティック」という二分法とその社会形態との関連性へ の指摘[FOSTER 1976]に至り、最終的にマードックによる世界的な分布パターンの解析へと展開を遂げる。マードックは自らが創設した人間関係地域ファイル(Human Relations Area Files, HRAF)を駆使して、さまざまな民族集団の疾病観と社会を構成するタイプ(地域、理想とする環境、生業、妖術、霊的な攻撃、性、罪の概念など)との関連 性について統計的分析をおこなった[MURDOCK 1980]。だが、それらの「一般的傾向」の発見は、医療と社会の関係を問う省察全体に対して、大きな影響を与えることはなかった。他方、病因論を社会的 コンテキストから位置づける社会人類学的系譜がもう一方の極にあった。これはエヴァンズ=プリチャードの1937年の先駆的研究を嚆矢とするが、その意義 は社会哲学者がコンテクストに対して敬意を取り戻すようになる1970年代の合理性に関する論争が開始されるまでは閑却されたままでいた[エヴァンズ=プ リチャード 2001;ウィンチ 1977;グッド 2001:17-24]。

分析される対象の人たちが使っている用語や概念範疇 から研究者がある程度自由になり、その「外部」から独自の解釈を与えようとする1897年のデュル ケーム『自殺論』[1985]の系譜上に位置付けられる議論は、エヴァンズ=プリチャードの研究成果を踏まえた業績、つまり1970年のダグラス『象徴と しての身体』(原題:ナチュラル・シンボル)[1983]の公刊を待たなくてはならなかった。しかし、ダグラスが同書で展開したグリッド(他者と関連づけ る自己の強さの度合い)とグループ(境界をもった社会単位の経験の度合い)で構成される四象限分類と、社会統制としての妖術が重要な意味をもつか 否とい う、人間の行動原理とコスモロジー(宇宙観)との対応関係についての主張は、未だに論争的性格から脱しきれていない。


III 近代医療の歴史的構築

前節では近代医療が実証主義や自然科学に基づく実験 主義によって定義されるようには、民族医療はその内容について本質的な定義を与えることができなかっ たという、これまでの学説上の特徴を述べた。にもかかわらず、このことは研究者の間でさして大きな疑念と困惑が生じることはなかったようだ。ヌアー人の霊 概念といわれるクウォスをめぐるエヴァンズ=プリチャードの議論[エヴァンズ=プリチャード 1982]と同様、コンテクストから上空飛行し正確な概念の定義を与えられぬとも、民族誌の中ではそれらしきものを把握し、それを人々の生活と関連づけて 説明することに我々はさほど困難を感じない。しかしながら私はここで、民族医療という概念構築に際して外部から与えられる意味作用についてより強く意識し たい。この意味作用とは、近代医療によるそれである。

民族医療概念の考察のためになぜ近代医療が検討され なければならないのか。それは、民族医療は、近代医療が導入される時やその用語の翻訳のプロセスの中 で意識的に境界づけられてきた性格をもつからである[池田 1995; 2001:66-68]。ここで近代医療の用語と概念が現地語に翻訳される過程を考えてみよう。外来の医療が翻訳される以前や以後にも、我々の言う「医 療」についての名称や分類範疇が社会に準備されている。西洋で中心的に発達してきた近代医療が、それまで存在していなかった社会に導入されると、外来語で それを示したり、翻訳語が比較的短期間でできあがっている[白川 2001]。近代医療は、いろいろな社会への導入直後には文化的衝突を引き起こすことが あるものの、当該社会に全く受容されないことは極めて稀なこととなった。つまり、近代医療は多くの人たちにとって病気を治療する技術あるいは実践体系とし て認知されてゆき、またその事実が翻って、人びとが自分たちの民族医療を考える際のプロトタイプ・モデルとなっていった可能性がある[池田  2002a]。

近代医療の定義を歴史的起源に求めることは難しい。 近代医療の出発点と主張される医学上の発見や理論から、今日近代医療の始祖と呼ばれている医療の実践 家や学者を挙げてみると、16世紀初頭から20世紀にかけておよそ4世紀にわたる時間的幅がある。近代医療のある特定の出発時点を定めることそれ自体には 大いなる意義はない5)。

「近代」の用語概念をめぐるさまざまな問題探究 [WILLIAMS 1985:208-209]に似て、近代医療の定義についての問いは、近代を命名をした当事者たちがどのように近代を考えていたかという問いと深く関係し ている。米国ミシガン州バトルクリークにあるサナトリウム病院において"Modern Medicine and Bacteriological World"誌が1893年に発刊される。細菌学は、当時の最も強力な学問的パラダイムであった[キング 1989:244]。この雑誌は翌年に"World"が"Review"に変更された後、1900年に細菌学の名前が消え"Modern Medicine"と改名される。モダンメディシンを冠した雑誌は1943年に"Modern Medicine Annual"——15年後に"Review of Modern Medicine"と改名——になるまで現れない。英文の書物において事情はどうであろうか。バトルクリークでの近代医療の名を冠した医学雑誌が発刊され る1年前の1892年に、カナダ生まれの医師ウィリアム・オスラー(WILLIAM OSLER)は、彼が亡くなるまでに8刷を数える当時の標準的医学教科書 "Principles and Practice of Medicine"の初版を出版した。しかし、その医療の名称にはモダンという形容詞は修飾されていない。彼は1905年にオックスフォード大学医学欽定 講座の担当教授に任命される。その3年後には "Modern Medicine: It's Theory and Practice"という書物をフィラデルフィアで出版している。当時の医学界の最高権威のひとりによってモダンメディシンと冠された書物が初めて刊行さ れたわけである。彼は1913年4月に今度はアメリカのシリマン医学研究財団が主催するイェール大学での自分の連続講演のタイトルを「モダンメディシンの 進化」とした。この講演は、彼の死後2年経って、オックスフォードとイェールの両大学から出版される。この頃にはすでにモダンメディシンの名称は英語圏の 医学界において完全に市民権を獲得していた。これ以降、様々な著者によるモダンメディシンを冠する本が陸続と出版される。例えば1916年には「一般医の ための実践的ノート」という副題のついた"Modern Medicine and Some Modern Remedies"がロンドンで発刊される。その2年後の1918年に初版が出て41年まで第9版を数える総903ページにおよぶ基礎医学のテキスト "Physiology and Biochemistry in Modern Medicine"が米国セントルイスで公刊される。この教科書のタイトルが生理学であり生化学であることは、モダンメディシンを構成する主要パラダイム が、先のバトルクリークで発刊された雑誌における細菌学からこれらの分野へ推移したことを示唆している[キング 1989:248]。

