ラカンの用語の解説
Lacanian term glossary
日本人には無意識がない——ジャック・ラカン(※私
の友人は即座に「欲動への抑圧=去勢がないってこと」って反応したが、もしそれが真
実ならラカンは無意識の保持に文化の違いがあることを認めることなる(→比較文化精神医学)。
たしかにそうとも言えるがこれはフロイトテーゼ、すなわち精神分の科学化のテーゼからみて大いに逸脱していると思われる。したがって、「日本人には無意識
がない」という主張には真面目に考えると、これは日本文化を揶揄した不真面目つまりジョークであると考えるほうが、妥当なのだ)(→「涙なしのジャック・ラカン」「ジャック・ラカン」)。
ジジェクの『イ デオロギーの崇高な対象』の3つの目標のうちの、三番目のものは、3)ラカンの最重要概念を読み直すことで「イデオロギー理論」に貢献する—— クッションの縫い目、崇高な対象、剰余=快楽、である。
「『エクリ』の段階で既にシェーマZ など図形や記号を伴う概念を導入していたが、『エクリ』以降もメビウスの輪やクロス・キャップ、トーラスといったトポロジー的な図形、さらに「マテーム( mathème)」とラカン自身により名づけられた定式や論理学の量記号を援用」している(岩崎 2006)
マテーム
matheme(いわば数学素)(ギリシャ語: μάθημα
"レッスン")は、20世紀フランスの精神分析学者ジャック・ラカンの著作に登場する概念である。mathemeという用語は「1971年11月4日にラ
カンが行った講義で初めて登場し、1972年から1973年にかけて、単数形から複数形へ、そしてまた単数形から複数形へと、いくつかの定義を与えた」
[1]。
特徴:
デイヴィッド・メイシーは、ラカンの『精神分析の4つの基本概念』の翻訳序文で、「ラカンは、彼の「matheme」を、彼の教えの一体的な伝達を保証す
るものとして......あらゆるコミュニケーション過程に内在する「ノイズ」や干渉に対する証明として捉えていた」と書いている[2]。それらは、哲学
や心理学の文章にある程度の技術的厳密さを導入することを意図したものであり、しばしば理解しにくい言葉による記述を、硬い科学で使用されるものに似た数
式に置き換えるものであり、また、フロイトとラカンの両方の核となる考え方のいくつかを保持し、記憶し、再確認するための簡単な方法であった。例えばこう
だ: 「a」は欲望の対象=原因を表し、「<>」は両者の関係を表す。
より複雑な主題のセットは、ラカンが1973年3月
13日のセミナーXXのセッションで概説した「性愛の公式」である[3]。ゴットロブ・フレーゲに触発された独特の論理数学的速記法で書かれた二組の命題
からなり、一組は「男性的」、もう一組は「女性的」と名付けられた。これらの命題は、ラカンが1年間かけてアリストテレス論理学から構築したものである。
ラカンにとっての「matheme」とは、哲学による単なる科学の模倣ではなく、知識を統合的に伝達するための完璧な手段の理想である。絶え間ない「メト
ニムの滑り」を伴う自然言語はここで失敗し、数学は成功する。現代の哲学者アラン・バディウは、「matheme」を科学的手順と同一視している。
批判:
ラカンの数式にはユーモアのセンスもある。「私がアルゴリズムの形で導入したシグラ」の一つについて、ラカン自身は「それは100と1の異なる読みを可能
にするために作られたものであり、話されたものがその代数に捕らえられたままである限り、許容される多様性である」と宣言している[4]。
フランスの分析家の中で最も尊敬され、著名な一人であるセルジュ・ルクレールは、例えば1975年に、数学はある種の教育学的効用を持つかもしれないが、基本的には「落書き」以上のものではないと発言している[5]。
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「「斜線を引かれた主体」と読む。私(=ブルース・フィン
ク)が論じているように、主体には二つの側面がある。(1)言語のなかに/によって疎外されたものとしての、去勢(=疎外)されたものとしての、「死ん
だ」意味の沈着としての主体。ここでの主体は、〈他者〉によって、すなわち象徴的秩序によって侵食されているので、存在を欠いている。( 2
)他なるものが「自分自身のもの」になる主体化のプロセスにおいて、二つのシニフイアンの間に走る閃光としての主体」。——この主体は八つ裂きにされたキ
リストのようにも理解できるね。 |
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・「対象α、対象( a) 、小文字のa (ρetit
a) 、対象a (objet a) 、小文字の対象α(petit objet a)
などと書く。1950年代初期には、自分自身に似た想像的他者。1960年代および、その後には、それには少なくとも二つの側面がある。 ・(1) 〈他者〉の欲望。これは、主体の欲望の原因としての役割を担い、享楽およびその喪失の経験と密接に関係づけられる(たとえば乳房、まなざし、声、糞便、音 素、文字、何でもないようなものなど)。(2) 現実的なものの領域に位置づけられる、象徴化のプロセスの残余。たとえば、論理的な例外やパラドックス、文字や言語のシニフイアン性」。 ・欲望の対象(対象 a) |
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「主のシニフイアンあるいはーのシニフィアン。命令する、あ