つまりモダンメディシンという用語の登場からもっと も権威ある筋によって、それが中心的用語として採用されるようになるのは、19世紀が終わる数年間か ら20世紀最初の10年間であるとみてよい。英語の用法にみるモダンメディシンのあり方の推移をみて興味深いことは、一度現在形の用語法として確立した直 後におこるのは、モダンメディシンがどのような来歴をもつのかについての検討[シュライオック 1973]、さらには、モダンメディシン以外のメディシン(医療)、とくに未開医療や民俗医療についての位置づけや解釈[SIGERIST 1951]が、まさに同時代的状況の中で登場することである。

このような認識の変遷を通して、モダンメディシンは 近代社会において我々と同時代性を共有する正統的ないしは公的医療の地位を獲得したのではないだろう か。そして近代医療は同時に、その医療の進化や発展を保証するための2つの異質な部分を案出することになる。その異質な2つの部分とは、ひとつは同時代性 を拒絶する発展の途中で、もはや時代遅れとなり結果的に放棄せざるを得なくなった過去の部分(古代医療・中世医療)であり、他のひとつは進化主義的に古代 医療と繋がりをもつ未開医療すなわち民族医療である。そしてこれらの双方の領域は当初、生まれつつあった医学史・医療史の研究領域が取り扱い、やがて後者 は専門の民族学や人類学の研究者によって研究されるようになる。民族医療研究は、かつて医学史研究がこの研究対象に付与していた、我々とは異質の時間系列 の中に他者を留め置くという「異種的時間言説」(allochronic discourse)をそのまま受け継ぐことになった[FABIAN 1983:143]。

IV 民族医療と近代医療の相互交渉

しかしながら近代医療の概念同様、民族医療もその比 較対照の視点を提示する同時代の産物である。つまり民族医療も客体化され、操作される対象として構築 されたという性格をもつ。ヨーロッパの歴史において医師がおこなう医療行為を国家が主導しつつ管理する制度はフランス革命期において形成された[阪上  1997]。そこでは人間行動の本質を把握することができるのは哲学者の思弁ではなく、医師や官僚など実務派知識人による実証的なデータの積み重ねによっ てであるとされた。当時の西ヨーロッパでは民族医療の系列に入る実践や知識は、正統医療からは逸脱としてみなされ、専門職集団から烈しい道徳的非難の対象 となった[ポーター 1993]。ところが医学史研究の細部に目を凝らしてみると、民族医療的性格を有する治療実践や信条は近代医療から常に拒絶されてき たというわけではない。例えば2世紀のガレノス以来の四体液にもとづく「体質」の議論は、1772年の『百科全書』刊行の時代においては、もはや関心が失 われたものの1つであったが、18世紀後半における公衆衛生政策——環境主義——が重要視されるようになると、再び体質は人間と環境を取り結ぶ要素として 脚光を浴びるようになる[阪上 1997:30-31]。

日本では1874(明治7)年の国家が西洋医療を採 用すること定めた「医制」が公布され、これが漢方医療にとり致命的打撃であるかのように主張されてき た[石原 1963]。しかし、実際には漢方医療の復権運動はおよそ20年間にわたって繰り広げられ、公的医療として漢方医療を採用する案が国会で否決された後も、 漢方医は通常通り治療をおこなっていた。医制公布時には国内で活動していた医師約2万3000人のうち漢方医は6割以上に及んでいた[中山 1967:360]。明治維新以降に西洋医療が新規に導入されたという主張も正確ではない。開国以前からオランダ経由で伝わっていた西洋医療は、漢方医療 の影響を受けながら土着化し南蛮流という名称で医療の流派として確立し、18世紀後半には医学テキストの翻訳を通して蘭学塾において盛んに教育伝授されて いた。蘭方医たちの一部は藩医となり後に医学校の創設に関わったり、地域での医療活動に従事し、また海外からもたらされた牛痘種法の普及に貢献した。蘭方 医は漢方医ともども医制による免許制度で生まれた近代医療の医師たちが誕生するまでは、実質的に日本の農村における医療を担っていた[田崎 1985]。 医制によって価値下落され1895(明治28)年の議会請願運動による復古活動が失敗に終わった漢方医療も昭和初期のナショナリズムの昂揚の中で湯本求真 や石原保秀らによって皇漢医学という一種の大衆的保健運動の一翼を担うようになる6)。

植民地統治下のインドでは、先に述べたような体質と 環境の関係を重視する「環境主義的パラダイム」[脇村 2002:202]の19世紀初頭の隆盛にと もなって、医療政策の中にインドの伝統医療のひとつであるアーユルベーダの要素が取り込まれ、公的機関での教育も試みられた。しかしながらヨーロッパ大陸 における19世紀後半の細菌学や寄生虫学の発展が、やがて伝統医療を軽視するかたちで結びつく。このような近代医療の優勢に対して、土着の伝統医療の復権 を試みた者は植民地行政府の役人ではなく、在野のナショナリスト的知識人である。第一次大戦後のインドでは行政機能の地方分権化が進み、この種の知識人た ちによって伝統医療アーユルベーダが採用され、その復興が実現した[脇村 2002:212-213; KUMER 1997:180-183]。

18世紀後半から20世紀初頭の近代化を続けるヨー ロッパ、日本、インドという異なった地域において、医療における近代化は伝統的な要素をつねに抑圧す るとは限らないことがわかった。むしろ、近代国家制度のもとでは民族医療的要素は時に採用されるべき検討対象になり、品質保証が確認されたり、公的な医療 として認証されたとも言える。つまりナショナル・アイデンティティ形成期の近代化を遂げる行政府が民族医療を領有するという事態がおこったのである。現代 のインドや中国では、伝統医療は西洋近代医療と同等の地位が与えられて、医療従事者の教育・訓練・再生産に携わる組織は独自の裁量権をもち専門職による自 律的な組織運営を行っている。これらの組織は独自の大学や研究機関をもつばかりでなく外部の研究機関と連携し、生物医療パラダイムによる伝統医療を科学的 に正統化するための研究をおこなっている。

もちろん、伝統医療と西洋医療の境界面がいつもス ムースに節合するとは限らない。現代韓国における中国由来の伝統医療(Hanbang 漢方)は日本の漢方医療と同様大衆に人気の高いものであり、製薬産業界からの働きかけがあり、1993年に韓国の薬事法が改正されて薬草による処方が公的 に認められた。しかしながら、この改正直後から伝統医(hanuisa 漢医者)たちは近代医療の薬剤師たちが伝統医療に通じていないことを批判するようになった。伝統医たちは、さらに伝統医療そのものを国家が提供する医療 サービスとして制度化すべきであるとまで主張した[CHO 2000]。このような事態は、現代韓国において近代医薬品が供給過剰にあり、伝統医療に対する国民の高い人気を背景に、市場に再び参入を開始した伝統医 療が近代医療に対して経済的ヘゲモニーを奪取しようとしている状況を示していると思われる。

国家諸制度が整備される過程において近代医療が採用 されるようになる際には、薬草やシャーマニズム等の治療技術に代表される非西洋医療は場合によっては 排除の対象になることがある。しかしながら、多くの事例ではそのようになる状況はあくまでも一過性のものであり、むしろ土着主義やナショナリズムの昂揚な どを通して、公的制度の一端を担うようになるというのがより一般的だ。つまり民族医療は公的制度として領有されてゆくのである。

V ラテンアメリカにおける事例

さてここで視点を新大陸、とくに現在ラテンアメリカ と呼ばれている地域に移して、医療をめぐる領有の歴史を概観してみよう。この地域は医療の領有をめぐ る議論において次のような特長をもつ。まず15世紀末にはじまるヨーロッパの侵攻と植民地化以前には、両大陸間には実質的な接触がなかったということ。ま た18世紀、ヨーロッパの諸帝国の覇権構造の変化ならびにアメリカ独立戦争やフランス革命に代表される個別の政治的変化の影響を受けて先住民性を排除ある いは忘却する形で国民国家文化を確立したことである。

新大陸の発見以降の15世紀末から16世紀の征服期 に、先住民医療の知識ならびにその実践は急激に崩壊、失われていったと推定されている。その理由は征 服者たちが持ち込んだ疫病の流行、それに引き続く人口の急激な減少、および征服にともなう社会の政治的経済的混乱である。新大陸の先住民が征服期以前に具 体的にどのような医療を行っていたかは断片的にしか分からない。数多くの修道士、医師、薬種商7)らによる16世紀から17世紀にかけての薬草等の記載 は、その知識体系のほんの一部にすぎないといわれている。彼らが土着の薬用植物に関心をもった理由の1つは、ヨーロッパ向けの市場開拓のためであると考え られる。修道士たちは入植以降つねに先住民の薬用植物の利用に関する記録を続けており、また採集された薬草は大西洋間の交易を通して実際に収益をあげてい た。

しかしながらヨーロッパ由来の本草学は、現地で採集 してゆく過程で、新大陸の民族医療における土着概念をそのまま受け入れたのではない。ヨーロッパの知 的伝統に依拠しながら、民族医療を構成する要素は取捨選択されていった。例えば現地社会での植物の分類において男性/女性という二項対立で説明されていた ものが、ヨーロッパの本草学由来の熱い/冷たいの分類秩序に読み替えられるといったものである[OLAYA FONSTAD 1996:563; LO'PEZ AUSTIN 1980]。

大西洋を挟んだ両大陸間の農作物や疾病などの相互浸 透現象はたんに事物の流通のみならず、社会制度の改変、人口構造の変化など環境改変をも含めた変革を もたらした。このシステム的変革をさして、クロスビーは「コロンブスの交換」と名付けたが、薬用植物においても両大陸間においてこの種の交換があった [CROSBY 1972;池田 2000]。16世紀以降のヨーロッパへの新大陸起源の薬用植物の導入がもたらした影響のひとつにヨーロッパ都市の各地での薬局方 (pharmacopoeia)の確立と整備がある。薬局方とは、1498年のイタリアの Ricettorio を嚆矢とする、薬としてみなされている薬草や鉱物を中心とする天然物の種類と投与量を規格化した処方(製品としての配合法)のことである。当時、薬局方は ヨーロッパの都市の薬種商のギルド単位で決められていた。新大陸においては、アジア、ヨーロッパ、アフリカの薬草が持ち込まれ、各地で同様に薬局方が導入 されるようになる。新大陸における修道士による民族医療の記述は、ヨーロッパの薬局方のやり方に準拠しつつ、伝統的な知識に依拠しながらも、呪術的宗教的 要素に関しては異端審問[CHINCHILLA AGUILAR 1999:236-240]を通してそれらを除外し、独自の薬局方を確立してゆくようになった。ヨーロッパにおける薬局方は業務の独占を目的とするものと して確立されていったが、新大陸においては薬草のもともとの情報が先住民文化に依存するために、先住民のもつ知的情報がヨーロッパ的に再編成されるという 結果を生んだ。