るいは掟としてのシニフイアン。孤立している場合、それは主体を服従させる。いくつかの他のシニフイアンと結びついた場合、主体化のプロセスが生起し、意
味の/としての主体が帰結する」。 ・S1は「主人のシニフィアン」 |
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・「他のあらゆるシニフィアン、あるいは他のすべてのシニアイ
アン。四つのディスクールにおいては、それは知をひとつの全体として表象する」。 ・S2は「知」と理解してもよい。 |
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「〈他者〉。これは多くの形式を持つ。たとえば、あらゆるシ
ニフイアンの宝庫あるいは貯蔵庫、〈母=他者〉語、要求としての〈他者〉、欲望としての〈他者〉、享楽としての〈他者〉、無意識、神」。 ・欲望は大文字の他者からやってくる。 |
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「斜線を引かれたA」と読む。欠如するものとしての、構造的
に不完全なものとしての、その欠知へとやってくる主体によって不完全なものとして経験される〈他者〉」。 |
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・主体のこと 「〈他者〉のなかの欠知のシニフイアン。〈他者〉は構造的に 不完全なので、その欠如とは〈他者〉に本来的に備わっている特徴であるが、その欠如はいつも主体に対して現れているわけではなく、たとえ現れているときで さえ、いつも名づけることができるわけではない。このシニフィアンは、その欠如を名づけるものである。それは象徴的秩序全体の投錨点であり、他のあらゆる シニフイアン(S 2) と結びついているが、精神病においては((父-の-名〉としては)排除されている。女の構造に関するラカンの議論においては、それは言語の物質性や実体 に、よりいっそう関係している(そしてそれゆえにシニフィアン性としての対象α と関係づけられる)ように思われる」。 |
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「欲望あるいは享楽のシニフイアンとしてのファルス。打ち消
すことはできない」。 |
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「象徴的秩序と関連づけられるファルス関数。話す存在が、言
語のなかに存在しているために、それに対して従属しているところの疎外」。 |
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「「少なくともひとつのx
がある」を意味する論理学的な量記号(※フレーゲの論理学からの援用)。ラカンの仕事において、その後には
通常、ある関数が、たとえばφx
が続き、その場合次のように読むことができる。「フアルス関数の作動を受けているx が少なくともひとつある」」。 |
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「古典論理学においては、否定の記号(‾)は量記号に先行す
る。しかしながらラカンは、量記号に傍線を引くことによって別の種類の否定(不一致discordance
に関わる否定)をつくりだしている。それは概して「( …ーのようなものは)ひとつたりとも現実存在しない」を示している。とはいえ、そのようなx
は現実存在しないと言うことは、そのようなx が外存在しないということを決して意味しない」。 |
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「「あらゆるX について」(X
は林檎、人物、要素など、何でもかまわない)、あるいは「(いかなる)すべてのX
についても」を意味する論理学的な量記号。ラカンはこの古い量記号に、「X
の全体について」という新たな定義を与える」。※フレーゲの論理学からの援用。 |
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「ラカンが〔論理学的な〕否定に加えた改訂によれば、否定の
傍線がこの量記号のうえに引かれているとき、それは「X の全体ではない」(X はたとえば女)、あるいは「x のすべてではない」、「すべてのX
が‾というわけはない」を意味する。このマテームはしばしば、〔こうした論理学的な規定とは〕独立して、女の構造を持つ者によって潜在的に経験されるかも
しれない〈他なる〉享楽を示す」。 |
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・読み方:「ぽあそん」 ・結合と同時に分離をあらわす 「このダイアモンドないし菱形(poînçon) は、次のような関係を指し示している。すなわち、「包含一展開一連接一離接」 (Ecrits 1966. p. 634) 、疎外(v) と分離(^)、大なり(> )と小なり( <)などの関係である。最も単純には、「‾ との関係において」あるいは「‾ への欲望」と読まれる。《「斜線を引かれた主体」〈菱〉「a」》(→次項)は、対象との関係における主体、 あるいは対象を欲望している主体、という意味になる」。 |