新大陸起源の薬草ならびにその抽出物はヨーロッパに さまざまな社会的影響力をもたらした。たとえばバルサムトルー(Myroxylon balsamun)の樹脂から作られたペルー香油は、外傷、皮膚感染の薬として利用された。またこの樹脂は、ローマカトリック教会における焼香の材料とし て広く使われた。香油をとる樹木は後にエルサルバドルの太平洋岸で商品植物として栽培され、1930年代の抗生物質の誕生まで、殺菌性をもった薬品として 広く流通した。またコンドデンドロン属(Chondodendron)の蔓植物やフジウツギ科の高木などから抽出されるクラーレと呼ばれるアルカロイドは 狩猟用の植物毒として、アマゾン河やオリノコ河の上流の先住民の間で使われていた。クラーレには骨格筋を弛緩させる作用があり、今日においても医薬品とし て広く使われている。新大陸起源の植物のうち帝国の支配のための重要な「道具」とも言われた抗マラリア薬のキナノキ(cinchona)の世界的流通の経 緯については冒頭で触れたとおりである。この種の植物についての記述は枚挙にいとまがない[OLAYA FONSTAD 1996;テイラー 1972]。

VI 民族医療の再領有化にむけて

ここまでの私の議論をまとめると次のようになる。近 代医療は、19世紀から20世紀初頭にかけて、その基本的合意が形成されてきた同時代性をもつ医学体 系のことである。近代医療概念に与えられた性格は普遍的であるとされた。他方、民族医療は近代医療概念が現時点では持ち得ない属性をもつ体系のことであ る。だが実際には近代医療と民族医療はさまざまな相互交渉の歴史を持っている。特に民族医療が領有する天然薬物に関する利用法や知識体系は、近代医療の発 展に大いに貢献してきた。したがって近代医療の知的資源の領有における排他的独自性という特徴は、たんに内的で固有な発展の結果によるものではなく、体系 の外部(=民族医療)からさまざまな要素を吸収(=部分的に領有)しながらも、事後的にそれらの要素を固有なものとして普遍化してしまった結果にほかなら ない。この特徴は、近代国家成立期にみられる文化的現象[ホブズボウムとレンジャー 1992]に類似して、伝統(民族)的要素が整理強調され、それ以前 から正統性を保ってきたように作り変えられる点にある。

以上のような解釈から我々は何を学ぶのだろうか。ま ず近代国家が領有する伝統や(民族医療の)土着性の概念の歴史的構築について理解することがまず第1 点。次に、このような理解を何らかの実践的活動に接続することが第2点である。私がここで提案したいのは、民族医療を知的所有権(無体財産権)の観点か ら、ある特定の個人や集団がその領有権を主張できる情報的実体とすることである。そこでは、民族医療を情報的実体として主張することに伴うさまざまな批判 が想定される。たとえば、今日知的所有権を主張するには、近代法における法的主体の概念の確立が不可欠である。しかし開発途上国における知的所有権保護の 現状を鑑みても、現地社会でこの概念を適用する際の困難さに出会う。人類学者が研究する社会に知的所有権を認める際に我々は次の3つの困難さに直面する。 (1)知的所有権を生み出す文化は、要素の相互作用を含む動態的なものであり静態的な実体として捉えられない、(2)生物資源に関する文化の保全は次世代 の人々に対してもその福利を保障する必要がある、(3)知的所有に関する互酬原則は金銭的なものだけではなく知的なものである[STRATHERN 1999:202]。あるいは、先住民社会が知的所有権を主張できるという発想は発展途上国への西洋の開発言説における現地の人びとを主体化する発想と軌 を一にするという批判がでるかもしれない8)。人格的主体に帰せられる所有権というものが西洋的起源をもつものであり、とりわけキリスト教が社会的な所有 概念を撤廃したという見解も成り立つ[バタイユ 1973:278]。だが、歴史的構築物としての近代医療の諸制度において知的所有権の権利主張がこれまで可能であったならば、民族医療においてもその権 利を法的に主張する十分な余地はある。なぜなら今日の先進国による知的所有権の保護主張は、開発途上国を含む全世界の市場における経済的優位性の確立を目 的としたものであることが明白だからである。実際、民族医療の知的所有権をめぐるこれまでの人類学的議論は、先住民あるいは一般の人びとの権利主体の法的 確立を論証することよりも、知的所有権概念の相対化と歴史的構築に関する知識の流布であり、また国際社会における権利主体として先住民が表明することへの 擁護にあったからだ[POSEY and DUTFIELD 1996]。

無体財産権に関わる国際的協約の起源とその確立は、 工業所有権保護に関するパリ条約(1883年)や著作権に関するベルヌ条約(1886年)を経てガッ ト(関税および貿易に関する一般協定、1948年発効)に遡れる。そして1986年9月のウルグアイ・ラウンドにおける決定を基にした1995年のWTO (世界貿易機関)の設立で、それはひとつの転機を迎える。WTO設立の以前と以後では、無体財産権の性格づけが根本的に異なることになる。具体的には、そ れまでの著作者の権利保護という公共性重視という姿勢から、1980年代半ば以降米国を中心とした先進国は国際貿易におけるあらゆる知的情報を無体財産権 の名目で保護し、国際市場での企業の経済活動を優位に展開するための経済的排他的独占保護への原理へと転換したのだ[斎藤 1998:185-6]。ここ で無体財産権を主張できるものとしては、コンピュータソフトウェアや医薬品などのさまざまな工業品の製造法に関する特許などがその中心にあり、1980年 代後半からはそれらに生物の遺伝情報が加わった。それゆえ1967年に設立され1974年に国連の専門機関となったWIPO(世界知的所有権機関)がもつ 無体財産権に関する国際調整機能は次第に無力化されてゆく。やがてウルグアイ・ラウンドでは知的所有権を含む無体財産権についての国際的な協議はガットで 取り扱うことになり、さらに1995年発足当時のWTOが提唱したTRIPs(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)への協議をおこなうWTOそのも のに無体財産権の国際的議論の主導権が移った。この理由は、ソフトウェアの違法コピーに代表される、いっこうに改善されない途上国における無体財産権軽視 の傾向に歯止めをかけるためであると言われている。つまり無体財産権自体の保護よりも、そこから生み出される経済的インパクトをどのように制御するかに力 点が置かれているのである[DUTFIELD 2001; 斎藤 1998]。

しかしながらTRIPsが先進国の思惑どおりになら ないのは、1993年発効の生物多様性条約(CBD)の中での「天然資源の原産国主権」や先住民の伝 統的知識の権利の尊重という国際社会の動きがもう一方で登場してきたからである[IUCN 1999]。だが生物資源の国家管理に関しては、その支配権をめぐって多様な解釈がうまれているのが現状である。国家には国内の企業の経済活動を優先する 立場と、同時に内的な資源を保有管理し、公益性を守ろうとする相矛盾する立場がある。さらにWTOをはじめとする国際社会からくる圧力が加わり、三つども えの争いの様相を呈す。ここでは、生物の遺伝情報を含む天然資源を広域的に採取しようとする先進国ないしは多国籍企業と、国内にある資源の管理主権を主張 する途上国の対立が鮮明である。その陰に隠れて先住民の権利問題は常に後回しにされているのが現状だ。

生物多様性の国家管理という方向性とは逆に、生活に 根ざした形で存在する生物多様性とそれらを支えている人びとへの利益還元を考える動きがある。それは 生物多様性の保全に貢献している先住民の知識や生活の営為を国際社会の中で公正に評価し、具体的に人びとに利益を還元させることである。インドにおいて NPO活動にかかわりながら農民の技術創造性についての研究をおこなうアニル・グプタは、伝統的 知識や技術創造性に対して、商業的利用で生じた利益の還元 の具体的方法を提唱する[GUPTA n.d.]9)。この方法のユニークな点は、還元への対象を特定の名指しができる個人と、専門職集団や共同体などのように特定の個人として名指しのできな いものに分け、還元される事物を貨幣を含む物質と、学位や社会的名誉などの非物質に分類し、それらの組合せに応じた利益還元を考えていることである[斎藤  1998:193-195]。地球全体の生物多様性の保全に貢献してきた農民や先住民へのこのような利益還元の方法の提案は、それを正当化させる人間集 団への新たな法的権利の構築と深く関わり、さまざまな地域で多様な権利の画定作業が試みられている現象のひとつである。

先住民がイニシアチブをもつ民族医療に関する知識と 実践には、情報の非公開性、適用範囲の不確実性、貨幣価値に還元できない診療報酬などの特徴が伴う。 民族医療のこれらの一連の特徴はすでに指摘してきたように実際近代医療が排除してきた理論属性にほかならない。したがって、グプタの方法が民族医療の知的 所有権に関する利益の還元の図式にただちに結びつくとは思われない。しかしながらこの種の提案が示唆する社会的意義とは、民族医療を近代医療から落ち零れ た逸脱としてではなく、近代医療と全く同じシステムとして捉えるという見方を提唱したことにある。つまり民族医療を領有することが自然で可能なものとして 想定されていることである。だが近代医療が民族医療を包摂してゆく過程を通して、近代医療の運営の形態と特徴がこれまでとは違ったものになってゆく可能性 も想定される。しかしながら、これが仮に現実に可能なものになってもまた、近代医療が現在抱えている社会問題を民族医療の領域に持ち込む危険性も新たに生 まれるかもしれない。たとえば、医療資源が社会階層やジェンダーの違いに対して不平等に配分されたり、民族医療の個別の領域が専門職分化をとげてサービス の独占がおこるといった事態である[DOYAL 1995]。

VII 結論

近代医療が民族医療を包摂しつつその運営形態を変え てゆくとはどのようなことを指すのだろうか。その手がかりをバイオプロスペクター (bioprospector)と呼ばれるバイオテクノロジー企業あるいは製薬産業から雇われた研究者による天然資源のサンプル採集活動と、それに対する 先住民や連携する組織による抗議運動の中に求めてみよう[BELEJACK 2002]。これらの企業活動に対する批判をまとめてみると、それらは決して生物資源の探査(bioprospecting)ではなく、先住民が維持し続 けてきた生物多様性の保全とそれらから得ている知的財産(=生物資源)に対する生物的海賊行為(biopiracy)である、というものだ[SHIVA 1997; シヴァ 1997:267-273]。この状況において人類学者が果たす役割は極めて両義的である。人類学者は歴史的にみて、民族医療をはじめとする生物多様性に 関する財産目録を整備しつづけてきた。人類学者の中には自分の仕事や過去の民族誌文献を現地語に翻訳したり、少しずつではあるが得られた情報を現地社会に 還元しようとする者がいる。逆に他方で、国家や多国籍企業が絡んだプロジェクトでは、人類学者の過去の活動は帝国主義的搾取の一つであり、人類学者の現地 人向けの発言は多国籍企業側による先住民への搾取の事実を隠蔽すると告発される10)。

人類学者は現地人の味方か、はたまた帝国主義の先兵 か、というこの種の二分法的議論は1960年代後半にさかんにおこなわれた人類学批判の構図とそれほ どかけ離れていない[GOUGH 1968; NADER 1969]。さらに、この問題への処方箋も長年議論されてきた。人類学者は、その学問が啓蒙主義のよき伝統の延長上にあると弁解するか、植民者的メンタリ ティを自己批判して人民の側につくと宣言した。前者は人類学理論を道具化し、その誤用を防ぎ、よき活用への提案を行うこと。後者は学問の構造的批判を済ま せて机に戻るか、学問を止めてしまうかである。民族医療を含む生物多様性の保全における先住民の知的所有権をめぐる論争に巻き込まれる人類学者も、これと 同じ運命をたどるのだろうか。私は別の道を模索したい。

人類学批判の構図は同じだが、我々が直面している現 象は、政治的な支配と被支配といった問題構成ではない。むしろ医療や知識の領有とその法的権原をめぐ る論争であり、そこから生み出される利益による経済的な支配と被支配が懸念されているのである。ここで知識が領有されること自体が問題視されているわけで はない。知識が富を生み、その富が独占され続けることが不道徳であると先住民(および支援団体)は告発しているのである。得られた富は生み出された源に返 さなければならない。製薬企業が先住民から知識を得、それが富を生むのだから、その富を先住民に還元するのは当たり前である。富を独占するのは不道徳であ り、適切な方法で社会のなかで富(=財)を循環させなければならない。それが社会の法則であり贈与に関する社会理論は我々にそのように教えている[モース [MAUSS] 1973[1990]; 今村 2000]。