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・主体が活動できるのはファンタズムに限られるので、このファンタズムを左のように表現する。読み方「えす・ばれ・ぽあそん・あー」 $◇a「幻想、たいていは「根源的幻想」を表すマテーム(=ファンタスムのマテー ム)ないし公 式。「対象との関係における主体」と読むことができ、このような関係は菱形が持っているあらゆる意味によって定義される。対象a を、主体を〈他者〉と出会わせる享楽のトラウマ的経験と理解すれば、この幻想の公式は次のことを示唆している。すなわち、主体はそのような危険な欲望と ちょうどいい距離を維持しようとして、誘引と反発のバランスを繊細に取るということである」。 |
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$◇D「欲動(フロイトの仕事の翻訳においてしばしば「本能」と呼
ばれる)を表すマテームで、(欲求や欲望ではなく)要求との関係における主体に関わっている。幻想——欲望を含む——の公式は、しばしば神経症における欲
動へと還元される。なぜなら、神経症者は(他者〉の要求をその欲望とみなす(誤解する)からである」。 |
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鏡
像段階, stade du miroir |
「フランスの精神分析学者ラカンの用語。生後6か月から1歳半に至る発
達段階のことをいう。幼
児の自我は身体像を通して形成されるが、鏡像段階以前では身体像は全体として統一のとれたものでなく、ばらばらに寸断されたものであり、「寸断された身
体」とよばれる。鏡像段階になると幼児は自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示し欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するが、これは全体としてまとまり
のある身体像をみいだすことができるからであり、全体としてまとまりのある自分というものを発見することができるからである。この発達段階
以前では、幼児の身体的動きは全体として協応しておらず、ばらばらな運動をしている。この時期になって初めて統一のとれた運動ができるようになり、鏡に
映った自分の姿は幼児の全体像を表すようになる。つまり、幼児は鏡像によって、初め
て自己の全体像をつくりあげるようになる。とはいえ、幼児が自分の姿と思っているものは鏡に映し出されたものであり、自己疎外された鏡像にすぎない。
この意味で幼児の自我は、鏡像を通してつくられるもので、幼児が自我とみなしているものは、自分自身ではなく、眼前に差し出された鏡像(他者)なのであ
る。この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。鏡像段階は、こうした対人関係の基本的構造を示したものであるが、幼児の
対人関係だけでなく、一般的な対人関係の構造を示すものと理解されている」[外林大作・川幡政道] ※ラカンの鏡像段階論の最初の発表は、アーネスト・ジョーンズにより途中で中止された。ラカン批判をする人たちは、彼の鏡像論のアイディアはアンリ・ワロン(Henri Paul Hyacinthe Wallon, 1879-1962)からの盗用だといわれている。 |
※以 上の用語の解説は、フィンク(2013: 247-249)より原則引用している——加筆等の変更もなされている可能性があるため、正確を期するためには出典を参照されたい。
◎「鏡像段階」
鏡像段階(仏
語:stade du
miroir)は、ジャック・ラカンの精神分析理論における概念である。鏡像段階は、乳児が6か月齢前後から、鏡(文字通りの意味)やその他の象徴的な装
置によって自己認識(自己を、乳児が自身の外側から見ることができる対象に変えること)を行うという信念に基づいている。
当初、ラカンは、1936年にマリエンバードで開催された第14回国際精神分析会議で概要が示されたように、鏡像段階は生後6か月から18か月の乳児の成
長の一部であると提唱した。1950年代初頭までに、ラカンの鏡像段階の概念は進化していた。彼はもはや鏡像段階を乳児の生活の一時的な現象としてではな
く、永続的な主観性の構造、あるいは「想像的秩序」の典型として捉えていた。ラカンの考え方のこの進化は、後に発表された「主体の転覆と欲望の弁証法」と
題された論文で明らかになっている。
【シェーマL】(アスン 2013:142)——上の図
1937年発表の初期ラカンを代表する、発達論的観点からの理論。
鏡像段階(仏:stade du
miroir)論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによっ
て)、鏡に映った像(仏:signe)が自分であり、統一体であることに気づくという理論である。一般的に、生後6ヶ月から18ヶ月の間に、幼児はこの過
程を経るとされる。
幼児は、いまだ神経系が未発達であるため、自己の「身体的統一性」(仏:unité
corporelle)を獲得していない。つまり、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば、「寸断された身体」(仏:corps
morcelé)のイメージの中に生きているわけである。