このような倫理観は、人びとを救う医薬品の知識を秘 匿したままにおくのは不道徳であると非難していた冒頭のアメリカ医師会の倫理綱領と通底する。そうで あるなら、ではどのように是正策、より具体的には利益の返還手続きを構築すべきだろうか。もちろんそのために、我々の時代精神の中に「贈与の霊」を召喚す る必要はないように思われる[サーリンズ 1984]。むしろ逆にWTOが地球の隅々にまで徹底させようとしている知的所有権の概念をさらに拡張させれば よいというのがここでの主張のポイントである[BOYLE 1996]。歴史上の先住民の知識が人類社会にもたらした貢献を貨幣価値に換算して、利益に預かった人びとから、知識提供した先住民とその末裔に対して利 益を還元すべきことを最初の候補として私は提案する11)。人類学がこれまで蓄積してきた知識は、それに具体的な情報をもたらし、国際社会が先住民に支払 う長年の債務の大きさを実感させるだろう。もし先進開発国が先住民に対して過大な債務を負っていると認識するのなら、彼らが住む先進国の内的な後進地域や 開発途上国に背負わされている債権など全く問題ではない。そこでは我々の常識とは裏腹に、債務返済のモラトリアムや帳消しを求める者とは途上国の人びとで はなく、今まで民族医療の派生物から恩恵を受けてきた先進国の人びとや多国籍製薬企業に他ならない。それは現在までの植民地における収奪の歴史[ガレアー ノ 1986]から見れば、自明の処方箋とも言えるべきものである。多くの先進国の人びとにとって、この提案が到底受け入れられないものであるならば、私はそ の代替案として知的所有権の過度の適用に歯止めをかけ、それらを相殺する国際社会と先住民の間に互酬制の社会原理を復活=創造させるべきであると考える。 知的所有とそれから派生する富は互酬制の中に組み込まれてきたと理解されてきたし、それが「本来の社会」の姿だと想像されてきたものだ。本論のIII節、 IV節、V節で述べてきた歴史的検証は人類学的考察のための重要なツールになるだろう。我々が社会性を維持し共存してゆくためには、我々がこれまで受けて きたものの中に「完全に無償の贈与というものは存在しない」[DOUGLAS 1990:ix]12)ということの社会的意味を人類学者は今一度想起する時に来ているようだ。

脚注

1)英文名は UN Draft Declaration on the Rights of Indigenous Peoplesである[POSEY and DUTFIELD 1996:181-198]。原文は国際連合(URL, http://www.un.org/)にリンクするページの他に、先住民を支援するさまざまなNGO組織がコンピュータファイルの書式で無償提供してい る。[-->> Declaration on the Rights of Indigenous Peoples, 2007, by Wikipedia]

2)ここでいう特効薬の特許とは、現在の発明特許や 医薬品特許とは異なり、特効薬と称して特定の医薬品の販売と処方を独占することをさす。アメリカ医師会 が主張する特効薬の特許を排するとは、医師が患者を診る業務の独占を前提にして、医師の間の競争が特定の個人に独占されている特効薬によって妨げられては ならないと主張するものである。この時期に遡る半世紀はヨーロッパも米国も無免許療法と特許薬が席巻していた[シュライオック 1974:210; ポーター 1993]。

3)米国の法務当局は、オランダによるキニーネの専 売と市場独占を反トラストの精神に反することを理由に、1928年にニューヨークの商社が販売していた キニーネを差し押さえ、2人のオランダ人を拘束している。法務当局の措置を擁護するかのように、米国の医療政策担当者の中にはマラリアに唯一効果をもつキ ニーネの独占は人類に対する犯罪行為であるという認識があったという[テイラー 1972:109-111]。このようなモラリティの構築は現在の我々にとっても何ら不自然なものではない。

4)熱帯地域における動植物の観察ならびに採集、種 の同定や新種の発見は、最初はアマチュアならびに専門の博物学者ないしはコレクター——植物の場合はプ ラントハンター——によって成し遂げられた[ROYS 1931]。「未開民および原住民による植物利用の研究」であるethnobotany(民族植物学)という名称はすでに1895年に登場している [ALCORN 1984:2]。コレクターたちの活動は、未踏の現地に入り、現地の人たちから直接情報を得て、サンプルを収集するという人類学者さながらの実践から構成 されていた[キングドン−ウォード 1999]。これらの活動は、本国における生物科学のみならず園芸、育種学、薬学などに貢献することになったことは言うまでもない。以上のことは天然資源 のモニタリングとそこに住む人びとの生活知識とは極めて密接な関係を示唆するものである。

5)川喜田愛郎は1628年のウィリアム・ハーヴェ イの血液循環に関する書物の公刊を「近代医学の進水式」と呼び西洋近代医学史にかんする記念碑的研究の 冒頭でのエピソードに血液循環論を取り上げている[川喜田 1977:3]。また近代医療の発展をはじめて内部からではなく外部から描いたといわれる米国の歴史家シュライオックによる『近代医学の発達』は、近代医 療の起源を17世紀から始め、出現期を19世紀の前半に、また近代医療の完成を19世紀の末としている[シュライオック 1974]。

6)皇漢医学は当時の日本の文部政策組織であった 「大学」に1870(明治3)年に設置された部局「皇漢医道御用掛」に使われた用語に由来する。すなわち 漢方医学は蘭方医学が勢力をもっていた時代に一度公的な形で復古しているのだ。その4年後の「医制」によって否定された時期から専門医家による復古運動が 起こり、それが衰退した後に今度は大衆化された保健運動として甦るという複雑な展開をとげる[中山 1967:359]。

7)修道士ベルナルディーノ・デ・サアグン (BERNARDINO DE SAHAGU'N, 1499?-1590)や医師で1570年に王室からプロトメディコ・ヘネラル——スペイン領インディアスにおいて医療と薬業の統制に責任をもつ医師委員 会の長——を任ぜられたフランシスコ・エルナンデス(FRANCISCO HERNA'NDEZ, ca.1517-1587)が征服期初期に新大陸の民族医療について数多く記載している。またペルー香油をもたらした医師ニコラス・モナルデス (NICOLA'S MONARDES)が1569年に記した書物には新大陸起源の薬用植物が多岐にわたって紹介されており、ヨーロッパの薬種商が競ってそれらを入手しようと している。

8)マイケル・ブラウンは、先住民の知的所有権を認 めようとする研究態度に対して「道徳的錬金術」だと厳しく批判する[BROWN 1998:199]。彼は現地の人たちに「知的所有権をドラマティックに拡張すること」は、問題となっている人々を公的で主要な情報から遠ざけ、いい加減 な学問的吟味をおこない、錯綜した倫理的問題を単なる所有の問題に矮小化するものだという。私はブラウンの一方的な論難の限界として、「問題となっている 人々」が、実際には知的所有権概念を軸に世界の各地で様々な異議申し立ておこなっている事実を過小評価し、人類学的知識の吟味から結果的に現地の人たち ——もちろん一枚岩ではない——を排除する古典的な人類学の学問的構成を指摘しておきたい。つまり先住民の文化の知的所有権概念の無効性の論証という学問 的想像力が、なぜTRIPsへの批判に繋がらないのかと。

9)グプタ教授の業績については日本福祉大学経済学 部の斎藤千宏教授からご教示いただいた。この論文はもともとインドのニューデリーにおける Society for Promotion of Wastelands Development の記念講演(1996)で発表されたものである[斎藤 1998:199]。しかしながら印刷媒体では入手不能であったので、グプタ教授に直接問い合わせ、執筆者自身から電子テキストの形で筆者に供与されたも のを参照した。斎藤教授ならびにグプタ教授に謝意を表したい。

10)ジョージア大学の人類学教授で国際的に著名な 民族生物学者ブレント・バーリンは、1998年からはじまった多国籍製薬企業が支援するメキシコ南部で の民族医療の研究組織である国際共同生物多様性グループ・マヤ(International Cooperative Biodiversity Group -Maya)の所長となったが、先住民NGOの民族医療実践グループとの間で、先住民が受けるべき便益とその必要性との間で主張が対立し、辞任に追い込ま れた。バーリンを批判するグループによるキャンペーンには、彼自身の行動のみならず、これまでの人類学者の行動に対する批判が数多く含まれている [BELEJACK 2002]。

11)医療の領有にまつわる、あるひとつの問題をよ り厳密には検討しなかった。それは、医療は所有されるものではなく、実践されるものであり、その現場に 構築される経験的事実であるというものだ。だが私には以下のようなことは自明であると考える。民族医療も近代医療と同様歴史的社会的に構築されたフィク ションであるという事実を仮に受け入れても、我々は医療体系を実体視し、そのことを通して社会を動かし、何からの主体的関与をおこなっている[池田  2002b]。そのような活動を通して、医療はふたたび元の形とは異なるものとして組み換えられていく。民族医療の事実とは社会的に構築されたものである にもかかわらず、そこに参与者の主体的関与が存在し、それが翻って民族医療という事実を構成するのである。

12)メアリー・ダグラスは、モースの贈与論の英語 版解説において、この1923-24年号として書かれた『社会学年報』論文がデュルケーム学派からマル クス主義に対抗しつつ、第一次大戦後のフランスの民主主義を救済する学問的回答でもあったことを指摘している。贈与論の第4章結論の冒頭にある「道徳的結 論」という標題が現在の学問的議論のスタイルに馴染んだ我々に対して違和感を与える理由は、彼女のこの指摘において氷解する。学問の実践において自らの政 治的立場を表明する伝統は少なくとも過去百年間の間に大きく変わった[DOUGLAS 1990:xvi; 池田 2001:320]。国際法が取り扱う領域や通常の法的概念からみるとすでに時効が成立している歴史上の虐殺、強制連行、奴隷売買についても法学の領域で 具体的な補償の実現にむかって実際の議論がはじまっている[BROOKS 1999]。贈与にまつわる過剰な消費や、モースの議論を受けて事物そのものを所有することの不可能性について論じた先駆的考察[バタイユ 1973]については本論文では十分に供することができなかった。これについては今後の課題としたい。

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1997 「観察の技術、統治の技法」『統治技法の近代』阪上孝編、Pp.21-50、同文舘出版。

ダグラス,M. 
1983 『象徴としての身体』江河徹ほか訳、紀伊國屋書店(DOUGLAS, M. 1970. Natural symbols : explorations in cosmology. New York : Pantheon Books.)。

サーリンズ、マーシャル 
1984 『石器時代の経済学』山内昶訳、法政大学出版局。

シヴァ、ヴァンダナ 
1997 『緑の革命とその暴力』浜谷喜美子訳、日本経済評論社。

シュライオック、R.H.
1973 『近代医学の発達』大城功訳、平凡社。

白川 千尋 
2001 『カストム・メレシン』風響社。

田崎 哲郎
1985 『在村の蘭学』名著出版。

テイラー、ノーマン 
1972 『世界を変えた薬用植物』難波恒雄・難波洋子訳、創元社。

中山 茂 
1967 「国営科学」『科学史』杉本勲編、Pp.351-392、山川出版社。

バタイユ、ジョルジュ 
1973 「消費の概念」『呪われた部分』生田耕作訳、Pp.261-290、二見書房。

ポーター、ロイ 
1993 『健康売ります』田中京子訳、みすず書房。

モース、マルセル 
1973 『社会学と人類学 1』有地亨・伊藤昌司・山口俊夫訳、弘文堂。

脇村 孝平 
2002 『飢饉・疫病・植民地統治』名古屋大学出版会。


An anthropological consideration for appropriating ethnomedical knowledge for modern medicine.

Mitsuho Ikeda,

Key words: ethnomedicine, modern medicine, appropriation of medicine, intellectual property, indigenous people.