そこで、幼児は、鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。
すなわち、人間というものは、それ自体まずは空虚なベース(エス)そのものである一方で、他方では、自我とは、その上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性
を覆い隠す
(主として)想像的なものである。自らの無根拠や無能力に目を瞑っていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階
が、鏡像段階に対応する。
【シェーマR】——上の図
・1955-1956年『精神病に関するあらゆる治療に対する前提的な問題について』(1958)
・象徴的な三要素である'Sは、IPMの三角形の領域にある。その頂点にあるA(大文字の他者)とP(父の名)は関連している。
・創造的な三要素である'Iは、iとφとmの三角形からなる。 ’Iは想像的ファルスへの主体の同一化を示している。
(アスン 2013:143)
【欲望のグラフ】——上の図→「ラカンの欲望グラフ」
・大文字の他者はもはや主体ではなく、シニフィアンの宝庫であり、シニフィアンのコードの場所とされている(アスン 2013:145)
●想像的関係と無意識のスキーム
大文字のSからa'(小文字の他者)を経由してa で顕された自我(moi)に到達する経路が、鏡像段階。鏡像段階では点線でしか示されていない。大文字のS(エス=超自我)から、自我(a)へは実践も点 線もない。自我(moi)はA(大文字の他者)と、鏡に映った他者(a')すなわち、小文字の他者からの承認があって存在する。A(大文字の他者)は、超 自我(Es)にも部分的に投射している=この経路が無意識であり、大文字のS(エス=超自我)に完全に投射されていない。鏡に映った他者(a')から自我 (moi)に投射する経路が想像的関係(relation imaginaire)という(→「ジャック・ラカン理論のスコラ的解釈」)。
◎大学のディスクール
「大学のディスクール」には、執行者の位置に、S2すなわち「知のシニフィアン」を位置づける。たほうで、精神分析が扱いにくいのは、分析のディスクールにおける執行者の位置に、欲望の対象(対象 a)がおかれているからである(アスン 2013:8)[→「五月革命(May 68)」]。
◎ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」
◎クッションの縫い目(『諸々の精神病』 (Le Séminaire livre III ; Les psychoses, Seuil, 1981)からの引用)
▶ 「セミネール開講中にラカンはハイデガーの論文「ロゴス」の翻訳を公にしている。<父の名>の概念が“集め置きとしてのロゴスがすべてを<一>に保持す る”というヘラクレイトス的ヴィジョンと響き合うのは偶然ではない。さらにヘラクレイトスはこのことを“私にではなくロゴスそのものに”たずねよと述べて いる。翻訳者としてハイデガーの口調が伝染してしまったものか、講義ではハイデガー的な物言いがところどころで目につく。たとえばセミネール終盤の「街 道」の比喩?「クッションの縫い目」の事例として注釈される『アタリー』における「神への畏怖」は、他のあらゆるものへの恐怖を浄化するものであるかぎり で父の名につうじている。」
▶
「シュレーバーは意味作用をなさない「中断された文」を聞き、虫食いになっている「……」に適切な言葉を補填することを強いられる。言葉が際限なく浮かん
でくるが、どれも適切な言葉ではありえない。ラ
カンはシュレーバーの「中断された文」が相似性(共時態)の障害であるヴェルニケ失語を思わせると述べている。シュレーバーが隠喩を使っていないこと、詩
的なところがないことはそのひとつの証左である。正常者はこうした際限のない「内的ディスクール」に耳を傾けないが、精神病者にあってはシニフィアンとシ
ニフィエの「クッションの綴じ目」が外れており、「シニフィアンが独力で歌い語りはじめる」。「内的ディスクール」の際限のなさについてはシュレーバー
『回想録』原書309頁以下のくだりが一度ならず引用される。「神経症の構造は問い
であり、それゆえに神経症はわれわれにとって長らく純然たる問いでありつづけた」。」
◎アクティング・アクトとは?
「意
識したくない「無意識の衝動・欲求・感情・葛藤」が意識化されそうになったとき、それを回避しようとする防衛反応のことを言う。「行動化」とも呼ばれて
る。自覚ができていない衝動・欲求・感情・葛藤が、言葉としてではなく行動として表れる。自傷行為、自殺企図、暴力行為などが含まれる」出典)
リンク
文 献
「フランスの精神分析家 J.ラカンが記述した,人間の子供の6ヵ月から
18ヵ月までの形成時期を指す言葉。鏡像段階は,主体の構造という観点に立つとき,発達の基本となる重要な時期である。子供は鏡の中に自分と同じ姿をした
像を見つけて,これに同一化しながら,自我の最初の輪郭を形づくる。これは将来の自我像のひな型になる。この時期の特徴を詳しく記述することによって,個
人の精神発達のみならず,個人間の攻撃的な関係についても知識が増
し,また精神の想像的な働きが個人の発達において果たす役割について解
明が進んだ」ブリタニカ国際大百科事典)
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