Context

    Almost all modern medicinal drugs historically originated from traditional and indigenous usage, also known as ethnomedicine.  Ethnomedicine is not only a localized therapeutic system, but is also part of our human heritages. But we only talk about scientific episodes of historic discoveries of useful traditional drugs while never discussing levying an economic payment from modern society, or oven multinational companies, for the indigenous people who introduced the drug to us. This social condition calls for indigenous people to contest the unequal distribution of profits from ethnomedicine.

Objective

    The aim of this paper is to elaborate on the social value of maintaining ethnomedicine as intellectual property based on the global capitalistic circulation of industrial commodities.

Task

    To complete the objective above, we need to answer the following two questions. (1) What is the social condition that we are able attain by guaranteeing fair accessibility of useful medical systems without any limiting factors, especially economic ones? ; (2) How do we redistribute the economic and non-economic profits that indigenous people have provided for modern society?

Discussion

    To discuss the tasks above, the concept of "appropriation" is applied as a theoretical framework to some historical case studies in Asia and Latin America.  "Appropriation" is defined as the strategic usage of cultural elements between a dominant culture and a subordinate one in a colonial and/or postcolonial context.

    There are some difficulties in redeeming economic payments as "counter-service" (a sociological term of Marcel Mauss, 1924) from modern society for indigenous peoples that have contributed to the development of modern science. The reason stems from the impossibility of defining either modern medicine or a traditional one. These two medical systems have been cross-fertilizing each other historically and it is hard to explain why each medical system is independently autonomous. It is also difficult to establish how a single legal subject can be attributed to ethnomedicine, because ethnomedical knowledge is generally collective. Moreover, realistically, modern nation states are not willing to recognize the social importance of indigenous people who can potentially maintain useful ethnomedical knowledge, because national agendas focus only on how to appropriate ethnomedical knowledge as a national property.

Conclusion

    There is an inequality between the benefits which modern society has gained from ethnomedicine and those which indigenous people have gained from modern science. The problem is that indigenous people have not received any type of restitution for contributing ethnomedical knowledge to modern society. How should anthropologists respond to these problems?

    The author criticizes the recent trends in the globalization of intellectual property rights that protect only multinational medical pharmaceutical companies.  One radical option is to have international societies calculate the total economic value for the contribution and maintenance of ethnomedical resources by indigenous people and to compensation them through international multilateral cooperation plans.

    Or, a more realistic alternative is to collect the compensation proposals of indigenous societies and make a consensual agenda to make sure that the indigenous people's voices are heard. Anthropological knowledge has the potential to help coordinate this agenda.


【翻訳】

池田光穂「民族医療の領有について」

コンテクスト
 ほとんどの現代医薬品は歴史的に、伝統的および先住民の用法、すなわち民族医療=民族医薬から由来したことはあきらかである。民族医療は、ローカルな治 療システムのみならず、我々人間の遺産のひとつでもある。しかし、我々は、有用な伝統医薬の歴史的発見の科学的なエピソードについて触れる以上に、多国籍 企業を含む現代社会から先住民に対して経済的支払いを実現(=回復させる)させることは決してしなかった。この社会的条件は、先住民が民族医療=医薬から 得られる利益の不平等な配分に対して抗議していることをつよく裏付けるものである。

目的
 この論文の目的は、工業製品のグローバルな資本主義的流通に根ざした知的所有から、民族医療を維持する社会的意味の概念をくわしく検討することである。

課題
 この目的を達成するためには、我々は次のような2つの問題に答えなければならない。(1)あらゆる制限要因を、とくに経済的要因をから自由になり、有用 な医療システムに対する公正なアクセスを保証することができる社会的条件とはいったい何か?、(2)先住民の人たちが現代社会に対してもらたらしてきた経 済的ならびに非経済的利益をどのように我々は再配分するか?

議論
 上記の課題を討論するために、著者はアジアとラテンアメリカにおけるいくつかの歴史的事例の理論的枠組として「領有」の概念を応用してみた。「領有」と は、植民地そして/あるいは植民地時代以降の文脈における優劣な文化と劣位の文化の間の文化的諸要素の戦略的利用と定義される。
 現代科学の発達に対して貢献してきた先住民に対して、現代社会がおこなう(マルセル・モース[1990:オリジナルは1924-25]の社会学用語であ る)「反対給付」としての経済的支払いを償還することについては、いくつかの困難がある。その理由は、現代医療と伝統医療の両方を本質的に定義することの 困難さに由来する。この2つの医療体系は歴史的には相互に交流にしながら発展を遂げ、なぜそれぞれの医療体系が独立自律しているということを説明すること ができないからである。さらに、民族医療的知識は一般的に集合的であるので、単一の法的主体がどのように民族医療に対して割り当てる(=所有する)ことが できるかということが確立することが難しいからだ。また現実的に現代の国民国家は、有用な民族医療的知識を潜在的に維持してきた先住民の社会的重要性をす すんで認めようとしない。なぜなら、ここでの国民の国家的合意とは、どのように民族医療的知識を国民の所有物として領有するかということにあるからだ。

結論
 現代社会が民族医療から得た利益と、現代科学から先住民が得た利益の間には不均衡=不平等がある。(すなわち)問題は、現代社会に対する民族医療的知識 の貢献に対するいかなるタイプの償還も先住民は得ていないことにある。どのようにこれらの問題に人類学者たちは答えるべきであろうか?
 ひとつのラディカルな選択肢はつぎような提案にある。著者は、唯一多国籍製薬企業を保護する知的所有権の地球規模化の近年の傾向を批判している。また著 者は、国際社会は先住民が民族医療的資源の維持に貢献してきた経済的価値を計算すべきであり、国際的な多角的な協力計画を通してそれらを弁済すべきである と強く主張する。
 あるいはより現実的には、別の選択肢として、先住民社会の弁償要求を集約し、先住民の声を聞きとどけることを確約する合意可能な項目を作り上げることで ある。著者は、人類学的知識がこれらの項目の統合を助けるために役に立つことができるであろうと指摘している。


【end of text】

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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